6MB 懐かしい朝食
いい匂いがした。
オレが久しく嗅いでいない、食欲をそそる懐かしい香り。大学は実家から通っていたので、ありがたいことに毎朝母親に朝飯を作ってもらっていた。東京に来て一人暮らしを始めた今、そのありがたさが嫌というほど分かる。起き抜けでご飯を作るほど面倒な作業はないのだ。
「ほう、目が覚めたか。やはり警察官とは言え、三大欲求には抗えないというわけだ」
ヤツの声がした。ぼんやり目を開けて頭の近くに置いてあった目覚まし時計を見ると、いつも起きるのより少し早かった。しかし後悔はしなかった。その美味しそうな匂いで、すでにオレは得した気分だった。
「お前……」
「私は朝が強いんだ。早く起きたことだし、少し凝って朝食を作っていたら、この時間になってしまった」
「まさか、オレのために」
「そんなわけないだろ」
即答で否定された。半分冗談で言ったとはいえ、ちょっとショックだった。
「言わなかったか? 私はここにしばらく住むんだ。自分の朝食を作るのは自然だろう」
「いや……それでも人んちの食材勝手に使うってどういうことだよ」
「いけないのか?」
「いけないだろ。よく考えろよ」
「心配するな。お前の分もある」
なんだ、オレの分もあるのかよ。
オレはそうぼやきつつのそのそ寝袋から這い出て、テーブルに並んでいた料理を見た。
確かにテーブルには、二人分の食器が向かい合わせに並んでいた。炊きたてのご飯と出来たての味噌汁。真ん中には大きな皿があり、何枚かのベーコンと、塩コショウの振られた目玉焼きが乗っかっていた。その隣には、ボウルに入った葉野菜のサラダが置いてあった。これらすべて、ヤツが作ったらしい。
「さてはお前、最近まともな食事をしていないな? 賞味期限を過ぎた食材が、ずいぶんとあった」
「ああ。なんか、めんどくさくて」
これは東京に限った話ではないのだが、食品の保存技術が着実に進歩していて、昔に比べて格段に賞味期限や消費期限が伸びているらしい。それでも期限を過ぎた食材があるということは、買ってから相当放置している証拠。心配されるのは当然と言えた。
「あまり放置されては食材の方がかわいそうだ。少しはいたわってやれ」
「オレじゃねえのかよ」
「お前を心配してどうする。東京でモノを腐らせると面倒だぞ」
オレに容赦のない言葉を浴びせつつ、ヤツが席に着くなり軽くいただきます、と言って食べ始めたので、オレも慌てて後を追って箸を手にとった。
「……ふん、なかなかだな。少しブランクはあったが、特に問題なさそうだ」
「……うまい」
正直言って、ヤツの料理は美味かった。ご飯や味噌汁をまともに食べたのが久しぶり、というのもあったが、メインの目玉焼きの塩胡椒の加減もびっくりするくらいちょうどよかった。ご丁寧なことに目玉焼きにかける調味料は醤油とソースのどちらも用意されていた。ちなみにオレは醤油派で、ヤツはソース派らしい。
「久しぶりにこんな美味いの、食ったかも」
「そうなのか?」
オレは夢中で食べ進めながら、地元に今もいる母親の手料理を思い出してニヤニヤしていた。東京に来てからなんだかんだ言って帰省していなくて、本当に手の込んだ料理を食べること自体、久しぶりだった。すっかり実家でくつろいでいる気分になってしまった。
「私は一人暮らしが長いからな。他人が食べて普通と感じるくらいの食事は作れる」
「一人暮らしが長い? その歳で?」
「昨日言ったことをもう忘れたか? 私はお前の言う”中学生”ではないと、言ったはずだが」
「それは、覚えてる。その後の新東京政府の理事がどうたらこうたらって話は、全然分からん」
「ああ。それは私の活動限界が来たからだな。まあ、すぐに分かるさ」
普段朝は家を出るまで寝ぼけた状態で、とても朝食をまともに食べることなどできないのだが、今回ばかりはかなり箸が進んだ。無意識のうちに味わうように食べていて、少し早起きしたはずが食べ終わる頃には家を出る時間に近くなっていた。
「……そろそろ時間か」
本当は今日は非番で、山内さんが代わりに出ることになっていたのだが、昨夜シャワーを浴びて上がったタイミングで急に山内さんから連絡があって、結局行くことになってしまっていた。そういえば山内さんはオレの”旧世代型の”端末について何も言ってこないのだが、山内さんもオレと同じく地方出身なのだろうか。
「ほう、仕事か」
「ああ。……って、お前はどうするんだよ」
「私はここに残るが?」
「え」
ヤツは本気で、オレの家にしばらく居座るつもりなのだろうか。だとしたらそれなりに困る。男の一人暮らし、女性に見られるとマズいものは思いつくだけでいくつかあるのだ。
あれはちゃんと隠してあるかな、などと考えていると、向こうが先に口を開いた。
「心配するな。私は居候の身だ、お前の家を散らかすようなことはしない。私が生きるのに必要な場合以外はな」
「それ、信じていいやつかよ」
「お前が信じるか信じないかは自由だ。どちらにせよ、私がここにいることに変わりはないんだからな」
「……分かった。大人しくしてろよ」
玄関のドアを開けつつ尻目でヤツを見ると、相変わらずのしたり顔を浮かべながらこちらに向かってひらひらと手を振っていた。きっとオレの話など半分程度も聞いていないのだろう。
「本当に大丈夫かよ……」
オレはどうしたらヤツがオレの家を出て行ってくれそうか、あるいは誰にヤツを任せればいいのか、引き取ってくれそうな人を考えながら勤務する交番に向かった。
* * *
「……本部ぅ?」
そんなオレを待っていたのは、山内さんからの予想外の伝言だった。いざ交番に行ってみると一緒に勤務するはずだった山内さんの姿はなかった。代わりに交番備え付けのデバイスを立ち上げると、オレ宛てに山内さんからメッセージが残されていた。
『出勤したらすぐ、本部に行け。ここの仕事は俺がする』
どうやらオレがこの日突然出勤することになってしまった理由は、忙しいからではないらしい。特に山内さんから理由を聞いていなかったので、オレはメッセージを見て素直に驚いた。
「オレ、なんかマズいことしたかな……」
交番勤務の警官が突然、前触れもなく本部に呼び出される、なんてことはそうそうないはずだ。あるとすればオレが思ったように懲罰を食らうようなことをしでかした時か、逆にとんでもない昇進の話が舞い込んできた時か。昇進はさすがにないだろうから、やっぱり謹慎処分か何かか、とオレは一気に暗い気分になって、重い足取りで警視庁本部への道を行った。
「思い出せる限りではないんだけどな」
心当たりがないだけにオレはよりいっそう暗い気分のまま、霞が関にある警視庁の本部の、仰々しい入口をくぐった。
「淀川さん、こちらの応接室にどうぞ」
オレはそのまま、刑事もののドラマでよく見るような応接室に通された。オレ自身も警官なのに、警察の施設の中でやたら緊張していた。これから出会うだろう本部の人は問答無用でお偉いさんだからだろうか。オレは少しでも心証をよくしようと、二つか三つ隣の部屋にも聞こえそうなほど大きな声で、失礼します、と叫んで入った。
「おお、来たか。遅かったな」
しかしオレは先客を見て、拍子抜けするどころか腰が抜けそうになった。
入って左を見ると大きないかにも座り心地のよさそうなソファがあり、そこに少女が座っていた。厳かな雰囲気の応接室には不釣り合いと言える、亜麻色の髪に金銀の瞳をした少女が、ぶらぶらと足を揺らしてソファの座り心地を楽しんでいるようだった。
「お前……!」
わざわざ面と向かってその名前を言うまでもない。庵郷凛紗、その人だった。