負け組勇者と残念魔王 23
時刻はちょうど月が主役になる頃。ヨアキムは、街外れにある廃工場の三階で自前の木製の椅子に腰掛ける。
崩れた壁の内部から夜空を見上げるヨアキムは、足元から保温機能の付きの水筒を取り出すと、フタの役目をしていたコップに中身を注ぐ。
コップの内側を満たしていくのは紅茶。水、道具、茶葉にこだわったヨアキムの唯一趣味と呼べるものが、その一杯のお茶の中に濃縮されていた。
優雅な仕草で香りを嗅ぎ、口を付ければゆっくりと口の中に流し込む。
ほぉ、と心地良さそうに息を吐く。
「おいしいな。しかし、水筒というのは何ともよろしくないな。やはり、ティーカップでも持ってくるべきだったか」
一人、不服そうに声を発する。
彼は、仕事をする時には必ず紅茶を飲む。それは、気持ちを落ち着ける役割と持つと同時に、戦闘の始まりを肉体に伝える合図の役割も持つ。
崩れた壁の中から見上げた夜空は、自然の月の光。そして、それに気づいた。
「思ったよりも、早かったね」
嬉しそうにクスリとヨアキムが笑うと、その割れた壁から距離を開ける。
ヨアキムの視界の中、黒い点が目に飛び込んでくる。その点は上下に動きながら、一直線にこちらに向かってきていた。
「きたきたきた、きた……」
紅茶の入ったコップを無造作に放り投げ、椅子から立ち上がり、背後の壁へと後退する。ヨアキムは、淀んだ目で次第に大きくなる点を見据える。
つい今さっきまで、ヨアキムの座っていた椅子が音を立てて吹き飛んだ。
「――お前が黒幕か」
椅子のあった場所は、木材の欠片が散らばる。代わりにいるのは、右膝を地面につけ、左足の関節を曲げて体勢を低くしているオリエの姿だった。その目はギラギラと鋭く、燃える炎を連想させるほどに激しい感情の昂ぶりを感じさせた。
「よく辿りついたね、どうやったのか教えてくれないか」
特別驚いた様子もなく、ヨアキムはオリエに質問をする。
「私の目には、魔力の流れが視認できる。人形達を倒した際に出る魔力の流れの追いかけた。人間を魔術で動かしているということは、魔力が繋がっているということ。操るためにお前から離れた魔力は、主人の元に帰るはずだ。倒し続けていく内に、自然と魔力はお前の道を示してくれたよ」
「なるほど、僕が君を倒すために放った兵士達が、結果として僕を追い詰めることになったのか」
したり顔で話をするヨアキムの顔には、不思議と焦りの色はない。
普段ならば、異常なヨアキムに気づいてもいいが、頭に血の昇ったオリエには相手の顔色の変化一つ気づくことはない。
「どうして、こんなことをしたの。どうして、真勇人を殺した」
オリエは曲げていた膝を伸ばし、立ち上がりながら聞く。低い声からは、拒否権を与えない圧迫感をヨアキムにあてる。
身震いするような殺意の波動に、ヨアキムは頬を朱に染める。
「ぁあ……。いい、ね。やっぱり、いいね」
オリエは相手の様子をおかしいと思った。
異常ではなく、おかしな人間が持つそうした警戒する雰囲気。
「なんだ、お前は」
冷たく睨むオリエを見て、恍惚とした表情を浮かべるヨアキム。
「僕はね、ずっと昔から君を見ていたんだ。君に会いたくて、会いたくて、ずっと探していたんだけど、なかなか会うことができなかった……。きっと、これは運命のイタズラだ! 僕と君の、赤い糸を神が切り裂こうとしているんだと、僕は思ったんだ!」
オリエは奇妙なものを見たことで、首を大きく傾げた。そんなオリエを無視して、ヨアキムはさらに熱く語る。
「君という存在は、僕の世界では全てを凌駕する人物なんだ。初めて見た時から、君を忘れられなくなったのさ、オリエ。……そして、そんな君が魔王だった」
つい先程まで、大きな動きで話をしていたヨアキムの体は腰を曲げて小さくなる。かと思えば、再び腰を大きく伸ばした。
「――最高! 最高! 最低最高さ! 愛した人物に出会えた。そして、愛した人物をこの手で……この僕の手でぇ……殺すことができる。最果ての世界へと送ることができる。興奮だよ、オリエ。今、僕は……異常なほどに興奮しているのさ」
身悶えするヨアキムを見て、オリエは吐き捨てるように言う。
「貴方……。気持ち悪い」
「え……きもち……? なんだって……?」
きょとんと間の抜けた顔をするヨアキム。
テンションの上がり下がりの差のせいで、ヨアキムがさらにおぞましいものに見えた。
「――気持ち悪い。貴方、気持ち悪い」
淡々としながらも、嫌悪と怒りを含ませて口にした。
罵られたことで怒り狂うか、それとも激しく感情を露にして罵声を浴びせようとするのか。どちらにしても、さほど変わらない。
しかし、予想に反した行動をヨアキムはとる。――歓喜に満ちた表情で両腕を掲げてガッツポーズで熱く声を荒げた。
「いいぃぃぃぃ! いいですね、その冷たい感じぃ! 胃の中を氷が転がるような殺意ぃ、全てが、オリエさんの全てが僕の体を満たしていくよぉ!? 愛、愛、愛……この愛をすべて君に伝えるよ、オリエさぁん!」
オリエが全身を這うようなおぞましさに包まれると、周囲をぎゅうと圧縮した殺意が満ちていくのを感じた。
オリエは舌打ちをして、周囲の様子を窺う。
建物の影の中から、ぞろぞろと虚ろな目をした人間達が十数名出現する。そして、そのゾンビの集団は全て勇者学園の生徒だった。
「生徒? 今回は、厄介かも」
オリエは表情を変えることはないが、それでも額に一筋の汗が流れた。
彼らはただの学園の生徒ではない、全員がG組の生徒ではない。つまり――。
「――全員、固有能力を持っているよ。僕だけ見せる君の表情を……もっと、よぉく見せてよ!」
ヨアキムは腕を大きく振るう。
一斉に操り人形となった生徒達は、オリエへ向けて駆け出した。