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清春の提案

続きです。

 第四章 清春の提案


 激しい炎の海が周囲を蹂躙する。

 しかし彼女の周りだけはどれだけの熱量をもってしても焼くことは叶わない。

 約束された絶対の防護壁。例えどれだけ強力な攻撃であろうと、核を用いた兵器であろうと、その電力が持続する限りその防護壁を破ることは決して出来ない。

「固有能力『乙女の聖域』」

 そう、姫紗の乙女の聖域を穿つことなど誰にも出来ないのである。

「無駄です、貴方の咲き乱れる炎といえども私の聖域を汚すことは出来ません」

「さて、本当にそうかしら?」

 二人の激しい戦いをなるべく離れた位置から空鷹は見ていた。

 他に人影はない。

 美海の契約者らしき人物は見当たらない。やはり今回も美海のみの襲撃らしい。

 公園で清春と別れてからというもの、二日に一度程のペースで襲われている。

 火曜日、木曜日、土曜日、そして今日の月曜日と四度目の襲撃なわけだ。

「規則正しく攻めてきやがって、何が目的だ?」

 もう既に協力関係にある清春には連絡を入れている。以前の三度もすぐに駆けつけてもらい、協力して美海を撃退したのである。

 何故か紫の助けがくれば美海は素早く引くので、それまで堪えれば終わるという流れが出来上がりつつあった。

 姫紗を余程警戒しているのか美海は紫狙わない。故に清春と紫には助けられてばかりで非常に申し訳ない気もする。

「切りがないわね」

「では諦めたらどうです?」

 美海の炎が蹂躙し、姫紗の聖域がそれを防ぎきる。

 その繰り返しがこの二人の戦いを均衡させて、その繰り返しが切りのない攻防を延々と続かせていた。

「こちらからも、攻めますよっ!」

 姫紗の聖域は防御の為だけに在らず。彼女の防壁は己を守ると同時に、あらゆる攻撃を掻き分けつつ接近するための手段でもあるのだ。

 例え獄炎を叩きつけられようとも、大剣を振り抜かれようとも、その突進を妨げることは決して出来ない。

「はぁぁぁぁぁあああああああっ」

「っく……」

 気合一閃。

 美海の目の前まで接近した姫者がその剣を彼女目掛けて叩きつける。

 しかし圧倒的に腕力が欠如していた。

 容易に接近する手段があろうとも、速度を乗せた一撃ですら防ぎうる美海の腕力を前にしては決定打になりえない。

「相変わらず非力なこと」

「貴方が怪力なだけですっ」

 姫紗は技巧と身のこなしの速さで幻惑する戦術を基本としている。腕力と素早さで強引に攻めることを前提とした美海とはあまり相性が良くない。

「そんな貧弱な体で、私の剣撃を受けきれるかしら?」

「そのための、乙女の聖域ですっ!」

 姫紗の展開していた乙女の聖域が美海の剣を受け止める。

 その刃も炎も姫紗の体を傷つけることはできない。しかし、乙女の聖域ごと強引に力技で美海は吹き飛ばす。

「なんて、馬鹿げた腕力っ……」

「参考までに教えてあげる、私のパワースペックは9、貴方との差は5よ」

 スペック値の差が5というのは絶望的な差である。どんな優位な状況でも、決して覆されることのない数字であり、腕力では決して勝てないという明確な事実でもある。

 だが、絶望するような事実ではない。

「数字で、戦っている訳ではありませんっ」

「それは同意ね。でも……、基本スペックを覆せる要因の一つである経験は、私の方が圧倒的に上よ?」

「経験回数だけが自慢のオバサンはウザイだけです」

「……契約者に影響されたのかしらね、貴方以前より口が悪いわよ?」

 姫紗は一度離された距離を埋めるべく隙を伺う。

 圧倒的な腕力に姫紗程ではないがそれに迫る速度、そして全てを焼き尽くす火力を持つ能力。そのどれもが厄介であり突破は容易ではない。

 唯一彼女に勝っているものがあるとすれば、それは技術や技巧といった小手先の器用さしかない。

 接近し、己の技量で崩し渾身の一撃を見舞う。

 姫紗の必勝はそこにしか存在しないような気がした。

「覚悟……」

「あら……、その目。何か策でもあるのかしら?」

「策というほど大層なものはありません。ただ、覚悟を、貴方を絶対に切り伏せるという覚悟を定めただけです」

 その覚悟に正面から挑むという意味合いだろうか、美海はその大剣を大きく振りかぶると一撃必殺の構えで相対する。

 が、その次の瞬間には殺気が霧散し完全に集中力を散らしていた。

「? 油断してると一瞬で終わりますよ?」

「いえ、残念ながらもう終わりよ。引かせてもらうわ」

 そう言うと美海は大剣を振り回して炎を撒き散らす。

 恐らく紫がこちらにたどり着いたのだろう。毎回彼女は増援が来ると不自然なほどあっさりと引くのである。

 それほど二対一という状況が嫌なのだろう。

「逃すと思いますか?」

「もう四回も逃げているもの、五回目も勿論逃げ切れるわ」

 姫紗は炎を掻き分けて美海に肉薄しその連撃を見舞う。が、その全てが呆気なく弾かれてしまう。

「隙あり」

 その僅かな反動で身動きの取れない姫紗の腹部に美海の蹴りが放たれる。蹴りそのものは乙女の聖域で防ぐものの、その驚異的な脚力には抗えず吹き飛ばされてしまう。

 そしてそれだけの距離が空いていれば、美海にとって逃げることは容易かった。

「またね、未熟な子猫ちゃん」

 そんな言葉を残して美海は炎に包まれて消えていく。

「……逃してしまいましたか」

「姫紗、君無事?」

「勿論です。駆けつけていただいてありがとうございます」

「別に、あたしはご主人様の指示に従っているだけよ」

 素っ気ない態度で紫は姫紗から離れていく。無感情にどこまでも無機質なその態度に違和感を覚えなくはないがそういう気質なのだろうと納得する。

「大丈夫かい? 空鷹君」

「ああ、いつも悪いな」

「気にしないでよ、そのための同盟だからね」

「ああ、そうだな。お前が襲われたら必ず助けに行く」

「期待しているよ」

 二人のもとに姫紗と紫が戻ってくる。

「すみませんマスター、逃してしまいました」

「それはいい。いつも言ってるがあまり深追いはするなよ、あの美海って契約猫は危険な気がする」

「了解しました」

「ご主人様、やっぱり美海の近くに契約者らしき人影は見当たらない。契約猫だけ襲撃させてるのよ。舐められてる……っ」

「……余程契約猫の性能に自信があるのだろうね」

 清春と紫の会話に違和感を覚えた空鷹は思った疑問をそのまま口にする。

「契約者が一緒だと何か有利なのか? 狙われる分不利だと思うんだが……」

「相変わらず【ゲーム】のルールを把握してないようで僕は少し不安だよ」

「悪りぃ、説明頼むわ」

 咳払いすると清春は説明を始める。

「いいかい、契約猫それぞれに固有能力があるのは分かるよね。その他に僕ら契約者にも契約能力という特殊な能力が備わっているんだ」

「俺にもか?」

「うん、そうだね。でもまだ目覚めてはいない筈だよ。最初のルールに記載されてるように、契約者は契約能力を覚醒させないといけない」

 空鷹は携帯電話を取り出して画面を見る。言われてみれば確かに契約能力というアイコンが存在していた。

 だが開いてみても何も表示されない。

「そのアイコンが開けないのが覚醒していない何よりの証拠だね。覚醒方法は不明だけど、僕も覚醒には随分と時間が掛かった」

「と言う清春は契約能力ってのを持っているのか? どんな能力なんだ?」

「いくら協力関係でもそれは言えないよ。固有能力と同じく戦闘の決め手になりかねない要素だからね」

 なるほど確かにその契約能力が強力ならば、契約猫の傍で戦闘を見ていたほうがいいのかもしれない。

「契約能力だけじゃない。契約猫は個人の判断で戦闘出来るけど、実は契約者の指示に従っていたほうが高いパフォーマンスを発揮できるんだ」

「俺らが指示を出すのか? 戦闘中に?」

「そうよ。でも確かに指示を受けたほうが動きやすいけど、間違った指示を受けたら致命的な隙になる。だから冷静に素早く思考し、判断できる契約者があたしたちには必要なの」

「私はマスターの指示を信じて戦います。マスターは自分を信じて迷わず指示を出してくればいいのです。私はそれを必ず遂行します」

 姫紗の目に迷いはない。まるで疑うことを知らないように、純粋に空鷹を信じ抜いているようである。

「いや、俺も慣れてないからな。盲目的に信じるよりは、間違った指示をしたら言ってもらったほうが有難いんだが」

「マスターが間違った指示をしたとしても、姫紗がそれを正解に変えてみせますっ」

 断固として自分の意見を曲げる様子はなさそうだ。どうやら姫紗にとって空鷹の命令はそれだけの重要性を持つらしい。

 しかしそれだけ空鷹の言葉に重みを感じているのならば、盲目的に信じるなという方の言葉ももっと受け入れて欲しいのだが。

「まぁ、指示に関しては少しずつ慣れていくとするさ」

「そうだね、こればかりは経験を積むしかないね」

「無駄だと思うわよ、契約者としての資質は才能が大きいから、向いていない人はいくら努力しても無駄。……それが誰とは言わないけどね」

「おもいっきし俺を見てそんなこと言われてもな、悪意しか感じられないが」

 紫の皮肉にも慣れてきたのか、空鷹は軽く苦笑いするだけで収める。

「この時間からだと完全に遅刻だな……。悪いな、清春」

「気にしないでいいよ、仕方のないことだしね」

「そう言ってもらえると助かる」

 清春に礼を言い、空鷹は紫の方を向く。そこには不機嫌な顔をした。しかしどこか寂しげな雰囲気を醸し出す少女がいた。

 何故か空鷹を嫌悪しているようで気に食わないことばかり言われている。

 空鷹にとって気に食わない存在の筈だ。

 だがどこか憎めない。

 不思議なことに空鷹はこの憎たらしい奴を気に入っているらしい。

「お前もありがとな。助けてくれて助かった」

「……なっ」

 どこか間抜けな声で紫は惚けている。

 どうやら余程空鷹の言葉が意外だったらしい。

「べ、別に君を助けた訳じゃないわよ。自惚れないで」

 素直な返事ではない。どこかひねくれていて、そして刺がある。

 それでもほんの少しだけ赤く染まったその頬は隠せない。

 どうやら彼女は照れているようだ。

「マスター行きますよ。遅刻してしまいます」

「えっ、おい引っ張んな。第一遅刻はもう確定だろ、それに俺は遅刻しようが欠席しようが別に構わないんだが……」

 どこか慌てた様子の姫紗に引かれて空鷹はその場を後にする。

「悪い清春先に行く。今日も助かった、ありがと。じゃあなっ」

「うん、じゃあね」

 空鷹の学校での評判はお世辞にも良いとは言えない。

 そんな彼と普通の一般生徒である清春が仲良くしている姿を見られれば、清春の友好関係に支障が生じる可能性があった。それで済めばいいが、もしかしたら最悪清春の教室での立場が一気に最下層に落ちてしまう可能性すらあるのだ。

 故に空鷹の提案で学校では他人の振りをしようという話になったのだ。

「マスター。あまり他の契約猫と仲良くするのは感心できません。マスターの契約猫は私なのですよっ!」

「ああ。……ああ? お前が俺の契約猫だってことと他の契約猫と仲良くなるなってことに関連性なくないか?」

「何をおっしゃいますか、最後まで生き残るためにはいつかは倒さなければならない相手なのですよ。分かっているのですか?」

 そうだ。

 確かに姫紗の言うとおりである。

 この【ゲーム】を最後まで生き残るということは、他の契約猫と契約者を打ち倒すことに他ならないのだ。

「でも今は同盟中だぜ? 清春や紫とコミュニケーション取ることは普通だろ?」

「……マスター。あの清春という男を完全に信用するのは危険すぎます」

「おいおい、何度も助けてくれた恩人に穏やかじゃねえなぁ」

「気をつけてくださいマスター。どんな悪人も最初のうちは善人の皮を被るものなのです」

 それは確信であった。

 姫紗が何を根拠にそんな確信を抱いているのかは分からないが、彼女は確信を持って清春の裏切りを見越していた。

 しかし空鷹にはそれが理解できない。理解できない以上は受け入れることはできないのである。

「何を嫌っているか知らねえけど、お前ちょっと疑いすぎだぞ。それをなんていうか知ってるか? 疑心暗鬼ってやつだよ、それは」

「私の杞憂ならばいいのです。しかし、もしも私の予想が当たっていれば致命的な状況となるでしょう」

 姫紗は様々な思いを胸に潜めて空鷹を見据える。

「頭の片隅でいいのです。完全には信用せず、どこか怪しいと思ったら清春を疑って下さい。……いいですか、疑うこともひとつの信用の形なのです」

「? 信用って信じることだろ。疑ったら矛盾するだろうが」

「信頼や信用とは責任を他人に預けるモノではありません。裏切られてもいい、間違っていてもいい、全て受け入れる。その覚悟の証が信用の姿なのです。いいですか、信用とは疑うことの放棄ではありません。疑って尚、その疑心も相手の思惑もひっくるめて受け入れるのが信用であり信頼なのです」

 重い言葉だ。

 それがプログラムされた人工知能が導き出した言葉だったとしても、それは姫紗という個体の持つ心からの言葉なのだろう。深く、深く空鷹の心に杭のように打ち込まれる。

「分かった。心に留めておく……」

「ありがとうございます」

 そう言い残すと姫紗は猫の姿に変化して空鷹から離れていく。

 学校に姫紗を連れて行く訳にはいかない。かといって空鷹と離れることを認める気は姫紗にはない。

 そこで清春に紫を授業中どうしているのかを聞いた結果、どうやら猫の姿で校舎のどこかに隠れてもらっているらしいことが判明した。

 この方法でなんとか姫紗に納得してもらったのだ。

 隠れられそうな場所を探す姫紗の後ろ姿を見えなくなるまで見届けてから、空鷹は校舎に入って教室を目指す。

 今日もまた、無意味で空虚な一日が始まる。


   1


 昼休み、空鷹は校舎の屋上に来ていた。

 理由は目の前の人物に呼び出されたからだ。

「おい、学校では互いに干渉しない筈だろ?」

「ごめん、でもここなら誰も来ないから」

 呼び出したのは他でもない清春だ。

 携帯電話にメールで重要な話がある。昼休みに屋上に来て欲しい。と送られてきたのだ。

 見回してみるが屋上に人の気配はない。

 当然だ。

 天候は快晴。太陽の熱を存分に吸収したコンクリートは放熱しており、そこはまさに灼熱地獄と言えた。

 何もしないでも汗が滴り落ちてくる。

「確かにこんな暑苦しい炎天下の中屋上に好き好んで飯食いに来る物好きはいねえわなぁ」

「空鷹君」

 強い一言であった。

 場を制圧する。そんな強さを秘めたそれに空鷹は驚く。

「どうした、そんなに真面目な顔して」

「重要な話というのは勿論【ゲーム】についてのことだ」

 誰もいない屋上に清春の声はよく響いた。

「だろうな」

「このまま美海にやられっぱなしというのはやはりあまりよい状況とは言えないよね?」

「そうだな」

「だからこちらから打って出ようと思う」

「それは……」

 簡単に思い浮かぶだけでもかなりの問題点があげられる上に、リスクがリターン以上に大きい気がする。

 やはり簡単には賛成しかねた。

「それは同意しかねるな。確かに受身なのは気に食わないが、俺とお前が協力している間は安定してこっちが有利だろう?」

「でも援護が間に合わず、片方が先にやられてしまったら?」

「確かにその危険は内包しているが、だからってこちらから打って出るのは話が飛躍し過ぎだ。それ以前に相手の居所どころか契約者の正体すら知らねえってのに」

 清春が自信を持った笑顔で笑っている。

 突然こんなことを言い出したのだ。当然何か考えがあるのであろう。

「何も攻めることだけが反撃の手段じゃない。こちらが準備していれば、罠に嵌める事だって十分に可能だろう? そうは思わないかい?」

「前置きはいい、具体的に教えてくれ」

「分かった」

 そう言うと清春は携帯電話を取り出し、ある設定画面の表示を空鷹に見せた。

「これは契約者権限の一つ、契約猫の譲渡画面だ」

「契約者権限?」

「……だよね、【ゲーム】のルールを把握していないしね。分からないと思ったよ」

「盛大に溜息吐いてないで教えてくれ」

 契約者権限とは契約者に与えられた、【ゲーム】におけるシステム的なプログラムの行使を可能にする手段のことらしい。

 つまりは【ゲーム】の製作者側が参加者である契約者に与えた選択権のようなものだろう。

「僕たちは携帯電話を通して、この【ゲーム】のシステムにある程度干渉出来る。そのひとつがこの契約猫の譲渡だ」

「前にお前が言っていた、契約猫の受け渡しが出来るって話か」

「そうだね。契約者同士が互いの携帯電話で手続きを踏めば、自分の契約猫を相手の契約者に譲渡出来るんだ」

「それってメリットあるのか?」

「正直ないよ。猫が破壊された場合の失格対象が譲渡した相手に移り変わることくらいかな」

「役に立たない機能だな」

 一概にそうは言えない。と、清春は続ける。

「この譲渡機能、実は相互譲渡機能がある……。つまりは契約猫の交換が可能なんだ」

「……契約猫の交換だと?」

 嫌な響きだった。

「単刀直入に言うよ、君の姫紗と僕の紫を交換しないかい?」

「どういう意味だ?」

「君よりも僕の方が契約者としては経験が多い、僕が姫紗のような強力な契約猫を操れば美海さえも打倒できる。勿論永続的にじゃないよ、美海を倒すために倒すまでの間だけでいいんだ」

 首元がチリチリと痛む。

 清春の言葉のその一つ一つがやけに空鷹の内側を抉りとる。そんな気がした。

「それは流石に即答しかねるな……。携帯を自分で破棄しようとしていた奴が何を言うかとは思うかもしれないが」

「空鷹君の言い分は当然だよ、突然言い出した僕が悪い。でもね、頭の片隅には入れておいて欲しいんだ。そう言う手段もあるってね」

「そういうことなら構わないが……」

 姫紗の心配そうな表情が脳裏をかすめる。

 ――マスター。あの清春という男を完全に信用するのは危険すぎます

 姫紗の言葉が思い出される。

 信じるべきか、疑うべきか。

「それが必要な場面なら、俺も迷わない。けど現状その気はないな」

 空鷹の答えはそういうものだった。

 清春を信じたい、しかし姫紗の忠告も無下にはできない。そんな状況下だからこそ、空鷹は中途半端な判断しか下せなかったのである。

 それは甘さであり、同時に捨てきれない優しさでもあった。

「ありがとう、君の信頼に感謝するよ」

 同盟を組んでいるとは言え、何度も助けてもらった恩もある。もしも清春と出会っていなければ、今頃美海にやられていたはずだ。

 やはり清春は信頼に値する相手だろう。どう考えても姫紗の心配は杞憂に思えた。

「礼を言われる筋合いはねぇな。同盟相手だろ、互いにさ」

「そうだね。それでもありがとう」

 ずっと孤独で生きてきた。

 孤独であれと望んで、孤独であるのが己の運命であると言い聞かせて。

 その思いに疑念を抱いたことはない。それでも、やはりどこか心に無理を抱えていたのかもしれない。

 その証拠に、ありがとう。ただそれだけの言葉が酷く心地よい。

 これだから人と関わるのは恐ろしいのだ。

 怖いほどに、温かい。失いたくはないと渇望してしまう。

 そしてきっと、失った時。その痛みに耐えられない。

「そういえばお昼だったね、僕はもう行くけど」

「俺はもう少しここに残る」

「そう、じゃあまたね」

 清春の去った屋上で一人考える。

 この胸の締め付けられるような感覚はなんなのであろうか。

 一人で答えのない堂々巡りを続けていると、どこからともなく薄く黄色い毛並みの猫が屋上に迷い込んできた。

 こんな場所に迷い込む猫など普通はいない。ということはその猫は普通ではないということだろう。

「紫か?」

 そう問いかけるとその猫は光を伴い一瞬で人の姿に変わっていた。

「気安く名前を呼ばないで」

「紫さんとでも呼べばいいのか?」

「様よ」

「紫様」

「嫌、気持ち悪い。ほんと勘弁して」

 随分な言い草であった。

「どうしてお前ここにいんの、清春のこと見守ってなくていいのか?」

「大丈夫よ、少しくらいサボっても」

 長い金髪を手で遊びながら、どこか落ち着かない雰囲気で紫はそう言う。

「……今も真面目に遠くから俺を護衛してくれているだろう姫紗とはえらい違いだな」

「四六時中気を張っていたって効率悪いもの、必要な時に守ることが出来れば結果同じでしょ? そうは思わない?」

「一理はあるが、姿勢の問題だろう?」

「へー、君に姿勢を説かれるなんてね」

 言われてみれば確かにそうだった。空鷹は誰かに姿勢を説くほど自分の姿勢がいい訳ではない。

 むしろ学校での素行を考えれば説かれる側の人間といっても過言ではないだろう。

「確かにお前の言う通り、俺に姿勢を説く資格はねぇわな」

「なに君、どうしてそんなに楽しそうなの?」

「楽しそうか? お前にそう見えるなら、そうなのかもな」

「気持ち悪い、近寄らないで。百メートル位離れて、お願い」

「落ちるわっ!」

 百メートル先は余裕で手摺の外側である。

「え? 落ちて欲しいって意味なのだけれど」

「えげつねぇな、お前」

 笑いながら空鷹は手摺まで歩いて行って寄りかかる。笑っていられるのは彼女のそれが本気ではないと分かっているからだ。

 何故これだけ愛想の悪い。それどころか悪意まで感じられるほど嫌味な女を気に入っているのか、その理由がようやく分かった。

 彼女は、紫は空鷹と同じなのだ。

「お前さ、それ、辛くねぇの?」

「どういう意味?」

「そのまんまの意味だよ。心にもねぇこと口にして、人遠ざけて。独りが気楽か?」

「変な詮索はやめて、君に語ることなんて何一つない」

「そりゃそうだ……」

 自嘲気味に空鷹は呟いた。

 手摺に体重を預け、空を仰ぐように眺める。

 照り付けるような眩しい日差しとゆっくりと漂う白い雲、それにどこまでも高く広がる青い空が視界いっぱいに広がっている。

 空を見上げなら考えるのは紫のことだ。

 どんな理由があるかは知らないが、自分から他者を遠ざけて自分から孤独を選んでいる。そんなことをしているのは間違いないだろう。

 やはり、彼女は空鷹と同じとまでは言い過ぎかもしれないが似たような、近い何かを持っているように思える。

「一つ聞きたいんだけど」

「なんだ?」

「君さ、自分の愚かさについて考えたことある?」

 射抜くような冷たい視線。紫のそれは侮蔑を含んだ酷く荒んだもので、そして少なからず哀れむような雰囲気を内包していた。

 当然向けられて居心地のよい視線ではない。

「さぁな、自分が賢いとは思わねぇが。自分の愚かさなんてものを考えたことなんてないかもな」

「そう……、じゃあ直ぐにでも考えるべきよ。あたしに言えるのはそれだけ」

「それはお前の善意か?」

「……どうかな、私も愚かだから。もしかしたら君以上に。だから、難しいことは分からないの」

「おい、どうしてお前はそんな寂しい目を俺に向けるんだよ?」

 空鷹の問いに答える声はなく、紫は猫の姿に戻ると来た道を戻って消えてしまう。

 屋上には空鷹がただ一人残される。

「なんだってんだよ」

 紫の言葉は胸に刺さった杭のように、心にしこりを残す。

 その痛みも、不快感も、忘れた振りをして空鷹は屋上を後にした。


   2


 清春の両親は不仲であった。

 それは何処にでもある有り触れた家族関係なのかもしれないが、少なくとも幼い頃の清春にとっては絶望的な環境であった。

 父と母の冷戦。一言で言えばこれ以上に相応しい言葉もないだろう。

 互を互いに罵り合う。そんな状況さえも通り過ぎ、憎しみが膨らみすぎて無関心の域に届く。

 まだ毎日のように喧嘩していたのが平和だと思えるほど、その毎日は熾烈であると同時に苦痛であった。

 狂気だ。

 家に蔓延する空気はまさに狂気と呼べるモノだった。

 それでも幸か不幸か清春は狂わなかった。

 あるいは狂えば楽になれたかもしれなかったが、狂えなかった。

 きっと世界を探せば自分より不幸な人間はいくらでもいる。それでも、清春にとっての世界は彼の知る限りの世界で。

 そしてその世界はどうしようもなく淀みきっていて。

 救いがなく。

 終わりもなく。

 ただ破滅への秒読みを淡々と続けているのみであった。

 かくして終わりは呆気なく訪れる。

 無理心中。

 父親が主犯なのか、もしくは母親か。今となっては知る由もない。

 家は突然火に包まれ。

 父は灰に。母は煤に。そして一人息子は何故か生き延びた。

 生きる必要はなかった。

 そこが終わりと言うならば喜んで受け入れた。

 しかし、狂気を孕んだ表情で人間とは思えない声で叫びつつ、火の海の中で母親を殴り続ける父親と、それを笑いならが受け入れる母親のそんな光景を見ながら気を失い。重度の火傷を負いながらも九死に一生を得て、病院で目覚めた時は涙が出た。

 悲しみではない。歓喜だ。本能からくるものか、理性からの発露か。そのどちらかは断言できないが、確かに清春は生きているという実感に涙したのだ。

 死を受け入れるなど全くのハッタリだったということだろう。

 病院で僅かながらの落ち着いた時間を過ごした後、警察の事情聴取を受けた。

 どう答えたのかは覚えていない。

 全て正直に答えたのかもしれないし、嘘を言ったのかもしれない。

 問題はその後だった。

 清春の受け入れ先が見つからなかったのである。

 父方も母方も親戚は少なく、そして金銭的な問題で受け入れられる家庭は存在しなかった。もとより、無理心中を謀った一家の生き残りなど不気味で誰も引き取ろうとはしない。

 警察には疑われ、世間には余計なお世話な同情を向けられ、親族には不気味がられ、この世に彼の居場所は存在しなかった。

 だが神はよくわからない同情を清春に残した。

 清春はその手を取った。無意識に。しかし確かな意思を持って。

 掴んだ手は萎れて乾びたまるでミイラのような手だった。

 それでも暖かく優しい体温を感じた。

 清春を引き取ったのは血縁関係などひどく薄い、親戚と呼ぶにもおこがましいそんな老婆だ。

 押し付けられた。最初はそう思っていたが、どうやらこの老婆は自ら清春を引き取ることを決めたらしい。

 死に際の気紛れか。

 安っぽい同情か。

 どちらにしろ、清春は老婆を疑い心は開かなかった。

 その老婆は清春にこう繰り返し言った。

「お前さんがその目に写す世界は酷く澱んでいるのだろうね」

 続けてこう言う。

「それでもお前さん自身が澱む必要は一切ない。世界と自分に関連性なんてないのだから」

 そして最後にこう付け加える。

「ゆっくりでいいさ。ババアの余生に少しばかり付き合っておくれ」

 それは一日に一度、必ずある儀式のようなものだった。

 時間は決まっていない。朝言う時があれば、思い出したように寝る前に言うこともある。

 ただ、老婆がその言葉を言うことを忘れた日は一度としてなかった。

 色彩のない景色を長いこと眺めていた気がする。

 学校には毎日通ったし。無理心中を理解出来るクラスメイトはいなかったが、それがいけないことで、そして清春は普通の子供とは違うってことは理解されていた。

 授業を受けて普通に進級して、卒業した。正直、学校は好きではなかった。

 そして家に引き籠もり続けた。買い物も料理も家事は全て老婆がこなしていたので、清春は何一つすることなく死体のようにただそこに有り続けた。

 そんな毎日が続く。続くと、不思議と清春の視界に映る景色には色彩が戻りつつあった。

「どうだい、中学校は楽しいかい? 小学校とどう変わった?」

 返答はしない。答える言葉は持ち合わせていないし、例え持ち合わせていても答える気にはなれなかった。

 それでも老婆は笑った。

 一人で喋ってそして一人で笑うのだ。悲しい顔など一切見せずに。

「心はね、閉じるのは簡単だけど。一度閉じたそれを開けるのはとても時間の掛かることさ。壊すことも可能だけれど、ババアは好きじゃない。ゆっくりでいいよ」

 老婆は自分をババアと呼んだ。何故か自虐には感じない不思議な声色で、そう自分を呼ぶのだ。

「ババアの毎日は変化のない退屈で詰まらない毎日なのさ。だからお前さんの話を聞かせておくれ」

 まるで話す言語を忘れてしまったかのように口は動かない。動かす気力もない。

 そう、気力がないのだ。ないのだが、果たして自分は会話をすることが出来るのだろうか。長い間黙り続けていたせいで会話する機能が壊れてしまったのではないのか。と、一瞬だけ心配になる。

 なるが次の瞬間には無駄な思考だと一蹴した。

 ある日、老婆は倒れた。

 目の前で突然。なんの予兆もなく、あっさりと、死ぬように倒れた。

 呼びかけようと試みる。が、老婆の名前を知らなかった。

 覚えていないのだ。数年間毎日顔を合わせていても、知らなかった。

 だからババアと呼びかけようとする。が、掠れた何かが喉から漏れ出すだけで、本当に声が出せなかった。

 どうやら、会話という機能はものの見事に壊れてしまったようだ。

 近付いて揺すってみるが返答はない。口元に耳を近づければかすかに呼吸の音は聞こえるが、それも不定期であまり正常とは言い難い。

 もう季節は暦では冬だというのに大量に発汗が見られるが、それに対して体温は驚くほど低い。

 どうみても異常だった。放っておけば死んでしまうだろう。

 慌てて清春は受話器を取り119と打ち込む。すると消防か救急かを問われるが勿論救急だ。

 しかしどれだけ声を絞ろうとも掠れた何かしか発せられない。

 どうなされました? 落ち着いて深呼吸してください。そんな声が受話器から聞こえるが、早くしなければならない焦燥感で思考が完全に混乱している。

 焦れば焦るほど伝えたい言葉は形を失っていく。

 老婆を見る。落ち着かない瞳で、動転した心で、定まらない焦点で。

 すると老婆の声が蘇った。

 毎日聞いているのだ。一字一句間違えずに諳んじられる。

 その声色も、表情さえも鮮明に思い浮かぶ。

「お前さんがその目に写す世界は酷く澱んでいるのだろうね」

「それでもお前さん自身が淀む必要は一切ない。世界と自分に関連性なんてないのだから」

「ゆっくりでいいさ。ババアの余生に少しばかり付き合っておくれ」

 気分がいくらか落ち着いた。

「救急です。性別は女性、歳は七十八。突然目の前で倒れました。呼吸が乱れていて、大量の発汗をしていますが体温は低いです。住所は――」

 相手の質問に幾つか答え、そして幾つかの指示もされた。どうやら後少しで救急車が来てくれるらしい。

 指示通り電話を切らずに受話器を置き、老婆に近付く。

「もう少し待ってね。救急車呼んだから」

「…………て、……いよ」

 微かだが老婆の声を聞いた。

 しかし小さすぎて聞き取れない。清春は老婆の口元に耳を寄せる。

 そして言葉を聴き、理解し、そして不意に込み上げた感情を抑えきれず、涙は頬を伝った。

 老婆は苦しみながら。

 意識がはっきりとしない中で。

 ただこう言ったのだ。

「やっとお前さんの声が聞けて、嬉しいよ」

 救急隊員に助けてもらい、老婆は救急病院に運ばれた。

 一命は取り留めたものの入院を余儀なくされた。

 そして清春は一人になった。

 だが悲しみに耽る余裕はない。入院に必要な物を準備しなければならない。

 そのために清春は老婆の部屋で必要な物を探し始める。

 そして見つけてしまった。

 古いアルバムを。

 そこに写っていたのはオンボロの建物と、成人した老婆と仲良さそうな同年代の男女数人だ。

 タイトルは孤児院鵜原卒業生一同。

 アルバムを遡る。そして理解した。

 老婆は孤児なのだ。

 孤児院で育ち、そして引き取られた。

 故に、清春を引き取った。

 親を失い独りになる孤独と苦しみを知っているから。

 それは決して同情などではなかった。

 自分を重ね合わせ見たものは同情などという後ろ向きな考えではない。きっと希望を、生きる希望を見つけさせてやりたいという前向きな思いだ。

 自分がそうであったように。

 ならばそれは達成されたといってもいい。

 清春は間違いなく見つけたのだ。生きる意味を、その希望を。

 色褪せた世界はもう既にない。そこにあるのはただ残酷にそびえ立つ現実。

 望むところだった。

 絶望は見た。

 希望を知った。

 故に突き進む。

 願望はある。老婆が確かに教えてくれたのだ。

 何をしても、何を失っても、老婆を助ける。それが清春の生きる意味なのだと強く己に刻み付ける。

 必要なのは金だ。

 どんな手を使ってでも手に入れてみせる。

 その機会は偶然にも、数年後に訪れた。

 一つのダンボール箱と共に。

 携帯と。

 猫と。

 金。

 それは確かに清春のもとに届けられた。


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