47MB のぞみとの夜に
二人で近くを散歩して、それから昔よく登った展望台に行った。昔は街一帯を見渡せる天文博物館の名物だったが、オレが生まれる何年か前に閉館してからは無料開放されている。博物館は取り壊されて商業ビルになったが、この展望台だけは小さい子が遊んでも危なくないように工事がされて、今も残っている。
「どう? 東京行って」
そんなすっかり安全になった柵に少しもたれかかりながら、のぞみがオレに尋ねた。
「……やっぱ、まだ慣れてへんわ。オレにはギャップが激しすぎたかもしれん」
「何それー、ギャップ激しすぎって個人差あるん?」
相変わらずの、のぞみの快活な笑い。
「実際見てどうやった? なんか、四年前の事故で派手にむちゃくちゃになったのに、二年で元通りになったって話やん?」
「ああ。結構ちゃんとしてた。ってか事故の前より発展してるかも」
一瞬、虚構世界とかの話をした方が分かりやすいのかと思った。しかしすぐに首を横に振る。オレでさえあまり分かっていないのに、うまく説明できるわけがない。
「そうなんや。でも人口はだいぶ減ったんちゃうん? もう首都は横浜ってことになってるんやろ?」
「減ったらしいな。けど、あんまり感じひんかった。減ろうと減ってなかろうと、ここより多いのは変わらんし」
オレはなるべく自然な流れになるよう意識して、手を差し出した。すぐにのぞみが気づいて、オレの手を握ってくれた。
「……思い出すわ。覚えてる?」
「ああ、うん」
昔よくこの展望台に登って、街の景色を見下ろしながらいろいろ話したこと。のぞみはいつも足が遅くて、遅いとからかってはのぞみに脇腹を突かれたこと。
しかしふと、気づいた。今覚えてるととっさに言ったのは、本当に覚えていてのことなのか。つい何日か前に昔の夢を見たから、覚えていると錯覚しているだけではないのか。とっさであるとはいえ、のぞみに嘘をついてしまったのかもしれないという事実が、オレを動揺させた。
「あの時言うてたっけ。のぞみがオレと結婚するとかなんとか」
「んー。言うてた気もする。っていうか、基本的に私はずっとしたいと思ってるし。結婚」
「なっ……?」
オレがわざわざ東京に出てまで警察官になりたいと言った一方で、のぞみは実家から自転車で行ける距離の市役所に就職した。今も昔も安定と言われる、公務員だ。あとはオレと結婚すればあるいはもっと安定か、とのぞみは考えているのだろう。
「何ならおめでた婚でもええと思ってるよ」
「いやいや。それはさすがに」
「別にはるとのお父さんもお母さんも怒らなさそうやん」
「そういう問題ちゃうやろ」
そこまで言い切って、のぞみはふう、とため息を一つついた。それからふふっ、と笑みをこぼした。
「……はると」
「ん?」
「こっちに、帰ってきてくれへん?」
「……」
思えばオレが東京に来てからというもの、危ない目に遭ってばかりだった。確かに何も起きず、何も得られないままただ時間だけが過ぎて行く人生は面白くないだろう。しかしここ最近のオレはとっくに、一生分のヒヤヒヤを味わった気さえしていた。
だがそれでも、即答はできなかった。せっかく父さんや母さんを説得して東京暮らしができているのだから、その機会を大切にしたい。たとえのぞみに結婚してくれ、と言うのが遅くなるとしても。
「……やっぱ、イヤやんな」
「いや、別にそういうわけじゃ」
「じゃあ、三十路になるまでに決めてくれん? それまでやったら、私も待てそうやし」
「三十路!?」
言葉の響きに驚いてそっくりそのまま返してしまったが、三十代は意外に近い未来だということにすぐに気づいた。そして、逆に言えばあと五年以上は待ってくれるのか、ということにも。
「やっぱこっちに戻ってくるって言うんやったら、それはそれでいいし。これからもずっと東京におりたいって言うんやったら、私が東京に行くし」
「のぞみが東京に?」
「しゃあないやん、そうせなはるととは一緒におれへんようになるんやし」
「……分かった」
のぞみがずっと本気で言っていると、改めて分かった。
「ちゃんと考える」
「やっぱそうでないと」
言葉は嬉しそうだった。しかし何とはなしにのぞみの顔をみると、なぜか寂しそうだった。
「あ……うん。晩ご飯、食べに行こか」
そんな一瞬の表情も、オレがのぞみの顔を見ていることに気づくとすぐに消えてしまった。
* * *
「ホンマはるとは意気地ないなぁ〜はよ結婚してって言やええのに」
のぞみに言われるがまま行ったのは、電車で少し東に行った駅の真ん前にある、ホテルの上層階のイタリアンレストランだった。のぞみが最初からおしゃれで正式な格好をしていたのにも、ここでようやく納得がいった。それだけ厳かな雰囲気の場所だった。
そして最初のワインをいいペースで飲んでしまったのぞみは、すぐに顔を赤くしてろれつが回らなくなっていた。声のボリュームこそ抑えめだったが、明らかに悪酔いしていると分かるほどだった。
「のぞみ……」
運ばれてくる料理をおいしそうに、上品に食べつつ、しかしオレに対する話し方は今まで見たことがないくらい砕けていた。
「ごめんはると……」
最後のデザートを食べ終わった段階で、のぞみがぐたっとテーブルに伏せってしまった。それと同時に、のぞみの手からルームキーが滑り落ちる。
「これは……」
すぐ下の階にあるホテルの一室を予約していたのだと、オレはすぐに理解した。自分が酔いつぶれることを分かっていたのか。そう思ってカードキーの裏を見ると、そこにはダブル、の文字。オレはこれから起きるだろうことを思い浮かべる。
その後のことは、ほとんど覚えていない。その夜最後に見たのは、酔いつぶれていたはずののぞみが服をはだけさせて、広いベッドの上でオレを押し倒す姿だった。
「ん……」
すぐ隣に温かい肌を感じながら、オレは目を覚ました。外はすっかり明るくなっていた。
「何時だ、今」
時刻を確認しようと、オレはベッドの脇に置いた端末を取ろうとして、その手をぴたりと止めた。
「これは……手紙?」
今のご時世、わざわざ紙に手書きでメッセージを送ることなどまずない。しかしオレの端末の隣には確かに、薄い桃色をした便せんが置かれていた。
のぞみがまだむにゃむにゃ言いながら眠っているのを見て、オレはこっそりその便せんを開けた。
「……!?」
入っていたのは、写真と一枚の紙切れ。その写真の中では、オレと凛紗が東京駅の前で手をつないでいた。そして手紙の最初の一行を見た時、オレの背筋は凍りついた。
「“ありさ”、へ……」
知らないはずの女の子の名前。しかしそれは同時に、夢に見たもう一人の幼馴染の名前でもあった。