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第二章
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第七話

 二人を乗せた電車はそれほど時間も掛けずに目的の駅へと到着した。

 学校のある町を繁華街、そして直哉の住む町を田園風景の広がるベッドタウンとするならば、水野の妹が入院している病院がある町には別荘地に分類される街並みが広がっていた。

 高級住宅地や病院が立ち並ぶ一等地として有名な町の出発点―――すなわち入り口に位置する駅の周辺は流石に人の流れも穏やかだ。

 直哉たちの住む町や学校のある町とは一線を画した雰囲気を醸し出す昔からの別荘地は、傷害事件に巻き込まれた中学生の少女が静かに入院生活を送るには確かに適した場所であった。

 直哉と志保が揃って駅の改札から出ると、水野の妹が入院しているはずの病院の屋根が既に二人の視界の隅に入っていた。


「思ったよりも近いみたいだな」

「そうだね。これなら迷わなくても済むから安心だね」

「ああ」


 駅から続く閑静な住宅街の間を二人は並んで歩いていく。

 華の週末だというのに、駅から出てきた二人とすれ違う人の数は非常に少ない。いや、むしろ殆どいないといっても過言ではない。

 過ぎ去る街並みにも煩雑とした雰囲気はなく、むしろ静謐とした趣がある。この街だけ時間の流れがゆっくりと流れているような感覚が体中に広がっていくようだった。 


「ここだな」


 速すぎず、さりとて遅いわけでもない。

 志保の歩く速度に合わせて歩幅を小さくしていても、病院までの距離は大したことはなかった。

 直哉が見上げた先には病的なまでに(・・・・・・)清潔な印象を与える白い壁をした病院が建っていた。


「病院なんて久しぶりに来たな」

「河村家は直哉くんも理沙も風邪一つひかないくらい元気だもんね」

「残念ながらと言うかなんというか、おかげさまで病院に厄介になるような怪我も最近は一切ないしな」

「中学校の時は何度かあったのにねぇ」

「ま、あの頃はそれなりにいろいろあったからな」


 志保と話を続けながら入り口を通ってみると、病院の中は整然としていた。椅子に座って順番を待っている者や院内図を見ながら目的地を探す者、会計をしている者など多くの人間がいるにも拘らず、全員がどこか機械のように規則正しく動いているように見える。

 人間としての感覚を喪失した空間のような病院は、前々から少しばかり直哉にとっては苦手な場所だった。


「昨日の夜、襲われた女子中学生が目を覚ましたってニュースをやってたよな」

「うん。まだ面会謝絶だったら仕方がないけど、取り敢えず病室までは行ってみないとダメだね」


 直哉と志保は並んでエレベーターに乗り込むと「五階」のボタンを押した。

 事前に圭吾から聞いておいた話によると、事件性の高い案件に巻き込まれたこと、そして本人が未成年であることやマスコミへの対策なども兼ねて、水野の妹の病室はこの病院の五階にある特別病棟になったらしい。


「警察の方には圭吾と理沙が連絡を入れてくれているらしいから、容体が悪化してない限りは本人には会えるはずだ」

「そっか。目を覚ましてるといいね」

「そうだな」


 二人の苦悩など知る由もないエレベーターは瞬く間に二人を病院の五階へと導いていく。冷たい電子音と共に停止した箱の中、扉が開き、直哉たちの視界がひらける。

 まず直哉の視界に入ったのは白い廊下と白い壁だった。汚れの一つすら許さない過剰な潔癖さと外界とは隔絶したあまりの違和感には、以前にも感じたような吐き気がする。妙な寒気に背中へと冷たい汗が流れる。


「―――」


 リアルな感覚と共に唾がゆっくりと喉を通り過ぎて行った。嫌な感覚だった。手のひらにじんわりと汗が滲んでくる。握り込んだ拳には直哉自身でも気づかぬ内に相当な力が込められていた。

 胸にざわつきが広がる。激しくなる動悸を強引に抑え込もうと直哉が胸に手を添える。

 その瞬間、酷い緊張で強張った直哉の肩にふと優しい風が触れた。


「大丈夫?」

「―――あ、ああ」


 隣から見上げてくる志保の顔は見たことがないほどに不安の色を含んでいた。

 直哉は腹に力を込めて気を引き締める。

 こっちからわざわざお願いしておいて、お願いした当の自分がヘタレているわけにはいかない。ただでさえ休日に無理を言って来てもらっているというのに、それはあまりにも申し訳がなさすぎる。それになにより一人の男として情けない。初恋の相手を前にして、あまり弱弱しく情けない姿は晒せない。

 直哉は目を閉じて大きく一度、深呼吸をした。


「―――行こう」


 最初の一歩こそ重かったものの、一度歩き出した後は特に労せずして廊下を進むことが出来た。

 目の前を伸びる廊下を真っ直ぐに二人は歩いていく。水野の妹が入院している病室は、現在ニュースで取り上げられている最も旬な話題の一つということもあり、病院の中でも奥の方にある個室になっているらしかった。

 廊下を進んだ二人が二つ目の角を曲がると、水野の妹が入院しているらしい病室の前の廊下には二人の男がいた。

 男たちは実に対照的な二人組だった。一人は柔和な笑顔を浮かべながらこちらに向かって小さく手を振ってくる若い男。そしてもう一人は厳めしい顔をした昭和の頑固親父という風貌をした年配の男。二人ともスーツを着こんでいるところを見ると、どうやら病院の関係者ではないことは簡単に予想がついた。

 病院の関係者でない人間で、かつ、こんな場所にいる人間が属している組織は一つしかない。


「やあ、いらっしゃい。待ってたよ」

「…どうも」

「話は吉田くんから電話で聞いてるよ。えっと、確か君が河村くんで、そちらの彼女さんが岬さんだったかな?」


 二人の内、若い方の男が直哉たちに近寄りながら訊ねる。


「はい。そちらは警察の方でしょうか?」


 笑みを絶やさない若い男に応えたのは志保だった。


「ええ。私は橋下と言います」


 警察手帳を広げながら若い男も応える。


「彼女、昨日の夜に目を覚ましてね。僕らも今朝、ようやく話を聞いたところなんだよ」

「そうなんですか。それでは今は?」

「ああ、大丈夫大丈夫。彼女、とてもじゃないけど、誰か分からない人間に刺された翌日の女の子とは思えないほど元気だから」

「そ、そうですか」

「ホント、肝が据わってるというか神経が太いというか。最近の女の子は強いよねぇ」

「は、はぁ……」


 実に軽いノリで同意を求めてくる若い男に、流石の志保も戸惑いながら直哉の方を見上げた。完全に助けを求める瞳だった。


「すみません。それで、彼女には会っても大丈夫なんでしょうか?」

「…ああ、構わんぞ」


 目の前の若い男ではなく、奥で頭を抱えていた年配の男に向かって直哉は問い掛ける。

 大きなため息をこぼした年配の男は若い男の頭を軽く殴ると、乱暴に頭を掻きながら直哉の目の前に立った。

 背丈は高くない。長身の直哉からすれば見下ろす程度しかない。なで肩に沿って男が着ているスーツは所々解れていて、とてもじゃないが手入れをしているとは思えない。パッと見た感じではただの何処にでもいるサラリーマンの親父にしか見えない。

 それでも年配の男が目の前に立った瞬間、直哉は無意識の内に背筋を伸ばしていた。 


「坊主。たしか河村直哉とか言ったな」

「はい」


 男の品定めするかのような瞳が真正面から直哉を貫く。


「理沙は元気にやってるか?」

「―――え?」


 唐突に出てきた見知った名前に、直哉は思わず呆けたような言葉を発した。


「ん?お前さん、アイツの―――河村理沙の弟なんだろ?」

「は、はい。それはそうなんですが……」

「これだけ図体のデカい弟がいるってことは、あのヤンチャだった嬢ちゃんもいつの間にか一人前になってるってことか。そりゃ俺も年を取るわけだよなぁ」


 年配の男は無精ひげを擦りながら独り言のように呟いた。

 黒い瞳が何処か懐かしい過去を思い出すかのように細くなる。厳めしい顔が僅かに柔らかくなり、直哉には決して知りえない遠くを眺めていた。

 理沙と男の間に何があったのか直哉は分からない。隣にいる志保も驚いたような表情を見せているところから考えると、おそらく親友である志保ですらもこの男のことは知らないのだろう。

 口元を緩めてなんとなく嬉しそうに見える男は、再び値踏みするような目で直哉を見上げてきた。


「俺の名前は増岡だ。昔ちょっとしたことで嬢ちゃんと知り合ってな」

「そう、ですか」


 戸惑いながら直哉は男―――増岡へ応える。


「帰ったら嬢ちゃんによろしく言っといてくれや。昔世話してやったオッサンは、お前さんの言うとおり「まだ現場で扱き使われてる」ってな」

「…分かりました」

「じゃああとはよろしく頼むわ。俺たちはまた近いうちに来させてもらうことになると思うけどな」


 増岡は直哉の肩を軽く手で叩くと、若い男を伴って直哉たちの来た道を進んでいった。

 その後ろ姿にもやはり直哉には見覚えがなかった。


「気になる人だったね」

「…そうだな」


 不思議な雰囲気の男だった。今までに直哉が出会ったことのないタイプの人物だった。それほど背が高いわけでも特別に筋肉があるわけでもないにも拘らず、妙に威圧感がある男だった。

 二人して男の背中を見送ると、誰もいない廊下には直哉と志保だけが残された。物音一つしない廊下にぽつんと二つの影が写っていた。


「じゃあ、俺たちも行くか」

「うん」


 二人が見つめる先には一枚の扉しかない。

 このたった一枚しかない扉の先に目的の少女がいることは明白だった。

 自分たちの行動の如何によっては水野が妹と再会する機会を永久に失わせてしまうかもしれないと考えると非常に足が重い。

 背中に負った責任がプレッシャーとなって直哉に圧し掛かる。


「…失礼します」


 普段の何倍も重たい足へと強引に力を入れ直し、直哉は重くなりそうな気分を振り払った。

 どれだけプレッシャーを感じていても、やらなくてはならないことはある。自分のことならまだしも、それが友人の頼みであるならば尚更こんな土壇場で足踏みしているわけにはいかない。

 たとえどんな結果が待っているにしろ、今までのように二人の関係が停滞(・・)していた期間よりは何倍もいい。友人の未来を思えばこそ、やらなければならないことはある。


『どうぞ』


 尋常ではない緊張感に包まれた廊下へと幼さを残した声が響く。


「…失礼します」


 直哉は再度そう口にすると、ゆっくりと汚れひとつない真っ白な扉の取っ手へと手を伸ばした。

 正直、心臓の音が酷くうるさかった。

 自分でも人見知りだという自覚がある人間が、同い年の男子ならいざ知らず、年下の異性を相手にしてちゃんとした会話が出来るという自信はまったくなかった。

 直哉にとって最も身近な異性といえば姉の理紗だ。その関係から、特に直哉にとっての交友関係は同年代を除けば主に年上がその範疇ということになっている。つまり、直哉には年上の「女性」との関わりはあっても年下の「少女」との関わりなんてほとんどなかった。

 しかし、直哉のささやかな抵抗に反して時間は止まってはくれない。

 徐々に開かれていく扉の向こうに、見覚えのある景色がのぞく。

 ゴミひとつ落ちていないだろう清潔な床に、四本の脚に支えられたベッドが一つだけあった。パリッとした敷布団の上には同じように白い掛布団が敷かれている。

 そしてそんなベッドの上に、一人の少女が暇そうに窓の外を眺めながら座っていた。


「新しい医者か刑事、ってわけじゃなさそうだな」


 病室に響いた声は綺麗なアルト。

 思わず聴き入ってしまいそうになるほどの声質に、病室の中へと足を踏み入れた直哉の動きが止まった。


「医者でも刑事でもないっていうんなら、アンタら―――誰?」


 少し褐色気味の肌が非常に印象に強い少女だった。

 姉の水野が色白であることとは対照的に健康的な褐色の肌を持つ少女は、完全に「白」で統一された病室の中では相当な異彩を放っていた。

 意志の強そうな黒い瞳が迷いなく真っ直ぐ直哉を見つめる。

 ただ、どれほど良心的に考えてみても少女の瞳からは二人に対する好意的な色は見出すことが出来そうになかった。

 彼女の警戒心は本来ならば頭を置くはずの枕に手を掛けているということからもよく表れていた。なにかあれば直ぐに枕を直哉に向かって投げるということに一切の躊躇を厭わない目をしていた。

 だからこそ直哉も少女の目をしっかりと真正面から見つめ返す。

 優柔不断で挙動不審な態度は更に少女の警戒心を煽る結果にしかならない。そうなれば水野との再会も遠くなることは分かり切っている。

 僅か数秒の間だった。

 直哉と少女の視線が絡む。

 しかし直哉が口を開くよりも先に少女へと話し掛けたのは同性である志保の方だった。


「私たちは優花ちゃん―――君のお姉さんのお友だちです」

「姉貴の……?」

「うん。こっちの男の子が優花ちゃんの同級生で、河村直哉くん」


 一度は志保の方を向いた少女の視線が再び直哉の方へと向く。

 懐疑心を含んだ少女の視線に居心地の悪さを感じながらも、志保の紹介に合わせて直哉も少女へと手を差し出す。


「河村直哉だ。よろしく」

「アンタが姉貴の友だち、ね」

「不満か?」

「いや、別に。姉貴が誰と友だちになろうとあんまり興味ない」


 言葉とは裏腹に、少女はどこか不満げな表情のまま視線を逸らした。


「それでアンタは?姉貴の友だちにしては年齢が合わないよな?」


 少女はベッド上に立てた膝へ肘を添え、手の甲に顎を乗せながら志保へと問い掛ける。


「あ、うん。私は直哉くんのお姉さんの友だちなんだけど、優花ちゃんとも知り合いで」

「志保は俺らや水野がよく行く喫茶店の店長でもあるんだよ」

「ふーん」


 少女は適当な相槌を打つと、直哉と志保の間に視線を彷徨わせ二人を見比べる。


「で?姉貴が来るならまだ分かるけど、なんで姉貴の友だちがわざわざオレの病室に来るわけ?」


 少女の声は冷たい。


「優花ちゃんはどうしても外せない用事があるから、代わりに私たちが来たんだよ」

「アンタらオレとは無関係だろ?」

「無関係じゃないよ。優花ちゃんの妹なら、私たちにとっても家族みたいなものだからね」


 笑顔で当たり前のことのように告げる志保に、少女の表情が固まった。

 志保と話をすれば誰もが一度は見せる表情だった。


「…なに、コイツ。意味分からないんだけど?」

「まあ、なんだ。志保はこういう人間なんだってことだ。世の中には自分とは違った考えを持つ人間が大半なんだよ」

「…そんなもんか?」

「そんなもんだ」

「へぇ」


 見たこともないものを見る目で志保のことを見つめる少女の瞳には、明らかに今まではなかった「好奇心」の色が強くあった。

 取り敢えず有無を言わさず追い出されそうな雰囲気ではなくなったことに、直哉は安堵の息をもらす。


「話ぐらいは聞いてもらってもいいのか?」

「勝手にしろよ。オレは別に最初っから拒否ってないしな」

「そうなのか?」

「見ず知らずの人間がいきなり来れば、誰でも少しは警戒するのが普通だろ。それに一応、オレだってこんな口調と態度はしてても性別としちゃ女だしな」


 そう言って少女は衣服の下にある自らの胸を殊更に強調させた。

 決して小さくはない。むしろ、中学生という年齢のことを考えれば十分に大きい方だろう。パジャマのような衣服の下にあってもそれと分かる果実がその存在を自己主張する。

 理沙や志保のようないわゆる「女性」がやれば少女の仕草はきっと凄く色っぽいのだろう。それも容姿端麗な二人のことだ。きっと普通の男子高校生なら生唾を呑み込むこと間違いない。

 だが、目の前にいる少女のような中学生がやると当然ながらイマイチ色気に欠ける。まだまだ女として未成熟な体に興味があるその手の人たち(・・・・・・・)には喜ばれるだろうが、残念ながら直哉にはそんな偏った趣味はない。それになにより少女自身も冗談でやっているのだということは彼女の表情からも読み取れる。

 直哉は大きくため息をつく。

 彼女も馬鹿な事をするものだ。もし仮に直哉と少女の二人きりならお互いが冗談で済ませて終わりだっただろう。何もなく、何一つ変わることなく事態は収拾されたはずだ。

 しかし、この場にはお互いが冗談だとわかりきった冗談でも真に受ける人間が一人いることを直哉は知っていた。


「な、なにやってるの!?女の子なんだから男の人の前でそんなことしちゃダメだよ!!?」


 慌てて少女の方へ向かって走り寄る志保に、直哉はなんて想定通りの動きなんだろうかと二度目のため息を零した。

 大学に入学するまでずっと女の園で学んできた志保にとって、あまり高校生男子が日常的にするような話題に対する免疫力はなかった。だから志保にはこの手の話題や仕草などは本当に厳禁なのだ。そして今回もまた一人わたわたと忙しなく手を遊ばせながら、ぽかんとしている少女を相手にいつの間にかなにやら本気で説教を始めていた。

 心の中でいまだに名前も知らない少女へと直哉はエールを送る。こうなった時の志保の話は長いのだ。

 完全に手持無沙汰になった直哉は、病室の中に敷設されている椅子へと腰を下ろす。

 周囲を眺めてみれば、個室ということもあって病室にベッドは一つしかない。見舞いに来た客用と思われる椅子も二つだけだ。その分、広い病室は人によっては快適と言えるのかもしれないが、しかし、動きたい盛りの中学生には少々この空間は苦痛かもしれない。

 しかも窓の外にはまだ数名の記者が常に張り付いているような状態が続いているのだから、自由に外出することすらもできない。

 正直、他人事ながらもこの腫れ物を触るような待遇には吐き気がする。


「お、おい!アンタ!!確か直哉だったっけ!?」

「ん?」


 志保の説教が済むまで触れるつもりがなかった場所から掛けられた声に直哉が振り向くと、一目で困っていると分かる顔をした少女がいた。


「コイツ!なんとかしてくれ……っ!?」

「諦めろ。そうなった志保は長いんだよ」

「なっ、テメッ!?」

「あ、コラ!ちゃんと私の話、聞いてるの!?」

「ああ、もう!さっきからうるせーんだよっ、アンタは!?」


 ベッドの上で言い合う二人の姿はまるで仲の良い姉妹を彷彿とさせた。

 世話焼きな姉代わりに面倒くさそうな態度を見せてはいるものの、少女からは本気で嫌悪しているという感情は伝わってこない。やはり志保を連れてくるという選択肢は正解だったらしい。

 これほど円滑にコミュニケーションが取れるのなら、もはや当初の目的の一つは果たせたようなものだろう。最終的な目標は姉妹の再会だが、その前に踏まなければならない段階というものがある。たとえばそれは、少女が水野のことをどう思っているのかを確認することであり、両親の離婚のことをどう考えているのかであり、姉妹の再会そのものをどう捉えているのかを知ることである。

 そしてその中で最も初めに確認しなければいけないことは、少女が水野のことを嫌っていないのかということだった。

 少女の様子を窺うに、どうやら直哉や志保が憂えていたことは杞憂に過ぎなかったらしい。


「ま、これだけ話せるんなら大丈夫だろ」


 二人に聞こえない程度の音量で直哉が呟く。

 嫌っている相手の友人を相手にこれだけ話ができる中学生というのもそうはいないだろう。少なくとも直哉がまだまだ精神的に未熟だった中学生の時は、そんな器用な真似なんてできなかった。嫌いな人間はどうあっても嫌いだったし、話すらしたくなかった。

 つまり逆に言えば、これだけ姉の友人を名乗る人間と普通に話ができるということは、要するに水野のことを最低でも嫌ってはいないという解釈をすることも可能だろう。

 最初とは異なる少女の柔和な態度に、直哉は一人、椅子に座って胸を撫で下ろすのだった。


「いい?女の子っていうのはもっと―――」

「だあああああ!?うぜぇ!超うぜえ!!なんなんだよ、この女!?」


 二人の様子を眺める直哉を余所に、志保による一方的な説教という名の世話焼きは続く。

 たったの数分間程度の関わり合いしかないが、どうやら少女と志保の相性は非常に悪いらしいということは直哉にも理解できた。志保の方はまったく気にしていないようだが、少女の方は明らかに現在進行形で志保に対して苦手意識を抱いてしまっている。同年代の少女たちに比べれば遥かに「女の子」という認識が薄い少女にとって、志保はまさに天敵といってもいい。口調然り、態度然り。見た目は活発かつ健康的で非常に「女の子」らしいのに、非常にもったいないことだが、しかし、そういうところが志保の琴線に触れたらしい。

 磨けば光る素材を持っていながら何もしようとしない原石は、確かに世話を焼きたくなるような雰囲気というか、魅力のようなものを持っている。

 そして志保による少女への説教という名の教育的指導は、結局、それからおよそ十分間もの時間を掛けて漸く終わった。


「―――えっと、その、ゴメンね」

「…もーいいよ」


 両手を合わせて頭を下げる志保に、少女がげっそりとした表情を浮かべる。


「…アンタもボケッとしてないで助けろよ」

「さっきも言ったが、ああなった志保は止められないから大人しく諦めろ」

「ちっ」


 少女が苛立たしそうに舌を打った。


「苦手な奴がいるのは仕方がないと思うが、根は良い奴なんだ。あんまり嫌わないでやってくれると助かる」

「しらねーよ」

「だ、だよね……」


 ぶっきらぼうに少女が答えると、ショックを受けた志保は病室の隅で落ち込み始めた。

 すっかり気落ちした志保の様子に少女は面倒くさそうに頭を掻く。

 苦手とはいっても、一応、志保のことはそれなりに気になっているらしい。少なくとも直哉の目から見ても、志保の姿を見つめる少女の瞳に嫌悪の色はなかった。


「それで?なにかオレに聞きたい話があるから来たんだろ?」


 大きなため息の後、ベッドの上に座り直した少女が直哉に問い掛ける。

 少女からの警戒心が解けたことで、今回の目的である「水野の妹の様子を窺ってくる」ということは見事に成功したということになる。水野には「妹は元気にしていた」と言えばそれで取り敢えず最初の予定はクリアとなる。

 ただ、最低限の目標は達したのなら、もう少し先にまで手を伸ばしたいと思うのは果たして強欲な事だろうか。


「ああ。水野のことだ」


 直哉の言葉に、少女は小さく首を縦に振った。


「ま、それしかないよな」

「想像していた通りなら、話が早くて助かる」


 話が本題に入ったところで、直哉もまた椅子に座り直して少女の方へ少しだけ椅子を寄せた。

 正直、水野の家が抱える問題なんて直哉は今まで殆ど知らなかった。前に何かの機会の折に両親が離婚したという話には触れた記憶があるが、それ以上に情報なんて何も知らない。もし今回の一件がなければ、水野の抱えていた問題なんて一生知らなかったかもしれない。

 だからこそ事情をよく知る圭吾ではなく直哉が選ばれたということもあるのだが、それ故に少女との距離感を測り兼ねているということもあった。

 しかしそんな直哉の葛藤を知ってか知らずか、少女の口から発せられた言葉は非常にあっけらかんとしていて、緊張していたのが馬鹿らしくなるように軽いものだった。


「いいぜ、別に。オレが姉貴に対して思うことなんて特にないし。連れてきたいのなら連れて来いよ。オレは全く気にしないぜ」

「…本当か?」

「嘘ついたってしゃーないだろ。オレはこういう性格だし、嫌っつーか、会いたくないならちゃんと会いたくないって本人に向かって正直に言うし。余計な気なんて回すんじゃねーよ」

「…そうか」


 少女の言葉に直哉は小さく頷く。

 蓋を開けてみれば非常に簡単に解決できる問題だった。こっちが勝手に頭を悩ませて問題を複雑化させていただけで、実際のところは最初から水野が会いにこればよかっただけの問題だった。

 目の前にいる少女の表情からも、特になにか暗い印象を受けるということはない。どうやら本気で水野に対しては何も含むところはなかったらしい。

 過去を引き摺っているような人間にはとてもじゃないが出来ないサッパリとした表情で答えた少女に、直哉はどこか尊敬にも似た感情を抱いた。

 少なくとも|現在の河村直哉には到底出来ないこと《・・・・・・・・・・・・・・・・・》だった。


「じゃあ次に病院に来る時には必ず水野を連れてくる」

「だから好きにしろって。オレは姉貴が見舞いに来ようが別に気にしてないし。わざわざ姉貴が来たところで怪我が早く治るってわけでもないしな」

「…あんまりそういう言い方は感心しないな」

「でも、事実だろ。それに別にアンタに感心してもらおうなんて思ってないから放っといてくれ」


 どこか投げやりに少女が呟く。


「…傷、深いのか?」

「まーな」


 少女は答えると同時に衣服の裾を少しだけ捲り上げた。


「―――っ!?」


 そこには痛々しいまでに重ねられた白いガーゼは貼られていた。

 スポーツをやっていることによって引き締められた少女の体を覆うようにして貼られた白いガーゼは、少女の持つ褐色の肌の上にはよく目立つ。まるで拘束具のように少女へと貼られた白いガーゼの大きさが、少女の負った傷の大きさを如実に物語っていた。


「ひ、酷い……っ!?女の子なのに……っ!?」


 志保の声が震えていた。


「オレはこんな傷なんて気にしてないけど、一応、医者の話じゃ高い金さえ払えば痕は残らないんだとさ」

「…どうするの?」

「んな高い金なんて払えるかよ」


 少女の答えは簡潔だった。


「別に傷の一つや二つぐらいオレは気にしないし、全然構わない。こんなもんでオレの人生は何も変わらねーよ。それにもしこの傷を見て離れていく奴がいたとしたら、そんな奴はこっちから願い下げだ。そもそも俺だってそんな奴には興味ねーよ」

「水野が聞けば泣くんじゃないのか?」

「オレの体はオレのモンだ。姉貴に口は挟ませねーよ」


 少女は快活に笑い飛ばすが、それでも水野が聞けば恐らく涙を流すことだろう。

 もし仮に彼女が男であったなら、それこそ体に残る傷の一つや二つぐらい男の勲章だと笑い飛ばすことも出来るだろう。むしろその傷を誇って生きろと背中を押すことだって出来るかもしれない。

 だが当たり前のことだろうが、その対象が女の子ならば話は別だ。まだ思春期を迎えたばかりの少女の体に生涯残るかもしれない傷ができることの意味合いは非常に大きい。


「まさかアンタまで圭吾みたいなことを言うんじゃないだろうな?」


 ふと今まさに思い出したとばかりに少女は顔を上げた。


「圭吾みたいなこと?」

「あのどうしようもないお人好しバカは、「金は自分が払うから傷は絶対に治せ」みたいなことを言ってんだよ」


 意味わかんねー、と少女。


「それだけ圭吾も君のことを心配してるんだろ」

「それならそれで構わないんだけど、流石にオレの傷を治療するために圭吾に金を出してもらうのは話の筋が通らないっての」

「それはまあ、そうかもしれないが」

「本気で傷を治したいと思った時には自分で稼いだ金で治す。自分の体に残った傷ぐらい、誰の力も借りずに治してみせる。だからアンタはあの底抜けのお人好しバカに言っといてくれ。あんまり余計な真似はするなってな」


 強い意志の込められた瞳が直哉を見つめていた。


「大した自立心だな」

「別にそんなんじゃねーよ。ただ、他人の手を借りるってのが嫌いなだけだ」


 絡み合った視線からは微かな寂しさが垣間見えた。

 少女の年齢なら、本来ならまだまだ両親や兄弟姉妹、或いは多くの友人たちに囲まれて幸福に生きているはずだった。様々な人たちに触れ、自分でも知らない内に多くの手によって支えられて生きていることが普通なはずだった。

 しかしそんな普通のことが許されない環境で育った少女は、どこまでも不器用で、そして優しかった。

 それにまだ幼さを残した少女の言葉は直哉にとってもあまり他人事とは思えない内容だった。他人に助けを求めることの難しさは、共働きの両親の下で理沙に負担をかけ続けて生きてきた直哉にも心当たりがあった。


「そういうわけで、姉貴を呼ぶのは構わないけど圭吾には一言言っておいてくれ」

「ああ、了解した。君の意志を優先するのは当然だと思う」

「オッケー。よろしく頼むよ」


 屈託のない笑みを直哉に向ける少女は、同時に右手を差し出してきた。

 思わず差し出された手を見つめて固まる直哉に、少女はおかしそうに笑みを深めた。


「折角こうして出会ったのに、いつまでも呼び方が「君」ってのも他人行儀だろ。オレのことはこれから唯真(ゆま)でいいぜ。工藤唯真。アンタらは事情も知ってそうだし、姉貴の知り合いみたいだから水野唯真(・・・・)の方が分かりやすいならそっちでも構わねーけどな」

「…そういうこと、自分で言うんだな」

「隠したってしょうがないからな。それにどうせアンタらは姉貴に聞いてウチの事情は大方知ってんだろ?」

「…まあ、な」

「それなら面倒な気遣いをされる前に自分で言った方が、オレにとってもアンタにとってもいいと思わねーか?」


 問われた直哉は口を閉じて黙り込むしかなかった。

 本人にそう言われてしまえば、他人に口が出せることなんて何もない。本人が気にしていないことを他人が気にすることほど余計な真似になるようなこともあまりない。

 それは、かつて直哉自身も嫌というほど味わった感覚だった。


「そんなわけで、オレのことは唯真(ゆま)でいいぜ」

「分かった。そっちがそれでいいんなら、これからはそう呼ぶことにする」

「オッケー、オッケー。そう呼んでくれる方がオレも楽でいい。それにオレもアンタのことは直哉って呼ぶし。それともアンタ、年下に呼び捨てにされるとキレる部類の人?」

「いや、時と場所を弁えてくれるなら特に気にはしない」

「んじゃ、決まりだな。よろしく、直哉」


 再び差し出された少女の―――唯真(・・)の右手を今度こそ直哉はしっかりと握り返した。

 組み交わした唯真の手は、その口調や態度とは裏腹にとても柔らかく女らしいものだった。

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