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王の目覚め

続きです。

 第六章 王の目覚め


 親ってなんだろう。子供ながらに疑問に思ったその答えを、探すことに疲れてしまったのはいつの頃だろう。

 記憶をいくら辿っても幸せな家庭を過ごしたことが一度もない。そもそも家族という存在が彼にはなかった。

 そう、千和空鷹は。

 孤独の中で生まれて孤独を抱えて生きている。

 彼が孤児院に預けられたのは物心がつく前であった。

 理由は誰も知らない。ただ、恐らく捨てられたのだろうということは容易に想像できた。

 必要なかったのだ。空鷹を産んだ人物にとって、彼の存在は。

 空鷹という名前も孤児院で名付けられた。預けられたときには名前さえもなく、本当にその身一つで孤児院に置き去りにされたのだ。

 孤児院とは普通ではない境遇を抱えた子供が集まる場所だが、空鷹はその中でも格別に酷い境遇であったと言える。

 親を知らず、名前さえも与えられず。

 本当に何一つ持たない少年だったからだ。

 その存在は孤児院でさえも浮いており、孤児院の子供たちからも敬遠されて彼は孤独な幼少時代を過ごした。

 誰にも理解されないまま、何も持たないまま、ただひたすら奪われ続け失い続ける。

 奪われるものは何か、失う物はなにか。何一つ持たない空鷹が唯一持っていたモノ、心や尊厳といった人間として持ち得る何かだ。

 それすらも、ゆっくりと腐敗するかのように失っていく。

 伽藍洞の心に鋭い刃先で抉りとっていく、その苦痛は想像を絶するものだ。

 それでも尚、空鷹は生きることを諦めなかった。

 いやあるいは、故に少年は生きることを渇望した。誰もが享受すべき普通で有り触れた毎日を得るために。

 その努力を始めた。そして怠らなかった。

 孤児院の誰よりも賢く有り、逞しく有り、そして聡明であることを目標とした。

 孤児院での理想は養子として引き取られること。幸い空鷹は五体満足の健康体だ。

 先天的に劣る要素は見受けられない。ならば残りは努力で補うことができる。

 足がなければ歩けない。が、足があれば歩けるし努力すれば誰よりも速く走れる。

 言葉を理解出来なければ会話をすることは出来ない。が、理解できれば後は努力すれば勉強は苦ではない。誰よりも知恵を蓄えることができた。

 空っぽだからこそ、どこまでも得ることができた。何も持たないことは不幸ではない。

 得ることが出来ないことこそが真の不幸であると理解した。

 全てにおいて優秀であり、たまに訪れる夫婦や後継者探しの老人を相手にどこまでも道化を演じ続ける。

 厚く猫の皮を被り、己を見失うほどに己を偽り続けた。

 それが功を奏し、遂に空鷹は千和という苗字の夫婦に引き取られることとなる。

 千和夫婦が養子を望んだ理由は簡単だ。

 何らかの原因で二人の間には子供が産まれなかったからである。どれだけ二人が行為を重ねても、子を授かることはなかった。

 子種に不備はない。母体にも不備はない。

 現代の医学では解明できない理由。もしくは天文学的な確率で受精が成立しないことが続いたのか。そのどちらかが理由だと医者は判断した。

 空鷹は確かに自分の努力で居場所を勝ち取ったのである。

 僅かだが望んだ毎日がそこにはあった。

 すぐに仲良くなれたわけではない。そこには諍いもあったし遠慮もあった。喧嘩をすることが出来るまで仲良くなるのにすら、時間が必要だった。

 当然である。血の繋がりのない、有り体に言えば他人がひとつ屋根の下で過ごそうというのだ。そこに困難や障害が潜んでいるのは想像に難くない。

 それでも確かに互いに歩み寄る日々は続き、そして確かに互いの間にそびえ立っていた壁は徐々に消えていった。

 家族という一つの形に、収まりつつあったのだ。

 そんな日々に突然交通事故のように、あまりにも呆気なく、その出来事は訪れた。

 千和夫妻の間に子供が出来たのである。

 妊娠。するはずのない、少なくとも夫妻と医者はしないと信じて疑わなかったそれが、実に呆気なく突然成ったのだ。

 それは空鷹にとって新しい日々を意味している。それが良い変化なのか、喜ばしくない変化なのか、当時の空鷹には知る由もない。

 結論から言えば、その出来事は空鷹にとって不幸以外の何者でもなかった。

 戸惑いの中、空鷹は迷った。この新しい命、つまり自分の弟か妹になる存在を自分はどう受け止めれば良いのか。

 純粋に喜べばいいのか。いや、喜ぶことなど不可能だった。心が拒否している。本能が囁きかける。

 その存在を許すなと。

 それは何れ己の居場所を奪い取る驚異になり得ると。

 故に望んだ。産まれてこなければ良いと。

 しかし現実は残酷にも無事子供を産ませた。

 義理の妹など、欲しくもないのに。

 それから義理の両親の生活の指針はその妹が中心となった。

 念願の第一子。望まれた生。困難を乗り越えてようやく授かった奇跡のようなその命。

 それを守るためには、ぎこちない家族である空鷹を相手にする余裕などなかったらしい。

 空鷹は千和家でも孤立した。

 同情か責任か、千和夫妻は空鷹を最低限面倒見て家族として対応した。

 しかしそれがあまりにも家族の姿とは掛け離れた関係であることを、空鷹はよく理解していた。

 何故ならば、本当の家族の姿というものをこの上ない至近距離で見せつけられ続けたからである。

 他でもない千和夫妻とその娘に。

 空鷹は一度も手をつけていないお小遣いを手に孤児院に戻った。戻ろうとした。

 しかしそこで見たのは非情な現実だった。

 電車に揺られ、バスを乗り継ぎ、たどり着いた先で見たものは、自分が存在した痕跡の残らない世界で、そこには自分がいなくても楽しそうに過ごす昔の家族たちで。

 戻ることが許されぬ。別世界であった。

 そこに、空鷹の居場所などほんのひと握りも残っていなかったのだ。

 そしてあてもなく帰る。我が家とも呼べない家に。

 家族とは程遠い、家族のもとに。

 結局その日の空鷹の遠出に気付く者は誰一人としていなかった。

 自分がどこにいるのか分からなくなるような、そんな感覚。自分という確固とした意思は他者の観測によりその輪郭を現す。

 認識されなければ、その存在をそれが確かな己のものだと信じることすら難題となる。

 妹という千和夫妻にとって大切な存在が、何よりも大切な存在が確かに空鷹をこの世から消した。

 それから空鷹は再びゆるりと腐敗していく。徐々に、誰にも気付かれないように心を腐敗させていく。

 居場所なんてなかった。

 己すら見失った。

 ただ生きているだけ、そんな望みもしない日々が冗談のように続いた。

 どんな喜劇だろう。なんという悲劇だろう。それでも尚、空鷹にはその物語を語る術すら持ち合わせてはいない。

 物語に干渉する術を失った劇の主人公。それは哀れも滑稽も通り越してただただ悲惨であった。

 いつからだろうか。世界を嫌悪し始めたのは。

 いつからだろうか。全てに反抗しようと思い始めたのは。

 いつからだろうか。周りすべてを拒絶して遠ざけようとし始めたのは。

 いつからだろうか。――――。

 失うことを、裏切られることを恐れて得ることを望まなくなったのは。

 そうだ。

 千和空鷹は失うことが恐ろしい。故に、拒絶し遠ざける。

 そして同時に裏切られることも耐え難い。

 それは過去のトラウマに起因する。

 だから立ち直れない。これは清春に裏切られた故の胸の痛み。

 違う。

 それはどこか違う。そう、自分の中奥深くの何かが強く訴える。

 脳裏に、燦然と揺らめく銀髪が過ぎった。

 心の奥底から信頼し、無償の信用からくる笑顔を振りまくその姿を思い描いた。

 姫紗。

 そう、姫紗。

 彼女を失った痛みだと、そう理解すると胸の痛みは突然跳ね上がった。

 まるで心臓を焼きごてで貫かれるような、そんな耐え難い痛みが理不尽に蹂躙する。

 彼女は、彼女だけは自分を見てくれていた。観測し、その存在を確かに感じてくれていた。

 彼女がいたから、空鷹は存在できた。確かにその場所にいるという実感を得られた。

 少なくとも、彼女が傍にいた短い時間。その時間だけは空鷹は世界に存在できていた。

 いつか望んだような、何気ない普通の日々を送れていた。

 裏切ることを知らない無垢な信頼。空鷹を信じることが当たり前のように、呼吸をするように信じる少女。

 そんな彼女を空鷹は裏切った。

 胸の痛みがさらに跳ね上がる。それはもう意識を失いかける域にまで達していた。

 姫紗だけは混じりけのない瞳で空鷹を見ていた。

 他でもない空鷹だけを見つめ、喜び、怒り、悲しみ、笑っていた。

 その感情は全て余すことなく真っ直ぐに空鷹に向けられていた。

 それがどれだけ尊いことか、空鷹は知っている。

 そして気付く。

 姫紗が己を認識したのは空鷹とキスした瞬間に他ならない。ならば、彼女が産まれたのはきっとあの瞬間なのだろう。

 ならばそれは空鷹が彼女の親であるということと何が違うのだろうか。

 そしてその親に裏切られるというその意味を、その現実からくる痛みを、空鷹は他の誰よりも知っている筈ではなかったのか。

 それを是とすることが、空鷹に出来るのか。答えは否。断じて否。

 世界中の誰もが是としても、空鷹だけはそれを是としてはならない筈だ。

 己の存在を賭けてでも守り抜きたい意思とはそうものだろう。

 そう、千和空鷹はこんな理不尽な世界に反抗して絶望して、それでも生きていたのだ。

 何故。理由は分からない。が、こうも考えられる。

 希望を、捨てきれなかったから生きていたのだ。

 死んでいるような日々を、それでも生きていた。

 会うために。希望に会うために。

 姫紗に、会うために。

 裏切った。でも、それで終わりではない。まだ何も終わってない。始まってすらいない。

 出来ることが、まだ確かに残っている。

「俺は――」

 宿る。

 瞳に燃えるような強い意志が宿る。それが燃料となり空鷹を突き動かす。

「まだ、何も出来ちゃいない」

「どう、したの?」

 紫の声をとても近くで聞く。そうだ、今まさに彼女に抱きしめられているからだ。道理で近くで聞こえる筈である。

 拳を強く握り締める。己の意思を固めるように。

「こんなところで座っている場合じゃない」

「ご主人様?」

 死んだ魚のような目をしていた空鷹が一瞬で強い意思を宿した瞳に変わったのに、紫は驚いているらしい。

 何が出来るかなど分からない。

 ただ何をすべきか、何をしたいかは痛いほど理解している。

 姫紗に謝りたい。

 それをしなければ何も始まらないし、終われない。

「紫、頼みがある」

「なに?」

「一緒に、戦って欲しい」

「…………正気? 相手は二人だし、あの美海と姫紗よ? 対してこっちはあたし一人、勝目なんてどこにもない」

 紫の言うことは正しい。勝目なんてないし、何か作戦がある訳でもない。

 あるのはただ胸に宿った抑えきれない感情だけだ。しかしそんなもののために彼女を付き合わせてよいのだろうか。

 言ってから不安になる。だがそんな不安など意に介さないほどに空鷹の感情は高ぶっていた。

 今すぐ行動を起こさなければ爆発してしまう。

「それでも、俺は今動かなくちゃいけないんだ」

「本気……、なのね?」

「魂に誓って」

「分かった。ならあたしには是非もないわ。ご主人様のご命令なら、なんなりと」

「それは違う……っ」

 空鷹の否定の言葉に紫は目を見開く。

 そんな彼女の目を真っ直ぐに見据えて、空鷹は強く言葉を重ねる。

「断ってもいい。これは俺の個人的なお願いだ。契約者と契約猫じゃない。千和空鷹が紫に頼んでいるんだ」

 対等な相手として。

 命令ではなくお願いとして。

 断る権利があり、受諾することも拒否することも選択肢とした上で、手伝って欲しいのだ。

 他でもない、紫という一個人に。

「いいわよ。手伝ってあげる」

 紫は顔を真っ赤にして、そう答えた。

「ありがとう」

「どういたしまして。……でも流石に無策で突っ込むのは無謀を通り越して自殺行為よ。何か考えないと」

「……悪いがこの状況をひっくり返すような切り札なんてない。美海を打ち倒すことも、姫紗を取り戻すことも絶望的と言っていい」

 現在の状況を淡々と空鷹は言葉にする。

 だがそこに絶望はない。

「だから多くは望まない。俺はただ姫紗と話がしたい。話をして謝りたい」

「そのための時間をあたしに稼げ。……そういうこと?」

「ああ、そうだ。俺はお前に謝罪する時間を稼ぐために、時間を稼いで最悪破壊されろと頼んでいる。断りたければ今からでもいい、いつでも言ってくれ」

 紫は真剣な眼差しで空鷹を見つめている。逸らすわけにはいかない。

 紫が何を思い、何を考えているかなんて分かりはしない。しかしこの視線から逃げることは、それだけは許されない。

 そういうお願いを空鷹はしているのだ。

「あたしね、初めてなんだ」

「何を……?」

「色々なこと。頼られること、信じられること、お願いされること、対等な立場で見られること、一個人として見られたこと、自分のご主人様に本当の意味で出会えたこと」

 ほのかに赤く染めた頬と潤んだ瞳。今にも泣きそうな顔をした目の前の少女は、喜びを隠しもせずに最高の笑顔を見せた。

 不覚にも胸が高鳴る。

 目の前の紫という少女を愛おしいと感じてしまったのだ。

「だからその先が例え終わりだとしても、悔いがない気がする。それだけの感情を貴方はあたしにくれた。だから全てを賭けられる。大丈夫、出来るよ――」

 そこで一度ひと呼吸おき、紫はどこまでも強い瞳で続けた。

「他でもない、貴方のために。全てを賭して、時間を稼いであげる」

 駄目だ。

 失えない。

 目の前のこの少女を失うことも、どうしようもなく恐ろしい。

「やっ――」

「欲張りはだめだよ」

 思わず溢れそうになった言葉は紫の指先によって遮られた。

 口元に置かれた彼女の人差し指は震えていた。当然だ、これから破壊されに自ら赴くというのに怖いわけがない。

「あたしのことは捨て置かなきゃ、ご主人様にとっての一番ってなに? よく考えてみて」

 窘められた。それは欲張りだよと。望み過ぎだと。

 欲張り過ぎれば何一つ手に入れることは出来ない。

 それは理解している。理解しているのだ。

「お前はそれでいいのか?」

「その質問はずるいよ」

 紫はそう答えて優しく微笑む。

 そうだ。何を当たり前のことを聞いているのだろう。愚かにも程がある。

 良い訳がないのだ。

 紫にとっての最善が何であるかなど空鷹には分からないが、この選択でないことは容易に想像できる。

 それでも彼女が答えてくれる。その優しさに甘えている自分が、中途半端に同情で彼女の身を案じるのは冒涜にすらなり得る。

「悪い」

「いいよ。あたし好きだよ、ご主人様のそういう優しさ」

 優しさなのだろうか。

 甘さや弱さとも言い換えられる。しかし彼女が優しさと言い好いてくれるのならば、胸を張って優しさだと貫くべきだろう。

 彼女の言葉で考えは改めた。それでも、欲が消えるわけではない。

 姫紗を取り戻し、紫も無事に守りきる。そんな妄想が消えてくれないのだ。

 もとより不可能なのだから望むべくもない。自分の願いを現実的に叶えるならば、捨てなければならない類の我侭だ。

 そう理解しても尚、再び胸に熱い何かが溢れ出てくる。

 それは制御しきれない感情の渦で、どこまでも熱く滾り燃え上がっていく。

 際限なく。

「それでも俺は……」

 紫に聞こえない小さな声で、どこまでも高望みなそれを口にする。

「全てを守りたい」

 全てを失うだろう先を見据えて、それでも己の意思を強く定める。

 姫紗でも紫でも無理だというのならば、自分が強くなって全てを守るしかない。可能性などなくていい、希望などなくていい。

 選べる選択肢が全て絶望だというのなら、選ぶ手間も省けるというものだ。

 やり遂げる。方法なんてなくても、望みを叶えて見せる。

 そう誓う。

 強く、誓う。

 ポケットの携帯が震える。が、そんなものを見ている暇はない。

「見て、もうあいつら校門まで行ってる。速くしないと見失うよ」

 途方もなく長い時間だと思っていた。

 しかし実際はあまり時間が経過していなかったらしい。ここから校門までということは数分しかたっていないということだ。

「行くぞ、紫っ」

 空鷹はそう彼女に呼びかけながら、勢い良く走り出して窓を開けて外に飛び出す。

「えっ、ご主人様ここ二階――」

 紫の叫び声を聞き流しながら、落下独特の浮遊感を味わいつつ着地の衝撃に備える。

 この程度の高さならば五点で衝撃を殺しつつ、前周り受身を取ればすぐに走り出せるだろう。空鷹の類まれな身体能力と運動神経ならば造作でもない。

 着地した瞬間に膝のバネで衝撃を吸収し、そのまま余った衝撃を膝、背中、腕と前に逃がすように前転する。

 そして走る体勢を整えた頃にすぐ隣で紫の着地する音を聞いた。

「あまり無茶しないで、この高さ人間には危険だってば」

「問題ない」

 さらりと言って空鷹は走り出す。その姿にどこかを痛めた様子はない。

 紛れもなく無傷なのだろう。

「驚きの身体能力ね、猫みたい」

「気を抜くなよ、あいつらもう目の前だ」

「分かってる。任せて、美海はあたしが釘付けにするから」

「任せたっ!」

 そう言って二人は左右に離れる。空鷹が姫紗と清春側に、そして紫が美海と寺田側に。

 当然疾走する二人に気付くが、即座に対応できるような相手は美海しかいない。

 ただの人間である清春と寺田にはこの奇襲はとても効果を発揮する。

 姫紗も反応しているが彼女が自ら動くとは思えない。清春の指示があるまでは無視しても構わないだろう。

 紫は美海を任せろといった。ならば彼女を信じて全てを任せる。

 指示すれば契約猫のパフォーマンスは上がるらしいが、即席の相棒であり未熟な契約者である空鷹が指示を出すよりは、彼女の自由意思に任せる方がいいだろう。

 そう判断した空鷹は彼女のことを思考から切り離して自分の獲物に集中する。

 そう、清春だ。

 彼に向かって真っ直ぐ全力で走る。

「姫紗っ、何を棒立ちしている。僕を守れっ!」

 襲撃に動揺しながらも正確な指示を姫紗に送るのは対したものだ。

 姫紗も指示に反応して空鷹の目の前に一瞬で現れる。

「何故、……来たのです」

「さよならも、俺は言えてない」

 姫紗が空鷹を押さえ込もうと腕を伸ばす。

 流石の速さだが、感情と体の動きが一致していない為かとても不安定な動きで非常に読みやすい。

 人間の限界を超えた速さでも、これだけ単純で迷いのある動きならば。

「なにっ!」

 清春の驚愕の声が響き渡る。

「え?」

 姫紗の間の抜けた声が溢れる。

「俺は、まだお前に何も伝えられてないっ」

 空鷹は姫紗の腕を受け流すように掴み、重心を崩して彼女の素早さのエネルギーを利用して背後に投げ飛ばしたのだ。

 恐るべき速さで空鷹を取り押さえようとした姫紗の体が、次の瞬間には宙を舞っていては驚くのも無理はないだろう。

 そしてそのまま姫紗を無視して清春に飛びかかる。

「喰らいやがれぇっ、このクソ野郎っっっ!」

「わ、やめっ」

 飛び込んだ勢いをそのまま肘で清春の腹部に叩きつける。続いて体を反転させつつ、逆側の肘で清春の顎を下から上に貫く。

 そして回転の力をそのまま使って回し蹴りを頭に叩きつける。

 素人の意識を刈り取るには十分すぎる三連激。師範に見られたら首をはねられるだろうこと間違いないオーバーキル。

 それを直撃した清春は意識を手放して膝から崩れ落ちる。

「ふぅ……、これで暫くお前と話せる」

「どうして、こんなことを……っ」

 姫紗の言葉に答えようと空鷹が口を開くが、驚きから言葉を発することは出来なかった。

 すぐ隣で激しい炎の爆発が巻き起こったからである。

「紫っ!」

 それが美海による一撃だと勘違いした空鷹が彼女の名前を叫ぶが、そこには悠然と両腕を目の前に突き出す紫の姿と、激しい炎の渦しかなかった。

「大丈夫、契約者ごと美海を閉じ込めた。美海だけなら抜け出せるけど、契約者を守ってるから彼女は動けない。でも……、こんなの維持するの後何分持つか分からないからっ」

「そんなことはどうでもいい。お前……っ」

「大丈夫だよ。どうせ、こうなることは分かってたから」

 紫の体は肩から深く切られていて、その傷は激しい熱で焼け爛れている。

 彼女の足元にある赤い水溜りがその傷の深さを物語っていた。

「美海は強力であたしの性能じゃ勝てない。だからわざと一太刀貰って、その隙に契約者を攻撃すれば美海はそれを守る他ない。ね、見事な作戦だと思わない?」

 契約猫も血が流れるのだな。そんな場違いな考えが頭を過ぎる。そんな現実逃避的な思考に陥るほど、その怪我は絶望的だった。

「大丈夫だって、人間じゃあるまいし。あたしならこの傷でも最後までやれるから」

「最後ってなんだよっ!」

「力尽きるまでだよ」

「ふざけんなっ、俺がいつそんなこと望――」

「ふざけてんのはどっちよっ! これは君のためなの、あたしが大切な願いを叶えたいと望んでなったことなの。そんな必死で手に入れた時間を無駄に使う気? この時間はなんのためにあるのか、思い出してよっ!」

 叱咤されてようやく気付く。こんな行動を誰が喜ぶというのだろうか。

 空鷹のなんの価値もない安っぽい同情で紫が喜ぶはずもない。

 満たされるのは自己満足だけだ。

「あああぁあぁあっ!」

 全力で自分の頬を自分でぶん殴る。

 口から血が流れ出しているが気にはしない。口の中を切っただけだろう。

「姫紗」

「……………………」

「お前の疑問に答えよう。俺は、お前に謝るためにここに来た」

「そんな、そんなことだけのために」

「ああ、そうだ。それでも俺には重要なことなんだ」

 馬鹿な行動なのだろう。

 見逃してもらえたのだ。

 紫を新しいパートナーとして迎え入れて再出発するもよし。

 もう関係ないと放り出して紫を捨てるもよし。

 空鷹にとって都合の良い選択肢はいくらでもあった。

 でも、そのどれも選べなかった。

 確かに気付いたからだ。

 姫紗と出会って空鷹は確かに何かを得た。

 それをこのままでは失ってしまう。

 それだけは避けなければと本能が強く訴える。

「俺は馬鹿だ」

 本心から、そう思う。

「お前にも紫にも何度も言われたのに。騙されてお前を失って」

 清春に心を許したばかりに。信用の意味を履き違えて、間違った選択をしてしまった。

「自分が孤児だからって、親に捨てられた上に義理の親にも見捨てられたからって勝手に不貞腐れて。世界中が全部敵だとか思ってさ。何にでも反抗して、誰にでも牙向いて、自分から全て捨てれば失うものはないなんて考えに行き着いて」

 そうだ。

 そうやって孤独を望んだ振りをして。

「けど、やっぱり独りは嫌なんだよ。どうしようもなく寂しいんだ」

 失うのが怖いから最初から持たなければ失う恐怖はない。けれどそれは大切な物を得る機会を一切不意にする行為なのだ。

「嬉しかったんだ。友達が出来たみたいで、清春が俺個人をよく思ってくれているみたいで嬉しかったんだ」

 だから心を許した。

 自分で全てを拒絶しながら、拒絶したが故にどこまでも繋がりを欲して。

 そして簡単に騙される。

 本当に愚かで、どこまでも救いのない。

「でも、本当に俺のことを思ってくれていたのはお前だった。俺という個人を見て、それで真っ直ぐな感情を向けてくれるのはお前だった。馬鹿だよな、俺ひねくれてる上に素直じゃねぇからさ。自分の気持ちにすら気付いてやれなかった」

「――っ」

「俺はお前と一緒に居られて、楽しかった。ずっと一緒に居られればいいなって、そう思ってた」

 泣く一歩手前の表情で、空鷹は搾り出すように声を出す。

「ごめんな。俺、……お前の信頼を裏切ってしまった」

「そんな……、そんなことを言うためにこんなことをしたのですかっ」

「ああ」

「馬鹿っ、本当に馬鹿です。紫の電力が切れれば、炎の渦は消えます。そしたら美海が襲ってきます。今度は逃げられませんよ。マスターが気絶していますから、私は手を出さずに済みますけどっ、電力を失った紫なんてあっという間に消し炭です。そしたら空鷹は契約猫を失って、それに報復だって考えられます。怖くないんですかっ!」

「怖くない」

「どうしてっ」

「何も言えないまま、お前と別れる方が俺は怖い」

「――――っっ!」

「どうしても、伝えたかったんだ。俺と出会ってくれて、ありがとう。って」

 遂に限界を超えて姫紗は泣き出してしまう。

 声にならない叫びが彼女の口から発せられ、言葉にならない思いが涙となって地面に落ちる。

「お別れは済んだかい?」

「ちっ……思いっきり叩き込んだんだがな、俺の腕も錆び付いたか?」

「痛かったよ、でも意外に僕も打たれ強くてね」

 清春が目を覚ました。これは姫紗が敵になったという意味だ。

「ご主人様、もうあたしも持たない……っ」

「絶対絶命だね。あ、姫紗。勿論もう油断なんてしないよね? まさか契約猫が人間相手に遅れをとるなんて思いもしなかったよ」

「作りは人間そっくりだからな。身体能力が化物じみていても、油断していれば対人間用の体術が有効だとは前々から思っていた」

 それは体術をそれなりにやっている空鷹だからこそ気付けたことである。

「ま、一度見られたら次はもう無理だな」

 負けを確信したからこそ、空鷹はゆっくりと落ち着いて話す。

「逃げてくださいっ」

「いや、もう無理だ」

 姫紗の悲痛な叫びも虚しく空鷹に逃げる様子はない。

「あいつを置いて逃げるなんて、俺には出来ない」

 空鷹がそう言いながら指差した先には、地面に仰向けに倒れる紫の姿があった。

 恐らく電力を使い果たしてもう一歩も動けないのだろう。

 そして当然炎の渦は消え去っていて、美海とその契約者である寺田は自由になっている。

「さて、姫紗。空鷹をいたぶれ」

「何故ですっ、相手に戦意はありません。携帯を壊すか紫を破壊すれば……っ」

「何度も言わすな、僕の気が収まらないだろう。さっさとやれ、死なない程度に」

「でも……っ」

 言葉では反論するが、体の言うことが聞かない。契約猫の体は契約者の命令に逆らえるように出来てはいないのである。

「いい、これは罰だ。お前がやるってなら俺も後悔はない」

「そんなっっ……」

 清春が冷酷な声色で、

 こう呟いた。


「ぐだぐだうっせぇな、お前僕の物だろ。物が自意識なんて持つなよめんどくさい。黙って言うとおりに動けばいいんだ」


 千和空鷹は耳が良い。

 故に聞こえてしまった。その言葉を、清春の呟きが。

「……あ?」

 込上がる熱。沸点など容易く超え、怒りという名の感情が埋め尽くす。

 物だと。

 確かに契約猫はアンドロイドだそうだ。

 物と形容していいだろう。

 しかし納得いかない。

「紫も姫紗も物?」

 自分で呟いてゾッとする。そんな考えは許容できない。

 許せない。

 断じて認めない。

 こんな人間味溢れて、純粋な感情を持つ彼女達が物だとは思えない。

「あー、考えが変わった」

「?」

 空鷹の急激な変化に清春が警戒を見せる。

「もうおせーぞ、俺をキレさせて無事だった奴はいねぇ」

「何が遅いだって?」

「謝ってもおせーぞ、って意味だ」

 この状況で何を、清春はそう一笑する。

「姫紗ぁっ!」

「はいっっっっっっっっっ!」

 姫紗の名を呼ぶ空鷹に返事しつつ、彼女は目の目でその剣を振り上げている。

 恐らくそれで殺さない程度に斬りつけるのだろう。

 そんなふざけた命令は認めない。

 携帯電話が鳴り響く。

 うるさい程に鳴り響く。

 熱い。自分も熱いが携帯電話も熱い。

 鼓動が速い。まるで携帯と自分が同調しているようだ。

「これは……」

 異常な雰囲気を察して寺田が携帯で空鷹の画面を覗き見る。

「お前はそんなことがしたいのか?」

「嫌……」

「お前は清春の契約猫でいいのか?」

「嫌……、だよぅ」

「ならっ、お前は俺の契約猫だ。戻ってこいっ!」

「もう遅いよ、ばか」

「遅くないっ」

 もう一度。

「遅くなんてないんだよっ!」

 強く、込められる限りの熱と思いを込めて。

「出来る。俺なら出来る。お前が望めば、そんな気がするっ!」

 涙でグシャグシャになった顔で姫紗は叫ぶ。

「無理に決まっているじゃないですか。体が勝手に動くんです、止められないんです。だから、逃げてぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 姫紗の剣が振り下ろされる。

 それを片手で掴み取った。

「望めっ、疑うな。望め、強く俺と共に居たいと。信じろ、俺が叶えてやるっ」

 掴んだ手から血が滴り落ちる。

「清春っ、そいつを止めろぉっ!」

 寺田が叫ぶがもう遅い。

 姫紗はその言葉を心の底から疑うことなく発していた。

「私はっ、本当のマスターと一緒に居たいっ!」

「俺もだっ!」

 そして空鷹の携帯電話が強く輝き出す。

 同期して空鷹の右手の甲も眩い光を放ち始める。

 それは紋章だった。右手の甲に浮かび上がる、見たことのない不思議な紋章。

「王の……、力、だと?」

 清春の呟きが確かにそう言った。

 そしてそれを空鷹は知っている。知識にはないが知っている。否、たった今その契約能力の全てを知った。

「――王の力『魅了』発動」

 寺田の見た、空鷹の携帯の画面にはこうあった。

 四つある特別な契約能力を王の力と言う。

 その一つ、王の力『魅了』

 その能力は三つ。

 1、契約猫を惹きつける強力な魅力を常に発し続ける。

 2、自分の契約している猫の信頼度に応じてそのポテンシャルを引き上げることが出来る。

 そして。

 3、契約猫自身の許可さえあれば携帯電話を介さずに強制的に他の契約者の猫の権利を奪い取ることが出来る。

「なんて馬鹿げた契約能力だ……」

 寺田は確かに空鷹の携帯電話の画面にhimesyaのアイコンがあることを確認する。

 そしてその性能に驚愕する。

「なんだこれはっ」

 個体名:姫紗

 初期性格:生真面目タイプ

 識別番号:100番

 基礎能力:

 パワー4+1(5)

 スピード9+1(10)

 テクニック8+1(9)

 タクティクス5+1(6)

 アビリティ10

 総合36+4(A→S)

「ランクが一個上昇しているだと?」

 それは美海の性能を大きく上回っていた。

「姫紗、お前は俺のパートナーだ。これから、ずっと」

「本当、ですか?」

「ああ、疑うな。俺を信じろ」

「ひゃい……ぅぅっ」

 そして姫紗は剣を投げ出して空鷹に抱きつき、大声を出して泣いた。

 それは喜びの涙だ。

 そこに不幸はない。

「馬鹿な……」

 清春の携帯に契約猫の名前はない。

 間違いなく、己の契約猫を奪われたのである。

「そんなふざけた能力があるかっ、チートだっ!」

 知っている。清春は携帯に記されているこの【ゲーム】の詳細を把握している。

 故に契約能力の中でも上位能力として存在する四つの能力を知っていた。

 知識としては知っていたのだ。

 王の力。

 『魅了』『支配』『徴税』『法律』

 名前だけは明らかになっているこの特別な能力が、まさかここまで自分らの契約能力とは格の違うものだとは予想しなかった。

「形勢逆転だな」

「本当にそうかしら?」

 大剣を掲げた美海が空鷹を睨みつける。

「私と主様に勝てるとでも?」

「勝てる。俺の姫紗なら、絶対に」

「はい。負けません」

 空鷹の前に立ちはだかるように、姫紗は美海の前に立つ。

 雰囲気が以前とは違っている。純粋に能力が強化されていることもあるが何かが違う。

 美海が相対していて冷や汗をかくほどには、圧倒的な威圧感があった。

「以前の私と思わない方が身のためですよ。覚悟が違いますから」

「そのようね」

「忠告しますけど。恐らくこの一太刀、かわせないでしょう」

「? どういう意――」

 そして斬られていた。

 身のこなしが視認できない。剣閃も知覚出来なかった。

 速いという次元ではない。これは認識の外側に飛び出る速度だ。

「これがスピード10の速度っ」

「ふっ」

 次いで放たれた横薙ぎの一閃。それを美海は勘だけで危うくかわす。

 が、いつまでもこんな速度の相手と近接戦を演じていたくはない。

 美海は大剣を数度振り回して牽制し、姫紗が近接攻撃を躊躇したのを確認するとその僅かな隙で炎を周囲に振りまいた。

 それを姫紗は大きく飛び退くことで回避する。

 今の彼女の速度ならば美海の炎を回避することなど容易いことだった。

 しかし美海はそれを不利と判断しなかった。

 以前までの姫紗ならば自身の能力で強引に接近戦を続けていたはずだ。それをしないで己の強化された速度に頼って回避したということは即ち。

「電力の温存ね。貴方は能力開放のための電力を温存している」

「……っ」

 姫紗の表情が苦々しい物に変わる。

「つまり、能力開放の電力確保が困難な程に貴方の電力は消耗しているということ」

「だからなんだと言うのです。このスペックなら、能力なしでも圧倒して見せます」

「正面から堂々と戦えればそうなるかしらね。でも、貴方の電力を削ることに集中して戦えばどうかしら?」

 気付かれた。

 流石は美海と言ったところか。この状況で自分と相手の情報を冷静に分析し、最善の戦法を編み出してくる。

「美海、能力開放を封印して、通常の固有能力で電力を削れ」

「分かりました、我が主様」

 美海の戦法が極端に変化した。

 その攻撃力と能力によって強引に責める戦法から、能力でじわじわと姫紗を消耗させる戦法に切り替えたのである。

「姫紗っ、無理はするなっ。……確実な好機が来るまで電力を温存して耐えろっ!」

「しかしマスター、このままでは」

「俺を信じろ」

「……! はい、マスターを疑ったことなどただの一度もありませんっ」

 そう叫びながら美海の執拗な削り攻撃に対応して、速度と剣技を駆使して耐える。

「それが私の誇りですっ」

「これでも喰らいなさいっ」

 美海が空に放った炎が上空から降り注ぎ、そして同時に彼女の振り払った大剣からも炎が放出される。

 上空と前方からの時間差同時攻撃だ。

 乙女の聖域を使えば簡単に防げるだろうそれを、姫紗は能力開放のために速度のみでかわす。

 炎が肌を焼いても、炎が砕いた地面の破片が掠ろうとも。

 己の契約者を信じて戦う。その一点に迷いはなかった。

 そんな相棒を頼もしく感じ、そして同時にもう一人の相棒にも感謝の意を送る。

「ありがとな、紫」

 彼女は全力を尽くしてもう一歩も動けない程に電力を消費したのか、仰向けに倒れている。

 人型のままで。

 その矛盾に誰一人として気付いてはいない。

 それが勝機だった。

 故に感謝しても仕切れない。

「お前最高だよ」

 美海は炎による間接攻撃を中心に戦術を組んでいる。

 大剣による自慢の腕力攻撃はすっかり牽制程度に抑えられており、能力を応用して放つ炎の攻撃が目立っている。

 故に、付け入る隙もそこにある。

 近付けさせないための大剣による攻撃だが、それが牽制のみでしか振られないと分かっていればそここそ接近する好機になり得るのだ。

 乙女の聖域を使わせるための中距離波状攻撃をかわしつつ接近することは、今の姫紗の速度をもってしても難しいが、大剣を振るう瞬間目掛けて剣閃をくぐり抜けるように疾駆すれば接近は不可能ではない。

 そして今の姫紗ならば一度接近さえすれば、剣の届く距離ならば美海相手に有利に戦うことが出来る。

 中距離を保つ戦法に慣れていないのだろう、美海の攻撃には癖がある。

 姫紗を追い詰めるような攻撃、その後に続く本命の応用攻撃がかわされた場合、彼女は八割以上の確率で大剣を振るい牽制する。

 そここそが接近するための好機。絶対的な急所。

「これならどうかしらっ?」

 美海が地を滑る炎を放つ。これは姫紗を追い詰める布石だ。

 それを飛ぶことで回避する。

「空中でこれを避けるのは流石に不可能。能力を使いなさいっ!」

 美海は必殺の好機を得たと確信し、複数の炎の塊を広範囲に放つ。そのどれもが強力で、ましてや空中にいる今は回避する術がない。

 乙女の聖域を使うしか手段がないように思えた。故に、姫紗は余裕の表情で能力を使用した。

 但し防御の為ではなく、足元に小さな防御壁を展開したのだ。

 それを足場にして姫紗は飛ぶ。

 乙女の聖域を利用した二段ジャンプである。

「……っ」

 本命の攻撃がかわされた美海はやはり大剣で牽制しようとしていた。

 それを待っていたと言わんばかりに姫紗は地面を蹴り美海に接近する。

 予想通りの軌道と速度で大剣は振るわれ、地面すれすれまで姿勢を低く保ちながら走ることで姫紗はその攻撃を見事に回避して見せる。

「そんなっ」

「そこですっ」

 そして美海ですら視認の困難な動きで翻弄し、二度目の斬撃を遂に見舞う。

「残念、罠よ」

「強がりをっ」

「そうかしら?」

 ここまで接近されたのにも関わらず美海には余裕がある。

 姫紗の本能が危機を察知する。

 だからこそ回避することが出来た。

 強化された素早さ。本能の危険予知。そして不敵な美海の余裕。

 その全てが姫紗を大きく飛び退くことを選択させた。

 せっかく縮めた距離を失う行動だが、その選択は正しかった。

 刹那の後に地面から空に吹き出す炎の柱。それは美海を包みながら周囲を焼き、空を穿っている。

 あんな技を喰らえば無事では済まないだろう。故に姫紗は乙女の聖域を展開していたに違いない。

「危なかったです……」

「まだ、終わりじゃないわよ?」

 その声は背後から聞こえた。美海の声だ。

 炎の柱の影に隠れて姫紗の背後に移動したのだろう。致命的な油断だった。

 彼女の一撃が直撃すればたったそれだけで姫紗は瀕死になる。

「美海っ、逃げろぉっ!」

 切羽詰った寺田の声に、美海は勝負を決められる筈の一撃を放棄して姫紗から飛び退いた。

 主の命令故に従ったが意図が読めない。

 周囲を見回して状況を確認する。して驚愕した。

「どうして……、貴方が……っ」

 燃え盛る炎。強力な熱量。圧倒的な力。

 それは他ならない自らの能力開放である。

「森羅万象を映し出す虚実の鏡よ。その全てを映し出し、幻想の向こうから永久の狭間を超えて現世に顕現したまえ。紫の名において命ず。『万象の鏡』限定解除、能力開放」

 能力開放のために詠唱を行う、紫の姿が確かにそこにはあった。

「――『森羅万象の鏡』」

「な、なんで、どうして、貴方はもう立ち上がれないはずなのにっ」

 その疑問には空鷹が答えた。

「契約猫は電力が枯渇すると強制的に猫の姿になるんだろ? 人型のまま倒れていたんじゃ辻褄が合わない」

「まさか、温存していたの?」

「あたしの万象の鏡は燃費の良さが売りなのに、あんな炎を出しただけで電力が枯渇する訳ないでしょう。ちゃんと残したわよ、能力開放一発分。全てはこの時のために」

 紫の空鷹に対する信頼には脱帽するしかない。

 彼女は時間稼ぎの段階でこのような状況を想定していたのだろう。それでなくても余力を残していれば最悪空鷹と二人で逃げられる可能性もあった。

 だがその余力は無駄になる可能性もあった。

 それでも彼女はそれが無駄にならないと信じ抜いた。信じ抜いた結果がこの好機だ。

「どう? 能力開放する気になった?」

 それは明らかな挑発だった。

 紫から美海に対する挑発だ。

「美海、使えっ」

「しかし、主様っ」

「それしか手がない、お前の炎ではアレは防げないっ」

 そう、故に決定的な決着だった。

「我が全霊の炎をここに、祖は仇なす者を終焉の海に消し去る篝火となれ。美海の名において命ず。『咲き乱れる炎』限定解除、能力開放」

 美海が詠唱し、大技を放つ準備が完成する。

 そして技が重なる。

「「『全てを灰塵と化す極炎の剛剣』っっっ!」」

 二つの究極の炎が放たれる。

 そこに挟まれるように現れた一人の少女。

 彼女は美しい銀髪を躍らせながら、勝利を確信した瞳で勝利の祝詞を奏でる。

「その領域は如何なる侵略も許さず、放った悪意は己に降りかかる。その理に例外はなく、その障壁は全てを穿つ矛となれ。姫紗の名において命ず。『乙女の聖域』限定解除、能力開放」

 美しい詠唱が、綺麗な声で紡がれていく。

 そこに淀みはなく、気負いもない。

 あくまでも自然体で、驚異的な炎に挟まれて尚、彼女はどこまでも落ち着いていた。

「これが私の切り札……。『乙女の絶対領域』です」

 そして姿を見せる燦然と輝く銀色の聖域。その空間への侵略は決して許されず。

 美海の『全てを灰塵と化す極炎の剛剣』とて、例外なく跳ね返される。

 紫の放った『全てを灰塵と化す極炎の剛剣』は姫紗を素通りし、二つの究極の炎は美海を直撃した。

 断末魔の叫びすらあげられもせず、獄炎の二つの炎は頑丈な契約猫ですら一瞬で蒸発させる。

 それが彼女の最後だった。

 炎の通り過ぎた痕には何一つ残らず。

 呆然とそれを眺める寺田と清春は声をあげることすら叶わない。

「これで、俺たちの勝ちだ」

 故に、空鷹のその静かな一言だけがやけに大きく校庭に響き渡った。

 寺田が自分の携帯電話を確認する。

 そこにはmiuというアイコンはなく。

 そしてメールが一件。

 契約猫が破壊されたため、貴方は失格となりました。そんな内容のメールが寺田の敗北を確定させた。

「馬鹿な……」

 寺田は茫然自失として己を失っている。

「あぁあぁぁあ、や、やめろっ。来るな、ちくしょうっ。……うわぁぁぁぁぁあぁぁっ」

 そして誰も何もしていないにも関わらず、勝手に恐怖して勝手に走り去ってしまった。

「いいのですか?」

「いいだろ、別に。もうなにも出来やしない」

 そして三人の視線は清春に向く。

「僕は認めないぞ、こんな結末。僕にはやらなければならないことがあるんだ」

「哀れね」

「なんだとっ」

「本当に可哀想な人」

 どこか優しい瞳と声色で紫はそう呟いた。

「やめろ、僕を見下すなっ」

「見下してないよ。見下しているのは君の方だよ」

「うるさい、僕に反論するなぁっ」

「あたしは君の事情を知っているから一方的に責められないけど、きっとご主人様はそうじゃない。どうするの、ご主人様?」

「……お前の好きにしろ、俺はもうそいつには用はない」

「だってさ」

 そう言って紫はゆっくりと清春に近付いていく。

「く、来るな」

 後退る清春に対してゆっくりとしかし確実に距離を縮めていく。

「わかってるぞ、報復だろう。知ってるさ、君が僕を恨んでいることは」

「そうだね。本当に酷いことばかりされて、嬉しかった記憶がない」

 そして遂に紫は清春のすぐ目の前に立つ。

「でもあまり酷いことして、新しいご主人様に引かれるのも嫌だし。仕返しして君と同類になるのも嫌だからさ」

 紫は清春と目線を合わせるために屈んで、右手を振り上げた。

「これで勘弁してあげる」

 そしてその手を思いっきり清春の頬に叩きつけた。

 思わず空鷹と姫紗が目を瞑るほど気持ちの良い音が鳴り響いて、次の瞬間には清春は気絶したまま数メートル吹っ飛んでいた。

「気絶するビンタってスゲェな」

「数メートル飛んでますね」

 そんな二人の苦笑混じりの声を聞きいて、紫は心外だとばかりに苦笑してこう答えた。

「手加減はしたよ。でも出来る限り痛くもした」

 その答えに二人は笑いを堪えることが出来ずに、我慢する理由もなかったので腹を抱えて爆笑した。

 自然と紫もそれに混ざって三人で疲れ果てるほど笑いあった後、そのまま三人で空鷹の家に帰ったのである。

 勿論清春は置き去りにして。


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