63MB それぞれの決意
「亜紗姉……っ」
凛紗は涙を浮かべながら、虚空を見つめる亜紗の肩を揺さぶる。しかし亜紗の反応はすでにほとんどなくなってしまっていた。
「今のスイッチ一つで、亜紗を人間たらしめる生命活動はほとんど止まった。もう彼女を元に戻す方法はない」
「お前……お前……‼︎」
凛紗の流す大粒の涙が、亜紗の制服に次々染み込む。オレは目の前で起きている状況が理解できなかった。糸の切れた操り人形のようになった亜紗を、呆然と見つめるしかなかった。
「人を殺した罪がどれだけ軽くなっても、僕が現実にも、虚構にも存在し得ない人間を二人作った時点で、一人では背負い切れないほどの重罪になる」
「なぜそれを……それを分かった上で私たちを作った! 今こうして、ボタン一つで亜紗を殺すのを楽しむためか……!」
「僕が、殺すのを楽しむような人間に見えるか」
凛紗が円さんをにらみつける。怒りと悲しみとやるせなさをはじめとした負の感情を全部ごちゃ混ぜにしたような表情だった。
「僕は君たち二人でさえ、殺していい、どうでもいい存在だと思ったことはない。人の命の複雑さも尊さも、それを人工的に複製することがどれだけ恐ろしいことかも、よく分かっているつもりだ」
「ならばなぜ殺した? それだけのことが分かっていて、どうして……」
「……恐ろしいんだ。あの時の、東京を自分のものにすると決めたばかりの僕は、そんな当たり前のことさえ分かっていなかった。いや……分かっていたのに、知らないふりをした。亜凛紗を忘れないでいられる証を作ることに執着していた。でも、今は違う。踏みとどまるだけの良心を思い出した。だからこそ、あの頃の僕の過ちを認めて、その跡を消さなければならない」
「そんなので……許されるとでも思ってんのかよ」
気づけばオレは歯をくいしばる凛紗を手で制してまで、円さんにそう言っていた。オレの中にも単なる怒りとは違う、ごちゃ混ぜになった感情が湧き上がる。
「あんたは自分の手で亜紗と凛紗を作った。それが罪だって認めてるんなら、亜紗も凛紗もれっきとした人間だ。感情があるかないかなんて大した差じゃない。飯を食って寝て、いろんな物事に触れて。そうやってできるだけでも立派な人間だ。あんたは今自分を守るためだけに一人の人間を殺した。我が身のかわいさでもてあそぶように亜紗を殺した。違うか」
「……」
円さんは口を結び、オレを見据えていた。凛紗は静かに涙を流して、亜紗の肩に手を置いていた。亜紗からはもはや、生きている人間という印象を受けなくなってしまっていた。さっきまで聞こえていた、わずかに息をする音さえ耳に届かなくなっていた。
「……円さん。ここまで来たオレにはやるべきことがあります。警視庁の下っ端でもやることは変わりません。あなたを、普通の犯罪者として逮捕したい。娘を失った反動で道を踏み外しただけで、まだ更生の余地がある犯罪者として。でもあなたがまだ恨みの感情に任せて行動を起こすようなら、あなたは史上最悪の犯罪者として歴史に名を残すことになる。更生の機会さえ、与えられないかもしれない」
円さんが亜紗とオレとを交互に見た。か細くなった声でオレに問う。
「……亜凛紗は。亜凛紗を救ってやる方法は、他にあるのか」
「……」
「僕のことはこの際どうでもいい。……どのような形で罰を受けたとしても、構わない。だが亜凛紗は、あの子だけは救ってやってほしい」
オレの脳裏に亜凛紗の笑顔がよぎる。いつも無邪気で、周りにいたオレたちを振り回してばかりいた幼馴染。もう二度と見られないその顔と、目の前の凛紗の表情が、そっと重なる。
「……オレが、凛紗を守ります。凛紗は大人びているように見えて、まだまだ子供なところだってある。生まれ方が特殊だったせいで、これから先苦労することもあるかもしれない。それでも、凛紗を守ります。たとえあなたが凛紗を殺そうとしても、オレが盾になります。凛紗がこれから先も生きてさえいれば、亜凛紗は絶対に救われます」
亜紗の肩に手を置いたままの凛紗。オレは彼女の前に立って、円さんに向かって手を横に広げた。円さんはしばらく呆然としてオレを見ていたが、やがて目に涙しつつ優しげな笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
「……いえ」
円さんはそれだけ言って立ち上がり、そっと両手を上に挙げた。それを確認して、オレは円さんに手錠をかけようと近づく。
「……ヨド!」
そうすべく一歩踏み出した瞬間。凛紗の鋭い叫び声が響いた。とっさに凛紗の方を振り返る。振り返り切るまでの百八十度でオレの目が暗い影を捉えた。とっさにしゃがんで前転し、突っ込んでくる黒を避けた。
「……チッ」
「お前は……!」
まだ記憶に新しい。あの時見た金髪はさらに乱れ、赤い瞳はその奥にどうしようもないくらいの闇を宿していた。
「悠華……?」
「今総理に諦められちゃ困るんだよねえ……!」
松平悠華。新東京政府の五人目の理事であり、“壊生”という力を持つ女。その恐ろしさは、i-TOKYOで出会った時に痛感している。
突然の登場に驚く間もなく、松平が両手を大きく上にかざしてヒビを作った。あの時とは比べ物にならない。たった一つ、10トントラックほどのサイズの亀裂が生まれていた。
「あれは……!」
「総理が心変わりしちゃったのはもう仕方ないかもね。でもアタシは知ったこっちゃない。総理が作り上げた虚構世界は、アタシが引き継いであげる」
ぬるり、と空間の裂け目から怪物が現れる。これまで見たどんな怪物より大きかった。身体中にまとった粘液の下に金属光沢を見せる、四足歩行の青黒い犬のような見た目の生物だった。
「何だよ、あれ……」
「現実世界にアタシの居場所はない。今更改心して現実に戻したってムダ。庵郷姉妹を作り出すためにアタシが犠牲になったって事実は変わらない」
オレはバティスタの話を思い出した。凛紗と亜紗が持つ“創生”という力は、松平が持つ“壊生”を安全にしたもの。“壊生”の力は危険そのものであり、松平自身も何度もケガを負っていたということ。
「あの時アタシが虚構世界に一番の適性を示してなければ、アタシはただの孤児として野垂れ死ぬだけで済んだ。総理に拾われて、散々実験台として使い潰されたせいで今のアタシがあるのよ。今更虚構世界自体をなくしたら、アタシの存在意義がなくなっちゃうでしょ?」
松平が恨み言を吐く間にも、巨大な怪物はのし、のしと確実にオレたちとの距離を詰めていた。ただひたすらにでかいというだけで、オレの心に恐怖心が植え付けられる。しかしそれでも戦うしかなかった。
「……凛紗」
「分かっている」
戦える力がそこにある限り。互いに信頼できる相棒――その背中は身を預けるには少し小さいが――が、隣にいてくれる限り。
オレは凛紗の手を握る。この怪物を倒してやるという、強い意志を込めて。
柔らかい手の感触と、それが何かの粉を握りしめた時のように砕けて形をなくしていく感じ。それを、凛紗の手から一度に感じた。
「……⁉︎」
オレは思わずさっきまで握っていたはずの凛紗の手を見る。
「……すまない」
その手は色を失って透き通っていた。小さな小さな立方体のブロックがいくつもその腕から立ち昇って、少しずつ分解されているということがオレにも分かる。
凛紗は、少しずつ消滅を始めていた。