路地裏の二人
路地を幾つも曲がり、人々の騒ぎの声が遠ざかった頃、ユウキは足を止めてゴミの散らばる地面に腰を下ろした。
心臓が激しく脈打ち、空気を取り込もうと呼吸が大きくなる。
手足の筋肉や関節は酷使され熱を帯び始めており、斬られた腕から流れた血が右腕を赤く染めて、まるでゴーザの赤翼のマントを羽織っているかのようだ。
タルタロスサーキットを開いている間はユウキに苦痛や不安ははないが、だからと言って物理的な限界が無くなる訳ではない。
身体からの危険信号を無視することで安全域を超えた力を出していたが、それは”崖を転がる岩が自身を砕きながら勢いを増していく”様に、制御しきれない力に身を任せているに過ぎなかった。
冷静に状況を判断し続けて、どこで止めるかを見極めなければ命に係わる事すらあり得る諸刃の剣なのだ。
少し呼吸が落ち着いたところでポケットからハンカチを取り出し、斬られた傷を縛ってとりあえず出血を抑える。
酸欠の為か、血が流れ過ぎたのだろうか、少し朦朧としている。
それでも散り散りになりそうな意識をかき集めてドールガーデンだけは何とか維持していた。
いや、未だ視力は戻っていないので、周囲の状況を知る為にもドールガーデンを閉じる訳にはいかなかった。
マリーンは先ほどの光景におびえ、歯をガチガチと鳴らしながら震えていた。
座り込んだユウキに抱きかかえられたままという事も気づいていないらしく、目の焦点が合っていない。
ユウキの血に染まって白地のワンピースはきれいな赤い模様に替わっていた。
「どうして・・・アリオお兄ちゃんが私を殺そうとしたの。あんなに優しかったのに・・・」
自分の考えに沈み、未だ周囲の状況が解っていない様だが、ユウキとしては確認しなくてはならない事がある。
何しろ分からない事が多すぎて、今後どうするかさえ決める事が出来ない。
「アイツらは誰?」
ユウキの質問にもマリーンは反応しない。
親しい者に狙われる悲しさはユウキにも覚えがあるが、今は時間が惜しい。
独り言をつぶやき続けるマリーンの頬を軽く叩くと、白い頬がユウキの血で真っ赤になる。
左腕でマリーンを支えていた為、血だらけの手で叩いてしまったのだ。
血に染まった顔は何かが違う様な気がした。
「マリーン・シュプリント!しっかりして。」
はっと焦点の合った目でユウキを見て意識が現実に戻って来たのだろう、一しきり周囲を見回し、自分の身体をあちこち摩って怪我がないか確認し、真っ赤になった服を見てユウキが斬られた事を思い出した。
「血が・・・すぐ手当しなきゃ!」
ユウキの腕に手を伸ばすが、布の巻かれているのを見て手を止める。
そして、自分がユウキの上に乗っていた事に気づくと、今度こそ顔を真っ赤にして飛び退いた。
「ご・・ごめんなさい。怪我、大丈夫?」
赤い顔を隠す様に少し俯きモジモジしている仕草は可愛いと思うが、そんな暢気な状況ではない事に思考がついてきていないのだろう。
だが、ユウキは怒る事も急かす事なく笑いかけると、小さな子供にするように優しく頭を撫でた。
マリーンが『えっ』と顔を上げる。
何の隔意もなく心を開いてきたマリーンの態度に、無意識にリューイを重ねているのだが、ユウキがその事に気づくことはなかった。
「アイツらは誰なの」
マリーンの顔がさっと引き締まった。
「あの人はアリオさんと言って私の家に前からよく来ていた探索者よ。小さな頃から一緒に遊んだりしてくれたのに・・・」
「他の二人は?」
あの閃光で白く染まった中、剣を抜いて駆け寄ってくる人影が二つあったことをユウキは観ている。
その為、のた打ち回る襲撃者をその場で取り押さえる事が出来なかったのだ。
「他の人?アリオさんの他にも襲い掛かって来た人が居たっていうの!・・・そんな、何で私が・・・」
「それじゃあ、マリーンは何であそこに居たの?僕が言うのも変だけどシュプリントのお嬢様が一人で来るような所じゃないと思うけど。」
「それは・・・」
しばらくは恥ずかしそうに言い淀んでいたが、自分が置かれた状況を思い出してオズオズと口を開いた。
「今日はお父さん、お母さんと一緒に聖トリキルティスの祭典の為に教会に行ったの。アリオお兄ちゃんとは並んでいる時にそこで会ったわ。教会からの依頼で人の整理をしているって言っていたと思うわ。その後は聖紙に誓いを書いて縛った物を聖火に捧げて・・・お父さんたちとはぐれてしまったので、探していたらユウキくんの所にいたの。」
「今日会った時、アリオっていう人はどんな感じだったの?」
「特にいつもと変わらなかった。笑って頭を撫でてくれていたもの。だから解らないの!なぜ急にあんな事になってしまったのか・・・」
親しい人が急に襲い掛かってくるのはユウキにも覚えがある。
アラドーネの時にもあれほど殺気を持って襲い掛かって来たのに本人には全く自覚がなかったのだ。
今度の事もあの時と同じかもしれないと思ったが、アリオからは神素を纏っている感じはしなかった。
ユウキはあの事件の後、再度の襲撃を警戒したゴーザから対応について叩き込まれており、神素濃度の変化があれば気付かなかったはずはない。
「教会か・・・行ってみるしかないかな。」
ここまで関わってしまったら放置しても良くなるとは思えない。
それに、マリーンを安全な所に送って行く必要もある。
先程の話では両親とは教会ではぐれた様なので、普通であればその場でマリーンの事を探している可能性が高いだろう。
迷子になったからと言って、こんな離れた所に来ているマリーンがおかしいのだ。
ユウキは立ち上がってドールガーデンで観えている情景を観察する。
先程の場所では騒ぎが大きくなっている様で、人が増えて通り抜ける事は出来そうにない。
少し前から倒れているアリオに話しかけている男がいる。
父親と同じ位の年齢で一目で探索者とわかる格好をしている。
音は聞こえないが見ず知らずの人が介抱している訳ではないだろう。
やがて身振り手振りを交えて話した後、周囲の人に向かって何か指示を出して10人ほどの男達と一緒に歩き出した・・・・・・ユウキ達が逃げ込んだ路地に向かって。
『急いだ方が良さそうだな。』
アリオの仲間でユウキ達を探しているのだろう。
路地を幾つも越えて来ているので直ぐに追いつかれる訳ではないが、探索者は追跡に慣れている。
なるべく早く人混みに紛れなければ見つかってしまうのにそれ程時間はかからないだろう。
この時、追手の事に気を取られて倒れている他の人については全く考えていなかった。
一つにはタルタロスサーキットを開いている為に半ば他人事のように観ていた為、自分が起こした騒ぎだと言う事に実感があまりなかった。
これはタルタロスサーキットの弊害の一つだ。
痛み・不安・恐怖など負の情報は人の行動を縛る鎖の様な物だが、同時に人間が進化の過程で手に入れた安全機能でもある。
痛みを感じず、未来の状況に不安を抱かず、他人からの報復に恐怖を憶えなければ『関係ない』と切り捨ててしまっても無理ない事だった。
もう一つは、自分は被害者であり、また自分がした事も”灯りの魔導具で目くらましをした”に過ぎないので問題があるとは考えていなかったという事もある。
また、『何もしてくれなかった群衆に気を配る必要などない』と子供らしい潔癖さで無意識に判断しているのかもしれない。
ただ、実情がどの様なものであったとしても、訳も分からず巻き込まれた集団にはそんな理屈は通用するはずもない。
パニックに陥った集団が思いもかけない方向に向かう事をこの時は知る由もなかった。
『まずは自分とマリーンに付いた血糊を洗える所を探して、できればマリーンの服も何とかしたいな。』
ユウキはマリーンの手を取ると、手近で人のいない水場に向かってあるいていった。
11/27修正しました。