57MB 凛紗と亜紗
「……円昂度。それが、“総理”の本名だ」
亜紗がそう告げた後、しばらくその場に沈黙が訪れた。オレにもその人が亜凛紗のお父さんだということは何となく分かった。
「……私たち理事も、総理にあまり会ったことはないわ。研究施設を立ち上げてトップになった後も、研究に没頭する日々を送っているみたいで」
沈黙を最初に破ったのは伊達さんだった。伊達さんの言うことにオレは静かにうなずく。虚構世界の研究とやらの第一人者なら、研究に夢中と言うこともあり得るだろう。しかし、亜紗は首を横に振った。
「それはあくまで表向きの話だ。実際は慎重かつ着実に、まずは日本全土を自らの手で自在に操作するために、水面下で準備を進めている」
「……本当かよ」
オレは無意識のうちにそうつぶやく。やはりスケールが大きすぎて、とても現実に起きていることだと思えない。オレの声は不機嫌だととられてもおかしくないものだった。
「本当だ。実際私たち五人の理事にも、明確な役割分担がある。アレク君は事情を知らないまま研究を続ける専門家たちを取りまとめ扇動する役目。玲君は虚構世界に関する専門家を全て集めているという新東京政府の圧倒的なアドバンテージを活かして、横浜に残ってしまった旧政府と交渉する役目。悠華は外部の人間が虚構世界の胡散臭さに気づき抵抗するのを防ぐため、その疑いの心を“壊し”て、服従の念を“生み出す”役目。そして凛紗は警視庁を統括することで、都内の治安をコントロールして虚構世界の脆弱性を覆い隠す役割だ」
亜紗の口から聞いてみれば、四人全てが東京を支配するために動いていたのだと分かる。理事たち自身がそのことを理解していたかどうかというのは、また別の話だろうが。
「四人ともそれがまっとうな仕事であると、総理に思わされている。もうほとんどその洗脳は解けかけているがな」
「……亜紗ちゃんは」
四人、すなわち亜紗を除いた理事全員の話で進もうとしたのを、伊達さんがふと止めた。
「私か? 言っただろう、私と凛紗はセットで製造されているんだ。しかも感情を学習できるようになっているのは凛紗の方だ。凛紗が本命であり、私は単に、凛紗に何かあった時のスペアであるにすぎない」
「スペア、って」
「総理は自らの手中に日本を収めるための計画を進める一方で、人間の感情がどの程度、虚構世界に影響を及ぼすのかを長年調べたがっていた。その情が高ぶった末に、人工的に生命を作り出すというタブーを犯してまで、私たちを作り上げた。……そして私たちを使って、あの事故を引き起こした」
2120年の、東京大事変。人間の理解をはるかに超える規模の大災害。オレはバティスタからあの事故が人の手によって起こされたのだと聞かされたものの、今の今までほとんど信じていなかった。いや、信じられなかった。
「あの規模の事故を起こすのを計画したのは総理だが、実行犯は紛れもなく私たちだ。私たちを責めることで気が済むのなら、好きなだけ責めればいい」
「……」
亜紗以外は何を口にしていいかも分からずに、ただただ黙っていた。責めればいいと言われたから責めるほど、オレたちは愚かじゃない。
「私も凛紗も、全て知っているんだ。自分たちがそうやって東京という都市を、さらには日本を撹乱させるために作られたことも。自分たちこそが、東京大事変を引き起こした張本人なのだということも。淀川君に都合よく接近させるためだけに、円亜凛紗に容姿を似せて作られたことも」
その瞬間、オレは気づいてはいけないことに気づいた気がした。背筋をひんやりしたものが流れ落ちる。確かめるために、おそるおそる言葉を口にする。
「じゃあ、……凛紗が、記憶がないって言ってたのは」
「嘘だ。凛紗は全て覚えている。死んだ幼馴染の姿で現れることで余計な気苦労をかけてはいないか。その不安に常に苛まれながら、凛紗は必死で記憶のない自分を演じてきた」
目頭が熱くなって、視界がにじむ。何でそんなことも言ってくれなかったんだよと、心の中で繰り返す。そのうちの一度は口からこぼれ出た。
「……凛紗は感情をある程度手に入れた段階で、いよいよその不安で押しつぶされそうになったはずだ。淀川君の気持ちが理解できるようになって、いつも疲れた様子を見せているのは自分のせいだと抱え込むようになった。自分がいるせいで淀川君が余計な心配をしている、だが最初に居候すると宣言した手前、前言撤回して出て行くこともできない。それに出て行ったとしても、行くあてはない」
「……」
「だからこそ君が亜凛紗のことを覚えていないと分かった時、相当ショックを受けたはずだ。もちろん、その可能性も考えてはいた。何せ十五年会っていない幼馴染だ。それに、君に変な情を抱かせないように、あらかじめ君の記憶がいじられた状態だったという可能性もあった。実際、それは当たっていたわけだが」
「オレの記憶……それも、亜凛紗のお父さんがやったって言うのか」
亜紗は黙ってうなずく。オレは手の甲を額に当てる。どうりで亜凛紗の記憶がほとんどないわけだ。だが十五年のブランクがあるとはいえ、幼馴染のことをそんなに綺麗さっぱり忘れるなんてあまりにもひどすぎる。
「そうだ。君と亜凛紗のつながりが強すぎるあまり、記憶を操作されてもなお、その片鱗は思い出したようだが」
「薄情な奴だよ、オレは。記憶消されたって、昔に好きって言ってくれた女の子のこと忘れるとか、幼馴染失格だ」
「……お似合いだな」
やはり亜紗の顔に感情はない。しかしつぶやいた言葉には優しさが詰まっていた。
「凛紗も君のことをいつも考えている。特に喜びの感情を手に入れてからは、君が喜ぶことを最高の幸せと感じているようだ」
「え……でも、そんな様子は、」
「それは表現しきれなかった面もあるのだろう。凛紗は君が想像する以上に律儀だ。ずぶ濡れのまま突然君の家に押しかけたにもかかわらず、泊めてくれるばかりかその後一緒に暮らすことまで許してくれた。その恩はいまだに返せていないと考えているんだ。もしかすると寝ながらでさえ、どうすれば君が喜んでくれるかを考えているかもしれない」
そうだろ、凛紗。
亜紗が伊達さんと凛紗のいた部屋に向かって呼びかけた。開け放たれたドアの陰から、まだ痛々しい傷があちこち残る凛紗が姿を見せた。
「……っ」
おそるおそるオレたちを見つめるその目は、泣いて腫れていた。