30MB 感情を与えてくれる人
はっとしてヤツを見ると、ヤツは立ち上がってオレに手を差し出した。そうまでされても、ヤツの手を取る資格があるのかと、オレは考えていた。
「どうした? なぜ私の手を取らない?」
「……いいのかよ」
「いいんだ」
強く、そう言われた。たったそれだけの短い言葉で、オレの中に思い切り殴られたような衝撃が走った。
「私も考えた。私の感情を奪い取ったお前のそばに、これから先もいていいものかとな。もしもあの日、私とお前とを引き合わせた誰かがいたのだとすれば、それは悪魔以外の何者でもない。私もそう思った」
オレだってそうだ。被験者――いや、被害者であるヤツの隣にこれから先もいることなんて想像も、
「しかし決定的なところで矛盾が生じるんだ。何度考えても、私の感情を奪った奴と、お前とが一致しない。一致させるにはあまりにお前が優男すぎるんだ」
「……‼︎」
「矛盾が起きた原因は考えうる限り一つしかない。お前が私の感情を奪ったという仮定自体が、間違っていたんだ」
「いや、」
そんなはずはない。ならばわざわざ高校の地下室に厳重に保管されていたあの書類はどうなるのか。まるで過去の記憶を掘り返すようにオレが見たあの夢はいったい、何だったのか。今度はそっちの説明がつかなくなる。
「……難しいことは、考えなくてもいい。下手をすればお前を見限るかもしれないともとれることを言った、私が悪かった。私はお前を本当の意味で、信じてみることにした。もしも私の感情を奪ったのが本当にお前なら、その時は仕方ない。だが、」
一瞬、雨の勢いが弱まった。ほんの少しだけ雲の途切れ目があったのか、光さえオレたち二人の間に差し込んだ。その瞬間を、オレは見逃さなかった。
――髪から滴ったのでも、天から落ちてきたのでもない水が、彼女の目からこぼれ落ちるのを。
それから光に照らされた彼女は、これ以上ないほどの笑顔をオレに向けた。今のオレには、もったいないくらいの明るさだった。
「私に……涙を流させるほどの感情を与えられるお前が、私の敵であるとは到底思えないがな」
「凛紗……!」
オレは衝動的に、そう叫んでいた。どれだけ周りに響いていようと、誰に聞こえていようと関係ない。彼女の名を、初めてはっきりと呼ぶこと。それがその瞬間のオレにとって、一番やるべきことだと感じたのだ。
「凛紗……」
「ようやく私の名前を、覚える気になったか」
「バカ言え。名前くらい最初で覚えるだろ」
「実は私も、お前の名を呼ぶのをためらっていたんだ」
「……本当かよ」
「ああ、本当だ。会った時から少しずつヨドと呼ぶ機会を増やしていた。しかしようやく、大っぴらに呼ぶことができる」
オレは凛紗に駆け寄る。隣にしゃがみ込むと、凛紗がそっと傘を持つオレの手に手を重ねてきた。
「……え」
「暖かい手だ。ようやく分かった」
「何が?」
「私はお前と手をつなぐたびに、失った感情を取り戻していたんだ。確かに過去をさかのぼれば、ヨドは私から感情を奪った張本人かもしれない。しかしこの手は私に人間らしい感情を与えてくれる、希望の手でもある」
にゃうぅ。
話を聞いて理解したかのように、凛紗の腕に抱きかかえられた子猫が鳴いた。凛紗は子猫を優しい手で撫でて、抱き方を変えてオレに見せた。雨に濡れて少しだけくすんでいたが、きれいな色をした三毛猫だった。
「この子が教えてくれた。ヨドがまだまだ信じるに値すべき人間だと。今までも、そしてこれからも、私に様々な世界を見せてくれる人間であると」
「……っ。そっか」
オレは自分で笑みをこぼしていると分かった。明るく笑わざるを得ないくらいの状況だった。オレと凛紗に希望を与えてくれたその子猫のあごを、オレはそっと撫でた。
「……クレイス、だ」
「クレイス?」
「ギリシャ語で鍵。私の奪われた感情と記憶を取り戻すための鍵に、なってくれると信じてな。この子に名前をつけた」
気に入ったぞ凛紗、と言わんばかりにクレイスがごろごろと喉を鳴らした。
「連れて帰る気満々じゃねえか」
「連れて帰らないのか?」
「え? いや……」
凛紗にじとっとした目で見つめられた。いつの間にそんな感情のこもった目を覚えたんだ。オレはクレイスを置いて帰るとはいよいよ言えなくなった。
「そうかそうか。ヨドは捨て猫を見かけても見て見ぬ振りをするような奴だったんだな」
「ちげえよ。それに見かけるたびに拾ってたらキリねえだろ」
見かけても他の人が拾ってくれることを願うしかない、そんな時もあるだろう。……いや、今はそういう話じゃない。
「じゃあ連れて帰っていいな?」
「……分かったよ。でもあんまり高いエサは買えないからな。正直余裕があるわけじゃねえし」
「分かっている。そこは私の金から全額出しても問題ないしな」
「その金どっから湧いてきてるんだよ」
「新東京政府理事としての給料だ」
こいつ適当に渋って理事の仕事に戻らないくせに、給料だけはちゃっかりもらってるのか。……うらやましい。
「本当はこの後、もう一つヨドと一緒に見ておきたいものがあったんだが……そうするには今日は忙しすぎたな」
凛紗がいったんクレイスを箱の中に置いて、服を絞った。置いていかれるかもしれないと思ったのか、クレイスが寂しそうに鳴いた。しかし凛紗はすぐにクレイスを抱き上げて、オレに笑いかけて言った。
「帰ろうか」