負け組勇者と残念魔王 ⑤
教室に到着した真勇人は、うわぁ、と露骨に嫌な声を上げた。
既に廊下の時点で不気味だったが、夜の教室というのは、不気味を超えてホラーの領域だった。それこそ、教室の掃除用具の中から幽霊の一人でも飛び出してきたり、カーテンの隙間からは誰か見ているような錯覚すら覚える。
「か、考えるのは、やめよう……」
恐怖感を拭うように声を出し、頭を振るう。
(気のせいか、悪寒も感じるな。俺の考え過ぎだろうか?)
このままここで立ち止まっているわけには行かない、と勇気を振り絞り歩き出す。
弱い月明かりを頼りに机にぶつかりそうになりながら、まずは自分の席へ向かう。
暗闇の中で引き出しに手を突っ込み、探ってみれば、自分が置きっぱなしにしている教科書やノートが出てくるぐらいだ。
はて? と首を傾げる。その視線が行きつく先は、前方の席。
今朝の記憶を思い返してみれば、オリエからタッパーを受け取った記憶がない。キッチリと机の中に押し込んでいた椅子を引き、伸ばした手を一旦止める。
(オリエの机の中に手を突っ込むのも、なんだか悪い気がするが……)
真勇人は自分の中のモラルに問いかける。だが、今引き出しを漁るよりも、明日の朝、オリエは自分の食べる物が用意されていないことの方が怒るような気がした。
「悪いな、オリエ」
ここにはいないオリエに謝罪の言葉を述べると、引き出しに手を突っ込む。
適当に物を突っ込む真勇人の机とは違い、スムーズに奥まで入り込むと、あっさりタッパーを発見する。
タッパーを掴み、引き抜けば、綺麗に空になった容器が顔を出し――。
「――ぐっ」
突然の圧迫感に手に持っていたタッパーを床に落とす。
軽い音が教室に響く。真勇人は、圧迫感の原因である首元に手を伸ばす。
真勇人は、突然背後から首を締め付けられていた。男は真勇人も見覚えるのある用務員の男性だった。
真勇人は、男から逃れようと肘を突き上げ、足を動かして逃げ出そうとする。しかし、その拘束が解かれることはない。男が異常なまでに強力な腕力を発揮していることもそうだが、そのこと以上に真勇人が恐怖を感じていることがあった。
真勇人も勇者学園の生徒の一人なので、一般人異常の戦闘能力は持っていた。しかし、目の前の男は真勇人の反抗に対しても、一切の反応を返さない。既に男の体中は痣だらけのはずだが、真勇人を捕まえるための痛覚を持たない操り人形でしかない。
少しずつ意識が遠くに行きそうになるのを根性で堪える。
(あ……やばい……)
抵抗していた腕や足に力が入らなくなる。
自分の未熟さを恨み、諦めかけた時、急に息をするのが楽になる。
久しぶりにまともに入ってくる空気に咳き込む。だからといって、体の拘束が解かれることはなく、息は楽になったが、身動きのできなくなる程度の腕の力。
「オマエ……マオウ、カ……?」
ゾンビを連想させるようなたどたどしい言葉遣いをする男の声に、眉を顰めた。
(人の声じゃ……ない……!)
「……何を言っているんだ」
真勇人にとって、理解のできない質問だった。
魔王はとっくの昔に死んでいる。それが復活しているとなれば、今頃は世界中が大騒ぎだ。それに、ここは勇者だらけの勇者学園だ。魔王に関係するものは近づきたいとは思わない。
「マオウ、ドコダ」
短く単語で喋る男。その声、真勇人が聞いたのは用務員の男のものだが、地獄の底から響くようなおぞましい獣の声にも思えた。
背中で覆いかぶさる男の力は少しずつ強くなる。これは、冗談ではなく、本気で魔王を探している。
命の危険が迫っていることに焦りを覚えるが、真勇人には目の前の狂人を大人しくさせる答えは持ち合わせていなかった。
(俺の人生、本当にあっけないものだったな……。こんなところで死ぬなんて、情けないよ。……まあいいや、どうせ俺は――無能だ)
最後の最後まで情けない、抗っていた力を抜いて、死を受け入れようとしたその時。
「――その人を、離して」
誰かの声が教室に凛と響く。
少女の声。しかし、真勇人のぼんやりとした意識では、どんな顔をしているのかも、どこにいるかも分からない。先程よりも暗くなった視界で、その頼もしい声を探そうとする。
「がっぁ……」
急激に強くなる首への圧迫に動かそうとしていた目が自然と上方向へと向く形になる。
苦しくなる呼吸。それは、確実に命の灯火を消そうとしていた。
「それ以上するなら。……殺す」
鋭いナイフを思わせる少女の声は、ニット帽を被った女子生徒のもの。教室の扉のところで、男を睨みつける。
真勇人には、彼女の怒りの声が届くことはない。それほどまでに、彼の体は弱りきっていた。
「オマエガ……マオウカ……?」
男は真勇人と同じ質問をした。見せ付けるように力を入れる男の腕の中で、真勇人の顔はどんどん青白くなる。
焦りの色を浮かべる女子生徒は、半歩ずつ男に近づく。
「ミッツ。サン」
突然、男が声を上げた。
「なに」
男は教室の扉の方向を向いたままで喋り続ける。
「サン、カゾエル。ウチ。イワナケレバ、オトコヲ……コロスゾ」
女子生徒の方向へ首を向ける。その動いた首を追いかけて、覆いかぶさっている真勇人を女子生徒へと見せ付ける。
その時、既に真勇人は声を上げることはなく、力なく頭を垂らしていた。真勇人は、既に気を失っていた。
「――真勇人ッ。早く離して」
少年の名前を呼ぶ声には、必死に心配する色を感じさせる。
「サン」
カウントを数え始める男。
「殺すなら、教えない」
半歩だった間隔に、さらに半歩付け足し一歩に。
「ニィ」
ぐんにゃりと口元から液体を垂れ流す男。
「待って! 目的は、その男じゃないでしょっ」
襲い来る集団を前にしても、冷や汗一つかかなかった女子生徒は、狼狽し悲鳴にも似た声を上げた。
「イチィ」
男の顔は笑っていた。裏で操る人物が、慌てている女子生徒を見て笑っている。
そんな姿が女子生徒の脳裏に浮かび、殺意が奥底から湧き上がる。
女子生徒は手を伸ばす。それは、男をくびり殺すためか、それとも真勇人を救うために伸ばされたものなのか。
「やめて、私が――!」
――ゴキィ! 骨と骨が擦り、肉がひしめき合う音。
「わ……たしが……」
女子生徒のニット帽が床に落ちる。――その顔は、壬生オリエ。
絶望に歪んだ顔のオリエの目は、その光景から目を離すことができなくなっていた。
首があらぬ方向に曲がり、目や鼻や耳から血を流す真勇人の顔がオリエを見ていた。
「ツギ、オマエ」
今、真勇人を殺めた男が、オリエを見ながら、そう口にする。しかし、オリエは男の顔など見ていなかった。視線の先は、息絶えた真勇人が映るのみ。
操りが切れたのか、男はぐにゃりと倒れこむ。男と真勇人はドミノ倒しのように前のめりに倒れこんだ。
「真勇人ォ――!!!」
絶叫とも呼べる激しい声を出しながら、オリエは真勇人へ向けて駆け出した。