神託
ジェダーン伯爵領教区カウカソス中央教会の一室でカロッタ司教は夜遅くまで決済待ちの書類と向き合っていた。
部下たちも気心の知れたベテランばかりなのでほとんどの書類は承認のサインをするだけ、だがいい加減に読み飛ばす訳にもいかず地味だが気の張る作業をつづけていた。
教会の制度上では重要案件以外は押印で済ませることもできるし、同輩の中にはそれさえも次席の者に任せてしまう事もある。
だが部下を信頼する、しないなどという以前の問題でカロッタにはそんな事はできそうになかった。
部下本人がどれほど真面目に取り組んでいたとしても問題は常に起こる。
最終的な責任は長たる者が負うとは言え、最後に事案に関わった者が無関係でいられる筈は無い。
もし自分が手を抜けば部下にいらぬ不利益を押し付ける事になりかねない。
それに例えポーズだけであっても上位の者が目を通す意味は大きい。
それだけで不正や怠慢を成功させるハードルが2、3段は上がり、邪な事を目論む前に思いとどまらせることが出来る。
階段の手すりと同じで、在ってもそれ程使う事はないが、無ければ(邪に)落ちる心配をしなければならなくなるのだ。
カロッタ自身はこれはこれで主神様の御心に沿う行いなのだと思う事にしていた。
それからしばらくは精力的に仕事をこなしていたが日付が変わる頃になると流石に疲れの色が見えてきた。
朝日の清々しさよりも黄昏のもの寂しさが心に響く年になれば、気力はあっても身体は正直だ。
そろそろ休まないと明日の仕事に差し支えるだろう。
疲れた目を瞬かせながら顔を上げるとある異変に気づく。
「これはどうしたことだ。静かすぎる。」
夜遅いとは言っても聖トリキルティスの聖祭が間近に迫っているので寝静まる時間ではない。
ここは奥まった所にあるとは言え先程までは廊下を行きかう靴音や話し合う声が届いていたのだ。
それが今は世界が音を忘れたかのように何も聞こえなくなっていた。
「これは・・・怪異の類か?だがエフィメート様の僕たる聖光協会で大胆な事だ。」
カロッタ自身も神聖術に長けているのでこの程度で取り乱す事はない。
さて何者の仕業なのかと半ば興味深く待っていると俄かに部屋が輝きに満ち溢れ、光りの中心に神々しい姿が現れた。
輝くばかりの金色の髪に透ける様な白磁の肌、背には右だけの純白の翼を開いている。
どうして見紛う事があろうか。
それは朝に夕に祈りを捧げている聖像そのままの姿なのだから。
伝え聞くそのままに霊性を秘めた瞳は強すぎるが故に今は閉じられている。
『カロッタよ。我が名はエフィメート。神々の長としてこの世界の全ての運命を司る者です。』
静かな声はカロッタの魂を振るわせる様に響き、感動のあまりそれだけで涙が頬を伝う。
「おおっ!この神々しき御姿は、誠にエフメート様でいらせられますか。私如き下賤な者の前にご降臨いただけるとはなんと恐れ多い事でしょう。」
慌てて平伏したカロッタを気にする事もなく、エフィメートは静かに話し始めた。
『この世界に試練の時が訪れようとしています。あなた達は自らの行いで自身の行く末を決めなければなりません。』
思わず顔を上げたカロッタ。
「そ、それは、いったい・・・。」
『我が姉神プロムが封印の地より逃れ様としています。』
「プロム・・・様が・・・」
普段では決してしないのだがプロムの名に慌てて敬称を付け足した。
プロムは原初の邪神であり、畏れられ忌むべき存在として敬称などで呼んでいれば背信者かと疑われかねない。
しかしエフィメートにとっては自身の姉神であり、今なお慈悲の手を差し伸べ続けている相手とあっては自分如きが呼び捨てるのは憚られた。
『気づかいは無用です。プロムは私の姉神ですが邪神となって罪を犯し、皆が知っている様に2000万年に渡って贖罪の地に封じられています。悔い改めて我に従う様に諭してはいましたが一向に聞き入れず、それのみか奸計を巡らせる始末。いつまでも悟る事の出来ない愚かさに我が姉神ながら情けない限りですが、彼の者も力ある一柱の大神です。一たび解き放たれるならば地には災いが押し寄せ、人は麻の如く乱れ、やがてはこの時空そのものを消滅させる最終崩壊を呼び起こす事になるでしょう。』
告げられた事の大きさにカロッタは瞬きさえ忘れて己が信仰する神を見つめていた。
本来、聖像を拝するときでさえこの様に不躾に顔を向ける事はない。
俯きながら畏れ敬う気持ちで仰ぎ見るのだ。
聖職者たるカロッタがそれを知らない筈は無かったが、慣れ親しんだ動作を忘れさせる程に受けた衝撃が大きかった。
「わ、私たちはどうすればいいのでしょう。」
『プロムの憑代を探しなさい』
「憑代ですか?」
『かつて、この様な事態を予見したプロムは人の血に自分の因子を隠しました。幾千万の欠片に別けられたプロムの因子は人と共に広がり繁り、今では持たざる者を探すことができないほど人の世に根付いています。』
「そんな、私たちは愚かで矮小な存在ですが邪神に穢されているのですか。」
『因子自体は人に小さな才能として現れる以外、特に穢れたものではありません。それ故に神々も気にする事無く許していた物です。しかし一つ一つは問題なくとも、それが一つに戻った時に彼の者の望みは果たされるのです。そして波間に撒かれた羽が世界中を巡った末にまた一つの翼に戻る程の奇運で、今の時代に全ての因子を受け継いだ者が生まれているのです。その者がプロムと見える時、彼の者は己の全ての能力と意識を移し替え、人として転生するつもりなのです。』
「その者は、いま何処に・・・」
『判りません。プロムは巧妙にその存在を隠しています。しかし、次のトルキルティスの聖祭の時、この街の教会にその者は現れます。』
「それでは、そのプロムの因子を持つ者を粛清するのですか。」
『いいえ、殺してはなりません。プロムの目論見の結果であっても、その者に罪はないのですから。利用されない為に探して保護するのです。』
エフィメートのこの言葉でカロッタは少しほっとした。
主の仰せであれば禁忌に手を染める事も厭わないが、気の重い事に変わりはなかった。
それに、この様な場合であっても己が敬う神の慈悲深さが嬉しかった。
『明日のこの時間、礼拝堂で待ちなさい。プロムの憑代を見つける為に私の配下の神を遣わしましょう。その者の指示に従い、プロムの目論見を破りなさい。』
「全ては主神様の御心のままに。この身が如何なる事になろうとも必ずお言葉を成し遂げてみせましょう。」
『頼みましたよ。』
再び平伏したカロッタの前でエフィメートは輝きと共に去って行った。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌日の深夜。
カロッタは告げられた通り一人で聖堂に来ていた。
昨夜拝した御姿そのままの聖像に跪き、一心に祈りを捧げ続ける。
その心にある想いは感謝と熱意。
カロッタは幼い頃に聞かされた神話の世界に魅せられ、中でも世界を支え続ける為に御力を捧げるエフィメート様に憧れていた。
聖職者になったのも少しでも御許に近づきたい、御心に沿いたいという想いからだった。
だから日々身を慎み、勤勉に務め、理想の信徒であろうと祈りを捧げてきた。
しかし誠実に務めれば務めるほど、教会の中で与えられる仕事は部下の管理や書類の処理など神の御心に沿うものとはかけ離れて行く。
いっそ未開の地に赴いて生涯を布教に捧げようかと考えた事もあったが、一度組織の中に組み込まれてしまえば抜ける事もままならず、燃え差しの様な想いを抱えながら日々を過ごしていた。
そこに憧れのエフィメートが降臨し、自分に『頼む』とまで言って下さった。
舞い上がる程の高揚感と共に、自分の身がどうなろうと必ず成し遂げてみせると決意していた。
そして、昨夜と同じく日付が変わる頃、聖像の前に設えられた燭台の炎が揺らめき、棚引き、渦を巻いて、やがて人の形を成して清楚な女性へと成り果てた。
その姿は妖艶。
濃い神性を持つものの、昨夜のエフィメートが性別を超越した美しさを持っていたのに対し、目の前に現れた存在は明らかに女性の持つ艶やかな美しさに溢れていた。
「あなたがカロッタですね。全てエフィメート様から窺っています。この聖祭の間に邪神の憑代はこの街に現れます。わたくしがその者を見つけますからあなたはその者を捕まえるのです。」
カロッタは目の前の神(おそらく神なのであろう)に少なからぬ違和感を覚えていた。
慈愛に溢れていたエフィメート様と異なり言葉の端々にササクレの様な棘を感じる。
本当にこれはエフィメート様の遣わしたものなのだろうかと疑惑が頭をよぎる。
「あなたは一体誰なのですか。」
「そうでしたね。人の世を離れて久しいので名のる事を忘れていました。お聞きなさい。私はトリキルティス、かつて聖職者として一身を捧げ、死してエフィメート様に神の座に導かれたものです。ですがこの名は知れ渡り過ぎていて差し障りがあります。今より私の事はトードリリーと呼びなさい。」
後に“カウカソスの騒乱”と呼ばれる事件は誰も(幕開けに立ち会ったカロッタやトードリリーでさえ)気づかぬままに、密かに幕が上がった。




