1MB 亜麻色の髪の少女
「おい! 何やってんだ! 逃げ遅れたら死ぬぞ……!!」
野太い男の叫び声が、辺りに響き渡る。人間など丸ごと飲み込んでしまいそうなほど大きな火の手が、もうすぐそこまで迫っていた。
「なんで……なんで、こんなことになるんだよ……」
東京・新宿。いつでも恐ろしいほどの人で溢れかえっているはずの交差点は、誰もいない。いや正確には、すでに帰らぬ人となった老若男女が、あちこちに転がっていた。すでにただの物質と成り果てた彼らはみな一様にあんぐりと口を開け、何かを言い遺したそうなふうであった。
「これは事前に警告されていた災害だ。その警告を冗談半分に受け流し、いかに今を楽に生きるかばかり考えていたお前にとっては、当然の報いだ」
声が響く。透き通るような、少女の声だった。しかしその声に、振り返る者はいない。
もはや日本の首都・東京に、その威厳は見る影もない。目立つようにそびえ立っていたビル群はスティック状のお菓子かのようにポッキリと真ん中で折れ、低い建物もそのほとんどが破壊されていた。
やがてその男も力尽き、地面に倒れ伏して背景の一つと成り果てた。その一部始終を、ただ眺める少女が一人いた。
「2120年、4月20日……東京にとって今日は、忘れられない日になるだろう」
人も建物も、景色さえも。あらゆるものが傷を受けたその場所でただ唯一、無傷で街を歩く彼女は、むやみに目立っていた。
「……だが、安心するといい。東京は、生まれ変わる。その名と様相を残したまま、さなぎが羽化するように」
少女はそう独り言のようにつぶやいて、その場を後にした。
* * *
『大きくなったらけいさつ官になって、みんなを助けられるやさしくて、強い人になりたいです』
小学校や、中学校で作文があるたびに、オレはそう書いていた。もちろん中学生、高校生になるにしたがって言葉は大人びていったが、根底にある『警察官になりたい』思いは変わらなかった。だから小中高と進むにつれてオレを囲んでくれる友達が変わっていっても、どんなに影響されようとも警察官になるんだということは、オレの中で決まっていた。
大学は地元、実家から通えるところに入った。それはお金があまりなく下宿を両親に止められたのもあったが、高校の頃の友達がみんなそこを目指していて、しかもオレと十年来の付き合いの奴が、オレと同じように警察官になりたいと言っていたからだ。
「東京に行きたい」
だが大学に入って勉強したり遊んだりするうちに、東京に何となく憧れるようになった。そもそもオレが住んでいたのは別にこれでもかというほどの田舎、というわけでは決してなかったのだが、田舎特有の、近所の人との付き合いは立派に存在していた。
友達付き合いをうっとうしいと思ったことはなかったが、年齢を重ねるに従って、近所の人との付き合いに少し疑問を持つようになってしまった。それは東京の大学に進んだクラスメイトと偶然連絡を取った時に、そういう話を聞いたからだ。
「東京は周りが自分に無関心だから、付き合いが苦手な奴にはうってつけだと思うぜ」
無関心なのも行き過ぎなんじゃないか、とはもちろんオレも思った。でもそれ以上に、だんだん日常的に気を遣われるのが小っ恥ずかしくなってきていたオレにとって、隣の人とのつながりが薄い東京という街は、いつしかあこがれになった。
人を救えるような”強い人”になるためには、体力がないといけない。オレは卒業したら上京して、警視庁で働く気で、残りの大学生活を過ごした。
未曾有の大災害が起こったのは、オレが大学に入って二年目の春だった。
たとえその時東京にいなかったオレでも、その日の様子だけはテレビで見て、はっきりと覚えている。
2120年、4月20日。首都の中でも中枢、霞ヶ関を中心に、あまりにも大規模な爆発が起こった。遠いところでは大阪でも揺れを感じたというその爆発で、東京は一瞬のうちに、その威厳と雄姿を失った。
完膚なきまでに破壊され、もはや元の姿を取り戻すことは不可能とまで言われた東京の街並み。しかし日本の首都の底力というやつを、卒業後に上京した時に初めて、オレは実感することになった。
普段からニュースで”東京”とくくられる一帯は、その事件が起きてからオレが大学を卒業するまでの、たった二年で完全に元の姿を取り戻したのだ。いやむしろ、あの事件の前より発展している気さえした。
――”東京にあるもの”全てが、目には見えても触れはしない、”実像”を失った見せかけのものに過ぎない、ということ以外は。
* * *
それは、東京に来てちょうど一年が経った頃だった。四月、下旬。梅雨と見まごうほどの雨が降る、気分の上がらない日だった。
「……疲れたな」
オレは東京の某所で、一人暮らしをしていた。もう少し言うならば、警察学校を卒業した後は各地の交番に配属されるから、その近くだ。
いつも通りの勤務を終えて帰宅しシャワーを軽く浴びてから、週末だということで酒でも入れるか、と冷蔵庫をあさった。
「……ないな」
オレとしたことが。てっきり買い込んであるものと思っていたが、缶ビール一本さえなかった。かと言ってこのまま寝るのも、オレの体が拒否していた。口も完全にビールを受け入れるそれになっていた。
「買いに行くのか。……この雨で?」
決して記録的な豪雨とか、そういうのではない。が、予期していなかった買い物に気軽に出られるほどの軽いものでもなかった。
そもそも傘を持って家を出なければならない時の憂うつさと言えば、何にも劣りはしない……と、オレは思っている。ましてその目的があったと思っていた酒がなくて、買い足さなければならない――というものだった時。しかしやっぱり酒を飲まずに今日を終えるのはどうにも居心地が悪いというか、口が寂しいというか。
仕方なくオレは傘を持って、部屋の入口のドアノブに手をかけた。その時だった。
「……っ」
「……っ!?」
ドアを開けた途端オレの耳に響く、うっとうしい雨の音。しかしオレが注意を向けるべきは、そこではなかった。
人がいたのだ。わざわざオレの部屋の前で、ずっと待っていたようだった。その人はうなだれて何も言わずにいた。
ぴた、ぴた、……。
額にかかる前髪、家の明かりに照らされて、そのきれいな亜麻色を映し出す髪から、水がしたたれていた。背中にまでかかる後ろの髪もまんべんなく濡れて、あちこち跳ねていた。オレは一瞬雨が降っているのを忘れて、シャワーを浴びたばかりなのか、と思ってしまった。しかしすぐに思い直した。
「(この雨の中……歩いてきたっていうのか)」
うつむいて顔を見せようとしないその人物は、どこからどう見ても女性だった。しかも、オレよりもおそらく年下。ぱっと見た感じ、高校生か。そんな子がシャワーから上がって髪も乾かさないまま一人暮らしの男の家の前に立っているなんて、あまりにも無防備だ。狂気の沙汰と言っても過言ではないかもしれない。だからオレは、きっとこの雨の中を歩いてきたのだろう、そう予想した。……傘一つ、差さずに。
「えっと……」
俺は迷っていた。決してやましいことなど考えていない。すぐにオレの後に交番の当番を受け持ってくれている先輩に電話するか、あるいは普通に110番するか。どちらにしても、とりあえず安全な警察に連れて行ってやることしかオレの頭にはなかった。
「とりあえず……」
オレはいろいろ想像した。もしかして迷子になったんじゃないかとか、実は誘拐されていて何かの拍子に逃げ出せて、必死の思いで何とかここにたどり着いたのではないか、とか。いずれにしてもむやみに不安を与えるのは絶対に避けなければならない。そう思った俺は、なるべくよそいきの声に喉を調整して話しかけた。
「警察に、連絡を」
「やめろ」
「え……?」
なんだこの人。速攻で否定しやがった。よりにもよって警察への連絡を断るなんて、どういうことだ。
「……私を警察に突き出すようなら、容赦はしない」
逆にこの人が誘拐犯なのではないか、などとぶっ飛んだことをオレは考えた。仮にもずぶ濡れでここまで何とかたどり着いた、という様子の人が発する言葉ではなかった。
「容赦はしない、って」
「私を警察に突き出せば、お前の身も危ぶまれるぞ」
「なんで、関係ないオレまで」
それに警察に連れて行ったオレが危ない目に遭うなんて、意味が分からない。
「意味は分かるさ、私を連れて行くようならば、すぐにでもな」
「……なんで」
そこで初めてその人は――彼女は、顔を上げた。オレに見せた表情は、得意げそのものだった。口元は笑っていたが、金と銀の左右で色が異なるその瞳は、一切笑っていなかった。オレは思わずぎょっとして、数歩後ずさってしまった。
「詳しい事情を詮索する気か?」
「当たり前だ。見ず知らずの人に脅されて、黙ってられるか」
「私を匿え」
「はあ!?」
オレはそんな素っ頓狂な声を上げてしまった。どう考えても、話がつながっていないではないか。いったいどういうつもりなのか。
「今こうやってずぶ濡れになりながら歩いてきたいたいけな少女を、ここで見殺しにする気か? 私はとある事情があって追手から逃げている。ここで私を保護しておいた方が、後になってお前も責任を問われなくて済むぞ? どうする?」
「なっ……!?」
この少女はオレを陥れたいのか、それともオレに助けてほしいのかどっちなんだ。その子はオレの方をじっと見て、何やらニヤニヤしていた。その憎たらしささえ感じる笑みにオレはイラッときて、突き放してやりたくなった。しかしそうもいかないことを目の前で教えられた。八方塞がり、というやつだ。
「もう一度聞くぞ。どうする?」
「……分かった」
「ほう?」
「そこまで脅されたら、動くにも動けない。しばらく匿ってもいい。けど、オレが生きていくのに困るとか、そんなことがあればすぐにでも、お前を追い出すからな」
「その意気だ」
少女はより口角を上げて、まっすぐにオレの目を見た。思わずオレは目をそらしかけたが、しかし負けじと見つめ返す。しばしにらむようにして見つめ合った後、少女の方から口を開いた。
「私の名前は、アンゴウ・リサだ。故郷の庵が、凛々しく蜘蛛の糸も少ないと書く。これからよろしくな、ヨド」
庵郷凛紗、と名乗ったその少女はそう言い残すようにして、ずかずかとオレの部屋の中に入っていった。それからびっしょりと濡れた状態のまま、シャワー室に入っていった。
「……どうしてオレの名前を、知ってるんだ」
こんな出会い方があってたまるか。オレを脅したやつを最終的に匿うだなんて、オレもオレでどうかしている。
だがこれが全ての始まりだとは、この時のオレは思いもしなかった――