この恋に名前はない
揺れる車内の心地よさにうつらうつらと舟を漕いでいると、肩にかけていた鞄がずり落ちた。その拍子に意識が浮上する。隣を見れば座席の上に倒れた鞄から、一冊のノートが覗いていた。
青い背表紙のくたびれたノート。手に取ってページを捲れば、言葉の意味や、状況整理のための箇条書き、そして度々『誠一』という名前が目に入る。それらに目を滑らせていると、脳裏に焼き付いた色褪せることない光景が甦る。
夕日の差し込む国語科準備室、乱雑とした机の上、束になって積まれているプリント。低く淡々とした声に、スティックで煎れた安いコーヒーの香り。広い背中と、チョークで裾の汚れた白衣。暖房の側で食べた、甘いアイスの味。武骨な手が紙にペンを滑らせる、その音すら鮮やかで。
その思い出は、高校二年生の寒い冬の日から始まる。
≪冬≫
私は昔から上がり症で、口下手で、あまり人付き合いは得意な方ではなかった。普段交流するのは気の合う少数の友達と、家族だけ。しかしひょんな事をきっかけに、私の生活に新たな登場人物が現れる事となる。
あれは、冬に入り始めのとても寒い日だった。授業が終わり、それぞれが思い思いの放課後を過ごす中、私はたまたま見知った教師に捕まり明日の授業の準備の手伝いを申し付けられた。早く帰りたいのに運が悪いとこっそりため息を吐くものの、気の弱さから断る事も出来ず、仕方なく作り笑いで引き受けた。
私は教師に頼まれて資料室に教材を取りに行った。しかし普段資料室に入ることなど滅多になく、なかなか目的の資料は見つからなかった。暖房の効いていない資料室はとても寒くて、かじかむ手をさすりながら探すがどうにも見つからない。時間ばかりが過ぎていき、私は困り果てていた。
時折開いたままのドアから資料室の前を教師や生徒が通るのが見えた。しかしその中に知る顔はなく、私は頼ることが出来なかった。コミュニケーションに苦手意識の強い私にとって、人に話しかける事は酷く緊張を伴う事で、初対面の相手に頼み事なんてなおさら出来る事ではなかった。
それでも見つからないものはどうしようもなくて、一度職員室へ戻り、具体的な場所を尋ねようかと考え始めた時、その人は現われた。
「何を探している」
誰かに話しかけられるなんて思っておらず、とても驚いた。振り返ると、ドアの前にはスーツに白衣を羽織った、背の高い男性が立っていた。授業を受けたことはないが、今年の春の就任式で見た覚えのある顔だった。
「何か探しているんだろう」
無表情でそう言いながらその先生は資料室に入ってきた。初対面の人を目の前に、私は頭から血が下がっていくのが分かった。親切心から言ってくれている事には気づいていたが、その人の表情が読めない事も一役買い、怖くてつい俯いてしまった。
何か答えなければ失礼だ。そう思い頭の中では様々な言葉が渦巻くが、喉の奥が重たい圧迫感で詰まった。それでも早く何かを、と焦って私は口を開いた。
「地図、です。先生に頼まれて、世界史の……第一次世界大戦のときの、えっと、初期の資料を、探しています。ヨーロッパの、ドイツ周辺の……です」
俯いたまま早口で言ったそれは、おかしな文節で区切られていて、言葉は整頓しきれておらず、しかも声は裏返っていた。我ながら聞き取りにくく、思わず赤面した。
上手く話そうと焦って話して、結果上手く話せずまた焦る。いつものパターンた。私のコミュニケーションへの苦手意識の根源でもある。いつも、今度こそと思うのに上手くいかず、あまりの恥ずかしさと情けなさにますます顔を上げることができなかった。
「世界史の棚はあれだ」
しかしその先生は私の可笑しな日本語など気にも留めず、そう言って資料室の奥の棚を指さした。顔を上げ、指さされた棚を見れば、一番上には確かに棒状に巻かれた地図らしきものがいくつか覗き見えた。私は一刻も早くその場を去りたくて、お礼もそこそこに棚に駆け寄った。しかし背伸びをして腕を伸ばしてみたものの、地図の置かれた場所には届きそうになかった。
近くに台座があったはずだと思い、後ろを振り返ると、思っていたよりずっと近くに白衣が見えた。いつの間にか先生は私の後ろに立っていたのだ。
驚きに固まった私を気にもせず、先生は私の頭の上をゆうに越して、後ろの棚へと手を伸ばした。私の上には先生の影が落ちて、視界が陰った。私には何が起きているのか一瞬理解することができなかった。
別に密着していたわけではない。背の高い先生は、その分腕も長く、小柄な私と私の周りの空間を十分残したまま、その腕は世界地図の束に届いた。
それでもそれは手を少し伸ばせば触れられるような距離で、小学校を卒業して以来、家族以外の男性とそこまで接近したことなどなかった。棚と先生に挟まれた空間で、どうにも動くことができず、ただ目の前の先生の白衣を見つめていた。
先生は私越しに棚から地図の束を全て引っ張り出すと、一つ一つ側面に書かれた文字を確認し、中から一本を選び出した。
「あったぞ」
その声で我に返った私は慌てて差し出された地図を受け取った。私に地図を渡す先生の表情は相変わらず無表情で、慌てていたのは私だけなのだと気付くと無性に恥ずかしくなった。
顔を見ることもできずにお礼を言うと、声が小さすぎたのか先生は小さく首を傾げたようだった。しかし言い直すこともまた恥ずかしく、私はお辞儀だけして、逃げる様に資料室を出ていった。
少しばかり普段と差異はあったものの、それは何てことのない日常の一幕だった。本来、そうなるはずだった。
***
資料室での一件から、数日たったある日のこと。その日の私は、朝から母親に進路の事で説教をされて、ひどく憂鬱な気分だった。
特に将来なりたい職業があるわけでもなく、成し遂げない何かがあるわけでもない。行きたい大学や学部すら明瞭にない私は、母から「もっと真面目に将来について考えなさい」と再三にわたって言われてきた。私だって、これで良いはずがないと分かっていたし、少なからず焦りを抱えていた。それでも何をしたら夢や目標が見つかるのかなんて分からなかった。
その日の昼休みは図書室へと向かった。昔から本が好きで、嫌なことがあれば、逃げる様に本を読んだ。テストで失敗して思う点数が取れなかった時も、上がり症のせいでうまくクラスに馴染めなかった時も、将来の目標に思い悩んだ時も、本の中の世界は常に私を優しく受け入れてくれて、何より、決して私をせかすことはなかった。
校庭から聞こえる楽しげな声に耳を傾けながら、本棚の前で何の本を読むか考えていると、ふと目の前が陰った。
高い背に草臥れた白衣、いつの間にか、私の隣にはあの先生がいた。その手には自分の読むための本なのか、授業のための資料なのか、難しそうな本が何冊も積まれていた。
私は挨拶をすべきか否か迷った。
つい最近親切を受けた、名前も覚えていない先生。本を選んでいるところに声をかけて邪魔をするのは悪いかもしれない。いやそもそも挨拶をしたところで向こうは私のことなど忘れているのではないだろうか。
少し挨拶するくらいで悩む必要はないだろうに、私は頭の中でつまらない事ばかり考え、そうしている内に完全にタイミングを見失った。
今更仕方ないと諦め、再び本を探し始めた。黙々とタイトルを目で追っていると、お気に入りの作者の、まだ読んだ事のない本を見つけた。今日はこれを読もうと思い、手に取ると、隣から「ほう」と息を吐くような声が聞こえてきた。
見上げると、先生が感心したような顔で私を見ていた。
「あまり高校生らしくはないが、趣味が良いな」
私は話しかけられたことにもだが、何よりその言葉に驚いた。私の手に取った本はあまり有名とは言えない作者のものだったのだ。
「先生はこの人の本、読んだ事があるんですか?」
私は勇気を振り絞って聞いてみた。
「その作者の本は一通り読んでいる」
そういう先生の顔は依然として無表情のままだったが、なんとなく纏う空気が柔らかくなったような気がした。
先生は本棚から一冊の本をとると、私に差し出してきた。それは青い表紙に白い印字、それほど厚みのない手軽そうな本で、初めて見る作者の、初めて見る題名だった。
「その作者が好きなら、これも読んでみるといい。きっと好きになる」
そういって先生は抱えた本を借りにカウンターへ歩いていった。私は二冊の本を抱えて一番近くの図書室の机に着いた。
読みたかった本を横において私は先生に手渡された本を開いてみた。ぱらりぱらりと頁を捲り、物語に目を落とした。
何もしなくても滔々と過ぎゆく毎日の中で、日常のありきたりな風景を、まるで代えがたい非日常であるかのように愛する。その本はそんな主人公の物語だった。誰にでも優しいわけではない世の中で、不条理に曝されながらそれでも、万人に優しくあろうとする主人公はとても魅力的で、物語はページをめくるごとに私の心を鷲掴んだ。
結局私は自分で選んだ本をそっちのけに、休み時間の終わりのチャイムが鳴るまでその本を読みふけっていた。半日の間抱えていた嫌な気持ちは、その物語のおかげで吹き飛んでいった。
***
結論から言えば、先生に勧められた本は最初から最後まで裏切ることなく私の好みの本だった。当たり前の風景が美しい日本語によって非日常的に変化していく様は壮観で、いつも読んでいるような本より少し難しい日本語表現も多かったが、返却期限までの一週間、ゆっくりゆっくり読み進めるうちに本の世界の虜になってしまった。
他にもこの作者の本を読んでみたい、そう思ったのだが、読み終えた後、図書館で探してみたものの見つからなかった。最寄りの大きな書店に行って探しても見つからず、この作者もなかなかのマイナーであることが分かった。大きな町の老舗の古書屋に行ってやっと一冊見つかったほどだ。
やっと見つけた本は学生の身分から言うと決して安いものではなかった。それでも、ここで逃したらもう二度と出会えないかもしれない、そう思い、私はその本を購入した。
しかしやっとの思いで出会ったその本を開いて、私は戸惑った。難しい、なんてものではなかったのだ。何せ現代作家の小説のはずなのに、文体が現代日本語ではない。調べて分かったが、これは明治時代の文体だ。もっぱら現代作家好きの私は、そんな小説を読んだ事がなかった。
後に知った事だったのだが、この作者はもともと純文学作家で、先生が貸してくれた一冊はその作者の数少ない大衆向け作品の、それも比較的難易度の低い作品だったのだ。
文明開化の時代と価値観を当時の文体で書かれたその物語は、普段私の読む本に比べて圧倒的に難易度が高く、私は美しすぎる日本語を読み解くことも、この作者の世界を理解する事も出来なかった。
理解できずとも、淡々と文字を追い、ページをめくれば本は読める。しかし、やっとの思いで探し出したことから簡単に諦めることなど出来ず、私は毎日昼休みと放課後に図書室へ通い、辞書とノートを片手に本と向き合った。
***
この日の放課後も図書室で本を読み進めていた。知らない言葉は辞書を引き、開いたノートに意味を書き込んで、分からない所は何度でも繰り返し読んでみた。
その本は、先生に勧められた本の優しい世界とは真逆のような世界だった。気難しく偏屈な絵描きの男『誠一』の視点から描かれる捻じ曲がった世界。よく言えば感受性豊か、悪く言えば情緒不安定な彼の激しい感情の起伏に振り回されながら本と格闘していたら、窓の外が暗くなっている事にも気づかなかった。
「もう下校時刻を過ぎるぞ」
前から声をかけられ、顔を上げて驚いた。机を挟んだ向かい側に、先生がいた。その手には今日も分厚い本が抱えられていた。
「すみません」
私は慌てて辞書を閉じ、本棚に返すために立ち上がった。しかし、回り込んできた先生が私の手から辞書を取り上げてしまった。
「これは先生が返しておくから、お前は机の上を片付けろ」
そういって先生は私の返事も待たずに本棚に向かっていった。
「あっ、ありがとうございます」
私は少し戸惑いながら先生の背中にお礼を言った。その声はひっくり返って掠れていて、不格好な事この上なかった。
広げていた本に栞を挟み、ノートと筆記用具と共に鞄へと仕舞った。本棚から戻ってきた先生は、すでに貸出手続きを済ましていたようで、そのまま私たちは二人で図書室を出た。
「最近いつも図書室にいるな。授業の課題か?」
図書室のドアを閉め、蛍光灯に照らされた明るい廊下を歩きながら先生は言った。私はその言葉に大いに驚いた。
私は決して特徴的な人間ではなかった。自分で言うのも何だが、制服の着用規定は順守しており、髪型も髪色も普通。ステレオタイプの女子高生だったと自負している。日々多くの生徒と交流する先生が、たった二回言葉を交わしただけの私の顔を覚えていた事に驚いたのだ。
そんな私の表情を見て先生は怪訝そうに眉を寄せた。先生のその訝しむ様な表情はすぐに消えたが、私は何かを取り繕うように慌てて言葉を紡いだ。
「勉強じゃないんです。私、読みたい本があって、以前に、先生が教えてくれた作者の本で、これ古書店で見つけたんですけど、でも、その、文体がとても難しくて、それに馴染のない名詞も多くて、だから図書室は色々な辞書があるから」
緊張で冷静ではない私の言葉は相変わらずもつれていて的を射ておらず、私はとてももどかしく感じた。しかし先生は私の言葉を急かすことなく、遮ることなく、私が話し終えるまで静かに聞いていてくれた。
「あの本、気に入ってくれたんだな」
私が話し終えると、先生はそう言って私を振り返り、柔らかく微笑んだ。今まで見てきた無表情からは想像もつかない、とても優しい笑みだった。その笑みを見た途端、心臓が跳ね上がるような錯覚を覚えた。
「何を読んでいるか聞いてもいいか?」
私は学用鞄から本を取り出すついでに、先生から目をそらした。先生の笑みを、直視することが出来なかったのだ。理由は分からなかった。
先生に本を見せたところ、先生はその本を知っていたようで「ああ、確かにこの本は大人でも難しいだろうな」と頷いて言った。それから書き留めたノートを見せてほしいと言われ、それも差し出した。先生はパラパラと私のノートを流し読むと、すぐに閉じて、私に返した。
「難しいが、これも良い作品だ。読む価値は十分にある。分からない所があるなら、先生の所に来ると良い」
大概国語科準備室にいるから、と先生は言ってくれた。恥かしい事だが私は、この時やっと先生の教えている科目が現代文であることを知った。
先生は借りた本を持ったまま、私を玄関口まで送ってくれた。先生にさようならと告げて、私は昇降口へと歩いていく。冬の夕暮れは暗く、凍てつくように寒かった。吐いた息が白く漂う。
昇降口で何となく振り返ってみると、先生はまだ玄関口の前に立ってこちらを見ていた。距離が遠くてわからないが、先生と目が合っているような気になった。私はどうすれば良いのかわからず、小さくお辞儀をして家へと帰った。
***
初めて先生のいる国語科準備室を訪れたのは年を越えた、一月の寒い雪の日の事だった。来ても良いとは言われたものの、なかなか行く勇気が出ず、気づけば半月も経っていた。
国語科準備室は教室のある学生棟から一番離れた場所にあった。そのせいか辺りに人気はなく、とても静かで、その事が余計に私の緊張を煽った。
やっと勇気を出して準備室の前まで来たものの、土壇場で尻ごみしてしまい、私は扉の取っ手に手をかけたまますぐに開けることは出来なかった。やっぱりやめようかな、なんて思っていた時、扉の磨りガラスに誰かの影が映り、扉が開いた。
「……やっと来たか」
先生だった。先生は私を確認すると開いた扉をそのままに、準備室の奥の本棚へと歩いていく。こうなってしまったら逃げようもない、そう思い私は恐る恐る準備室へと足を踏み入れた。
部屋に入ると、こもった様な暖房の熱気が私の肌をなでた。図書室に似た、古い本の香りが鼻をつく。
準備室にいたのは先生だけで、先生は奥から持ってきた数冊の本を机の上に置くと、近くにあった椅子を自分の椅子の隣に持ってきていた。それが私のための椅子だと気が付き、私は慌てて口を開いた。
「あの、私、立ったままでも……」
私としてはあまり長居するつもりもなく、とりあえず分からない箇所をいくつか聞くだけのつもりでいた。
「気にするな」
しかし先生は私のそれを遠慮ととらえたのか、私の言葉を聞き入れなかった。戸惑う私と、何も言わない先生の間に少しの間沈黙が降りた。それ以上我を通すすべを持っておらず、おずおずと私は椅子に座った。
「よろしくお願いします」
そう言って私は持ってきた本と、分からない言葉や文章を羅列したノートを開いた。その時私はまだ最初の最初、第一章で躓いていた。
「すみません、まだこれしか読めてないんですが……」
別にサボっていたから遅いのではなく、毎日読み進めようとしてこの結果なのだが、この半月間何をしていたのだと言われたらどうしようかと思った。しかし先生は別段呆れるでも失望するでもなく、いつもの無表情で頷いた。
「こういうのは最初が肝心だ。そこを乗り越えれば、案外進める」
私は先生のその淡々とした態度に良かった、と少し安堵した。
「あの、ここが分からないんです」
文章を指さすと、先生が横から本を覗き込む。同じ本を二人で見るというのは、想像以上に距離が近いもので、私の心臓が驚きと緊張に跳ねた。
しかし自分から教えを乞うておいて離れてほしいなど言えるはずもなく、私は分からない所を少しずつ先生に質問し始めた。先生はどんな些細な質問でも丁寧に答えてくれた。授業の時にするように、先生の言葉で重要そうな部分をノートに書き込んでいった。
外の雪が音を掻き消しているからか、単純にこの場所が教室棟から遠いからか、放課後の学生たちの声はほとんど届かず、準備室には私たちの声とシャープペンの滑る音だけが響いていた。
***
先生に分からない所を質問して教えてもらっても、大概の場合先生の回答にすぐに納得はできなかった。答えを与えられると、今度は別の疑問が生まれてくるのだ。理解しているつもりで曲解していた、という事もざらにあった。
結局先生の解説と共に、最初から読み直したような形になってしまった。
「今日はここまでにするか」
始めてから一時間ほど経ったころ、先生はそう言って席を立った。分からない事が多すぎて頭がパンクしそうになっていた私は正直この言葉にほっとした。
先生は奥の冷蔵庫に向かっていった。そこから戻ってくると、持ってきたものを私の前に置いた。机の上に置かれたのは、市販のアイスだった。
「冬にアイス……」
つい口から零れるように言葉が出た。すると先生は自分の分のアイスの袋を開けながら薄く笑った。
「冬に暖かい部屋で食べるのが美味いんだろ」
先生はそう言ってアイスをかじった。私も戸惑いつつも先生に習ってアイスに手を伸ばした。アイスの袋は冷たく、確かに暖房の風に火照った身体には気持ちが良かった。
「もたもたしていると溶けるぞ」
その時には先生はすでにアイスの半分を食べ終えていた。先生の言葉に私は慌てて袋を開けた。
「いただきます」
冬にアイスを食べるのは初めての経験だった。甘い味と冷たい感覚が疲れた脳に染みわたった。結露した窓の外を見れば、白い雪が舞っていてとても寒々しい。それが逆に、暖房の下でアイスを食べているという背徳感と贅沢感を際立たせた。
「またいつでも来い」
先生は帰る時にそう言ってくれた。それは、もしかしたら社交辞令だったのかもしれない。それでもその言葉は、私の訪問は迷惑ではなかったのだと安心させてくれた。そしてその日から私は、少しずつ国語科準備室に通うようになった。
***
回を重ね、先生との時間に多少緊張しなくなった頃、私がよく放課後に急いでどこかへ行っていることに気付いた友人に、塾か習い事でも始めたのかと聞かれた。別に隠し立てするようなことではないと、正直に先生に本の解説をして貰っている事を話した。
「それって怖い新任の現国の先生だよね?」
友人は私の話を聞いてまず、そう言った。私はそこで初めて、他人から先生の評判を聞いた。
先生のどこが怖いのかと聞いてみれば、いつも無表情なところだと返ってきて思わず笑ってしまった。確かに、私も最初は先生の無表情を恐ろしく威圧的に感じていたからだ。同時に安堵した。先生が無表情なのは何も私といる時だけではないのだと分かったからだ。
そして少しだけ、ほんの少しだけ優越感を感じた。それは稀に見られる優しいあの笑顔を、私だけが知っているという小さな優越感だった。それがどんなことを意味するのか、その時の私は全然分かっていなかった。
***
それからまた何日か過ぎ去って、その日もまた、私は学級委員でもないはずなのに担任の先生にノートの回収と言う雑務を頼まれてしまっていた。先生に会ったあの頃から、そういった雑務を任されることが多くなっていて、運が悪いと言うより、担任や他の先生方に、頼まれたら断れない性格を見抜かれているような気がした。多分、センター試験を終え、三年生の受験がいよいよ佳境となった時期で、先生も忙しいのであろうことは分かっていた。だから余計に断れない。
本当はその日は国語科準備室へ行くつもりだったのだが、それをぐっと我慢して、クラスの課題のノートを集める。
「ありがとう。とても助かりました」
職員室へそれを運べば、担任教師はそうお礼を言ってくれた。その表情からは疲労の気配と、本当に助かった、といった感情がにじみ出ていて、何か忙しい事があったのだろうとうかがえた。そんな状態の相手に、嫌々やっていたなんて内心を気取られたくなくて、全然大丈夫ですよ、と社交辞令を口にして、その場を離れようとした。
その時、少し離れた席から女性教師の声が聞こえた。
「ああしていつも誰かの助けになって、本当に彼女は優等生ですね」
振り返ると、女性教師と目があった。彼女は私に笑みを浮かべてくれた。その時、職員室には私以外の生徒はおらず、聞こえて来た『彼女』とは私の事なのだと分かった。
優等生。褒め言葉として言われたのであろうその言葉は、嫌にしこりの様に胸に残った。
私はその後すぐに国語科準備室へ行くと、先生は少し驚いたような顔をして私を出迎えてくれた。
「今日は来ないかと思った」
先生はそう言って、手慣れた手つきで私の座るスペースを開けてくれた。
「いつもは、三時半過ぎに来てたろ」
「少し、雑用があって」
そう言えば、先生は一瞬目を巡らせた後、「そうか」とだけ言った。それ以上は、特に話を続けるでもなく、私達はいつもの本の読み合わせを開始した。
***
その翌日も私は頼まれ事をした。今度はクラスメートからで、昼休みの事だった。本当は図書室に行きたかったのだけれど、委員会の仕事と部活の大切な引継ぎが被ってしまったとの事情に、やはり断れずに、引き受ける。
職員室に行けば、先生と目があった。先生は会議中の様で、すぐに目線は外れて、手元の書類に落とされる。
昼休みを潰されて少し沈んでいた私の心は、何故か、先生に会えたと言うだけで浮上した。
その放課後、先生の元を訪ねる予定だった。前日時間が少なく、思ったよりも進めなかったので、その日は元々伺う事を伝えていた。
「今日、職員室に来ていたな」
コーヒーを飲みながら、先生は雑談がてら昼休みの事を話題にした。
「風紀委員会のプリントの印刷の手伝いに少しだけ」
そう言うと、先生は少し視線を巡らせる。
「職員室で手伝いをしているところを、よく、見かける。放課後も昼休みももっと好きに過ごしたいだろうに、偉いな」
先生は少し言葉を選んで話しているように見えた。小説のことを話す時はもっとはっきりと話すのに、なんだか歯切れが悪い。それでも褒められていることに変わりはないので、「ありがとうございます」とお礼を返す。
先生は少し頭の後ろを掻くと、言葉を探すようにもう一度視線を巡らせた。
「昨日も、何か手伝いでもして来るのが遅れたんだろ。別に授業と言う訳でもないし、下校時刻前なら何時だろうが構わないんだが……何だか昨日は少し、覇気がないように、見えた」
そして言葉を詰まらせると、先生は手元のコーヒーを煽る。
「もし、本当は嫌なのに無理にやっていたりするなら……相談に乗ろう」
私はとても驚いた。先生が私の事を見抜いたこともそうだったが、何より、先生が私の悩みを聞こうとしている事に、驚いた。私は国語科準備室を訪れてからその日までの一ヶ月と少し、先生から学校生活や私生活について問われたことは一度もなかった。
これは失礼な話だが、あまり愛想のないこの先生は、国語という教科、文学の事は好いていても、私達生徒の感情面や私生活にはあまり興味がないのだろうと思っていた。だから私も、先生に相談事も持ちかけたことはなかった。
先生は生徒の感情に興味がないのではなく、向き合う事が苦手な人だったのだろう。そんな人が私の様子がおかしいことを心配し、相談に乗ろうとしてくれている。
それに気づくと、私はすごく嬉しくなった。
「そう言ってくださるだけで、嬉しいです」
私は先生に正直に告げた。
「別に無理はしていません。ただ、昨日先生が私を『優等生』と言ってくださって……もちろんそれは褒めてくださったんです。けれどそれが、何と言いますか……身に余る、というか……」
話している内に、自分でも昨日のしこりの訳が分かってくる。
「私は、頼まれ事を断れないだけです。断って、相手に嫌な顔されるのが怖くて、それで良い人ぶっているだけです。……私は優等生ではありません」
そう言って先生を仰ぐと、先生は少し難しそうな顔をして、空のコーヒーカップを回していた。少し悩むように視線を下げ、そして一つ頷くと顔を上げる。
「優等生、で正しいだろ」
先生はそう言った。
「頼みを断り切れないのは、見栄だけではなく、相手を思いやれるお前の優しさだ。それに、例え内心がどうであれ、誰かのための行動をした事実は変わらない。行動に対して評価を下すのは周囲で、優等生という評価に引け目を感じる必要はない」
先生は椅子を引くと、本と辞書に目を落とす。私は先生の理屈っぽい言葉を少しずつかみ砕いて、飲み込んで、でも飲み込みきれないまま、もう一度先生を見る。
「けど、もし嫌気がさしているのなら、優等生をやめたって良いんだ」
本に目を落としたまま先生はそう言うと、いい加減始めよう、と話を切り上げた。
「……ありがとうございます」
私はお礼を言った。全てに納得したわけではなかったが、私の言葉を聞いてなお、優等生だと、優しさだと褒めてくれた事に、胸の内が軽くなったような気がした。
それからも私は相変わらず人の頼みを断れずにいた。それでも、私の心は軽かった。
***
冬の終わり。先生に教わるようになって一ヶ月以上が経っていた。毎回やることは同じで、私が分からないと思ったところを解説してもらい、その際にさらに浮かんだ疑問を私が尋ね、また解説して貰う、の繰り返しだった。国語科準備室はあまり他の先生には使われていないようで、放課後に訪れると大体先生だけが机の前に座っていた。
通い始めた頃は常に二人きりであることや、先生のちょっとした挙動、二人で同じ本を覗く距離感に逐一緊張していたものだったが、いい加減その頃には慣れてきていた。むしろ私にとって国語科準備室は本の世界に浸れる、静かでとても居心地の良い場所になっていた。
一ヶ月も経てばこの難しい文章にも私も慣れ始めていて、少しずつだが読み進める速度は上がっていった。
それでもわからない事は多くて、この日読んでいた部分もまた、そうだった。そこには、主人公誠一のとある出会いが描かれていた。
「どうして誠一は『昨日までの自分は愚者だ』なんて言ったんですか?」
それまでの言動から、自尊心の高さが目立つ誠一だったのだが、何故急に自分を卑下するこのセリフを言ったのか、分からなかった。
先生は少し前の、名も知らぬ女性とのやり取りを指さした。
「ここで、誠一はこの女性に恋をしたからだ」
一瞬、耳を疑ってしまった。それは本の内容云々は関係なく、先生の口から『恋』なんて甘い言葉が出てきたことが信じられなかったからだ。
通い詰める内に先生は無愛想な中にも優しい所のある人なのだと薄々気づき始めていたが、それでもその言葉はあまりに不似合いだった。
「分からないか?」
固まっている私に先生は、私が先生の言葉を理解できずにいるのだと思ったのだろう。私はその声で我に返った。
慌てて先生の指差した部分を読み、先生の言葉をかみ砕き、もう一度そこを読み、自分なりに考えたが、どうしても読解できずに先生に「分かりません」と告げた。
「この女の人はたまたま道を聞いてきただけで、誠一とは知り合いではなかったはずですよね?」
先生は頷いた。
「たったそれだけの出会いで、誠一は恋に落ちた。別に全ての恋愛に運命的な物語があるわけじゃない。どんな些細なことからでも、恋愛が始まる可能性はある」
そう言う先生の言葉にはどこか重みがある気がした。
先生もどこか何気ない日常の中で恋をした事があるのかもしれない。そう思うとこの人も『先生』である前に、一人の『人間』なのだと実感がわいた。どこか遠いと思っていた先生との心の距離が、その時近く感じた。
しかしそう思う反面、胸の奥がもやもやとした気もした。そのもやもやの正体は分からなかった。
「恋愛という感情を知った誠一は、知らなかった昨日までの自分を愚かだと言った。それまでに築いた自尊心を捨てさせるほど、誠一にとってその感情は衝撃だったんだ」
私がそんなことを考えている間にも、先生の解説は続いていた。
私は誠一につい先生の姿を重ね合わせながら聞いていた。
≪春≫
高校二年生の春の初め、一つ上の先輩たちが人生をかけた試験を概ね終えた、私はまだ進路について悩んでいた。
このまま何も決めることが出来ず、何の夢も持てないまま、受験生となって将来への懸け橋となる大学を決めるのだろうか。漠然とした未来を思うと不安に足が竦んだ。
あの日私は二者面談でそれを担任教師へと打ち明けた。担任教師は真摯に私の言葉を一通り聞いて、そしてこう言った。
「確かに何か目標は必要です。深く考えずに進路を選んで、後々苦労するのは自分ですからね。けれど、五科の成績は悪くないですし、数学は少し奮わないようですが、それは今からの勉強次第でカバーできます。まだ貴女は、理系の道も文系の道も選べます。三年生のクラス選択までもう少し時間がありますから、じっくり考えて、後悔のない選択をしてください」
担任は、とても良い教師だと思う。私を気づかい、急かすことなくきちんと選ばせてくれようと言葉をかけてくれたのが伝わった。けれど、本当に申し訳ない事に、それは私の欲しい言葉ではなかった。
すでにたくさん考えたのだ。何を目標にすべきなのか、何が正解なのか、私なりに考えて、探して、それでも『後悔のない選択』が見つかっていないのだ。
相談しようにも友人達は皆キラキラとした夢を持っていて、そのための目標を掲げていて、なかなか理解はしてもらえない。夢のない私がおかしいのかと、考えれば考えるほど気持ちは重くなった。
私は二者面談の後も、先生のもとを訪れた。本の世界に浸って、嫌な現実を忘れてしまいたかった。小説の世界はいつだって私の逃げ道となってくれたから。
けれど国語科準備室での読書は、私一人のものではない。先生は、すぐに私の様子がおかしい事に気が付いたらしい。最初はいつも通り本を読み進めていたけれど、先生は突然文を追う手を唐突に止め、私の顔をじっと見た。
「先生?」
呼びかけてみても先生は応じず、私の目を見続けた。そんな先生の意図がくみ取れず、私はその視線から逃れる様に目をそらし、俯いた。
どちらも何も話さないまま、少しの間、沈黙が落ちる。
「……何か悩みでもあるのか? 集中できてないみたいだが」
ややあって口を開いた先生はそう言った。
優等生、と言う言葉に戸惑っていた時と同じだ。私の様子がいつもと異なることに気付いて、相談に乗ってくれようとしているのだ。先生は、実は生徒の心の機敏にとても聡い。
話なら聞くぞ、と言う先生に、私は進路の事を相談してみようかと思い、しかし少し躊躇った。
物語の世界にだけのめり込んでいられる先生とのこの関係に、進路と言う現実を持ち込んで、そんなことをすれば、この場所も居心地の悪い場所になってしまうと、一抹の不安が頭をよぎった。
「……少し踏み込みすぎたな。デリカシーがなかった、すまん」
迷っている私に、先生はそう言うと、再び本に目を落とし何事も無かったかのように文を指で辿り始めた。少し縮まったはずの先生との距離が、この瞬間再び開いた気がした。
「いいえ!」
気付けば大きな声を上げていた。普段あまり大きな声を出すことがなかったからか、先生は驚いたように目を丸くして私を振り返った。私自身、自分の声に自分で驚いた。
けれど、もう一度、今度は確かめる様に「いいえ」と言う。
「……先生、相談に乗って、ください」
しぼむような声で言いながら、つい俯いてしまった。
「この先の、進路のことで、悩んでいます。この先どうしたらいいのか」
それだけ言って、次の言葉が見つからずに途切れた。先生は一つ頷いて、しかし何も言わずに言葉を待つ。私は頭の中で言葉をかき混ぜながら、少しずつ話した。
「その、何がしたいかとか、私には何ができるかとか、そういうのが全然見つからなくて、大学も、勉強したいことも、思い浮かばなくて。もう決めなきゃいけない時期だって分かってはいます。けど、一つも決められなくて。みんな、夢とかやりたいこととか持って、そのために色んな事頑張っているのに、私……先生、私どうしたら後悔しない選択ができるのか、全然分かりません」
最初は進路について少し悩んでいると、それだけ軽く伝えるつもりだった。先生が差し伸べてくれた手に最低限応えるだけ。そのつもりが、話している内にどんどん言葉と不安があふれて止まらなくなった。結局、本当は先生に聞いてほしかったのだ。あの時みたいに、胸の不安を取り払ってほしかった。けれど自分が何もない空っぽな人間だと宣言するような告白は思った以上に辛いもので、私の声は後半震えていた。
「このままじゃ、こんな何もない人間のままじゃ……立派な大人になれないんじゃないかと思うと、すごく……すごく怖いです」
ポロリと一粒涙がこぼれる。それを皮切りに次々と涙が頬を伝った。私は涙で汚い顔が先生から見えることのないよう下を向いた。溢れて流れるだけの拙い言葉を、聞き取り辛い涙声の言葉を、先生は黙って最後まで聞いていてくれた。
先生は私が話し終わると、机の上のティッシュボックスを差し出してくれた。私はそれを受け取って下を向いたまま顔をぬぐって鼻をかんだ。それでもきっと自分の顔は目の周りの腫れた不細工な顔だと予想がついていたから、顔を上げることはできなかった。
「教師としてこんなことを言うのは間違っているかもしれない」
先生は私が落ち着いたあたりで、そう切り出した。
「だが先生は、夢がないことは別に悪い事じゃない、と思う。と言うか、そもそも先生も高校生の時は夢なんて持っていなかった」
思わぬ言葉に、つい私は顔を上げてしまった。先生はいつも通りの無表情で、別に冗談を言っているようではなかった。先生は私に構わず言葉を続けた。
「それどころか大学生になってもやりたいことは見つからなかった。本が好きだったから何となく文学部に入って、子供にも学校にも特に思い入れはなかったけど何となく教職課程を受講していた。教師になったのも、教員採用試験にたまたま受かったからだ」
志の低い教師で悪いな、と真面目な顔で言う。唖然、とはこういう事を言うのではないか、と思った。立派な大人は皆、やりたいと思っていたことをやり遂げた姿なのだと思っていた。
「やってみたら上手くいくことだってある。俺も今では教師になって良かったと思っている。大事なのはそれを探すための一歩だ。今、散々探して、それでも何も見つからないと思うならそれでも良い。でもたたらを踏んで何もしないのだけはダメだ。とりあえずどこかに一歩足を出してみろ。そうやって、少しずつ自分を知れば良い」
やりたいことが分からなくても良い、だなんて、今まで誰もそんな事を言ってはくれなかった。
「『自分に何もない』なんて卑屈になるな。少なくともお前には、読書っていう趣味がある。生半可な読書家じゃない。大人でも読むのを躊躇う本を読み切ろうと努力出来る読書家だ。それに、頼られたら応える優しさだって持っている。もっと自分に自信を持て」
先生は私の頭に手を置き、軽く手を動かした。頭を撫でられたのだ。それは大きな手だった。大きくて、優しい手だった。その手は「大丈夫だ」と言ってくれているような気がした。先生の優しい手に、また泣いた。
窓の外の梅の花が、咲き綻び始めた春の日の事だった。
***
先生に話を聞いてもらえた日から、私はどこか吹っ切れた。何かやりたいことを探さなければ、と言う重圧から解放されたためだろう。将来の目標だとか立派な大人だとか、そういう遠くて見えない先の事をひとまず横に置いてみたら、その内に自然と「文学の道に進んでみたい」と思えるようになった。本が好きだから、先生と本を読む時間が好きだから、先生がほめてくれたから。
大学で学問として学んだその先に何をしたいのかという事は特に思いつかなかった。それは決して褒められたことではないのだが、それでも先生のおかげで、それでも良いからとりあえず勉強してみようと、そう思えた。
そんな刹那的な動機、全く褒められたものではないとは思うけれど、それでも先生に伝えれば、いつもの無表情で短く「頑張れ」と言っただけだった。大げさに応援するわけでもない、淡泊な応援が先生らしくて、何だかとても嬉しかった。
***
未来を恐がるだけではなくなった頃、梅の花は散り、桜が咲き、私は三年生になっていた。
三年生になるということはつまり受験生になるということ。それはもちろんなのだが、私の周りでは『この学校で過ごす最後の一年である』という事の方が重大なようだった。きっとそれは、つい一月前に先輩方の卒業式があったことも大きく関係していたのだろう。親しい先輩方がいなくなった喪失感とともに、一年後には我が身だという事を実感させられたのだ。
「受験勉強が本格化して余裕なくなる前にさ、好きな人に告白しておきたいよね」
そう話していた彼女は、誰だっただろうか。同じクラスの子だった気もするし、合同授業で一緒になっただけの他のクラスの子だった気もする。大して仲の良い子でなかったのは確かだった。
「そういうのは卒業する前じゃないの?」
後にも先にも、他人の会話に割り込んだのはこの時だけだったと思う。内向的な私にしては大変な暴挙だったし、実際言ってしまってから自分でも驚いた。
自分の行為に狼狽える私に対し、話をしていた子達は気にした風も見せず「卒業してバラバラになる前に、たくさん思い出を作りたいじゃない」と笑って教えてくれた。
「ひょっとして、誰か好きな人いるの?」
楽しそうに笑みを深める彼女の問いに、私は何となく少し考えて、自分の思考に固まってしまった。
好きな人と言われて、真っ先に頭の中に思い浮かんだのはただ一人。掃除当番でよく言葉を交わす真面目な班員でも、クラスをまとめる気さくな学級委員でも、女の子達の噂の的の剣道部の男子でもない。
国語科準備室で私の本に目を落とす、先生の無愛想な横顔だった。
あの時初めて、私は先生のことを好きになってしまったのだと自覚した。
***
自分に芽生えた恋心に気付いて以来、私の世界は少し変わった。
誰かが先生の名前を出せば、その会話が気になった。偶然廊下で先生とすれ違ったら、胸の奥がほんのりと温かくなった。先生に貰ったのと同じアイスを見かけただけで、なんだか嬉しくなった。
ちょっとした事が嬉しくて、ちょっとした事が幸福に感じる。まるで世界が先生を中心に回り始めたみたいだった。初めて恋と言うものを知った。今なら、恋を知らなかった過去の自分は愚かだと卑下した誠一の気持ちも分かる様な気がした。
居心地が良かったはずの国語科準備室は、再びほんの少しの緊張を孕む場所となった。先生と一緒にいれることは嬉しいけれど、なんだか無性に背伸びしたくなった。理解が遅いとか、頭が悪いとか、先生に思われたくなかった。でも先生は私が無理をしようとすればすぐに気が付いて、「焦らなくていい」と諭してくれた。どんなに遅くたって、先生は私を待っていてくれた。一つ一つに気が付くたびに、ますます私は先生を好きになった。
その想いを自覚する度に、言いようのない幸せと寂しさが私を襲った。
***
「ここに書いてある通り、誠一は、好いた女に告白しない決意をしている。その理由は分かるか?」
温かい日差しが窓辺を照らし、まさしく小春日和に相応しい、ある日。それまでは私が先生に分からない所を尋ねていたのだが、その日初めて先生が私に問いを投げかけた。
その頃には私が先生に質問をすることが減ってきていたから、間違えて解釈していないかの確認のためなのか。それとも文学部を受験する私の事を思っての事なのか。きっと両方だったのだろう。
思いがけぬ先生からの問いかけに私は慌ててそれまで読んでいた物語を頭の中で反芻した。
「それは……誠一にとって、誠一の愛した『彼女』という存在は、すでに完成されている存在だから、です」
私はそう言いながら本のページを遡った。そして目的の文章を見つける。
物語の中で誠一は、『私は私を知らない彼女に恋をした』と言った。誠一は何度となく彼女と再会する機会を得たが、その都度自分を彼女の世界に介入させることを拒み、さらに自分も彼女の事を知ることを拒んだ。彼は彼女の名前すらも知ろうとはしなかった。彼女にとって誠一はただ街中ですれ違った男性の一人以上の存在には成り得ず、誠一の初恋は誠一自身が握りつぶした。
『この先、彼女が私でない誰かから好かれ、彼女もその人の事を好きになる。そうすれば彼女の世界は一変して鮮やかに彩られることだろう。私がそうであったように。より一層美しくなった彼女という存在に、その香しく実った人生に、寂れた絵描きも無粋な観客も必要はない』
文を所々抜粋し、意訳しながら説明すれば、先生は満足そうに少し頬を緩めた。
「よく、誠一の心情を読み込めているな」
相変わらず私は先生の笑みを直視できなくて、ありがとうございます、とお辞儀をする振りをして俯いた。それでも、心の柔らかい部分を暖かな毛布にくるまれたような、優しい幸せに包まれた。
最初は先生に重ねていた誠一は、読み進めるにつれて段々と私と重なり始めた。
私もまた、先生に告白する気は全くなかった。
先生は『先生』だから、そして先生にとって私は本が好きな一生徒だったからだ。名も知れぬ女性が歩いた街の通りがこの学校なら、私は雑多にあふれかえる道行く人々の一人なのだ。
私が先生に告白しても、先生を困らせるだけだと思った。先生との時間を壊し去る告白なんて、する価値はないと思った。
『私が誠一の気持ちを理解できるようになったのはきっと、先生に恋をしたからです』
この幸せの中に居られるのならば、そんな言葉を飲み込むくらい、どうって事はなかった。小さく胸に突き刺さる寂しさなんて、どうって事はなかった。
***
新しいクラスに少しずつ馴染み始めた春の終わり。先生が出張で不在のため、国語科準備室へ行かなかった日。真っ赤な夕焼けの差す帰り道で、私の目の前で、友人が男の子に告白された。
告白は、彼の自己紹介から始まった。違うクラスの男の子だった。名前も知らない子だった。彼女にとっても同じだったらしく、突然の事にとても驚いていた。
彼曰く、音楽祭で歌う彼女に一目惚れをし、それから二年間ずっと片思いをしていたらしい。
それを聞いて、まるで誠一みたいだ、と思った。でも彼は誠一とは違い、私とは違い、勇気を出して告白した。
今まで言葉を交わしたことのない男の子からの告白に、彼女は当然応えることはできなかった。それでも残された一年、自分を知ってもらうために友達になりたいと彼が言って、携帯のアドレスを交換していた。
「好きな人に告白できるなんて、すごいよね」
彼がいなくなってから、彼女はまるで他人事のように言っていた。私はそうだね、と返した。
「今まで碌に話したこともなかったのに、こんなの、最初からフラれるって分かりきっているのに」
彼女が目を落とす携帯の画面には、先ほど交換した彼のアドレスが記載されている。携帯を見つめたまま彼女はもう一度、すごいなあ、と繰り返す。
「……私には絶対にできない」
その横顔はどこか羨ましそうで、彼女にも誰か好きな人がいるのだと、直感的に分かった。きっと相手は、一緒になるのは難しい人なのだろうということも。
誠一も私も、彼女も、彼女に告白した彼も、どうして望みのない人ばかり好きになってしまったのだろう。最初から赤い糸が運命の人と引き合わせてくれれば、こんな寂しい思いしなくて済んだのに。“恋”と言うのは、世界を鮮やかにする素晴らしいものかもしれないけれど、とても理不尽だ。
彼女は少しだけ顔を伏せた後、「でも」と言葉を続けた。
「フッちゃったけど……誰かに好きだって言ってもらえたのは、嬉しいな」
そう言って顔を上げた彼女は照れたようにはにかんでいて、言葉の通り本当に嬉しそうだった。
夕日に照らされる彼女の表情と言葉が、やけに印象に残った。
≪夏≫
春が終わり、梅雨が始まった。
この頃には本も残すところあと一章となっていて、先生との時間を終わらせたくなかった私は『受験勉強』を口実に、本を読み進める事を中断していた。
「楽しみは受験の後に取っておきます」
そう言うと先生は「そうだな」と言って笑ってくれた。
先生は受験勉強で分からない事があったら来ても良いと言ってくれて、私はわざと難しい問題を解いては分からないと言って国語科準備室に足を運んだ。先生には難易度の高い問題に挑戦する姿勢を褒められたが、動機が不純な私は素直にそれを喜べなかった。
そんな毎日を送っているものだから、国語科の成績ばかり伸び、他の教科の成績は下がった。別に難関大学を狙っていたわけではないのだが、いくら文学部とはいえ国語科以外の教科も必要なわけで、これ以上バランスの悪い勉強ばかり続けていると予備校に通わせるという両親の言葉に、私は慌てて他の教科の勉強にも励んだ。予備校に通うという事は先生に教わる時間が少なくなってしまうという事で、それが何よりも嫌だった。
***
その日は曇天ながらも久しぶりに雨のない朝だった。
学校は休日で、私は学校の近くの書店を訪れた。参考書を探すための外出だったのだが、実はその日はお気に入りの作者の新刊の発売日で、買えないまでも少しだけ立ち読みしようかなどと考えていた。
二階建ての広い書店には幅広いジャンルの本が取り揃えられていて、学校周辺において図書館の次にお気に入りのスポットだった。
私は念のため持って来ていた青いビニール傘を傘立てに差して店内へと入る。
私は目的の参考書を手に取りと、すぐさまそのまま真っ直ぐ文芸書のコーナーへと足を運んだ。
まさか、そこに私服姿の先生がいるなんて、思いもしなかった。
「……偶然だな」
いち早く私の視線に気づいた先生は、少しだけ驚いたように眉を上げたが、すぐにいつもの表情に戻ってそう言った。私はあまりの出来事に驚きを隠せないまま「偶然ですね」と先生の言葉をおうむ返しした。
「参考書を買いに来たのか」
私の腕の中の本を見て、先生は言った。私は先生の言葉にただただ頷いた。先生はジーンズパンツにVネックのTシャツと、いつもに比べてとてもラフな格好で、見慣れない私はいつもよりもさらに落ち着かなかった。
先生は「頑張っているな」と言った後、しかしすぐに目の前の棚に並べられた文芸書の数々に気が付き「ついでに息抜きもしに来たのか」と苦笑した。魂胆を見破られたのが少し恥ずかしくて私は視線を下げた。下げた先には先生の手があり、その手には緑の表紙の本があった。
「あ、新刊……」
思わず出た小さな呟きに気付いた先生が、私の視線を辿る。
「ああ、これ……そう言えば好きだったんだよな、この作家。今日発売したんだ」
きっと私はその瞬間、酷く羨ましそうに先生を見上げたのだろう。そんな私を見て先生は顔を背け、声を殺すように笑った。
「受験が終わったら、好きなだけ読めば良い。何ならこれを貸してやろう」
一通り笑い終えてそう言った先生の声はとても優しいものだった。
スーツに白衣の姿じゃないからか、先生はいつもよりも表情が豊かなように見えた。今思うと、きっと先生こそ息抜きをしに来ていたのだろう。
「じゃあ、約束ですよ」
先生は私の言葉に「そうだな、約束だ」と言って頷いた。
会計を済ませ、先生と共に外へ出ると予想通り雨が降り始めていた。やはり持って来て正解だったと思いながら傘立てを見て、私は青ざめた。傘立てに差したはずの、私の傘がなかった。
「……傘、盗まれたのか?」
私の反応に何となく察しがついたのだろう、先生が声をかけてくれる。私が素直に頷くと、先生は渋い顔をした。
「この近くはコンビニもないしな……」
先生の言う通り、大通りから少し離れた場所にあるこの本屋の周辺には、傘を買えるような店はなかった。一番近くのコンビニまで歩いて十五分はかかる。だからこそ、傘を盗まれたのだろう。
走ったら八分、それとも雨が止むのを待った方が賢明か、どうしたものかと考えを巡らせていると、隣に立っていた先生が傘立てから傘を抜いた。
「これを使え」
先生はそう言って自分の傘を私に差し出した。私は驚いて、そして慌てて首を振った。
「ダメです、風邪をひきます」
「受験生が風邪をひくよりはマシだ」
そう言って先生は傘を引かない。
「ここで止むのを待ちますから」
「予報だと今日は一晩雨だ」
「買った本が、濡れちゃいます」
本の事を口にすれば、先生は一瞬口詰まり「それもそうだが」と困ったように顔をしかめた。本が好きで、本をとても大切にしている先生のことだ。濡れるのはさぞ嫌なのだろう。少し逡巡していた先生はしかめっ面で後頭部を掻いた。
「……仕方ない、コンビニまで入っていけ」
先生はそういって傘を広げると、私の入れるスペースを開けた。いわゆる、相合傘を提案されたのだ。
「ほら」
固まっている私に先生は急かすように傘を私の方へと傾けた。
「……失礼します」
私は参考書の入った鞄を抱え、躊躇いながらも先生の傘へと入った。
先生は私の歩幅に合わせてゆっくりと歩きだした。
たとえ男性用の大きな傘でも、二人で入るには多少手狭で、初めて会った日よりも距離が近い。傘を持つ先生の手が視界に入る度、先生の腕に肩が触れる度、隣に並ぶ先生の存在を嫌でも意識させられた。
傘に弾ける雨音ばかりが大きく聞こえて、まるで傘の外の世界と遮断されたかとさえ思えた。
「本当はこういうのは、あまり褒められたことじゃないんだ。他言はするなよ」
先生はその日、いつもの白衣もスーツも着ておらず、私も制服を着ておらず、私達は傍から見ただけでは教師と生徒だとは分からなかったことだろう。でも先生は、一人の男性であるとともに、私の教師だった。
教師と生徒。それは困ったときに傘を分け合う事も難しい距離らしい。
先生は私と同じ傘の下にいたはずなのに、私は私達の間に途方もない距離があるように感じた。
道すがら、受験勉強は上手くいっているのかと聞かれたり、数学は苦手だと答えたりと初めは多少の会話もあったが、途中から何を話すわけでもなく、ただ歩き続けた。本と勉強という共通の話題以外では、私達はとても無口だった。
歩いていると、T字路に差し掛かった。それは、少し前に友人が男の子に告白された場所だった。一月も前になる出来事だったが、私はそこを通る度に鮮明にその時の事が思い出された。
「友達が、ここで告白されました」
気付けば私は話し始めていた。あの時の私が何を思ったのか、今でもはっきりとは分からない。きっと先生に聞いてほしかったのだろうと思う。
「告白してきた子は友達の知らない子でした。彼は一目惚れだって言っていました」
いつも先生といる時は、プライベートな話は滅多にしなかった。先生とこんなにも個人的な話をするのは、あの進路相談の時以来だった。それでも先生はいつもの通り、口を挟む事なく聞いてくれていた。
「まるで誠一みたいだと思いました。でも彼は、誠一と違って……フラれることを分かっていて、告白しました。その時彼をすごい、とは思いましたが、彼の気持ちは分かりませんでした。誠一と彼は一体何が違ったのでしょう」
私は普段よりも饒舌に話した。話す頭の傍らで、よほど自分はあの時の事が引っかかっていたのだろうと思った。
そんな私に先生は物珍しいものを見るかのような目を向けたが、すぐに考える様に視線を上げた。
「……誠一は、本当のところはただの臆病だ。何だかんだと理屈を並べ立ててはいたが、結局は自分の望む未来が得られずに失望するくらいなら、何も行動しなくていいと考えたんだ。でも、その『彼』には一歩を踏み出す勇気があったのだろう」
だから、憧れた女性と知り合いになることができた。
そう言われて納得した。彼は、告白したことで友人の視界に入ることができた。アドレスを得ることができた。彼は告白することでチャンスを得たのだ。
「まあきっとその男子はいちいちそんなまどろっこしい理屈を考えて告白をしてはいなかっただろうけどな。相手に知って欲しかったんだろ、自分の想いを」
「たとえ、フラれると分かっていても……ですか?」
先生は頷いた。
「それでも想いを伝えたいと思える、そんな良い恋をしたんだ」
その時の先生は、また遠いどこかを見るような目をしていた。
そして私と先生の間には再び沈黙が訪れた。
私は先生の言葉を心の中で反芻した。先生は、玉砕覚悟の彼の恋を『良い恋』だと言った。想いを伝えたい、その一心だった彼の行動を『勇気』と称した。
私は良い恋をしているだろうかと自問自答すれば、返ってくる答えは「ノー」だった。誠一と同じ、私のそれは臆病な恋だ。そう自覚すると、先生の賞する『恋愛』とのギャップに、胸の中の寂しさが増した気がした。
ふと、このままで良いのだろうかと思った。どうせフラれるのだから、と想いに蓋をして、この恋をなかったことにして、私はそれで良いのだろうかと思った。
雨脚が少しずつ強くなっていった。角を曲がり、大通りに出ると、途端に雨音に混じって街中の人の喧噪や、車の音が大きくなった。そこまで来れば、コンビニまでもう少しだった。
私は小さく、出るか出ないか位の囁き声で「先生」と呼んでみた。しかし先生からの反応はない。私の小さな声は雑音で先生にまで届いていなかった。
「先生……先生……」
私は小さく、何度も呼んだ。先生は相変わらず前だけを見ていた。
「好きです、先生」
伝える勇気のない言葉をこっそりと口にしてみた。一人きりの自室でも言ったことのない言葉だった。心の中ですら躊躇われた言葉だった。
想いを言葉にすれば、少しは胸の内の寂しさも紛れるかと思った。
きっと掠れてほとんど音になっていなかっただろうその言葉は、雨と街の音にかき消された。先生は振り向くことのないまま前を向いていた。それが答えの様な気がした。
「ありがとうございました」
やがてコンビニに到着した。私は屋根の下に入って振り返り、先生にお礼を言った。見上げた先生の左肩は濡れていた。
また明日、と告げれば、また明日、と返ってきた。そして先生は私に背を向けて歩き出した。私は段々と小さくなっていく先生の黒い傘を見送った。
先生は私の想いを知って、少しでも『嬉しい』と思ってくれますか?
心の中で問い掛ける事しかできない、やっぱり私は臆病者だった。雨に混じって、一筋の涙がこぼれた。
想いを言葉にすれば、少しは寂しさも紛れるかと思った。しかし現実は、胸の奥にさらに寂しさが募るばかりだった。
***
梅雨が明けて夏が来た。
毎日暑くて、私は冷房の良く効いた図書室へと逃げ込むことが多くなっていた。逆に国語科準備室を訪れる頻度は減ってしまった。勉強に忙しかったし、何より自分の気持ちを一体どうしたいのか、自分の中で結論が出ていなかったのだ。そんな状態で先生と会ってしまったら、つい勢いで先生に言ってしまうのではないかと恐れた。
それでもたまに、分からない問題を抱えて先生のもとを訪れた。先生に会っても胸が苦しいが、先生に会えないのもまた、辛かった。
先生は時折私にアイスをくれた。何故だか冷房の効きづらい国語科準備室で、暑いとアイスがうまいだなんて冬とは真逆の事を言いながら、アイスを差し出すのだ。先生のそんな優しさが、ますます私を喜ばせ、私を苦しめた。
先生に会うたびに、私はどうしようもないくらい先生の事が好きで好きでしょうがないのだと思い知らされた。そしてあの雨の日、蓋を開けてはいけなかったのだと後悔した。一度口にしてしまった想いは私の心臓で渦を巻き、そのままぐるぐると頭を巡った。
***
期末テストが終わり、夏休みに入り、先生のいる学校へ毎日通わなくても良くなったものの、相変わらず私の頭の中は先生でいっぱいで、会っても会わなくても苦しくて、私は葛藤を忘れるため日々を勉強に費やした。
高い目標があったわけでもなく、ただすべてを頭から追い出したいがための勉強だった。強いて言うなら、第一志望に受かった暁には先生が笑って褒めてくれるかもしれない、という淡い期待もあった。どちらにせよ相変わらずの不純な動機だというのに、私の成績は良く伸びてくれた。
夏休み中の数少ない登校日。教室で前期の成績と模試の結果を受け取る日だった。図書館での勉強の甲斐もあり、その当時志望していた大学のほとんどはA判定という良好な結果を収めていた。
教室で解散となった後、模試の結果を報告しようと久しぶりに国語科準備室へ行った。先生は夏休みだというのにいつものようにそこにいた。
私の訪問に気付いた先生は「ちょうど良かった」と言って私を手招いた。
「七月中旬の模試の結果、今日返ってきただろう? どうだった?」
私が返却された結果表を見せると、先生は満足そうに頷いた。そして重なった資料の束から何冊かの冊子を取り出した。それらはどれも有名大学の案内資料だった。
「現国に関しては難関大学の問題もかなり解けるようになってきている。もし他の教科が追い付けば、このあたりの大学にも手が届くと思って、いくつか資料を取り寄せてみた。数学に多少難があるみたいだが、努力次第ではどれも入れない大学じゃない」
もちろん今の志望校が良いのなら、それも良いと思う、と先生は続けた。
私は心底驚いた。先生は私達三年生の担当はしていない。その頃は準備室を訪ねる機会も減っていた。だというのに、わざわざ私のために大学を調べてくれていたらしい。まるで私が先生に特別気にかけてもらえているかのようで、自然と喜びに顔が緩んだ。
先生はその中の一冊の私立大学の資料を手に取った。それは貰った資料の中でも、とりわけ水準の高い大学の資料だった。
「ここは、先生の母校だ」
先生の言葉に、私は手元の資料から視線を上げた。
「ここで文学に出会った。いい大学生活を送れていたと思う。近代文学と現代文学に特に秀でていて、ゼミも豊富だ。きっと合うだろうと思った」
先生はゆっくりと資料のページを捲り、時折懐かしそうに目を細める。
「別に押し付けるわけじゃない。可能性の一つを提示しているだけだ。受けるか受けないかは自分で決めればいい」
そう言って私は先生にその資料を手渡された。ずっしりとした資料の重みが、先生の応援のように感じた。言葉にはされなかったけれど、先生に「頑張れ」と言われた気がしたのだ。
いつもの無表情で武骨な先生ではない。一緒に本を読み解いて、時折私を褒めてくれる先生でもない。私のために、私の背中を押してくれる先生。それは、まるで私なら出来るよと言ってくれているようで、信じてもらっているようで、胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます。じっくり、考えてみます」
私は先生の用意してくれた資料を全て受け取り、そう答えた。
***
その後の夏休みは、受験生らしくもっぱら一日中勉強をしていた。夏期講習のために学校へ行くこともあったが、私は国語科準備室へ足を運ぶことはせず、そうなると先生と会う事は全くなかった。
受験生としては遅すぎるくらいだが、夏休み中にいくつかオープンキャンパスにも出向いた。先生に紹介された学校は日程が合う限り回ってみた。先生の母校にも、見学へ行った。
先生の母校は街はずれの林のそばに建っていて、高校とは比べ物にならないほど広いキャンパスの中を、私服の学生たちが自転車で移動していた。木漏れ日の差し込むキャンパスはとても穏やかで、学生たちのお喋りが風に乗って聞こえてきた。
制服を着た私はその中で酷く浮いた存在のように感じた。
先生も、この広いキャンパスを自転車で移動したのだろうか。友人とお喋りしながら空き時間をつぶしたりしたのだろうか。食堂で昼食を食べながらレポートに取り組んだりしていたのだろうか。サークルに入って好きなことに夢中になったりしたのだろうか。
辞書を片手に、難解な本と格闘したりしたのだろうか。
先生がいたという場所で、あったかもしれない過去に思いを馳せてみても、先生のそんな姿は全く想像できなかった。周りを見渡して先生の面影を探してみても、当然見つかりはしなかった。
私は胸に宿った薄暗い虚無から逃げる様にキャンパスを後にした。
学生だった先生を、私は知らない。私にとって先生は『先生』で、先生にとって私は『生徒』で、だからこそ先生の不器用な思いやりや面倒見の良さ、優しさに気付けたし、好きになった。
もしも先生と違う出会い方をしていたら、きっと気付かなかった。きっと先生を好きになれなかった。学生時代なんて知らないでも良いんだと自分に言い訳をした。この恋はどうしようもなく報われないんだと自嘲した。
夏休みの間、私は先生に会いたくて、会いたくて、でも会いたくなかった。
≪秋≫
夏休みが終わり、授業が再開し、学校はあっという間に日常を取り戻した。
始業式で久しぶりに先生を見かけた。先生は相変わらず無愛想で、私は相変わらず先生を見ただけで幸せな気持ちになれた。虚無感なんて一瞬で消し飛ばされて、会いたくないと思った事すら忘れて、先生が好きだ好きだと心の中で囁く毎日が再開した。先生に毎日会えるのが嬉しかった。
その一方で、この頃少し気になることができた。
先生を目で追うと、先生が図書室でとある女生徒と話しているところを度々見かけるようになった。彼女はこの新学期から図書委員になった二つ下の生徒の様で、まだ仕事に慣れていないためか、貸し出し作業も返却作業もいつもおぼつかない手つきだった。見かねた先生が本を本棚に返す仕事を手助けしているのをよく見かけた。
困っている彼女を助ける先生の姿は、初めて会ったあの日と重なった。
もちろん、それは教師として至って普通の事で、それは私も理解していた。先生がよく話をする女性は私や彼女の他にもたくさんいたし、彼女が特別なわけではなかった。でも、嫌に胸がざわついた。
「ありがとうございます、先生」
彼女がはにかみながらお礼を言う、その声が私の耳に張り付いた。私と違って明るい声、はきはきした言葉、素直で豊かな感情表現。人好きする、愛らしい笑顔。
彼女がもしも私の様に先生を好きになってしまったらどうしよう。ありえない事じゃない。私がそうだったのだから。万が一、先生が彼女を好きになってしまったら?
我ながら馬鹿みたいな考えだと思った。それでも、考え始めると止まらなくなった。
困っている彼女を助けないで。彼女じゃなくて私を見て。私だけに優しい先生でいて。
今まで抱いたことのない程の嫉妬と独占欲が、胸の中で渦巻いた。頭の隅で冷静な私が何て醜いと罵った。
私はあの本を開いた。先生と一緒に読んでいる本だ。
誠一は自分が想い人の人生にいない事を最初から達観していて、だからこそ、想い人に良い人が現れた時も、相手の男に特に嫉妬はしなかった。ただ、相手の男と過ごす想い人の幸せを祈り、相手の男が彼女を悲しませることがあればその涙を憂いるだけだった。
誠一は決して手を出すことなく、相手に自分を重ねることもなく、ただ二人の人生を風の噂で聞いて満足するだけだった。
いつも私にヒントをくれていた誠一は、この薄暗い気持ちの扱い方を教えてはくれなかった。
それから図書館へ行くのが怖くなった。二人が仲良くなっていくのを見ていたくなかった。でも、知らない所で二人に何かが起きるのはもっと怖かった。
また先生が彼女を助けてあげた。また先生が彼女に声をかけている。彼女が小さな声で言葉を返す。最初は緊張気味だった彼女も、すぐに先生の優しさに気付いてどんどん気安くなっていった。先生の雰囲気も、何だか普段よりも柔らかい気がする。先生に彼女が笑いかける。
ああ、先生が笑い返した。
参考書を開いても全然勉強に集中なんてできなくて、黒い感情はぐるぐると私の中で回って回ってとぐろを巻く様に積み重なった。
恋とは人をとことん貪欲にするらしいと初めて気づいた。最初は笑いかけてくれるだけでうれしかったのに、この頃にはその笑顔が他所に向けられるのが酷く妬ましくなった。
自分がこんなにも小さな人間だったなんて気づきたくはなかった。
何かの拍子に彼女が先生を嫌いになれば良いのにだとか、図書室に来られないくらいに先生が忙しくなればいいのにだとか、気が付けばそんな事ばかり考えていて、そんな自分が嫌になった。
「あまり集中できてないみたいだな」
さっきからページが進んでいない。そう言って参考書さす指を辿り、顔を上げると先生がいた。いつもの様に、手には難しそうな本を抱えていた。
この時、心配してくれたという喜びと同時に罪悪感が胸を刺した。先生は私の進路を心配して、色々計らってくれていたのに、私と来たら恋愛沙汰に事に思い悩み、勉強の手が進まないでいたのだから。
「ごめんなさい」
私の謝罪を聞いた先生は苦笑いをした。そして白衣のポケットへと手を入れ、そこからスティックキャンディを取り出した。開封前だったその包装紙を破き、二つ出した飴を私のノートの上に乗せた。そしてその手がそのまま私の頭の上に乗った。それは撫でるというより優しく置かれるような動きで、二回だけ手が髪に沈むとすぐに離れた。ふわりと爽やかなミントの香りが鼻を掠めた。
「飴食うのは図書室出たらな。追い込み、きついかもしれないが、あともう一息だ」
私は先生のくれた飴を手に取った。
「先生って本当、優しいですよね」
それは意図的なものではなく、まさに思わず口を突いて出たもので、先生が小さく笑うまで言葉にしていた事にすら気づいていなかった。
「そんなこと言うのはお前くらいだな」
そう言って先生は借りた本を抱え直して図書室を出ていった。
その間私はと言えば、自分の言葉への羞恥と、先生の言葉の破壊力に、思考が停止してしまっていた。何という殺し文句を言ってくれたのだと、耳まで赤くなった自覚があった。
しかしいつまでも固まっているわけにもいかず、何より先生の優しさに応えるべく頑張らなくては、とペンを握りなおした。
というのも、私の目下の悩みはその時解消されたからである。私の悩みだった、図書委員の彼女。しかし彼女はあんなに先生と話していたというのに、あんなにはきはきと話す明るい声を持っているというのに、先生に優しいと伝えていないらしい。先生が優しいと知っているのは、伝えるのは、私くらいなのだ。
そんなことに喜びながら、一方で最低だとも感じた。そうじゃないだろう、と。先生が私を心配して優しくしているのは、進路での悩みを打ち明けたから。こんな恋心を抱いてほしくて優しくしてくれているわけでは決してない。
じゃあ受験が終わったら心配してくれなくなるのだろうか? また新たに、考えるべきではない疑問が浮かんだ。私の手はまた止まった。
今は、もしかしたら一年生の彼女よりも、受験生である私の方が『先生』の気を引けているのかもしれない。でもそれもあと半年で終わる。私は卒業してしまう。彼女は私がいなくなった後の二年間、先生と一緒だ。そうしたら、きっと彼女は先生の中の私の居場所なんて取ってしまうだろう。もしかしたら今の私よりも大きな存在になってしまうかもしれない。そして私はどんどん先生の中で小さな存在になって、沢山いた生徒の内の一人になってしまうのだ。大通りですれ違った他人の一人になってしまうのだ。
私はその考えに至った途端、脳の奥がしびれたような感覚と共に気が遠くなった。そんなのは嫌だった。とてもじゃないけれど、耐えられない。私にはとても、誠一の様に見守るだけなんてできない。そう、強く思った。
考えを振り払うように頭を振って手を動かす。集中すべきことに目を向けたまま、それでも気持ちが考えに追いすがる。
あの雨の日の事が、脳裏をかすめた。胸を締め付け、気持ちが零れ落ちた、あの日の傘の下の出来事。
私の恋愛対象は、傘すら分け合ってはいけない教師で、これは常識ではあってはならない恋心。決して『良い恋愛』ではない。
この恋愛を、最も良い形で収束させる最善解は私が一番よく知っていた。それなのに、雨の音が鳴り止んでくれない。あの時の先生の横顔が、声が、鳴りやまなかった。
≪冬≫
三年生の三学期にもなると、学校の授業はほとんどなくなり、ただでさえ少なかった登校日もさらに減った。
その日は久しぶりの登校日だった。私はホームルームを終えた後、すぐに国語科準備室へと足を運んだ。
私は図書室で飴を貰ったあの日以来、先生に会わないままセンター試験、そして一般入学試験を迎えていた。それは、ただでさえ最悪の裏切りをしている私が、先生をこれ以上裏切らないため。次に会うのは、先生が応援してくれている受験を完遂してから。そう決めていた。
扉を開けた先には、先生が一人、準備室の奥の本棚へ数冊の本を仕舞っているところだった。先生は私に気付くと、本を全て仕舞い終えた後、何も言わず近くにあった椅子を自分の椅子の隣に持ってきた。
それはまるでいつかのデジャヴの様で、私はあの時の様に俯いたまま緊張した体を前に出し、そしてぎこちなく、先生の出した椅子に腰かけた。
相変わらず乱雑な先生の机の上で、緑色の表紙を見つけた。雨の日の約束の本だ。先生は覚えていて、それで私を待っていてくれたのだろうか。それともその日偶然、そこにあっただけだろうか。
先生を見上げると、久しぶりに見た先生の顔は相変わらずの無表情で、いつもならその顔に安心できたのに、その日は安心など全くできなかった。
「先生」
先生を呼ぶ。先生は私を真っ直ぐに見つめて「何だ?」と返事をした。
「本の続きが読みたいです」
しがない画家の、誠一の物語を取り出せば、先生はそうだな、と頷いた。
***
恋する人が街を出て行った。それを追いかける事をせず、もう二度と会わないと決めた日に、誠一は筆を取った。初恋の彼女を、あの美しい女性を描こうと。しかし彼女の顔が分からない。誠一は、彼女の横顔しか知らない。正面から彼女を見たのは、ハンカチを拾ってもらったあの時だけ。描きあがったのはわずかに微笑む彼女の横顔。絵の中ですら、彼女は誠一に笑顔を向けていない。しかしそれでも彼の心を満たした。
物語の終わり、誠一は病に倒れる。しかし彼には医師にかかる金はない。助けを求める友も家族もいない。黄泉の淵を覗き、いつ黄泉の迎えが来るのかと悪夢に苛まれ、世を捨てていたはずの彼が初めて生きたいと願う。わずかな持ち物を売り、画材を売り、最後には彼の愛した彼女の絵すらも手放してしまう。
彼の全てを差し出してさえ、医師にかかるにどうにか足るほどの金しか得られなかった。彼が紡いだ愛は、絵は、世界からは全く評価されなかった。
命を繋いだ彼には、命以外の何も残らなかった。
失意の中、誠一は病院を出る。家も失い、帰る宛もなく彷徨い歩く誠一は、やがて全く知らない町へと辿りつく。
そこには小さな花屋があった。夫婦が仲睦まじく花を売っている。その花屋にふらふらと誠一は引き寄せられる。そんな誠一に気付いた奥方が、笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかける。彼女だった。彼が愛した彼女が、花を売っていた。幸せそうに笑いながら花を売っていた。
その笑顔を見て誠一は絶望した。
それまで描いたどの彼女よりも、それまでに垣間見たどの横顔よりも、その笑顔は美しく、輝いていた。
その輝きに、恋い焦がれた。彼女のあの瞳がこちらを捕えてくれたなら、極上の笑みが自分に向けられたなら。飢えの様な、渇きの様な、ただただ彼女を求めるそんな想いが胸を締め付ける。
しかし彼女の世界に誠一はいない。彼女の瞳に誠一は映っていない。望んだのは誠一だ。握りつぶしたのは誠一だ。その自らがもたらした現実に、彼は絶望する。
誠一は、その時初めて本当の意味で彼女に恋をした。
***
「バッドエンドだったんですね」
読み終えてそう言えば、先生は少し間をおいてから首を振った。
「この物語にハッピーエンドもバッドエンドもないだろう」
それもそうだ。誠一は全てを失ったが、気付いたこともある。私もこの間、その事に気づいたんだよ、と心の中で誠一に呼びかけた。私の方が少しだけ早かったね、と。
「先生」
呼ぶと、先生は本から顔を上げた。近かった先生の顔が私から離れて、先生は私を真っ直ぐに見た。いつだってそうだった。先生は小さな私の声を、必ず正面から真っ直ぐに受け止めてくれた。それが嬉しいと思った。
深く息を吸った。私の胸の中にある想いが、全て言葉になるよう祈って。
「好きです」
先生の真摯なところも、真面目なところも、愛想がなくて誤解されやすいところも、不器用な優しさも、人との距離の測り方がとても下手なところも全て。
「先生が好きです」
先生を慕う想いも理由も全て、言葉で表現することは私には出来ないから、言い表せない気持ちを乗せて、言葉を重ねた。
それから一呼吸置いて先生の目がゆっくりと見開かれ、瞳がわずかに揺れた。
「先生、好きです。ごめんなさい」
最後まで残っていた罪悪感が謝罪となって口を吐いた。それと同時に先生の輪郭がわずかにぼやけた。
それが口をついて最後、私はもう考えられなくて、決壊した口から溢れる言葉をただ零し続けることしかできなかった。
「好きです。好きなんです。ごめんなさい、ごめんなさい先生」
どんなに言い募っても次から次へと気持ちが溢れた。そこに私の言葉をかき消してくれる雨はない。告白も謝罪もすべてが先生にぶつかっていった。
「先生、私、せっかく先生が優等生って、でも、やっぱり優等生じゃありませんでした」
言葉が途切れ、口から嗚咽が漏れる。心がない交ぜとなってそれでも想いを伝えたくて唸る。本当は先生から目を反らしたかった。この告白が、先生を困らせるだけのものだと分かっていたから。でも反らさなかった。ぼやける先生を、真っ直ぐに見つめ続けた。
「前は、目を伏せながら話していたよな」
先生がぽつりとつぶやいた。私は溢れかける言葉を止めて、先生の言葉に耳を傾けた。
「話す時ももっとどもっていて、声も小さかった。そんなはっきり言葉を話してくれるようになるのに、半年くらいかかった」
いつも低く、それでいて滑らかに言葉を紡ぐ先生の声が、わずかに震えているのを初めて聞いた。
「……苦しかったな」
先生はそんな私の頭を撫でた。以前の置くだけの時とは違う。髪を混ぜる様に手が往復する。
「きっと真面目なお前を、沢山苦しめたな」
私はすぐに強く首を振った。その拍子に私の両目に溜まった涙がぽたぽたと頬を伝った。
苦しかったし沢山悩んだけれど、それは先生のせいではない。だから、そんな辛そうに私を慰める必要はないのだと。しかしそれをうまく言葉にできず、結局私の口からついて出るのは謝罪の言葉だけだった。
「ごめんなさい」
そう言えば、今度は先生がゆっくり首を振った。
「謝らなきゃいけない事なんて何もない。お前は、悪い事なんて何もしてない」
一呼吸おいて、先生が私の肩を掴んだ。背を丸めて私と視線を合わせるように覗き込まれる。私は溢れる涙を手で擦り、先生の目を見つめ返した。
「ありがとう」
そう言って私に向き合う先生の顔は酷く穏やかで、思いもしなかった言葉に私は息を飲んだ。
「緊張しいで臆病なお前がだんだんと心を開いてくれるのが嬉しかった。難しい本にへこたれずに取り組むのを好ましく思っていた。夢がないと泣くお前に、泣いてほしくないと思った。目標を決めて頑張る姿に応援したいと思った」
先生の声はもう震えていなかった。いつも通りの、聞き心地の良い低音だった。
「お前の事は好いている。だが、それはお前が求めている気持ちではない」
酷い、そう思った。先生は酷い。
生徒だからと突き放すのではなく、私を正面から受け止めて、その上で振る先生は酷くて優しい。
「苦しんで、それでも勇気を出してくれたこと、本当に嬉しいと思う。けれど、俺にはお前の想いに応えられない」
それは想定していたものより、ずっと残酷で、ずっと幸せなフラれ方だった。
先生の言葉に私は声を上げることもできないまま、ただ涙した。泣くことしかできなかった。
窓の外では寂しげな木枯らしが吹いていて、それに負けじと運動部が遠く声を張り上げていた。私達以外にとって何でもない日、私の初めての恋は終わった。
≪春≫
結局私は先生の母校には受からなかった。色恋にうつつを抜かしながら受かる様な大学ではなかったのだ。けれど、受かっていたとしても私はその大学には入らなかったのではないかと思う。入学してしまえばきっと私は、先生の面影を探していつまでも前に進めなかったと思うから。
先生は誠一の物語にハッピーエンドもバッドエンドもないと言っていた。じゃあ私の物語はどうだったんだろう。フラれて終わってしまったこの恋物語は、傍から見たらバッドエンドなのかもしれない。けれど私はそうは思わない。この恋をしたことで初めて気付けたことがあったから。私も誠一と同じで、フラれて、やっとスタートラインに立てたのだと思う。
卒業の日。儀礼的な式を終えて、私は先生の生徒ではなくなった。
あちこちで同輩たちが、別れを惜しんで笑って、泣いていた。私はそんな友人たちの輪から抜け、一人離れて卒業生を見守っている先生の元へと足を運んだ。
先生はいつもの草臥れた白衣を脱いで、いつもより上等のスーツに身を包んでいた。
私に気付いた先生が振り返る。
「おめでとう」
ぶっきらぼうに見える、いつも通りの無表情。私が線を飛び越える前と、何も変わらない先生の態度。
泣き虫の私は、この瞬間まで、先生の顔を見たらまた泣いてしまうのではないかと思った。
けれど実際に胸に沸いたのは、先生との別れの悲しみではなく、何とも言い難い静かな気持ちだった。過ぎ去った季節を寂しく思う様な、やがて来る季節を待ち構えているような、そんな気持ちだ。
口を開き、先生が何かを続けようとした。けれどその言葉にかぶせるように私は大きくお辞儀した。
「先生、ありがとうございました」
顔を上げて笑いかければ、先生は少し驚いたような表情をして、優しく笑い返してくれた。
「さようなら先生」
出来る事なら、私が先生にとって消えてなくなる大通りの誰かではありませんように。
それだけ願って別れを告げた。
≪季節は巡る≫
電車の窓の外が、見慣れた景色に変わっていく。
あれから七年の月日が過ぎた。高校三年生だった私も、いまや社会人三年目になる。
今、あの頃を振り返ると、あれが本当に恋愛だったのかわからなくなることがある。恋心と呼ぶにはあまりに幼くて、愛と呼ぶにはあまりに拙い。本当はただの憧憬だったのかもしれない。
あれから私もいくつかの恋愛をした。あの頃よりもっと距離の近い恋愛や、もっと感情的な恋愛もあった。それでも、私の前には未だに先生を超える人は現れてはいない。
きっと淡い青春を美化しすぎているのだろうと思う。真実は分からない。何せこうしてノートを読み返してあの頃の思い出に浸ってみても、あの頃の先生に会うことは出来ないのだから。
***
車窓の景色が流れ、トンネルを越えると、かつて見慣れた風景が広がる。
今日、久しぶりにあの誠一を書いた作家が新作を出すらしい。それを知ったら無性に懐かしくなって、私はつい机の奥に大切にしまっていたノートを取り出した。
電車が次第に速度を緩め、駅へと入って行く。私はノートを閉じて鞄に仕舞う。たどり着いたここは、前に住んでいた実家から二つ離れた駅だ。
とっくに実家を出て地元を離れていたのだが、懐かしいついでにあの雨の日の本屋を訪れるのも良いと思い、こうしてここまで足を運んだ。
電車を降りれば気持ちのいい小春日和で、私は大きく伸びをした。駅前の商店街を抜けて、コンビニの前を過ぎる。桜の咲き乱れる並木道を通り、この辺りでは一番大型の本屋へとたどり着く。
本屋に入れば、相変わらずの書籍の取り揃えぶりで、少し楽しくなる。何せ今住んでいる最寄りの本屋ときたら品揃えが最悪なのだ。
興味のあるフェアに誘惑されながら、私は目的の純文学のコーナーに辿りつく。新刊の並びを目で辿りながら、事前に調べたタイトルを探した。
白い下地に赤い線の引かれた背表紙が目に入る。たった二冊しかないそれは、タイトルと作者名を見れば、探していた目的の本だった。
マイナーな作家だし、売っていない事も覚悟していた私は、見つかった嬉しさのあまり、反射的に手を伸ばした。しかしその本は背の低い私には少し高くて取りにくい所に置かれていて、ギリギリ届かない。台を探せばよかっただろうに、逸る気持ちを抑えられず、無理に背伸びをしていたら、バランスを崩して本の棚に倒れ込みかけた。
しかしすんでのところで、すぐそばにいた男性に腕を支えられた。
「す、すみません」
謝罪すれば、男性は「大丈夫ですか?」と声をかけられる。
しかし私は親切なその人の言葉に返事をすることが出来なかった。
気にした様子もないその人は、私の取ろうとしていた本を二冊手に取って、一冊を私に差し出す。
「どうぞ」と、言葉を続けるつもりだったのだろうか。口を開けたその人の顔は、そのまま驚きの表情に染まっていく。私もきっと、同じような顔をしているだろう。
「……先生?」
先に確かめたのは私だった。
そこには思い出より少しだけ老けた、けれど確かに思い出と違わない、先生が立っていた。耳の奥で、あの日の雨音が鳴る。
先生は私の名前を小さく呼んだ。そして意味を持たない声を上げながら目を巡らせて、もう一度私を見る。
「そう言えばあの雨の日の約束、破ったままだったな」
遠くで学校のチャイムが鳴るのが聞こえた。