50MB 『交通事故』
「ここは……都立中央高校」
目の前にたたずむ真っ白な壁の建物。高さも奥行きも規格外。とても学校とは思えない大きさだが、確かに都内で唯一の高校の校舎なのだ。それも今見ているのは、そのほんの一部。
「……おかしい、よな」
凛紗は何やらややこしそうなパスコードをひたすら打ち込んでいた。もしここが目的地のi-TOKYOと一緒だとするなら、あんなに面倒な操作は要らなかったはずだ。つまり、少なくともオレはi-TOKYOとは別の場所に来ている。
オレはすぐに凛紗に連絡を取った。
「凛紗?」
「……ちょうどこちらから連絡しようと思っていたところだ。どこにいる?」
「都立中央高校の前。絶対そのi-TOKYOってやつじゃないよな?」
「もちろんだ。……交通事故だな」
凛紗は悔しげにそう言った。
今の東京で『交通事故』と言えば、都外とは全く違った現象を指す。東京の中では基本的に移動手段は徒歩かテレポートで、車が存在しない。普通の意味での交通事故は、東京では起きえないのだ。
テレポートした際に、何らかの原因で指定したのとは別の場所に転送されてしまうこと。それが東京での『交通事故』だ。
「どうすんだよ」
「方法がないわけではない。すぐに玲を呼ぶ、一旦切るぞ」
オレが返事をする前に通話が切れた。玲、つまり凛紗と同じ理事である伊達さんを呼ぶつもりらしい。
テレポートのシステムは完成されているようで、実は意外と欠陥もあるらしい。今のような交通事故が起きた時、それを調書という形でまとめて上層部に報告するのはオレたち交番所属の警察官の仕事だ。
何分と経たないうちに、凛紗の方から電話がかかってきた。
「玲にヨドのいるところへ向かうよう頼んでおいた。すぐに着くだろうからその場を離れるなよ」
「分かってる」
お待たせ、とすぐに伊達さんの声がした。どうやら別の用事で外に出ていたようで、前に一緒に東京駅の地下に行った時と同じスーツを着ていた。かわいらしい、というよりは美しい伊達さんにオレは思わず見とれてしまう。
「凛紗ちゃんも随分人使いが荒くなったわね。まあでも、わざわざ呼び出すということは緊急事態なのよね?」
凛紗が伊達さんにも聞こえるようスピーカーモードに切り替えろ、と言ったのでその通りにした。凛紗はその通りだ、と前置きしてから話を続けた。
「今起きている異常事態は必ず、i-TOKYOで収束する。だがこの肝心な時に交通事故を起こして、私だけがこちらに来てしまった」
「つまりわたしは淀川くんを連れて、i-TOKYOに向かえばいいのね?」
「そうだ。手間をかけさせるが、よろしく頼む」
凛紗は伊達さんの返事も聞かずに電話を切ってしまった。そのせっかちなやりとりに、伊達さんがふう、とため息をつく。
「ま、仕方ないわね。凛紗ちゃんがあれだけあたふたしているなんてこと、めったにないもの」
「そうなんですか?」
「ええ。まだあまり話は把握できていないけれど、とにかく急ぎましょう」
オレは伊達さんと一緒に、さっき出てきたばかりのテレポートスポットへ向かった。それから再び丸五分ほど待って、転送が始まる。目の前の景色が一瞬真っ白になって、すぐに転送先の景色が再現される。
「なっ……」
目の前に広がる景色は、確かに未来感のあるものだった。しかしオレのイメージするi-TOKYOと一緒かと言われると、そうではなかった。もっと暗くて、怪しい液体の入ったカプセルが所狭しと並んでいる感じ。ちょうど、丸の内南口の地下にあるあの施設のイメージだった。
「ここ……最初の場所だ」
東京駅の日本橋口近くに立つテレポートスポット。よくよく見てみれば、元来た場所に戻されていた。しかも伊達さんは隣にいない。どうなってんだよと思っていると、凛紗から電話がかかってきた。
「ヨドか。どこにいる?」
「分からない。けど、違うよな」
「ああ。どうやらまた事故が起きたようだ。玲だけこちらに来ている」
おかしいな、と電話越しに凛紗がつぶやいた。
「おかしい?」
「交通事故はこんなに頻繁に起こるものではないはずだ。本格的な稼働開始から二年経って、その正確性はかなり高くなっている。少なくとも二度も連続で起こることは考えにくい」
「そんなことオレに言われても」
「……いや。そういえば、最近交通事故が多発しているという話を前にヨドから聞いたな」
それは凛紗の言う通りだった。最初に凛紗と『アキバ・ゼロ』に潜入したあたりから、交通事故の件数が目に見えて増えていた。初めの頃こそただの偶然くらいにしか思っていなかったが、何週間もそれが続いていた。オレでもさすがにおかしいと思わずにはいられなかった。
「通常同じ目的地に向かおうとする人が複数いた場合に、その処理順序でバグが起こった結果、交通事故に発展する。だがそのバグこそ日に日に修正されているし、こうもi-TOKYOに向かう奴が同時に存在するとは思えない。……わざわざ交通事故を偽装してまで、私たちのi-TOKYO行きを邪魔したい奴がいるようだな」
オレは凛紗の言葉を否定できなかった。つい先日、東京大事変は誰かによってわざと起こされた可能性が高い、と知ったばかりだ。今こうしてオレたちがi-TOKYOに行けないでいるのも、誰かの仕業かもしれない。
「念のためアレクにも連絡を取ってみる。もしアレクをもってしても私たちと合流できなければ、走れ」
「走る……?」
連絡は任せて、と伊達さんの声が小さく聞こえた。被さるように凛紗の声が続く。
「幸いクレイスはこちら側にいる。クレイスには位置情報を発信するデバイスを首につけていて、ヨドの端末からもそれが分かるようになっている。それを頼りに来てくれ」
「来てくれ、って。外からそんなに簡単には入れないから、さっきみたいにめんどくさいことやってたんだろ? たとえ近くに行ったって……」
せっかちにも、凛紗はさっさと電話を切ってしまった。オレはため息をついてバティスタが来るのを待った。五分もしないうちに、少し不機嫌そうな顔をしたバティスタが姿を見せた。
「ああ、いた。まったく、こういう問題は庵郷と伊達だけで解決してほしいんだけど」
バティスタはオレの姿を認めるなりテレポートスポットへ引き返し、パスコードの入力を始めた。オレは慌ててバティスタの隣に立つ。さらに五分経って、テレポートが始まった。
「……ダメか」
今度は隣にバティスタがいないのが分かった時点で察した。オレはどこか知らない場所に飛ばされていたが、構わず凛紗に電話をかける。
「そっちに行く。待ってろ」
「ああ、頼むぞ。それにやれることはまだまだある。ヨドを飛ばす場所をランダムに指定しているのだとすれば、適当にテレポートを繰り返せばたどり着けるかもしれない。またそれでもダメだと分かれば、テレポートを繰り返して最もクレイスの位置に近くなった段階で足を使えばいい」
「分かった。やってみる」
オレが電話を切ろうとした、その時だった。端末の向こうから轟音が響いた。爆発に近いその音の後、向こうが静まり返った。
「……おい」
返事はない。
「おい! 凛紗! 大丈夫か、返事しろ!」
体が動いたような、わずかな音さえ端末は拾わなかった。