俺は死んだ
人生をやり直したいと、何度思ってきただろう。だけど今日ほど、嫌になったことはない。絵にかいたような底辺の人生だった。貧しくてアル中の両親に虐待されて育ち、中学にもろくに行かずにチンピラとして犯罪行為を繰り返し、人を食い物にしてやろうといきって、ヤクザの雑用係としてうろちょろしてきた。
万引きから始まり、暴力、詐欺は日常茶飯事。薬や風俗の世界にも関わり、男も女も追いつめてきた。それでも、人を殺したのはこれが初めてだった。
今まで何度も人を殴って蹴って、角材で殴って殺したかと思った時もあった。それでも、本気で殺そうとして、そして実際に殺したのは初めてだ。それも、相手に腹が立ったとか、そういう事でもない、たまに面識があるだけのおっさんだ。そう言えば、ナイフで切るのではなく、刺したのも初めてだ。
今も、手に感触が残っているみたいだ。あんなに洗ったのに、まだ赤い色が落ちていない気がする。手がぬめついて、変なにおいがこびりついている気がする。
相手はどうしようもない屑だった。俺が言うんだから、間違いない。色んな悪さをして、最終的には兄貴の女に手を出して、死ぬことになった。そして名誉ある刺し手に選ばれたのが、俺だった。
光栄だと思った。他ならぬ兄貴に認められること、今までも嬉しかったけど、今日は今までの比なんかじゃなかった。だけど、兄貴は俺を認めたわけじゃなかった。ただ単に、塀の中に入れても惜しくないのが、俺だっただけだった。
今、こうして警察に捕まり、留置所にいる。刺した時は興奮していた。だけど、今になって、自分のしでかしたことに俺は恐怖を覚えていた。人を一人殺した。同じ兄貴の下にいると言っても、全然接点はないし、恨みもない。あれは屑男だ。生きていても誰も幸せにしない。だけど、そんなのは、俺も同じだ。
誰も幸せになんかしなかった。自分が生きるのに精いっぱいで、他の誰もを引きずりおろしてでも自分が生きていたくて、自分が幸せになりたくて、必死でくらいついていた。それでも、幸せだと感じたのは今まで本の数えるだけの瞬間だけだ。
あの、男の、絶望した顔。痛みで呻いて、うずくまって、泣きじゃくる男に、俺は少し抵抗があったけど、兄貴の命令だからとさらにナイフを突き立てた。あの男は屑だ。それでも、人を殺したことはなかっただろう。なら俺はなんだ? 屑以下か? ゴミより下ってなんだ? 俺は、何になったんだ?
「おい」
「! っ、な、な、なんだよ」
「まだ就寝時間まで、時間もある。一応、本をかりれるが、いるか?」
「ほ、本?」
「ああ。と言っても、ここは小さい施設だから、あんまり数はないけどな」
看守が声をかけてきた。俺はこの警察とかの逮捕の仕組みとか全然わからないが、どうやら本来はテレビがあるらしいが、修理中でないから時間外だが本を貸してくれるらしい。
と言うか、テレビなんかあるのか。俺の部屋より豪華だな。
「漫画とか、あるのか? その、なんていうか、漢字とか苦手で、小説とか読んだことないから」
「漫画か、ちょっとないな。だが、じゃあこれはどうだ。名言集だ。長文ではないし、子供でも読めるよう読み仮名もふってある」
「じゃあ、それを」
借りた。いちいち名前と判を押すのが面倒ではあるが、普通に貸してくれるものらしい。なんだ。娑婆よりよっぽど、気が利いている。
俺は重くて死にたくなりそうな気持ちを誤魔化すように、本を開いた。俺でも聞いたことのある、昔の偉い人の名前が目次に並んでいる。
これが全部成功者の名前か、と思うと、当たり前のことなのに、どうせ全員死人なのに、何故か腹が立った。大して載っていない薄くて小さい本だ。今日の時間つぶしに過ぎない。俺は紙をめくった。
聖人の、いかにもお綺麗な言葉が並んでいる。要は、自分がどんな目にあっても人に尽くせってことだ。あまりに、馬鹿らしいと思う。だけど尽くした相手にすら報われないと断定しているのが、単なるきれいごとじゃなくて、何故だか信念のようなものを感じられた。
当然だ。だって、これはその辺のおっさんみたいな、屑が口から出まかせで言った言葉じゃない。これは人生をかけてその言葉を貫いた人間の言葉だ。そう思えば、綺麗事だと切って捨てることは簡単ではない。
でも、とそれでも俺は、こう思うのだ。これは恵まれたやつの言い分だ。裏切られても許せるのは、裏切らない誰かが他にいるからだ。人にあげられるのは、他にももっと持っているからだ。実際ここに言葉を残したってことは、そうしてくれる人がいた。享年を見る限る長生きだ。それだけ生活することができるってことは、毎日ちゃんと食べて健康的な生活だったんだ。
俺だって、俺だって恵まれてさえいれば、こんな屑以下にならなかった。俺だって、ちゃんとした家に生まれて、人にあげられるくらいもっていたなら、俺は、奪う人間じゃなくて、人にあげる人になっていた。怒鳴るんじゃなく、笑顔を浮かべる人間になっていたんだ。
俺が悪いんじゃない。俺は、俺のせいじゃないんだ。
「っ」
涙が出てきた。どうしようもない。どうしても、あのおっさんの死に際が頭にちらつく。名言が、俺を責めるみたいに染みてきて、なのに読むのをやめられない。腹立たしい言葉ばかりなのに、初めて聞くその言葉の綺麗さに、俺は、こんな考えをする人間が1人はこの世界に存在したことに、奇妙な感動に似た感覚を覚えていた。
最も大きな苦しみは、孤独だとか、そう言う文章が出てきて、ついに俺は、涙がとめられなくなった。目からとめどなくこぼれる。
俺の、この苦しみは、孤独だったからなのか、と俺は気づいてしまった。俺には親も友も、なにもない。兄貴も仲間も、嘘っぱちで、俺には誰もいない。ああ、確かにそうだ。昔、俺が子供の頃、よその子供が、どれだけ羨ましかったか。
でもそれはお菓子を買ってもらえたとか、綺麗な服を着ているとか、そういう事じゃなかった。母親と手を繋いで帰っているとか、参観日に来ているとか、そういう事だった。それが何より、羨ましかった。でもそれも、その他の子の母親にしてほしいわけじゃない。俺は俺の親に、そうしてほしかった。誰かから奪うものじゃなかった。だから、あれからいろんなものを奪ってきても、俺は何も満たされず、何も手に入れていないままだったんだ。
「うっ、ううっ」
「おい、どうした? しっかりしろ」
「うう、うわあああ」
声をあげて泣いた。それでも、俺の気持ちは何も収まらなかった。ただ苦しくて、俺が殺したあのおっさんですら、愛されていて、愛した誰かがいたのかと思うと、申し訳なくて、死にたいと思った。
そこからのことは、よくわからない。気が付いたら、俺は何故か他にもたくさんの人間を殺したことになっていた。顔も名前も知らない被害者を並べられ、俺はもう何もかもが手遅れで、どうにもならなくて、死刑になった。それから5年がたった。俺の死刑が執行された。