負け組勇者と残念魔王 ⑰
真勇人の実家である近衛家は、決して都会とは呼べない、田舎と呼べる土地に立っている。裏の川は清涼感のある透明色、夜空を見上げれば一生かかっても数えられないほどの星達が夜空を照らす。目の前は田畑が広がり、車一台通れるほどの道の脇に間隔を開けて家が並ぶ。その家達のどれにも倉庫があり、鍵もかけていない倉庫の中には農機具が見え隠れする。
真勇人にとって、都心からは若干の距離があるものの、徒歩五分で行けるバス停や自転車で十五分先に駅があることで、それほど不便に感じられなかった。良くも悪くも、慣れ親しんだ実家だった。そして、彼は今そこに帰ってきている。
時刻は午前八時。真勇人の父は仕事に出かけ、母はリビングに朝食を用意して家の隣の小さな畑に向かった。実った野菜を、久しぶりに帰ってきた息子に食べさせてやろうと吟味をしていた。
昨晩、帰ってきた真勇人の顔を見た両親はすぐに何かあったことを察して、何も聞かずに夕食の用意をした。温かい風呂に入り、その日の昼に干したであろう毛布に包まれて真勇人は自己嫌悪に落ちていた。
両親に迷惑をかかている事実、息子はもう人ではなくなっているという現実。
実家に帰ってきたことで気持ちは少し落ち着いたのか、横になればすぐに深い眠りに落ちた。
――そして、朝。
※
一人の少女が近衛家の階段を二段飛ばしで走る。年齢は十五歳。薄く茶色の滲む長髪をなびかせて、真っ直ぐとした茶に染まる勝気な瞳は喜びを滲ませている。勝手知る我が家とばかりに真っ直ぐに真勇人の部屋の前に立てば、にんまりとした笑みを浮かべた。
「真勇人ー。起きてるー」
よく通る声を出し、二度のノックをする。
シーン、と部屋からの返事はない。
「もしかして、まだ寝てるの?」
快活とした声への反応はない、枕元に両手をおいて真勇人の顔を覗きこむ。
ガラガラと扉をスライドさせれば、部屋の壁の方のベッドに真勇人は規則正しい寝息を立てている。
もしかしなくても、真勇人の意識は夢の中にあった。最近の寝不足が緩和され、彼の体は普段以上の睡眠を求め続けていた。
お、と声を上げてひょこひょことスキップでもするように真勇人に近づけば、顔を覗きこむ。
「おーい、起きていますかー。マユくーん。相変わらず、寝ていますねー。ボクがやってきましたよー」
ぺしぺしぺし、と決して優しくはない力加減で真勇人の額を叩く。
自分のことを女子でありながらボクと呼び、親しげに真勇人のことをマユくん、と呼ぶ少女の名前は、越島夢音。
真勇人の一つ下の幼馴染であり、隣の家とは言っても数十メートル離れたところのお隣さんだ。
両親の時代からの家族ぐるみの付き合いもあり保育園から中学を卒業するまで、ずっと一緒に通学を経験したきた。もともと、近くに子供が全然いないため、男子と女子といっても、実の兄妹のように二人は過ごしていた。そして、真勇人の部屋に自宅の一室のようにずかずかと入り、寝ている彼を起こすのも彼女にとっては彼との日常だった。
「なんか、疲れてんね……?」
夢音は久しぶりに見る真勇人の顔に違和感を覚えた。
首を傾げてみても、彼の顔を小突いても、逆に彼の顔を傾げさせても、やはり昔の真勇人と違うように見える。
とても疲れているが、なんだかどこか覇気が抜けている不思議な感覚。
頭に浮かんだクエスチョンマークを振り払い、真勇人の肩を揺さぶる。しかし、一向に起きる様子はない。
(おばさんから、会いに行くついでに起こしてって頼まれたのに)
胸の奥から、イライラと怒りの気持ちが湧き上がってくる。
「むぅ……。いいよ、いいよ! もう、起きないならいいですよーだ! それなら、こっちにも考えがありますよーだ! ――えい!」
夢音はベッドに片足をかけて、もう片方で床を蹴った――。
「――んぐぅぉ!?」
突然の腹部への衝撃に真勇人は、覚醒と同時に今までに出したことのないおかしな声を出す。
「んぐぅぉ? それ、学園の方で流行っている挨拶?」
強引に起こされた頭はぼんやりとしたもので、おぼろげな視線で重みを感じる方向を見る。腹の上へと、真勇人の目は動く。
藍色のハーフパンツから見える二本の健康的な生足が動く。どこかで見たことのある光景。夢音は、真勇人の腹の上にまたがっていた。少しずつ数ヶ月前まで当たり前だった出来事を思い出しながら声をかけた。
「……ちげぇよ。それより、上から降りてくれ。下着、見えているぞ」
夢音は、薄い胸を張って言う。
「へっへっへー。そんな冗談言っても意味ないよーだ! そりゃ、制服を着ている時の話でしょ! 中学の時はそれを言われて、いつもひっくり返ってこけて……またパンツが丸見えになって……。――て、思い出させないでよ! マユくん!」
「――んぐぅぉ!?」
「また、それ? おもしろくないよ!」
「違うから、今お前に胸を殴られただけだから……」
「変なことばかり言うからだよ、もぉ」
夢音は腹の上で上下に揺れている。ふむ、とその姿を見つめた真勇人は考える。
言うべきか言わざるべきか。いや、これは言うべきだろう。幼馴染の宿命だ。などと、わけの分からない使命感に燃えながら告げる。
「なあ、夢音」
「んぅ?」
「パンツ、見えているぞ」
「えぇ? また、そんな――」
「――そのハーフパンツて、裾の隙間が広いよな」
そう、先程からそのハーフパンツの隙間からチラチラと白いものが見え隠れしていた。最初は勘違いかとも思ったが、この馬乗りにされた状況ではいろいろとマズイと判断しての提案だった。
夢音は、きょとんとした表情で下を見る。その視線の先は、シャープな太腿が見える。
「ぅぅ……きゃぁっ!?」
驚きの声を上げる同時にバランスを崩した夢音はベッドから転げ落ちて、部屋の壁にごろりごろりと転がっていく。そして、頭をぶつけて、顔が壁に足がその上にという何とも奇妙な体勢になっていた。
「くぅ……」
辛そうに恥ずかしそうに顔を歪ませる夢音を見て、ため息を吐く。
(何ヶ月も経ってないのに、なんだか懐かしいな)
真勇人の視線には昔を懐かしむような色を感じさせた。
「まあ、スカートじゃないから今の状態でパンツが見えることはないよな。そこは、良かったじゃないか」
「――パンツパンツ、うるさい!」
起き上がった夢音は枕元の目覚まし時計をガッシリ掴むと真勇人に向かって投げつける。壁にでもぶつかれば壊れてしまうほどのスピードで向かってくる目覚まし時計を、その手に簡単にキャッチをする真勇人。
「悔しいぃ! 昔の真勇人なら、不意打ちなら間違いなく当たったのに!」
手に掴んだ目覚まし時計を見ながら、小さく息を吐いた。
「昔なら、か……」
そう昔の真勇人なら、今頃、頭の上に星でも見ていただろう。
(でも、今の俺はあの頃とは違う)
訝しげな視線を送る夢音の視線を受けて、真勇人はただ苦笑を浮かべた。