61MB あの時、亜凛紗は
「……円さん」
その物悲しい雰囲気に気圧されて、オレは亜凛紗のお父さんを総理、と呼べなかった。そして名前で呼ばれたその人はより一層哀愁に満ちた表情をして、口を開く。
「君が言いたいことは分かっている。かつて2120年の事故……否、君の前ではもう事件と言って差し支えないか。……あの事件で亡くなった900万人を操ることと、その勢いで日本を、世界を自分の支配下に置こうとするような行動をやめてほしい。そんなところだろう」
確かにオレの言いたいことは、ほとんど全部そこに詰まっていた。しかし分かっているのなら、なぜ。だからやめる、と言いたそうな雰囲気を総理から感じなかった。
「……それに、先ほどの記憶は何だ。お前がヨドに向けて流したということは簡単に想像がつく。どういうことか、納得のいく説明をしてもらおうか」
凛紗が厳しい口調で総理に追い打ちをかける。総理はなおも、寂しげな表情をやめなかった。
「……あれは亜凛紗の持っていた、本当に最後の記憶だよ。あの子は最後まで自分の身に何が起きたのか分からないまま、安らかに息を引き取った」
「最後の記憶……?」
オレが反復すると、総理はゆっくりとうなずいた。
「今更そんな記憶を私たちに与えるとはな。何が目的かは知らんが」
「亜凛紗に対する贖罪、なのかもしれない。あの時もっと僕が強い姿勢で出ていれば、あんなことにはならなかった」
「そんな言葉を平気で口にできる人間が新東京政府のトップとは。呆れたものだ」
凛紗はあくまで総理をそうやってけなす一方だった。しかしオレは総理の言葉に、どこか引っかかりを覚えた。
「……亜凛紗は。亜凛紗は、どうして死んだんですか」
気づけばオレは総理にそう尋ねていた。総理は昔話の中の書斎によく出てくるような、背もたれのついた揺れる椅子を作り出し、それに腰かけた。
「僕が虚構世界の研究を長くやっている、という話は知っているだろう。亜凛紗が亡くなった時にはすでに、その道の最先端を研究しているという自負はあった。虚構世界という研究は歴史を持ちながらも、それだけ進みの遅い分野なんだ」
「……」
オレはあえて口出しせずに、言葉の続きを待った。それを総理も分かっていたらしい。
「凛紗から色々仕込まれた君なら、虚構世界が常に持つ危険性を理解することこそ難しいかもしれないが、十分知ってはいるだろう。だからこそ、この研究は慎重に進めなければならない」
「慎重に進めるだと? 功を焦って東京を虚構化したのは誰だ」
「功を焦ってなどいない。僕はいつでも、この研究に関して慎重だよ」
珍しく凛紗が熱くなっている。隣で見ているオレにもそれが伝わった。すぐに反論されるようなことをとっさに口にしているところから、そのことは明らかだった。
「しかし慎重に進める必要のある研究は時として、外部の人間には無駄な支出先として映る。虚構世界に関する研究もその一つ。世の中には研究は何ヶ月か、長くとも数年研究すればそれはそれは素晴らしい結果が出ると勘違いしている人たちが多い。思い上がりも甚だしい限りだと思わないかい?」
「……それは」
うまく答えられなかった。オレも心のどこかで、そう思っていたかもしれないからだ。少なくとも、世の中に何十年と研究を続けないとちょっとした成果さえ出ないものがあることは分かっていても、その事実を頭が受け入れてくれない。それだけ気が遠くなるような話なのだ。
「僕は補助金を渋る政府の人たちに何度も抗議した。虚構世界という概念を用いれば、人間の生活がより豊かになることは確約されている。問題は扱いが難しいことで、うまく扱えるようになるための研究を行っている最中だ、と」
「……それが、受け入れられなかった」
「もちろん補助金を打ち切りたい人間の意見も、ある程度は理解しているつもりなんだ。僕ももしこの研究に携わっていなかったら、そう思うだろう。でもそれ以上に彼らには、もはや理解したくないという強い意志さえ感じた」
総理は拳を膝の上で強く握りしめる。悔しさをにじませ、歯を食いしばっているのがわずかに見えた。
「……それでも僕は諦めなかった。今ある虚構世界が基本的に以前より便利になっているのは、君たちも感じているところだろう。必ず役に立つという信念があったからこそ、僕は諦めずに説得を続けられた。でも」
「その流れだと、突然説得を打ち切られたんだろうな」
凛紗が憶測を交えてつぶやく。さっきよりは落ち着いた口調だった。
「……突然担当の官僚が折れた。素人でも納得できる研究成果を示せれば、補助金を継続して出してやってもいい、と。それはもう、僕は必死で準備したさ。しかしそれらは全て、無駄になった。虚構世界なんてどうせハッタリなんだ、だからこちらが指定した条件で空間を虚構化したところで、何の影響もないだろう、とね。あの担当者の憎い顔と声は、今でも夢に出てくる」
まさか。
そこまで言われてようやくオレは気づいた。亜凛紗が死んだ本当の原因は。
「その虚構化の実験台に、亜凛紗が選ばれた。まだ完成には程遠かった虚構化の技術を適用された亜凛紗は当然のごとく、虚構世界に耐えきれず消滅した。……そういうことか」
凛紗がうつむいてつぶやく。亜紗もずっと黙っていたものの、自分たちの元となった亜凛紗の死因を知って、心中穏やかでないのは明らかだった。
そして総理は再び立ち上がって、こちらを見据えた。その目には涙が浮かんでいた。
「僕は目の前で娘を失った。ただでさえうまく進まない研究をやめたくなった時、娘はいつも心の支えになってくれた。僕は父親として娘を守るという、当たり前のことさえできなかった」
「……だが。それとこれとは、話が別だ。極端な話、亜凛紗の命を政府の人間に奪われたと言えるだろう。しかし」
「分かっているさ。これは恨みから来る復讐だということは、よく分かっている。それでも、僕はやらなければならないと思った。この手の研究を続けるか否か決める立場の人間が、肝心の研究を知らないようでは意味がない。そのことを、身をもって味わってもらうしかなかった。その方法しか、僕には思いつけなかった」
オレには目の前の総理が、だんだん悪い人には見えなくなっていた。娘を愛し、何より娘の無事を気にかけるただの一人の父親の姿がそこにあった。今自分がだまされているのかもしれないとさえ思えなかった。
「だからこそ僕は周到に計画を練った。東京全域を虚構世界にすると決めたのは忘れもしない、2116年のことだ」
「……私たちを“作り出す”のに二年。具体的な計画を完成させ、実行するまでに二年。実行してから細部の調整を行い、完全に機能する状態にして東京を一般開放するまでに二年、ということか」
「そういうことだ。この歪な虚構世界について、君たちが気づいたことは全て、真実だと思ってくれて構わない。僕が仕組んだことだから保証する。それから遼斗君が東京に来たのも、僕が仕向けたからだ」
そして総理――円さんは少しオレたちから離れて、何もないはずの白い空間に向かって手を伸ばして左右に引っ張った。その場所がカーテンのように引かれて、しわくちゃになって端の方に折りたたまれる。そして現れたのは、不気味なカプセルの列。
「あれは……!」
間違いない。さっきの記憶にあったものと同じ。
「「んぐ……‼︎ ぐ……ぅぅっ!」」
亜凛紗が入れられて死んだのと全く同じカプセルが十個ほど、横並びになっていた。それぞれに初老のお偉いさんらしい男たちが入れられ、口にガムテープを貼られて手足の自由を奪われていた。
「……覚悟は、決まったかい」
円さんは抑揚のない声で、その十人に問うた。