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仮想都市の警察官~実像のない東京と、感情のない少女~  作者: 奈良ひさぎ
第7章:実像のない東京 -Existenceless TOKYO-
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62MB 少しの良心

「……覚悟は、決まったかい」

「やめろ……!」


 先に動き出したのは凛紗だった。しかし凛紗が円さんに手を伸ばすより先に、右手に握りしめられたスイッチが押された。十人のカプセルの底から青く毒々しい液体が湧き出て、革靴から先に侵食を始める。


「お前……どういうつもりだ!」

「どういうつもりも何もない。当時虚構世界のことをこれっぽっちも知らないまま亜凛紗を見殺しにした担当者を、同じ方法で殺す。それだけのことだよ」


 円さんの顔は悲哀に満ちていた。あっという間に靴が消え、足もくるぶしから順に消滅していく様を少しだけ見て、円さん自身もすぐに目をそらしてしまった。そこには曇った表情しかなかった。


「それも、亜凛紗に対する贖罪(しょくざい)だと言うつもりか?」

「それは違う。こんなことをしたところで、亜凛紗は戻ってこない。何も解決しないことはよく分かっているさ。……それでも、こうでもしないと僕は救われない気がする」

「救われる救われないという問題ではない。大前提として他人を殺めることは、この世界では重罪だ。現実だろうと、虚構だろうと。それは私に諭されなくとも分かっているはずだ」

「どうせ僕はすでに、この手で900万人の命を奪っている。今更追加で十人や二十人命を奪ったところで、変わりはしないさ」


 その間もカプセルには液体が注ぎ込まれ、液体に少しでも触れた部位は問答無用で虚構化してしまうのか、次々に消滅していく。辺りに断末魔の叫びが響かないのは、痛覚を司る神経まで消えたからなのか。カプセルの中の男たちは必死に叫ぶような様子を見せていたが、痛みで引きつったような表情ではなかった。


「……その900万人は」


 オレがカプセルの中の人たちを見て何もできない自分に腹を立ててばかりいる一方、凛紗は円さんをにらみつけていた。


「その900万人は、まだ死んでいないのではないか?」

「何を言ってるんだ。あの人たちは、」

「もしも本当に虚構化によって消滅したのなら、“存在のかけら”さえ残らないはずだ。だが実際には残っていて、だからこそデータをつぎ込むだけで、お前が自由に操作できるようになった。“存在のかけら”――すなわち彼らの命の片鱗が残っているならば、東京が再び現実に戻った時、彼らを生き返らせることができるのではないか?」


 凛紗は息一つ切らさずに言い切って、円さんの返答を待っていた。しばらく凛紗の有無を言わせない雰囲気に気圧された様子だったが、やがてふっ、と寂しそうにうつむいて笑った。


「……さすが、僕が作っただけのことはある。ただの亜凛紗のコピーなら、そんな発想にさえたどり着かなかったと思うよ」

「あらかじめ当時の東京の昼間人口である約900万人を対象として、“存在のかけら”だけは残るように条件を調節した上であの東京大事変を起こした。違うか?」

「……その通りさ」

「なぜそのような手加減をした? わざわざ虚構化の条件を緩くしたのは、お前にも良心が残っていたからではないのか? 亜凛紗の無念をなんとしてでも晴らしてやりたい一方で、このやり方は間違っているのではないかと、ギリギリのところで踏みとどまった証だろう」


 ふいにがくん、と機械の止まるような大きな音がした。目の前のカプセルに流れ込む液体がせき止められていた。そして、円さんが自らもう一度スイッチを押したらしいことが分かった。


「……良心、か。娘を思うあまりここまでやった父親に、今更良心なんて残っていないと思うんだがね」

「一瞬でも、少しでも道徳的な判断が下せたのならば、それは良心が残っていたからだ。一度は死んだ900万人も、現実世界に戻しさえすれば生き返る。あの十人も同様だ。今ならまだやり直すことができる。別の方法で、亜凛紗を供養することもできる」


 凛紗の言葉を聞いて、円さんがその場にくずおれた。その円さんに、凛紗が手を差し伸べる。オレもずっと何も言わず流れを見守っていた亜紗も、それを見守るしかなかった。それはこの短期間に豊かな感情を手に入れ、他人の気持ちを手に取るように理解できるようになった凛紗だからこそできることだと思った。


「……そうか」


 円さんは呆然としてつぶやいて、右手に握っていたスイッチを床に置いた。それでもなお、凛紗は手を伸ばすその姿勢を変えなかった。あくまで円さん自身が、その手を握ることを期待していた。

 円さんは右手を床から離して、凛紗の方を見上げた。オレと亜紗からは凛紗の背中しか見えない。それでも見えない凛紗の顔が笑っていることは、何となく分かった。


「……だけどね」


 しかしその一言で、再び空気が凍りついた。円さんはスーツのジャケットの内ポケットから別のスイッチを取り出し、俺たちが止める間もなくそれを押した。


「それは……!」


 瞬間。

 バチンッ、と音が響く。冬場に金属製のドアノブに触れた時の静電気の音。それをもっと大きくしたような、鋭い音だった。その音とほとんど同時に、横で人が倒れる。


「え……?」

「亜紗姉!」


 真っ先に凛紗が気づき、倒れ込んだ亜紗に駆け寄る。今の今まで何事もなかったのに、目の前の亜紗は苦悶の表情を浮かべていた。


「……う」

「亜紗姉! 亜紗姉! しっかりしろ!」

「り……さ……」


 凛紗を呼ぶ亜紗の声はすでに弱々しくなっていた。その後ろで、円さんがそっともう一つのボタンも手放した。


「無駄だよ。今のボタン一つで亜紗の命は絶たれたに等しい。今声を出せることが奇跡なくらいだ」

「……どういうつもりだ! 亜紗姉を……なぜ亜紗姉をこんな目にした⁉︎」


 円さんがよろめきながら立ち上がる。浮かべるのは、やはり寂しげで諦めを感じる笑み。


「たとえ僕が900万人を殺した罪が消えるか、軽くなるとしても意味がない。僕はまだ、道徳的なタブーを破って亜紗と凛紗という命を作り出したという、重すぎる罪を背負わなければならないのだから」

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