44MB 凛紗の居場所
気づけばオレはまた、体が小さくなっていた。変な毒薬を飲まされた、とかではない。目の前に広がる夜景は、オレの地元の展望台からの景色そのものだった。まだぽつぽつと灯る家の明かりがきれいで、懐かしかった。
「……はると」
なんでこんなことに、と思う暇はなかった。オレの隣に、同じようにして手すりにもたれかかる少女がいた。のぞみではない、もう一人の幼馴染だ。
「なに」
「言いたいことがあったの」
「……」
のぞみはその場にいないらしかった。オレとその子の二人だけで、夜景を見つめていた。
「……東京に行ってまう、ってこと?」
「ちがうよ。だって、そんなのもう知ってるでしょ?」
オレは素直に驚いた。もしかして彼女は、東京に引っ越すことを知らされてないのではないか。そう思っていたのだ。
「きのう、言われた。明日にはもう、行くんだって」
やっぱりそうだ。引っ越す直前に言って、有無を言わせず東京に連れていくつもりだったのだ。
「……そっか。でも、」
「のぞみはいいの。のぞみは私のこと、嫌いだったんでしょ」
「え?」
のぞみが彼女を嫌い?
聞いたことがない。そもそも嫌いなら、一緒に遊んだりしない。なのになぜ、そんなことを。
「それにのぞみは宿だいしなきゃ、って言ってたし。はるとにだけ、言いたいことがあったし」
「オレにだけ……」
次の瞬間。
彼女がオレを、ぎゅっと抱きしめた。わさっ、と髪の毛が揺れて、甘いシャンプーの香りがオレの鼻をくすぐった。
「……好き」
「え?」
「好き、だった」
戸惑いを隠せない。だって今まで、ずっと友達だったのに。友達として、お互い接していたのに。
「そんなこと、急に言われても」
「言えなかったもん!」
「……っ」
いつもより、彼女はずっと必死だった。涙声になっているのがすぐに分かった。
「言えないよ……だって、のぞみもいるのに」
「のぞみに悪いから、ってこと?」
「……うん」
確かに、のぞみが聞いたら怒るかもしれない。のぞみが絶交よ、とか言いかねない。
「……ありがとう。なんか、うれしい」
「でも、言うのがおそかった」
「おそくない。だって、東京に行くだけやろ? またいつでも会えるやん」
「……うん」
オレは彼女の手を握った。そっと、でも確かに力を込めて。
「また、会おうね。いつか」
「いつかちゃうやろ。夏休みとか、こっちに来てよ」
「うん。ぜったい来る」
ようやく彼女が、オレを抱きしめるのをやめた。オレの顔を見て、涙目ながらにっと笑った。純粋な上に、女の子の涙。オレはドキドキするしかなかった。
そんな彼女の顔が、ふいに雲の合間からのぞいた月の光に照らされる。
彼女の髪は、亜麻色だった。
* * *
「はっ……!?」
オレは思わず飛び起きた。そして薄手のブランケットを跳ね除けて、辺りを見回す。
「……どうした?」
いつものように朝食を作ってくれていたらしい凛紗が、不思議そうにこちらを見ていた。
「また、あの夢だ」
「あの夢……というと、昔の記憶に近いという、あれか」
「ああ。それに……前は分からなかった女の子。お前と同じだった」
「私と?」
「髪型とか髪の色とか、全部一緒だった。でも、そんなの全然覚えてないんだよ」
凛紗が急に黙った。しかし手は一切休めることなく、一通り作り終えて火を止めてから、こちらにやってきた。
ばふっ
そして急に力を抜いて、オレに全体重を預けて抱きついてきた。びっくりして思わず手を出して受け止めてから、おそるおそる手を離した。
「覚えていなくても、記憶に偶然残っていたという可能性は存在する。例えば昨日大蜘蛛を倒してから気づいたが、私はようやく、ヨドの手の暖かさを認識できるようになった。もちろん温度は前々から感じ取っていたがな」
「要はその、なんだ。気持ちの暖かさっていうか、そういう感じだろ」
「その通りだ。ヨドはどうだった?」
「オレは、もっと前から。でもそういや、あったかい手だなとは思ってたけど、懐かしいと思ったことはなかった」
オレの右腕にぴたりとくっついた凛紗がふいに、びくっと震えた。それから急に体を離して、わざとらしく咳払い。
「……いかん。私としたことが」
「何が」
「その、さっきの行為は。迷惑では、なかったか」
見ると凛紗はオレから少し距離をとって顔を真っ赤にして、何やらもじもじしていた。時々ちらちらとこちらを見ては、目が合うとすぐに目線をそらす。何か変だな、というのを感じた。
「迷惑だったかもな」
「はっ⁉︎」
凛紗がさらに数歩下がって、くるっとオレに背中を向ける。それから「そうか、あれが迷惑なのか……」と明らかに落ち込んだトーンで独り言。オレにギリギリ聞こえるか聞こえないか、くらいの声量だった。
「おいおい、ちょっと待て。冗談だって」
「冗談? 今の言い方で、冗談だったのか?」
顔だけこっちに向けて、目をうるうるさせながら凛紗が言う。前まで、というか昨日までの凛紗とはまるで違う。しかも演技でやっているにしては出来過ぎだ。
「冗談か冗談でないか、その辺りの判別は難しいんだ。勘弁してくれ」
かと思うとまた凛紗はオレの方に寄ってきて、今度はベッドに腰かけてからオレに肩を寄せた。いちいち一喜一憂する凛紗を見て、いよいよ情緒不安定か、とオレは思うしかなかった。
「どうしたんだよ、朝から。何かいつもの凛紗らしくないな」
「私も困惑しているところだ。……こう、急に今までの私自身の行動に、疑問を抱き始めたというか」
「と、言うと?」
「今まで特に考えもせずにヨドと手をつないでいたが、よほど仲のいい、相当踏み込んだ仲の異性がすることだという事実を、妙に意識してしまったり。……あとはその、」
さっきのように気軽に抱きつくというのも、むやみに相手を意識させてしまう行為だと知っていながら、特に何も感じていなかった自分が急に恐ろしくなったとか。そもそもオレと同居するのを迷わず選んだこと自体、今の自分からしてみれば到底あり得ない選択だとか。そこまで言われると、凛紗が何を言いたいのかはだいたい分かった。
「分かった。凛紗、お前恥ずかしがってるんだ」
「恥ずかしがっている……?」
凛紗が珍しくそっくりそのままオレの言葉を返してきた。それは東京についてまだよく分からないことが多い、オレの専売特許だ。いや、違うか。
「そう。なんか妙にそわそわしてると思ったら。でもようやく、人間らしくなった気がする」
何より第一印象が最悪に近かった。人を見下すようなあの笑みは、正直もう見たくない。そんな凛紗が、今や相当感情豊かになっている。きっと感情を失う前の凛紗に、だいぶ近づいているはずだ。
「そうだな。これで私の記憶も戻ってくれればいいんだが。……いやでも、記憶が戻ればここを去らなければならないのか」
「えっ」
まさか凛紗の口からそんな言葉を聞くことになるとは、思ってもみなかった。遠回しに、オレの元を離れたくないと言っている。
「……どうせ玲やアレクから聞いただろうから言うが。私は好きで新東京政府から逃げてきているんだ。記憶も感情もない私を平気で従事させていた、そのシステムと自分自身に疑問を抱いてな。だから私が元通りになったとしても、あの場所に戻るつもりはない。今の私にとっての居場所は、ここしかないんだ」
凛紗はいつになく素直だった。変に大人びた雰囲気を、その時は感じなかった。歳相応の雰囲気を持った、13歳の少女そのものだった。
「……オレは、そんなこと聞いて出て行けとか言うような、冷たいやつじゃねえよ」
「それは私がこの話をしなければ、相変わらずうっとうしがっていたということか?」
「ま、そうなるかもな。でも今は違う。ここしか居場所がないって人がいるなら、オレはそれを全力で守る。相手がどんな人であろうと関係ない。こんな身近に、こんなに困ってる人がいるのに。それを放っておくわけにはいかない」
ふふっ、と凛紗が笑った。すごく自然な笑い方に少し驚いて、オレは凛紗の方を見た。安らかそのもの、といった表情で、オレの背中にすっかりもたれかかっていた。
「……もう一つ、気づいたことがあるんだ。こうやってヨドに触れていると、妙に安心する。どんな気持ちも、こうしていると落ち着く。まるで、帰るべき場所に帰ってきたかのような。私がヨドの言う幼馴染と関係があるのも、事実かもしれないな」
その言葉で気づく。今までオレは凛紗に教えられたり、指示されたりするばかりだった。しかしもはや、そうやって受け身になっているばかりではいけない。オレの方から、凛紗を守っていかなければならないのだ。
「さあ。ヨドは仕事だったな。冷めてしまうから早く食べようか」
凛紗が笑顔で、普通の暮らしを送れるように。