心の底にあるもの
ダンダールがアグリオスの炎に囚われたのを見た瞬間にユウキはマリーンの手を取って駆け出した。
「マリーン、逃げるよ。」
「でも、あの人たちが・・・」
背後で胸に炎を灯したダンダールが立ち上がった。
「子供の僕たちにできる事なんてはないよ。それよりも人に燃え移りながら虜にするあの炎の事をみんなに知らせないと。」
ユウキにはアグリオスの周りに吹き出す濃い神素の気配がありありと感じられた。
あれは嫌と言うほど教え込まれた神の気配に他ならない。
「今は逃げる事だけを考えるんだ。」
マリーンも愚かではない。
触れば虜にされる炎に対して何かできるとは思っていない。
ただ、ここまで一緒に来た人たちを置いてゆくことが忍びなかったのだ。
ずっと一緒にいたアスミの姿を探したが、増え始めた人の中に紛れて見つける事はできなかった。
図らずも再びユウキと手を繋ぐ事になったが、今は恥ずかしさに赤くなるどころか不穏な空気に青白い顔をしている。
パラパラと現れる人を慎重に避けながら、アスミ達と歩いて来た道を今度は逆に走り戻る。
幸い現れる人には生気がなく、動きはそれ程早くないので苦労せずに避ける事ができる。
だがそれも人数が増えればその限りではない。
数人の男が道の向こうに立ち塞がるとすり抜ける事ができなくなってしまった。
やむ無く立ち止まると後ろからアグリオスが近づいてきていた。
「もう、終わりだ。散々手間を掛けさせてくれたが二人そろってバラバラにしてやる。」
『それは困るわ。』
何処からか優しげな声が聞こえた。
アグリオスの胸の炎が一瞬大きくなったかと思うと渦を巻いて徐々に人の形になり、炎が元に戻る時にはそこに一人の女性が立っていた。
「私が誰だか分かるわね。その娘はあるじ様のお仕事をするのに必要なの。だからあなたのすきにさせるわけにはいかないわ。」
「ですが・・・」
「反対?」
「いえ・・・」
「あなたの事は分かっているわ。悪いようにはしないから黙っていなさい。」
あのアグリオスがそれ以上何も言わずにおとなしく下がって行った。
「初めましてかわいいお嬢さん。あなたの事をずっと探していたのよ。」
金糸の縁取りがある教会の服を着た女の人が優しそうに話しかけてきた。
「私はトードリリー。教会で働いているのよ。少し聞きたい事があるの。手荒な事をするつもりはないから一緒に来てくれるかしら。」
笑顔だけ見れば肯いてしまいたくなるが、濃度を増した神素がこの女の人も神族だと教えている。
あの時以来、ユウキにとって神族は気軽に接していい相手ではない。
「あなたは神族ですよね。そんな話が信じられると思いますか。」
ちらりとトードリリーが視線を向ける。
マリーンに対する優しそうな笑顔と異なり、ユウキの事は路傍の石を見る様にそっけない。
「あなたがこの子たちの探している子供ね。たしかフェンネルと言ったかしら・・・。礼儀が成っていないみたいだけれど特別に許してあげる。」
「それはどうも」
などと言うつもりはない。
ユウキは何かを見極めるようにじっと相手を見つめていた。
トードリリーと名のった相手もそんなことを気にする様子はなく、視線を向けただけで顔を向ける事さえしていない。
「私は嘘なんかつかないわよ。あるじ様のお役に立とうと教会でちゃんと働いているし、そこのお嬢さんの事は丁寧に扱うと約束するわ。」
「人間なんて遊び道具ぐらいにしか考えていないくせに・・・おじいちゃんが言っていましたよ、神族の約束は言葉遊びだって。あなたを信じていい理由は全くありません。」
「よく誤解されるけど、私たちは人の次元に降りる時に物質の理を当てはめているので細かな認識の違いが出てしまうの。でも物質に囚われない分、人との約束は大切に考えているわよ。契約と言った方がいいかしら。契約って判る?こちらはこうするからあなたはこうしてと決めておく事よ。」
「・・・・・」
「子供には難しすぎるかしらね。でも、これならどうかしら『お嬢さんが私に協力すれば私はお嬢さんと坊やに危害を加えない』。お嬢さんが承諾してくれれば契約は成立よ。」
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「何かしら?」
「あなたが本当のことを言っているか分からないのにあなたの約束をどうして信じると思っているんですか。」
「でもそれでどうするの。私は進んで協力してほしいから提案しているだけ。力ずくで言うことをきかせてもいいのよ。」
「あなたと契約するとそこの人たちの様に操られるのではないですか?自分の意思を奪われるくらいなら僕は死ぬまで抵抗します。」
「そんなことを気にしていたの?この子たちは操られてなんていないわよ。自分の意志でこうしている今も見聞きしている事は理解しているわよ。」
「そんな筈あるわけない!だったらなんでさっきまで助けてくれていた人たちが僕を追い回すのですか。何であんな泣きそうな顔をしているのですか。」
「自分のしたい事の優先順位が変わっただけよ。私の炎は解放の炎。今まで心の奥底に押し込められていた想いを解き放って本当の自分に導くの。私は押し込められた想いの守護者よ。」
「あれが本当の自分?今までの心を強制的に入れ換えて?生きてして来たことや大切にしていた事を全てなかったことにして?そんなものを僕は自分とは思わない。元のあの人たちもそんな風には考えないはずです。」
「子供のあなたに何が分かると言うの?人は心の底でより大きな存在に従いたいと思っているわ。それは力を持った者や大勢の人かもしれないし、私たち神かもしれない。いづれにしても何かを決めて欲しがっているのよ。」
「人がそういう想いを持っていたとしてもそれが全てじゃない事は分かります。」
「なぜ?」
「あの人たちが戦っているからです。あの人たちは暴走する自分自身を引き留めようとしているじゃないですか。腕を上げるのも足を動かすのも泣きそうになりながら躊躇っているじゃないですか。あなたがしている事は平和に収まっていた心を分裂させて争いを起こしただけです。」
「だったらどうするつもり。」
自分の決意を確かめる様にほんの僅かな間だけ言葉に詰まったがユウキは惑いを振り切る様に大きく息を吸い込んでマリーンと目を合わせた。
「ごめんよ。マリーンの安全だけは確保できたかもしれないけど僕はこの人に協力することはできない。」
「ううん、私も同じだよ。こんな事を許しちゃいけないと思う。」
「トードリリーさんと言いましたか?あなたは邪悪だ。僕たちはどんなことがあってもあなたには従わない。」
「仕方がないわね。こんなことはしたくなかったけど力ずくで協力してもらうわ。この子たちと同じになってもらうけど、抵抗するなら痛いのは覚悟してね。」
この時、トードリリーは初めてユウキに微笑みかけた。
途端にアグリオスが満面の笑みを浮かべながら前に出てくる。
「そういうわけだ。お前は新しく手に入れた神威で焼き尽くしてやる。」
「そうね。私の炎なら思い切りやってもいいわよ。その娘の方は死なない程度には護るから。」
「だ、そうだ。小僧、簡単にくたばるなよ。」
アグリオスが右手を掲げると腕から伸びた炎が剣を覆い、一本の巨大な炎の剣に変えた。
「あはははは!すごいぞ。力が溢れてくる。お前のおかげで俺は生まれ変わった。この神威!味わうがいい。」
剣の間合いにはまだ距離があるにもかかわらずアグリオスが剣を振りぬいた。
壁のように大きさを増した炎が瞬く間に伸びて行く。
「炎には水!」
ユウキは腰の剣を抜くと3つのロジックサーキットからセレーマを注いで振りぬいた。
迫る炎にユウキの剣から生まれた赤い水がぶつかり大量の水蒸気が辺りを覆う。
だが、炎の勢いは尚も強く、靄を貫いて迫るものが残っている。
ユウキは急いで重ね掛けを5つに引き上げると身体を捻じるように斬り返して炎を切り裂いた。
「ユウキ、前!」
もちろんユウキも気づいている。
炎を飛ばした直後にアグリオス自身が迫ってきていた。
今までの鈍重な歩みではない。
飛ぶように進む姿はもう走って逃げ切れるものではなくなっていた。
二度も剣を振らされた事でユウキの体勢は崩れてしまい、避けたり受けたりする余裕はない。
辛うじてできたのは腕を上げて力の乗らないながらも剣を防壁の様に構える事だけだった。
ユウキの剣は木で出来た玩具の模造品だ。
実体のない炎を水で迎え撃つならともかくアグリオスの剣戟が耐えられるはずはなかった。
大量の赤黒い液体がユウキの腕を、頭を、胸を伝って滴り落ちている。
足元に溜まった液体はユウキを飲み込みそうな程になっていたが止むことなく流れる液体にまだその面積を広げ続けていた。
荒い息を繰り返しながら見上げたユウキの目の前では唸る炎がユウキの黒い剣に受け止められていた。
5つのロジックサーキットを重ね掛けした結果、濃さを増した赤黒い液体が豪雨の激しさでユウキを濡らしている。
アグリオスの力であれば生半可な剣など叩き折れるはずなのに木製のおもちゃがその豪力に耐えきっていた。
いや、それどころか全く負荷を感じない。
寸止めされている訳ではないのはギリギリと力を込める男を見れば一目瞭然。
吹き出る水の圧力が押し返しているはずもない。
一枚の絵のように止まった景色の中で赤い水たまりだけが大きさを変えて行った。
「な、何をしているのですか。早く焼き殺してしまいなさい。」
焦った女の声がするがアグリオスは初めからそのつもりでいる。
ただ、出来ないだけだ。
「くっ、だらしない。仕方ありません。皆さんで行きなさい!」
トードリリーの周りにいた人たちがノロノロと動き始めた。
その中にはダンダールの姿も見て取れる。
ユウキが剣を撥ね上げて横一文字に一振りすると赤い水が三日月の様に飛んでアグリオスの胴を薙ぐ。
苦しそうな叫びを聞き終える前に今度は迫ってくる人たちに向けて斬撃を飛ばしたが今度は赤く染めただけで苦しむことも胸の炎が消える事もなかった。
「どうなっているんだ。」
何度やってもアグリオス以外にはただの赤い水以上の効果はなかった。
「なんだかわからないけど普通の人間には聞かないようね。いいわ、あなた達はそのまま二人を捕まえてちょうだい。」
前後を塞がれて逃げ場はなく、物量の前に子供ができる抵抗など多寡が知れた。
ドカン
ドカン
ドカン
鈍い音がすると背後を塞いでいた人影が消えた。
「坊主たち、大丈夫か。こっちへ走れ!」
それは聖者の盾で左右の哨戒をしていた二人。
ゴルゾフ達と戦いが始まった時に大きく後ろに回り込んだ二人がようやく合流してきたのだった。
「ありがとうございます。でも他の人たちが・・・」
「大よそは観ていた。だが今はここを離れるのが先だ。」
前方にはまたもや亡者の様に生気を失くした人たちがゆらり、ゆらりと現れていた。
「くっ、援護するから力の限り走れ!とにかく包囲を抜けるんだ。」
行く先のかなり向こうでもゆらりとした人影が現れ始めていた。
ユウキはマリーンと繋いだ手をギュッと握りしめた。




