英雄の哀歌 2
アラドーネの告白とそこに込められた毒はゴーザとユウキの心を侵食し、大きくその力を削ぐことになる。
『アラドーネの登場はトードリリーによって最初から仕組まれていたのではないか』
余りにも一方的に天秤を傾け、小さいながら運命の潮流を分岐させたこの一幕については後世の研究者が議論する所と成る。
だが結論から言えばトードリリーはこの件に全く関与していない。
仮にアグリオスがジャンプする先を一番近くのアラドーネと予想できたとしても、ユウキの水流がその炎を消す事やこのタイミングで目覚める事など計算できるものではなかった。
それに奔放で刹那的な、文字通り揺れる炎の様な性格をしているトードリリーはこの様な布石は苦手としている。
ここまで偶然性の高い事態について想定・準備・対処するぐらいなら、むしろ何もしないで現状を維持できればいいと考える方だった。
運命を操る者がいる世界で『偶然』がどれ程の意味を持つのかは甚だ疑問ではあるが、少なくともこの場にいる当事者でこの状況を予見できた者など一人もいなかったのだ。
こうしてアラドーネの起こした波紋は誰にも制御できぬまま、より複雑に形を変えてユウキを押し流して行く事となる。
「おい、『ンなし』。つまんないから何か面白い事をしろよ。」
「あっ、それがいいや。『ンなし』なんかしろ!」
「わ、私の事をそんな呼び方をしないで!私には『アラドーネ』って言うちゃんとした名前があるのよ!」
「そんなことは知ってるさ。じゃあ苗字を言ってみろよ。」
「フェ・・・フェンネルよ。」
「はぁ~聞こえなかったなー。」
「フェンネルよ!アラドーネ・フェンネルが私の名前よ。」
「えぇー、そうだっけ?フェンネルの家の『ン』の無いフェネルだろう。」
「ちっ、違うもん!私だってゴーザお父さんの子だからフェンネルだもん。アラドーネ・フェンネルだもん。」
「嘘をつくとお前の母ちゃんが泣くぞ。『ンなしのフェネル』。」
「そうだ。そうだ。『ンなしのフェネル』」
「『ンなしのフェネル』」
「違う!違うモン。私だってフェンネルだもん。」
「違う!」
「違うのよ!」・・・・
***
「次の方、どうぞ。」
「よろしくお願いします。」
「では、お名前をお願いします。」
「アラドーネと申します。」
「アラドーネさん?家名は・・・」
「家名は・・・フェンネルです。」
「えっ、フェンネルって、あの英雄ゴーザの?あれ、でもこの書類には『フェネル』とありますが。」
「ゴーザは父です。家名はフェンネルですが、私の苗字はフェネルで間違いありません。」
「履歴書に偽名を書いたのですか?採用試験なのですからそう言う行為はどうかと思いますが。」
「違います。」
「ではどう言う事ですか。ふざけているのですか!」
「・・・」
(先輩・・・多分彼女はふざけてないですよ。)
(何?どう言う事?)
(知らないんですか。英雄ゴーザの家の変な風習は割と有名ですよ。)
(えっ能力の欠如・・・苗字の蔑称、いえ劣称?じゃあ、ゴーザさんの娘でもあまり期待はできないのね。・・・うん、解ったわ。)
「あー、フェネルさんはもう結構です。お疲れ様でした。結果は後日連絡します。」
「・・・」
「どうしました。もう退出してかまいませんよ。では次の方どうぞ。」
***
ふいに浮かんだ情景にゴーザは訝しみつつも、その意味する事に思い至ると深い慙愧の念が切り裂く様に胸の内を駆け巡って行った。
「儂は・・・何も聞かされてはいなかったのか。」
母親であるエリスは知っていたのかもしれない。
しかし、探索者として家を空ける事の多いゴーザには娘の暮らしぶりについて考える時間は驚くほど少なかった。
娘が名乗る姓についてこれほど苦しんでいるとは知る由もなかったし、当時のゴーザであれば状況を知ったとしても取り合わなかった可能性も高かった。
また、だからこそエリスもゴーザの耳に入れずに娘を慰撫するに留めたのだろう。
だがこの苦しさはどうだ。
まるでコルドランの底で一人死にかけた時の様ではないか。
今のゴーザであれば娘の心が少しでも安らぐのならばこの腕を切り落としても惜しくはないと思えた。
だが、
今更どうしようもなかった。
アラドーネの傷をなかったことにはできなかった。
その歪みがユウキを害するのを止める事はできなかった。
今、優先しなければならないのはユウキの心だ。
娘を更に傷つける事になるかもしれないし、修復できない程の乖離を生むかもしれないがそれでも片方しか救えないのならば迷う余地はなかった。
「アラドーネ。」
静かだが強い意志を込めた声には些かの揺らぎもない。
探索者として軽重数多くの決断を繰り返し、数多くのものを決断して同じだけのものを切り捨ててきた。
一度、心を決めたならば自身の感情など鋼の意思で抑え込む事はゴーザにとっては何度も経験してきた事だった。
アラドーネの腕を掴んだ手に力が籠る。
「アラドーネ・・・」
睨み返すアラドーネに決別に等しい言葉を継げる事は、しかしできなかった。
自らの胸から噴き出した赤黒い炎とそこから現れた妖艶な女がゴーザの言葉を奪い去った。




