母叫(ぼきょう) —女の子を踏みつぶしてしまった話—
私は後悔していた。
あの時はただ楽しかったのだ。
幼少の頃を思い出し、大人げなく燥いだ。
そこに一切の悪意はなく、彼女もきっと純粋に戯れていただけだったんだ。
「なのに……なんで……なんで……」
病室に、男の悲痛なうめき声が落ちた。
彼は片手で顔を覆い涙を流していた。
「私は……きっとあいつに殺される」
「大山さん、きっと悪い夢を見たんですよ。ちゃんと明日も来ますから」
担当の看護師は彼をなだめ、困ったように息をつき部屋から出て行った。
「フキ畑を眺めてたんだ」
正面のベッドの青年に向け、彼は口を開く。
話し始めたのは、青年に「どうしたんですか?」と尋ねられたからだ。
看護師に何かを話し、涙を流す大の男の姿に驚き、気になったから。青年は彼に尋ね、話を聞いた。
「フキ畑でね、不注意でよろけてしまったんだよ……わざとじゃ、なかったんだよ……」
「今でも信じられないんだ」と、彼は悲し気に笑う。
青年にはそんな彼の表情が、自分の死を悟っているかのように見えた。
***
それは地方への旅行だった。
懐かしい友人の新居へ行き、気まぐれに周辺散策。夜は大人の男が3人、老けた顔を見せ合って飲み会の後、翌日は気分の時間にホテルを出て帰宅。そういう予定だった。
友人の家に着いた私は、自然しかない様に呆れた。
話しには聞いていたが、想像以上だったのだ。
緑に被われた山と透き通った川。
近くには滝があると聞き、私はとりあえずそれを見て、あとは部屋で涼みながら自然を堪能しようと思った。
川をたどり、友人に教えてもらった通りの道を行く。
確かに滝があった。
意外と人がいて、カメラマンらしき者が三脚を拵えており、老夫婦や登山客が滝つぼ近くのスポットから細かい飛沫を気持ちよさそうに浴びていた。近くには御茶所もあり、客入りもそこそこだった。
お茶を飲み滝をしばらく眺め、満足すると、日が傾く前に帰ろうと来た道を戻った。
途中道を逸れた先に視界の開けた場所があったので、「なんだろう」と目を凝らすと、立派なフキ畑だった。
そういえば、ここも生産量はそこそこだと聞いていた。
人の手が行き届いているようで、数ブロックに分けられた畑の間には道がしっかり確保されており、所有者が立てたであろう畑の名前が書かれた看板が立っていた。
気軽に見学してよさそうな雰囲気だったため、私は一瞬だけ覗いていこうとそちらへ足を運んだ。
するとふいに、友人に呼びかけられたのだ。
「おーい! 大山ー!」
どこから呼んでいるのかと辺りを見回すが、声の出何処的にフキ畑のどこかという事しか分からない。
腰の高さまであるフキの影にかくれているのだろうか。
いい年して何やっているんだか。
私は呆れつつ、友人の名を呼び「どこだー」と探し回ったそうだ。
「こっちだこっち! ははは、ほら、大山―! こっちだぞー!」
分かりやすく悪ふざけをしているような笑い声をあげながら、友人は楽しそうに私を呼ぶ。
私もそうしているうちに、不思議と楽しくなっていってしまった。
「くそ! 絶対に見つけてやるぞ!」と声を上げ、大人げなく燥いでしまった。
そうしているうちに友人の声に近づくことができ、そろそろこの遊びも終わりかと思った時だ。
「おーい! 大山ー! おーい! おーい! くくく……」
笑い混じりの呼びかけに、私はきょろきょろと辺りを見回した。
今まさに声の出何処にいるというのに、友人の姿が見当たらない。
どういう事だろうと脚を踏み出した時、土のぬかるみに脚を取られバランスを崩し、フキ畑の中に大きく一歩踏み込んでしまった。
「あ、」
それは自分の声なのか友人の声なのか。一瞬の事で良く分からなかった。
幸い転ぶこともなく、立派なフキを一本も踏み折ることもなく、一歩の踏み込みで堪えることができた。
頭の上をフキの葉が覆い、その葉の間から覗く空が気づけばオレンジに染まり始めていた。
「フキ畑の中というのはこんなに涼しいのか」と、その時ふと思った。
そして、足の裏の不吉な予感に、背筋が凍り付いていくのを感じた。
鳥がうるさく鳴いていた。
土では無い感触。私はそれを見るのが怖かった。
なにか、フキ畑に脚を踏み込んだ瞬間から、辺りの空気が……雰囲気が……大きく変わってしまった。
景色の色味が一気に褪せて感じた。
または夕焼けに染まる前の白けた橙色に染まった感じにも似ていた。
私は踏み出したままの左足を見た。
見たくない。
だが「この足を退けなければ」という焦りもあった。
私は気付けば、恐る恐るとその左足を持ち上げていた。
足をどける前から目につく、地面にぶちまけられていた飛沫。
水風船を割ったかのような大袈裟なくらいに派手な血の跡。
円柱の物を真上から押し潰したような何かの塊。
触ってはないが、それからはさっきまで生きていたであろう体温を感じた。
それを、偶然そこに居合わせてしまったネズミか小鳥等の小動物かと思いたかった。
赤とピンクの間から覗く白い骨。
そんなもの見たくもないのに、視線は釘付けになった。
信じられない、信じたくないという気持ちもあった気がする。見たくはないのに、確認してこの疑いを晴らす材料を見つけなければと、その何かをじっと、必死になって見つめた。自分が踏んだものの正体を、脳裏を過った一瞬の予想を覆さなければと……必死で、私は必死で、その何かの死骸を眺めた。
鳥がうるさく鳴いていた。
日の傾きと、気温の変化を感じる。
だが、私の中の時間は一向に動かず、一つの地点で思考が止まっていた。
赤い血。
狭い範囲に生えた艶のある黒い毛皮。
赤く染まり所々骨に突き破られた橙色の薄い皮膚。
その皮膚や毛皮が頼りないためか、古い布を縫い合わせて作った和装を纏う姿はまるで、まるで―――
***
「―――人だった」
彼は青い顔を更に青くして言った。
「人だったんだ、私があのとき踏み潰した何かは、人だった。小さい人間の子供。……おかっぱの髪と紺地に白抜きの花の模様の着物。桃色と黄色の紐の帯……」
「鮮やかな鳥とか、外来種の何かを踏んでしまったのでは? フキ畑なら、カエルもいてもおかしくないでしょう? それかホラ、人形とか!」
青年は、正面ベッドの中年男性をなだめたいだけだった。
だが、青年の言葉に彼は「違う、違う……」と、いらだったように首を振る。
「聞いたんだ。それを踏み潰した時。フキ畑の中から。女の、この世の終わりみたいな叫び声を」
悲しみや絶望の感情しかこめられていない、雄たけびのような泣き声。
―――あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!! あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!
彼は耳をふさぐように頭を抱えた。
「……友人は、友人はずっと家にいたんだ。だから、……だから、あの時あそこで私とふざけてたのはあいつじゃないんだ……疲れて、酒を飲のんで泊めてもらって。夢の中で同じ光景が繰り返されてようやく気づいたんだ。………………………あれは、鳥じゃない。見てたんだ。自分の子供が踏みつぶされる瞬間を。あの小さい子供の母親………………………俺がその場を去った後も、ずっと、ずっと聞こえてた。ずっと、フキ畑の中から、………………泣き叫んで、怒って、恨んでた………。今も夕方になると聞こえるんだ。そして、私をあの子と同じように、ぐしゃぐしゃに潰してやるのだとささやきに来るんだ……」
彼は残っている左手で頭を抱え、涙を流し悲しんでいた。
「なんで俺は生きてたんだ。あの時一思いに潰されていれば、またこんな恐怖を味わわずに済んだのに……。なんで俺は、なんで、なんで……俺は……なんてことを………」
彼は嗚咽の合間に、「楽しかったんだ。俺だって、あの子を踏みつぶしたくなんてなかった」とこぼす。
「ただ、楽しく遊んでいただけなのに………ちょっとした悪ふざけで………なのに、………俺は、俺は………………ああ………あぁ………ああああ………」
泣き崩れてしまった彼を前に、青年は言葉を失う。
隣のカーテンの向こうから、舌打ちと「またかよ」という不機嫌なつぶやきが聞こえてきた。
「……すみません」
どちらへ向けたものか、青年は小さくそう返した。
***
後日、一人の患者の遺体がその病院で見つかった。
一見して、屋上から落ちたのだろうという事がわかるその遺体の上には、鉢植えやブロック、一升瓶や本など、幾つもの物が散らばっていた。
まるで屋上から彼の遺体めがけて落とされたようなそれらは、彼の体に突き刺さったり、むごたらしく潰したりと、「怨恨」を感じさせるものだった。