負け組勇者と残念魔王 30
真勇人とオリエが意識を失ってから、数分後。いつしか暗闇の空からは、無数の雨粒が降り注ぐ。
真勇人の頬を雨が濡らし、オリエの髪を雨水と泥にまみれたものに変える。二人の体は打ちつける雨によって、全身を海に沈めたように濡らしていく。二人に意識はなく、傷つき弱りきった体は刻々と死へと近づいていっていた。
地に体を伏せる二人の元へ近づく影が一つ。ザッザッザッと、ブーツは瓦礫の上を歩む。できたばかりのぬかるみに躓く様子もなく、その足は真っ直ぐに二人へと向かう。
外見年齢は三十は過ぎているだろう。しかし、整った顔立ちと常に漂わせる緊張感が、幾分か若く見える。見る人が見れば、三十とは呼ばないだろう。
雨でしっとりと湿るのは腰まで伸びる長い黒髪、シャツの上から羽織る赤色のロングベストは膝の辺りで揺れる。黒いフレームのメガネの奥から見つめる眼光は鋭く、見る人が見れば只者ではないと思わせる風格の長身の女性だった。
二人を見下ろすように、その場で足を止める。
女性は深くため息を吐いた。
「やれやれ、とんでもないことをしてくれるもんだねえ」
呆れた、そんな口調で言う女性の名前は――壬生ラツキ。オリエの育ての親ともいえる、その人だった。
壬生ラツキはどうしたものかと考えるように、自分の顎を撫でる。
「とりあえず、二人の救出が先だね」
さすがに騒ぎを嗅ぎつけた勇者がいるかもしれない、そう考えたラツキは二人を抱えるためにその両手を伸ばす。右手が真勇人に左手がオリエの体に触れた。
一度、オリエは息を呑んだ。
「……なんてこったい。まさか、こんなことになるとは」
真勇人にオリエは説明をすることはなかったが、壬生ラツキという名前は勇者達の中でも一目置かれる存在だった。
これまでも幾度となく、世界の危機を救ってきた勇者の中の勇者とも呼べる。しかし、関わる任務の内容がまともに聞けば耳を疑うようなものが多く、彼女の功績を世に広めようと思えば、まずは世界を混乱させる必要があった。それほどまでに、壬生ラツキという人物は、この世界の命運に深く関わってきていた。
そんな彼女だからこそ、彼らから滲み出る魔力の異常性に気づくことができた。それは本来ならば、ありえるわけのない状態。
壬生ラツキは、薄い笑みを浮かべた。
「魔王が勇者と生きる世の中なんだ、こんなことだってありえるかもね」
二人を脇に抱きかかえれば、この状況をどのようにして誤魔化そうかと考える。
(なんとでもなるさ)
自分の名前を出せば、少なくともこの騒ぎにも深く突っ込んでくることはないだろう。例え、突っ込んだとしても、この二人は自分の手で守ることにしよう。
「母なんだ、それぐらいさせてくれ」
誰に言うでもなく、ひっそりと呟けば、壬生ラツキの姿は一陣の風と共に消え去った。
※
ヨアキムとの戦いから一週間後。それは、帰ってきた当たり前の風景。朝のホームルーム前の穏やかな陽気に包まれた一年G組の教室。
真勇人は、いつもの自分の席で頬杖を突いていた。ぼんやりと目の前に広がる窓の外の光景は、相変わらず熱心に自分の実力を磨くことに必死な学生達が己の能力を披露していた。
視線を変えれば、目の前の空席を見つめた。机の上には薄く埃が積もっている。その状況を不快に思った真勇人は、ふっと息を吐いて埃を浮かせた。ぼんやりと窓から差し込む太陽に光を受けて舞い上がる埃を見つめる。
あの日から、壬生オリエは学園に来ていない。生きているし、心を病んでいるわけでもない。理由は、傷の治りが悪く、今も病院に入院しているのだ。
(魔王の末裔なら、早く出て来いよ)
心の中で愚痴るが、自分は何と虚しいことをしているのだと、一人頭を抱える。そのまま机に顔を伏せれば、このまま寝てしまおうかとも考える。
「そういうわけにはいかねえよな」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。そんな真勇人の呟きは教室の雑踏の中に掻き消えてしまう。
ヨアキムはといえば、あの騒ぎの後に大勢の学生を操り人形にしていたことが発覚して、そのまま処分を受けることとなる。教職員としての資格どころか勇者の資格も剥奪、加えて犯罪者としての相応の処遇を受けることとなる。二度とヨアキムの顔は見ることはないだろう。
そう思う理由は、もう一つある。強引に強大な魔力を吸収しようとした反動で、ヨアキムは半分廃人のようになってしまい、まずは罪を償う前に治療施設に行くことになるようだった。奴には死ぬまで、自分の間違いを問い続けてほしいと心底願う真勇人だった。
――その時。
ぐー。
聞き覚えのある情けない音が耳に届いた。
よろよろとしたその小さな体は、目の前の席へと座る。同年代の女子生徒に比べて小柄な体は座ることで、さらに小さく見えた。
カバンを机の上におき、所在なさげに視線を彷徨わせる目の前の少女に目を奪われる真勇人。
セミロングの黒髪が、花びらのように揺れ、それこそ花のような甘い香りを発生させる。
「ぁ……」
声を出そうとするが、うまく出ない。
喋りかけてしまえば、真勇人はずっと目を逸らしたいと思っていたことに気づいてしまう。それでも、これは避けられないことなんだ。と自分に言い聞かせる。
言ってしまえば、知ってしまう。声に出さなければ、それでいいのかもしれない。それでも、真勇人は声を出してしまう。目の前の少女の笑顔を欲してしまった。
「オ、オリエ! 元気だったか?」
ずっと寝ていた人間に何を言っているんだ、と自分に突っ込みをいれたくなったが、それでもそれは真勇人にとって精一杯の一声だった。
最初は自分が呼ばれたことに気づかなかったのか、オリエは辺りを見回す。
なけなしの勇気を振り絞り、真勇人はもう一度声をかけた。
「オリエ、こっちだよ」
そこでやっと気づいたのか、オリエは首を傾けて振り返る。
「え、あ……どうも。おはようございます」
そして、オリエは訝しげに真勇人を見た。
オリエは初対面の人を見るように、じろじろと真勇人の顔を見つめる。
真勇人は、オリエのそれだけの行動に視界が真っ白いになる。朝の教室だというのに、そこがまるで夜で、暗い牢獄にでも入れられたような孤独と閉鎖感。
「どうした?」
オリエは心配そうに真勇人を見ていた。その目の奥には、人を疑うようなそんな意味も込めて。
「……いや、なんでもない。おはよう」
無理して作った笑顔を真勇人はオリエに見せれば、首を傾げてオリエは真勇人に背中を見せた。
オリエが背を向けたことを確認すれば、真勇人は再び机に顔を埋める。そして、ひっそりとそこで涙を流した。
オリエは真勇人を初対面のように扱った。事実、オリエにとって真勇人とは初対面だった。
(オリエ、やっぱり――)
泣き声が漏れないように真勇人は下唇を強く噛んだ。
目を逸らそうとしていた現実が、そこにある。
分かっていたことだった。逃げることのできないものだと、最初から分かっていたじゃないか。
(――俺のことを忘れているんだ)
真勇人は、あの戦いで払った代償の重さを感じていた。それは、彼にとって最も辛く苦しい形で。