2MB どこかで見た?
シャワーを流す音が、途切れ途切れに聞こえる。生々しいことに、ただ床に流れているのではなくて、シャワーが一度体に当たってから床に落ちているという、音の違いまで分かった。オレは思わず、ごくりと生唾を飲んだ。
「なんなんだよ、コイツ……」
庵郷凛紗。
突然オレの部屋に上がってきて、自分の家のように堂々とシャワーを浴びている少女だ。
誤解を招きたくないので言っておくが、決してオレから招き入れたわけではない。向こうが勝手に入ってきたのだ。より正確に言えば、オレはヤツを家に入れなければならないように誘導された、というところか。あんなずぶ濡れの状態の人と対面しておいて、見て見ぬふりをするのはさすがに心が痛んだ。まして相手はせいぜい中学生か高校生の女の子。
「大丈夫かな、オレ……どうなるんだよ」
とは言え、側から見れば完全にアウトだ。年頃の女子を家に連れ込んであーだこーだした、と言われても反論はできない。実際、オレにはそうやって捕まる未来が見えていた。
「そもそも、親御さんは」
オレは一瞬忘れていたが、よく考えればヤツにもお父さん、お母さんがいるはずだ。こんな時間にどこをうろついているのかと、心配はしていないのか。それともこんな雨の中、家出してきたのか。いや、そうだとしても見ず知らずの男を頼るなんて、どう考えてもおかしい。
「こんな状態でビールなんか買いに行けるかよ……」
ただでさえ気が滅入るような雨が降っているのだ。まして勝手にシャワーを浴びているヤツを置いて呑気にビールを買いに行くなんて、できるはずがない。あるいは、ここまで動かぬ証拠を作り出しておいてオレをお縄にかける罠なのか。もうオレの頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「……!」
その時だった。ふいに、シャワーの音が止まった。ぴと、ぴと、という音を残したままドアが開き、ひたひたと歩く音が聞こえた。
「な、っ」
ヤツが脱衣所を通り過ぎて、真っすぐこちらに向かってくる。
「何のつもりだ」
「体を拭くものはないか? 少し探したんだが、見つからなかった」
「あ、えっと」
オレは少し、微妙に癖の残った無造作な亜麻色の髪に見とれていた。しかしそんなことより気にすべきことが他にあった。
「見つからないなら脱衣所から呼べばよかっただろ」
「相当怯えているようだったからな。下手に名前を連呼するのは避けたんだが、間違いだったか?」
「いや、それは……」
確かに怯えていたと言えば、間違いはない。ヤツにこれから何をされるのか、分かったもんじゃないからだ。
「タオルはここにある。それから……っ!?」
オレは自然な流れで脱衣所に入り、タオルの場所を教えた。そして、見てしまった。
「何だ」
「……いや、何でもない。悪かった」
脱衣所の床には脱ぎ捨てられた衣服があった。オレはドキッとすると同時に後ろめたい気持ちになって、それから一刻も早くその場を離れたくなった。
無防備なのか、あるいは本当に罠なのか。そもそも何でオレはご丁寧に、敵かもしれないヤツにタオルの場所を教えているのか。
「私が何か変なのか? 必要以上に私を避けている気がするんだが」
当たり前だろ、と叫びたい衝動にオレは駆られたが、すんでのところで口を覆った。こんなこと、警戒しすぎてもまだ足りないくらいの事件だ。
そもそもいい年した男を前にして、全裸でも何一つ恥じる様子がないのが不思議だった。恥じるどころか、何も感じていないのか。どんな環境で育てばそんな感覚になるんだ。
「……ああ」
オレがベッドに戻ってしばらくすると、ぱさっ、とタオルを床に落とす音が聞こえた。それから、ヤツが脱衣所の方からひょっこりと顔を出した。
「忘れていた。私が着れるような服は」
「ねえよ」
「服は、ないか」
「あっても問題だろ。オレは一人暮らしだぞ? 女の子の服を持ってたら、なんかそういう趣味だとか言われそうだろ」
オレが言うと、ヤツはニヤリ、と口角を上げてみせた。今の会話のどこに笑える要素があったのだろうか。
「じゃあ、お前の服でいい。あいにく、自分の服を持ってくるような余裕はなかった」
「全部とても着てられないくらい大きいと思うんだけどな」
「それでいい。助かる」
オレが引き出しから適当に服を引っ張り出して渡すと、そそくさとそれを着込んで姿を現した。
「助かった」
かと思うとそのまま自分の家かのようにヤツがオレのベッドに腰かけたので、オレは慌てて口を開いた。
「いや待て。何のつもりだよ」
「何のつもりだ、とは?」
「オレが何か悪いことでもしたかよ? 突然見ず知らずの男の家に上がり込んで、何がしたいんだ」
対するヤツの反応はオレの想像の斜め上を行った。
「ほう? 忘れたか。こんな短時間で?」
「……え?」
「私とお前は、一度会っているぞ。それもほんの数日前にな」
誓って言う。
オレはこんな亜麻色の髪をした少女と出会った覚えはない。どこか人通りの多い場所で一瞬すれ違ったとか、そういうことを言っているのなら分からないが。
「……まあ、あの時は変装だったから、分からなくても無理はないが」
「変装?」
「お前はあれか? 過去の出来事は片っ端から忘れていくタイプか?」
コイツ、オレのことを軽くバカにしてるな。こんな生意気なヤツ、なおさら出会った覚えはないと断言してやる。
「……そうか。覚えていないか」
「そもそも変装だったんだろ。あいにくオレに変装を見破るような特殊能力はねえよ」
「ならば、私と同じような話し方をする女は見ただろう? その時の私は面倒に感じて、変装した女の口調に合わせる、などということはしなかったからな」
確かに、ヤツの口調に関しては気になっていた。妙に大人びた話し方をするというか、明らかに年上のオレに対して偉そうにしゃべるというか。その特徴を頼りに、オレは記憶を巻き戻す。
「数日前、といえば、代々木のあれか」
「ほう、よく思い出した。そうだ、代々木のあれだ」
「何様だよ」
オレが数日前にやっていた仕事、それは代々木の違法カジノの調査だ。まだ様子見の潜入にとどまっていて、これから本格的に調査に乗り出すというところなのだが、そのことを言っているのか。
「……あ」
「思い出したか?」
「ルーレットにいた、黒髪の女……オレのことを一瞬で潜入捜査官だって見破った、あいつか?」
オレは捜査のことをすっかり第三者に漏洩してしまっていたが、たぶん予想は間違っていないだろう、という自信があったので、この際気にしないことにした。
オレが答えると、ヤツはまた口角を上げてニヤリ。そうだと言わんばかりの表情だった。
「その通りだ。ならその時、私がお前に何と言ったか覚えているか?」
とりあえず今は、目の前にいる少女があの黒髪の妖艶な女だったと納得しよう。だが、さすがに何と言っていたかまでは覚えていなかった。やたらいやらしい口ぶりだったことは、印象に残っているのだが。
「……あの時いろいろ言われた気がするから、何とも」
「そうか。だが意外と大事なことだぞ?」
いったん真顔に戻ったヤツの表情はもう一度、ほくそ笑みに近い笑顔に変わった。その表情しかできないのか、と言いたくなるくらいに、頻繁に見せる顔だった。
「……まああの姿だったから、あまり説得力はないかもしれないが。私は確かに、お前の家に転がり込んでもいいかと、そう尋ねたぞ」
「……!?」