春が咲く
夕方まだ明るい時間。誰かが私の部屋のドアをノックした。
「はい、あいてますよ」
私の返答と同時にドアを開けて入ってきたのは、吉田だった。吉田は大学のサークルの二年後輩。引っ越しの片付けは進んでますかあ?、と入ってくるなり冷やかすように言った。
「っていうかさ、明日までにやらなくちゃいけないの、だから邪魔なんだよね。それとも手伝いにでもきてくれたの?」
私はぶっきらぼうに答えた。大学生活四年間すごしたこのアパートを明日出る。だから引っ越しの片付けの真っ最中だ。今は遊んでいる暇はない。
「センパイ、大丈夫ですよ。荷物は何でも置いていって構いませんから」
吉田は片付けが進んでいなことをこれ見よがしにさらにそんなことを言う。
明日私がこのアパートを出るのだが、そのまま吉田はこのアパートで暮らしはじめることになっているからだ。私の部屋に入り浸っているうちに愛着が湧いたらしい。他人の部屋に愛着が湧くなんてこっけいな話ではあるが、それはそれでありがたかった。しばらく使わないであろう机や冷蔵庫はそのまま使ってもらうことにしていたし、いろいろな物をそのまま置いていっても捨てられてしまう、ってことは無さそうだし。
「言ってくれるのはありがたいけど、東京へ行くとなかなかこっちには来れないからさ、そういう訳にもいかないだろ」
私は東京での就職が決まっていた。引越しの荷物は明日その就職先の会社の寮へ送る予定になっていた。
私は名古屋市内の大学の工学部を卒業した。
生まれ故郷の富山から名古屋へ出てきたのは入学が決まった四年前。下宿を探すにあたり、京都で一人暮らしをしていた兄からは学校の近くはたまり場になるから危険!との忠告を受け、また東京へ進学した高校時代の友人からは、絶対に電車で数駅離れたところが安全!との助言を受けていた。
だから大学の総務課で「下宿案内」という一覧表を貰うと、できるだけ遠いそうなところに鉛筆で丸をつけた。土地勘はなかったがアパートの最寄の駅とおおよその所要時間が書いてあるから推測できる。
最初に下見に訪れたアパートがちょうど片付けをしているまさにここだった。
「最寄りの駅は津島駅。駅まで徒歩七分。大学までの所要時間四十分」
部屋は四畳半にミニキッチンが付いている。トイレは共同。窓は大きく部屋は明るい。津島駅から天王通りを西に向かって歩いて銀行や商店街を抜け、北へ少し入ったところにある。駅周辺には飲食店もコンビニもいくつかあり便利そうだし、バイト先だってすぐに見つかるだろう。何よりも大学から十分遠くて安全。そう思い即決した。
しかし思惑は外れた。あっという間に打ち砕かれた。大学のサークルや工学部、同じバイトの仲間が次々と出入りしていた。気がついた頃にはたまり場になっていた。
片付けていると、すぐ後ろで吉田の声がする。
「センパイ、ちょっと休憩しませんか?ビールでもどうですか?」
振り返ると缶ビールを私に向けて差し出している。来る前にコンビニで買ってきてくれたらしい。今は無理、と言いたいところだが、休憩もしたいし喉も潤したい。ちょっとだけならいいだろう。
「それにしてもいつも気が利くよね、吉田は。サンキュ」
そう言ってビールを受け取ると勢いよくプルタブを引いた。完璧に冷えたアルミ缶が気持ちを高ぶらせる。勢いよくいくと、全身に爽快感が染み渡った。
「このアパートは実家だと思って帰ってきてくださいよ。みんな待っていますんで!」
吉田のやさしい言葉や懐かしい話が嬉しくて話が弾んでしまい、ついついビールが進んだ。二本、三本……。段々と気持ちも良くなってきたが、ちょっと待てよ。このまま飲み続ける訳にはいかない。明日は引っ越しだ。今はその片付けの真っ最中だったのだ。再び重い腰をあげたが、次に何をやればいいのか思い出すのに少し時間がかかった。ふと足元から寝息が聞こえる。吉田だった。
「ちぇっ。またかよ」
こうなるのはいつものことだった。
しばらくするとまた誰かがノックした。
「あいてますよ、どうぞ」
手を止めてドアを見つめるがなかなか開けて入ってくる様子はない。私が歩み寄ってドアノブを回す。ドアの向こうに立っていたのは竹野と田町だった。
「ようっ!もういないかと思ったよ!」
相変わらず元気のいい大きい声だ。竹野らしい。明日が引越しだと伝えると安堵したような顔になる。ちなみに竹野も田町も私と同じ大学の工学部だった。無事卒業を果たし四月からの就職先も決まってる。大学へは愛知県内の実家から通っていたし就職先も県内なので、彼らにとっては大きな変化はない。
積まれたダンボールと足元で寝息を立てる吉田を見ると、人差し指を玄関に向けて外へ出ようかと合図をしながら言った。
「あっ。ちょっと飲みにいこうよ」
だけど明日が引越しで、今は片付けの真っ最中だ。見ての通りちょっと忙しい、と説明したが、聞く様子はまったくない。
「まあ、少しくらい良いだろう。今度いつ会えるか分からないぜ。お前がバイトしていたあの居酒屋に行こうぜ」
居酒屋ごみよし。私は大学四年間バイトでお世話になった。手羽先やどて煮など名古屋名物が美味しいと評判の居酒屋。夕方五時に入り閉店の十一時までを週三日。担当はホールだった。
「……ちょっとだけだぞ」
こう言って断れないところが自分のいけないところだと分かっている。だから今も下宿の片付けがいっこうに進まないのだ。結局この大学四年間は最初から最後までこの繰り返しだったんだな、と思ったがもう遅い。
ごみよしでは、三人は就職先の話題で持ちきりだった。研修期間はどうだとか、初任給はとか。社会に出る不安はいっぱいあるけど、がんばろうなとか。忙しくてなかなか会えないけど、また近況報告をしようなとか。結局引越しの片付けをしていたことをすっかり忘れて熱く語りあってしまった。
「今日はビールはおまけしといたから」
お世話になった店長から最後にうれしいサプライズがあった。最後まで本当にやさしくして頂いたことを、丁重に心からお礼を言った。
「じゃあ、おれたち邪魔しないように帰るからさ、また会おうな」
竹野と田町はそう言うと大きく手を振った。私も負けないくらい大きく両手を振り返す。二人の姿が津島駅の建物の中へ消えていくまで振り続けた。
ちょっとだけのつもりだったがすっかり酔っ払ってしまった。熱く語りすぎてビールを飲みすぎたらしい。まだ寒く感じられる夜の風に吹かれながら、見慣れた夜道を足を引き摺りアパートにたどり着くと、片付け途中のダンボールの山と横になった吉田が出たときとまったく変わらずそのままの状態ではないか。
「ああ、なんてこった。今は全然やる気が出ない……。ちょっとだけ眠るか」
横になったと思ったら、あっという間に寝入った。
喉の渇きで目が覚めたのは七時だった。もちろん外はもう明るい。
「しまった……。こんなに寝てしまった……」
寝ぼけ眼であたりを見渡すと、片付け途中の段ボールの山と横になった吉田は昨日の夜から変わらず……そのままだ。
どこから手を付ければよいのか寝起きの頭では答えは見つからない。
ぐるりと部屋を見渡すと、机の上の本やちょっとした書類、カラーボックスの中の小物、洋服、バイト代をためて買った大切なステレオやCDなど……。これらは持っていこうか、置いていこうか。残すか、捨てるか。
頭の中も目の前の現実も散らかったまま。ただ呆然と立ちすくむだけだった。
「ああ、めんどくせえなあ」
朝からなんて不愉快なんだろう。昨日あんなに飲まなきゃ良かった。後悔先に立たず。私の人生って、振り回されっぱなしで、いつまでたってもこんな中途半端でなかなか先に進まない。不甲斐なさに自分でも嫌気が差してきた。
ふと冷蔵庫が目に入る。そのとき喉が乾いていたことを思い出した。中から、ミネラルウォーターを取り出すと勢いよく身体に流し込む。飲み終えたペットボトルを握りつぶすと、ぐしゃりと鈍い音が広がり吉田は目を覚ました。
「……あれ、昨日からあんまり変わってないっすね」
まったく朝から余計なことを言う。今、一番言って欲しくないんだよね。答える気もせず無視した。
「あれ、センパイ、花が届いていますよ」
その声にふと吉田を見ると小さなアレンジメントの花かごを手にして確認するように四方八方から眺めている。吉田がトイレに行こうとドアを開けた時、足元に花かごを見つけたらしい。
「センパイ宛てなんですけど……、誰からかは分からないですね」
不思議そうに言いながら差し出す花かごを、私は受け取った。手に取った瞬間、カラフルな紙に包まれた赤色や黄色のかわいい花たちが一斉に私を見つめた。その真ん中には「センパイ、東京へ行ってもお元気で!」と書いた1枚のカード。吸い込まれるように花とカードを見ているとその花たちが「センパイ、東京へ……」と一斉に言ってくれているような気がして、サークルの仲間の顔が次々に頭に浮かんでくる。私は懐かしい気持ちで花をじっと眺めていた。
文面からも私宛てであることは間違いなさそうだ。しかしカードの表と裏を何度も繰り返し見たが、やはり送り主の名前は見当たらない。
誰からだろう……。
……もしかして。
ハッと閃いた。私は無意識のうちに部屋を出ると玄関へ向かっていた。吉田は慌てて出ていく私を追いかけながら叫んでいる。
「センパイ、どうしたんですか?どこいくんですか?」
私はそれには何も答えずに急いで靴に履き替えると花かごを抱えたまま走り出した。勢いよく玄関を飛び出すと、天王通りに向かってまっすぐに突き進む。振り返ると吉田は追いかけるのを諦めたのか、アパートを出たところで突っ立ったまま、走っていく私を呆然と見ている。私は走りながら大声で叫んだ。
「分かったんだよ。誰かが。ちょっと会いに行ってくる。部屋の片付けをたのんだぞ。よろしく」
確信があったわけではない。でも自然と身体が動き出したのだ。
天王通りに出ると津島神社方面へ曲がる。通勤の人や自転車の流れに逆らいながら、ぶつからないように一生懸命走った。朝っぱらから花かごを持った男が走っている。それも驚くくらい猛スピードだ。不審者を見るような視線を感じたけど関係ないや。
「アイコだ。花を置いていってくれたのはアイコに違いない」
アイコは吉田と同年で大学のサークルの二年後輩。私のアパートにも遊びに来ていた。いつもサークルの仲間と集ってはお酒を飲んだり、語り合ったり、雑魚寝したり、そういう仲間の一人だった。ただ、むさ苦しい仲間の中にいても花があった。女性らしい気遣いとか優しさを感じられた。そっとクッキーを焼いてきてくれたり、みんなが散らかす部屋をさりげなく掃除していってくれたり。私はアイコのそういうところが好きだった。面と向かっては言えなかったが本当に好きだった。一方アイコも私に気があることは何となく分かっていた。決して自惚れていた訳ではない。「アイコのことどう思っているんだよ」と他の仲間がいつも心配してくれた。どう思ってるって……そういわれても。
私はサークルも工学部の研究も忙しかったし、アルバイトも忙しかった。ましてやあのアパートの状況だ。言い訳をするわけではないがそれどころではなかった。だから結局お互いにそういう話に至ったことはなかった……。
私は、猛スピードで走り続けると天王通り一丁目の交差点を左に曲がった。普段の運動不足がたたり、スピードが落ちてくる。足が思うように動かない。息も苦しい。もうすぐなのは分かっている……。頭を上げるとようやく視線の先に、天王川公園がみえてきた。
天王川公園はよくみんなで遊びに行った場所だ。
酔った勢いで夜中に来たことはよくあったし、さくらの花見も藤まつりも毎年のように出かけた。わいわいとみんなで騒いだ思い出でいっぱいの場所だ。そんなある日アイコが「今度は二人でさくらを見に行きたいね」と誘ってくれたことがあった。行きたいくせに曖昧に返事をして、結局アパートに遊びに来ていた吉田や他の仲間も一緒になって。いつもそうだった。結局ふたりで出かけたことはなかったな……。
だから最初に花かごがはアイコが届けてくれたんだと思ったとき、天王川公園のことが頭に浮かんだ。アパートに花を届けたあとにこの公園に立ち寄っているのではないか。絶対に公園に立ち寄っているはずだ、と。
赤い鳥居が目に入る。何度も訪れた天王川公園に到着だ。
私はマラソン選手が完走したときのようにハーハーと息を切らしながら膝に両手をついて立ち止まると、同時に額から汗がだらだらと流れてきた。
と、その時、池のそばのベンチに座るアイコの後ろ姿が目に入った。ぼんやりと池を眺めている。
私は難解なパズルのピースがピタッとはまった運命のようなものを感じた。それはいつも手に届くところにあったはずなのに、うろつき、さまよい、ずいぶん遠回りしてきたような不思議な感覚だった。今日は素直になれそうだ。今までとは違う新しい自分になれそうだ。遠くベンチに座る後ろ姿を見ながらそう思うと大きく深呼吸をして息を整えた。
「アイコ!」
大声で呼ぶと、アイコは驚いた様子で振り返ると不思議そうにあたりを見回している。私は花かごを持ったまま両手を大きく振りながらもう一度大きな声で呼んだ。ようやく私に気付いた。ベンチから立ち上がると私の方を向きながら満面の笑みで手を振っている。
その時、満開のさくらが目に入った。朝の陽射しを浴びた公園いっぱいに広がるピンク色は今まで見た中でイチバンきれいだと思った。