33MB もう一人の理事
「何をしている。早く行くぞ」
ふと、凛紗の声がした。ついてこないオレに気づいたのか、待っていてくれたのだ。
「……ああ、ごめん。ボーっとしてた」
「寝不足か? 仕方のないやつだな」
あの人はいったいなぜ、このタイミングで現れたのだろう。
幻覚でも見たのかと思ったが、違った。オレの手には確かに、あの人の名刺が握られていた。名前は今朝来たメッセージの送り主と、全く同じだった。
「伊達、玲……」
もちろん聞き覚えなどない。オレが知らないのに、どうして向こうはオレの名前を知っているのか。
「……あ」
オレはふと思い出した。凛紗と全く同じだ。凛紗もオレの名前をどういうわけか最初から知っていた。
「……なあ、凛紗」
「何だ?」
オレは施設内を一切の迷いなく進む凛紗を呼び止めた。
「伊達さん……って、知ってるか」
「……!」
顔には出なくても、凛紗の目が一瞬動揺を見せたのをオレは見逃さなかった。
「伊達……玲のことか?」
「知ってるのか」
「玲がどうした……いや、」
凛紗が急に深刻そうな顔になった。
「お前まさか……玲に会ったのか」
「え? ああ、……今さっき」
オレの体ががくん、と揺れた。凛紗が胸ぐらをつかむ勢いでオレに迫ってきたのだ。
「どこでだ」
「さっき、正面入口を入ったところで」
「なぜ言わなかった⁉︎」
「え……いや、」
言う暇がなかった。いやそれ以上に、あの一瞬だけ、オレは伊達さんと二人だけの世界にいるような気がしていた。比喩表現でも、のろけ話でもなんでもない。文字通りの意味だ。
「玲……」
凛紗がその場にへたり込んでしまった。それだけ大事な人か何かなのか。
「……分かった。だが次に会った時には、すぐに教えろ」
それだけ言うと、凛紗は何事もなかったかのように立ち上がって、また歩き出してしまった。後ろ姿を見ても少し怒った様子で、オレの方を一切見ようとしなかった。
* * *
見学用通路、と示された道をオレたちは通っていた。どうやらわざわざ凛紗の新東京政府理事権限を使わなくても、普通に中に入ることができるらしい。端末でちょっと調べるだけでも、団体様見学のご案内、という見出しの公式ホームページがヒットした。
「……調べたから分かると思うが、今通っている道は申請さえすれば、誰でも入ることが出来る。都内有数の規模を誇る物流センターながら交通の便がよくて、見学ツアーがやりやすいからな」
オレの行動はお見通しらしかった。恥ずかしくなって、オレはとっとと端末をズボンのポケットに放り込んだ。
「しかし問題はここからだ。この見学用通路ではあくまで、梱包された物品がベルトコンベアで流れていくのを見ることしかできない。より詳しく内部を調べようと思えば、ああいう職員用通路を通るしかない」
凛紗が指差したのは、明らかに関係者以外立入禁止だろうな、と分かるドアだった。近づいてみるとご丁寧に“staff only”と書かれていて、ドアノブにはパスコードを打ち込む装置がついていた。
「あんなのどうやって入るんだよ」
「心配するな。ここで新東京政府理事の権限を使うんだ」
凛紗は全く滞ることなく、腕を見ながらパスコードを打ち込んだ。ガチャ、とあからさまに鍵が開いた音がする。
「……もしかして理事だからパスコードが分かる、とか?」
「そういうことだ。逆にこのパスコードが分からなければ意味がないから、ここに行こうなど言わない」
凛紗がドアを開け入っていくのに従って、オレも暗いそのドアの向こうへ進んだ。
「玲……会ったのなら知っていると思うが、玲は私と同じ新東京政府の理事の一人だ」
ドアの先にあった階段を下り始めて間もなく、凛紗が口を開いた。まるで嫌な思い出を仕方なく語るかのような、どんよりとした口調だった。
「……知ってる」
「理事は私を含めても五人しかいない。普段めったに街に姿を見せない理事に二人も会ったお前は、相当珍しい存在だ」
オレはぐっ、と固唾をのんだ。凛紗の口から次にどんな言葉が出てくるのか気になった。伊達さんに会うことが、何かまずかったのか。
「実はそれは理事同士でも同じだ。私も玲には数えるほどしか会ったことがない」
「それって凛紗も、会いたかったってことか」
「違う。玲が東京にいるなんて、相当珍しいことなんだ。玲は同じ理事でも、私より立場が上だ。警視庁を統括していた私とは違って、玲は横浜政府と直接の交渉権を持つ、より上位の理事なんだ」
逆に凛紗は、横浜の政府の人と直接話をすることができないらしい。政府理事と言っても、意外と地位はそれほど高くないのかもしれない。
「玲の主な仕事は横浜の政府と交渉して、東京を一種の独立国家として認めさせることだ。今でこそ横浜の政府が本拠地で、あくまで新東京政府はその支局という扱いだが、それでは東京で何かする時にいちいち横浜のご機嫌とりをやらなければならない。その手間をなくすための交渉だ」
そんな話が本当に認められるのかは分からないが、2020年の事故から四年近く経った今でもその仕事をしているのなら、少なくとも全くダメというわけではないのだろう。
「玲はその交渉のために、ほとんど横浜にいる。つまり今東京に来ているということは、それ相応の理由があるはずなんだ。私は、それが知りたい」
「……なるほど」
しかし伊達さんが凛紗には気をつけろ、と言っていたのが引っかかった。凛紗の話によれば、オレが気をつけなければならないのはむしろ伊達さんの方だ。もちろん、自分からわたしに気をつけろ、と言う人はまずいないと思うが。
「だからもし、次に玲の方からヨドに接触があったら、私に教えてほしい。可能ならば、私に会ってくれないか交渉してほしい。最初から直接会えるのなら、それに越したことはないんだが」
凛紗の表情には暗さが見えていた。どうやらオレが思う以上に、凛紗と伊達さんの間には深い関係があるらしかった。
その間にも凛紗の足はためらうことなく進んでゆく。階段は市役所や学校のそれのように、十数段下っては折り返すことを繰り返して、とっくに地下十階分くらい下っていた。
「どこまで行くんだよ」
「一番下だ。この物流センターに運び込まれた物品はまず一番下の倉庫に格納された後、必要に応じて延々と続くベルトコンベアを登って倉庫から出る。そこから順に異常がないかたどるんだ。地道な作業だがな」
と思ったが、と凛紗が続けた。オレは暗くて周りがあまり見えないながら、前を見る。階段を下りるたび、不気味な音が大きくなっていた。
「どうやら私たちを邪魔したい輩がいるらしいな」
暗闇の中に不気味に光る無数の目。音からして、大量のネズミが下から押し寄せてきているようだった。