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第二章
6/8

第六話

 時を刻む秒針の音だけがその場を支配していた。


『……』


 玄関から居間へと話し合いの場を移した直哉たちは、各々がそれぞれ違った面持ちで、けれど全員が等しく沈黙して椅子に座っていた。

 四角いテーブルを真ん中に置いて座る直哉たち四人の中でも、最も沈痛な表情を浮かべているのはやはり水野だった。

 この世の終わりにでも直面したかのように水野は力なく椅子に座っている。

 俯いている表情を覗き見れば、その表情は非常に暗い。陰鬱とした感じにうちひしがれている。学校の休み時間に丸山と絡んでいる時とはまるで別人のようだ。

 また己の知っている事実をすべて語った圭吾は、そんな憔悴した様子の水野を心配そうに見つめている。

 完全に意気消沈としている水野に比べてまだ心に余裕のある圭吾は、時折直哉の方を見ては何とも言えない苦笑を浮かべる。いつもの馬鹿みたいに明るい態度も影を潜め、今はただ幼馴染の関係にある少女のために同じ空間にいることしか出来ないようだった。

 そんな二人を前に、最年長である理沙は腕を組んだまま何かを考えるように目を瞑っていた。

 理沙が何を考えているのか直哉には想像することも出来ない。いつだって理沙は直哉の予想の斜め上をいく。一度だって理沙が直哉の思った通りに動いたためしはない。

 だが、こうして後輩が困っている時にはいつだって理沙は手を差し伸べてきた。きっとその聡明な頭の中では直哉には想像もできない何かしらの妙案を考えているのだろう。

 そして、そんな三人の様子を順次見渡した直哉は三人には聞こえないような大きさでため息をついた。


「―――まったく、面倒な」


 圭吾の口から語られた事実は相当にハードな内容だった。日常を日常としてあるがままに生きていては間違いなく出会わないような不運。不幸としか言いようのない事象。もはや天災というレヴェルでの理不尽な話だった。

 曰く、今朝ニュースで流れていた(くだん)の襲われた中学生というのは水野の妹である。

 ただそれだけの話ならば特別な話でもなんでもなく、何処にでもある有り触れた悲劇だった。見ず知らずの誰かから襲われるなんてことは殆ど天災と変わりがない以上、人間の思考力ではどうあったって防ぎようもない。

 しかし、その襲われたという水野の妹が離婚して家を去った母親に付いて行って以来もう何年も会っていない妹だとすれば話の奥深さは変わってくる。何処にでもある有り触れた悲劇は、昨今の複雑な家庭状況の中でも珍しい例へと姿を変える。

 正直、共働きであまり顔を合わせる機会が少ないということにさえ目を瞑れば十分に良い両親(・・・・)の下で育った直哉にすれば、到底理解が及ぶはずもない話だった。

 直哉が再び盗み見た水野の表情は、とても複雑な感情が渦巻いているように見えた。

 姉としての責務から言えば、きっと水野は妹の入院している病院へ行くべきなのだろう。詳しい家庭事情までは圭吾も語らなかったが、しかし、どんな事情があったとしても水野がその少女にとっての姉であるという事実に代わりはない。どれだけ物理的な距離が遠く離れていても、どれだけ精神的な繋がりが希薄になったとしても、決して逃れられないのが「血縁」というものであり、また同時に「家族」というものである。

 誰もが口を閉ざし、何も語ろうとはしない。無為に沈黙の時間だけが過ぎていく。既に学校へ登校するような雰囲気は失われていた。


「……ま、可愛い後輩が悩んでいる時には、大体の場合において最初に話をするのが年長者の義務ってものよね」


 陰鬱とした雰囲気が張り詰めていた空間を理沙の冷静な声が打ち破る。

 内心で直哉が期待していた通り、このメンツの中で最初に口を開くことが出来たのは理沙だった。年長者であり、また同時に水野たちにとっては高校の先輩でもある頼れるお姉さんは、大きなため息をつきながら頬を掻いた。

 俯いていた水野の顔が上がり、圭吾の視線も理沙へと向けられる。


「正直な話、私はどっちでもいいと思うのよ」


 開口一番に理沙の口から飛び出したのは非常に軽い言葉だった。


「……ちょっと冷たくないか?」

「そう?」

「ああ」


 あまりにも投げやりな理沙の言葉に直哉が抗議する。

 理沙の言葉は同じ「姉」という立場にいる者として考えたものだったようだが、直哉の耳には些かばかり冷たく聞こえた。身内に属する人間には殊更甘い理沙にしては珍しい。「姉」としての責務と複雑な家庭環境の狭間で悩んでいる後輩に向けるとは思えないほど突き放した言葉だ。

 直哉の抗議に少し首を捻った理沙は、なにか思いついたように水野を見る。


「じゃあ優花ちゃんに質問!」

「は、はい!?」


 唐突に話題を振られた水野が驚いて声を上擦らせる。

 水野の戸惑いをまったく意にも解しない理沙はそのまま言葉を続ける。


「話題の妹ちゃんと前に会ったのっていつ?」

「いつ……?」


 理沙が問うと、水野は首を傾げて考える。


「えっと……、お父さんとお母さんが離婚した時、かな?」

「ならもう何年も会ってないってことよね?」

「は、はい」


 水野が力なく頷く。

 返答を聞いた理沙は水野とは逆に大きく頷いてみせる。


「オッケー。じゃあやっぱり優花ちゃんの選択肢はどっちでもいいわ。そもそも、離婚した父親と一緒にいなくなったお姉ちゃんに対してその妹ちゃんが必ずしもポジティブなイメージを持っているとは限らないし」

「……そりゃまあ、な」

「それに最悪、「父親と一緒に自分を捨てた姉」なんていう印象かもしれないし。病室に入ったらいきなり激昂されて、そこら辺に転がってるものを片っ端から投げられても堪らないじゃない」

「……む」

「そんな相手に対して、こんなに可愛い優花ちゃんを行かせられるわけないでしょう」

「……」


 立ち上がった理沙がそっと後ろから水野の体を抱きしめた瞬間、僅かに水野の体が震えたのを直哉は見逃さなかった。

 きっと今の水野は不安と恐怖で頭の中がぐちゃぐちゃになっているのだろう。不審者に襲われて、しかもその上で更に入院することになった妹に会いたいという想いと、そんな妹から面会を拒否されるかもしれないという考えが水野の頭の中では交錯しているようだった。

 胸元に埋めるようにして抱きしめていた水野の頭を理沙が優しく撫でる。

 ゆっくりと愛しむように水野の頭に触れていた理沙の指へと水野の指が絡む。

 これまでずっとどこか怯えている様子だった水野の表情に、安堵にも似た柔らかさが僅かに戻った。

 直哉は目の前に座る圭吾と視線を交わす。どうやら圭吾も水野の表情の変化に気付いたらしい。お互いが相手に言いたいことを理解した二人は苦笑をもらした。


「……なに、アンタたち。男同士で見つめ合っちゃって。気持ち悪いわよ」

「放っとけ」


 胡乱な目で見てくる理沙に言い返しながら直哉はすぐに頭の中を切り替える。

 理沙の語る言葉には思わず唸ってしまうほどの具体性があった。

 たとえばそれはフィクションとはいえドラマや映画なんかではよく見る光景だった。

 直哉自身は実際にそんな特殊な例を現実で見たことは一度もない。生憎と直哉の育った環境は何か特に際立ったものなどありはしない。いたって一般的な家庭で普通に育ってきた。だからこそ正確なことなんて分からない。

 しかしそれでも直哉の頭の中では簡単に理沙の語る光景が再生された。


「ただ、当然だけどその逆も考えられるんだけどね」

「……逆?」


 理沙の腕の中で水野が小さく呟く。


「ええ。むしろ「ずっと会いたかったお姉ちゃん」がようやく会いに来てくれたって抱き着かれるかもしれないし、涙を誘う感動の再会みたいな感じになるかもしれないじゃない」

「……確かに」

「私たちはその妹ちゃんのことを知らないからなんとも言えないけど、何も知らないからこそ何も言えない人間の頭で考えてみると、結局のところグッドエンドもバッドエンドもどっちの場合でも考えられるってことよ」

「なるほどな」


 噛み砕いて耳を傾けてみれば、理沙の言葉は直哉も納得の内容だった。

 問題となっている水野の妹のことを知らない理沙だからこそ言える言葉なのかもしれない。恐らく水野の妹の存在を知っていて、かつ、どんな子なのかも知っているだろう圭吾や、友人としての心情が多分に入ってしまう直哉には決して言えない冷静な言葉だった。


「その妹が優花ちゃんのことをどう考えているのかも分からないのに、こっちだけでなにか考えても結局は一緒なのよ。だから優花ちゃんが行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなければいいだけのこと」

「……それはそうなんだろうが」

「大体、こういう問題は深く考えた方の負けって相場が決まってるのよ、昔からね。いつだって女の悩みを解決してくれるのは、ちょっと抜けてる上に考えなしだけど、それでもそれを補って余りある行動力のある男なのよ」


 思わせぶりな言葉を残した理沙の視線が圭吾に向いた。


「そうでしょう?」

「……ノーコメントでお願いします」

「アンタたちは、まったく。ホント、類は友を呼ぶというかなんというか……」


 不穏な気配を察した直哉は素早く理沙から視線を外した。漏れ聞こえるため息からは呆れや諦観にも似た感情が込められていそうな気もするが、恐らく気のせいだろうと強引に結論付ける。こういう時の理沙には何を言っても棘しか返ってこない。


「こういう時に使えない男はモテないわよ」

「すみません」

「……ま、アンタの場合は下手に事情を知っているからこそ動けない時もあるってことで勘弁してあげるわよ。今回だけだけどね」

「―――すみません」


 理沙の追及に対して圭吾はひたすら謝ることしか出来ないようだった。

 ここまで従順な態度の圭吾は、直哉の知る限りでは一度たりとも見たことがない。正に「項垂れる」という言葉の手本のような姿は横から見ていても元気がない。あの馬鹿が付くほど無駄に元気な圭吾が完全に弱っている。ひょっとすれば表面上は見せていないだけで、圭吾も水野と同じ程度ぐらい憔悴しているのかもしれない。

 それでも圭吾は決してそんな自身の内心を表面に出すことはなく、柔和な瞳は弱った水野の様子を心配そうに見つめていた。


「別にいいのよ。事情を知ってる男が動けないのなら、事情を知らない男に動いてもらえばいいだけのことだし、それにちょうど使い勝手のいい男がこの場には一人いるわけだしね」

「―――は?」


 向けられた視線は全部で三つ。

 一つはニヤリとした嫌な笑みを浮かべている姉の理紗。いつもの純粋な志保をからかう時と同じような表情をしているだけに背筋が凍りそうになる。良からぬことを考えているのは明らかだった。

 次いで視界に入ったのは苦笑いを浮かべている圭吾だった。申し訳なさそうに手を合わせているあたり、理沙が何か厄介で面倒なことを考えているということをちゃんと理解しているようだ。

 そして最後。残った一人に視線を向けると、思わず顔を背けたくなるほど酷く不安そうな表情をした水野がいた。


「ねえ、直哉」

「な、なんだ?」


 呼ばれた直哉は反射的に理沙へ答える。

 直哉の背筋になにやら冷たい嫌な汗が流れた。


「アンタ、ちょっと妹ちゃんが入院してる病院に行って、その妹ちゃんの様子を見てきてくれない?」

「―――おい」


 ちょっと待て。

 とんでもないことを言い出した理沙に直哉が静止の声を掛ける。


「俺はその水野の妹と話したこともないし、ましてや会ったことすらない。そんな男がいきなり病室まで訪ねていくなんて明らかに怪し過ぎるだろう」


 そもそも警察が動くような事件の被害者に、なんの面識もない男が唐突に会いに行っても間違いなく警察が会わせてはくれない。たとえ姉の知人だと言ったところで、親族でもない人間が病室に入れる理由には到底なりえない。

 しかし直哉の指摘に理沙はわざとらしいまでに大きくため息をつく。


「そんなのどうとでもなるわよ―――っていうか、アンタがどうにかしなさい。こっちは家族の代理で見舞いに行ってるんだから、最悪、警察なんか無視すればいいの。家族が身内の見舞いに行くのにどうして警察の許可がいるのよ」

「いや、一応傷害事件なんだし仕方ないだろ」

「そんなアッチ側の理屈なんて聞く必要ないわ。こっちはあくまでも被害者の身内なんだし、家族が身内を見舞うのは人道的に当たり前のこと。もし警察が身内の見舞いを拒むのなら、それは私たちじゃなくて警察の方が間違ってるのよ」

「……そういう問題じゃないと思うんだが」


 さもそれが当然であるかのように理沙は独自の論理を構築する。

 公権力と民衆の意見が不一致となる結果、民衆が公権力に対して不満を募らせるのは常のことだ。ただ、たかだか家族の見舞い一つでそこまで話を拡大させる必要は一切ない。

 それになにより、もし仮にそんなことをすれば公務執行妨害でお縄を頂戴するのはどう考えても当の本人である直哉だった。

 胸を張って自論を展開する理沙に、直哉は遂に額を押さえる。


「……なによ」

「「なによ」じゃなくて、流石に無理があるだろ、それは」


 警察云々の話は横に置くとしても、果たして水野の妹が姉の友人を名乗る見ず知らずの男と会ってくれるかという疑問は解消されてはいない。


「やりようによっては無理じゃないわよ」

「いやいや。大体、病室に行った段階で「アンタ、誰?」とか言われるのがオチだろ」

「そこはアンタの話力でなんとかしなさいよ」

「……俺は圭吾ほど対人関係能力が高くない」

「分かってるわよ、そんなこと。狭い世界でしか生きてこなかったアンタに初対面の、しかも中学生の女の子といきなり盛り上がる会話なんてできるわけないでしょうが。冗談に決まってるでしょう」

「……」


 自分では既に分かっていることも、他の誰かに断言されると意外と傷つくものがあるらしい。実の姉から放たれた棘のある言葉はそのまま直哉の心に突き刺さるものの、直哉からの反論はなかった。自分で自分のことをよく分かっている直哉だからこそ、理沙の言葉を否定することも出来ない。

 なんとも表現しづらい感覚に襲われた直哉は、胸に溜まったモヤモヤをため息という形で吐き出すことしか出来なかった。


「誰もアンタ一人で行けなんて言ってないでしょう。見ず知らずの男が一人で女の子の病室に行ったら、それこそ完全に不審者じゃない」

「……そうだな」


 それなら誤解を生むような言い方をするな、と言いかけたところで直哉は言葉を切った。

 どうせ理沙のことだから分かっていて言っているに決まっている。まともに真正面から相手にすると、この話は更に続くことになる。

 頭の中で会話の流れを想定した直哉は、素直に話を進めることにした。


「なら俺は誰と行けばいいんだ?まさかとは思うけど、圭吾じゃないよな?」

「別に私はそれでもいいと思うんだけど……」


 直哉と理沙が話題に上がった圭吾を見る。


「―――」

「―――」


 しかし、圭吾は水野の様子を心配そうに見つめていて、二人の視線には気付かない。


「ま、本人がこんな調子じゃ無理でしょう」

「だな」


 強引に腕を引いていけば可能かもしれないが、水野の様子を心配するあまりほとんど身が入らないだろうことは、今の圭吾の様子を見ていれば想像に易い。

 そうなれば当然、話は誰を伴うのかということに尽きるのだが。


「もう志保でいいんじゃない?あの子のことを嫌う女子とか私、今のところ見たことないし」


 理沙の決断は思っていた以上に早かった。 


「…志保に悪くないか?明らかに今回のことと志保は無関係だろ?」

「いいのよ、別に。友だちが困った時には何も聞かずに力を貸すのが本当の友情ってものだもの。この私の友だちなんだから、志保だってそれぐらいのこと分かってるわよ」

「いや、でもな……」

「それにまったく無関係ってわけでもないじゃない。あの子にとっても優花ちゃんは親しくしてる後輩の一人だし、それになにより「河村直哉のお友だち」なんだしね、優花ちゃんは」


 なにか思うところでもあるのか、理沙は言葉の一部分を妙に強調して言いながら直哉を肘でつつく。


「それともホントにアンタが一人で行く?それでもちゃんとミッションを成功させてくることが出来るって言うんなら、私は別にそれでも構わないけど?」


 下から直哉の顔を覗き込むようにして理沙が言う。


「よし。俺からも志保に頼んでみるか」

「そうしなさい。アンタにいきなり見ず知らずの女の子と楽しく会話ができるほどの話力があるとは思えないものね」

「そのことは俺が一番知ってるよ」


 同年代ならばまだしも、初対面の相手で、かつ、年下の女の子となれば、もはや直哉に選択出来る会話の内容などは殆ど存在しない。

 直哉が知る限りにおいて現在も「中学生の女の子」という分類に属される人物はたったの二人しか存在しない。

 その内の一人は直哉にとってのアルバイト先、すなわち志保の営む喫茶店『セリシール』における最年少勤労少女。同時に僅か数日の差とはいえ直哉にとっての先輩にあたる少女は、中学三年生ということもあり、あくまでも「お手伝い」という範疇で志保の下で働いている。多弁な方ではない少女とのコミュニケーションは、働き始めた頃から直哉にとっての鬼門だった。

 そんな経験があるからこそ、分かる。仮に水野の妹に病室の中へと招き入れてもらったとしても、きっと直哉には少女から向けられる無言のプレッシャーに耐えることは出来ないだろう。

 そうならないための緩衝材として考えれば、直哉の知る限りにおいては志保ほど適切な人間はいない。

 丁度、明日は喫茶店も休みの日。

 心に一抹の申し訳なさを感じながらも、直哉は携帯を手に部屋を出るのだった。







 翌日。

 土曜日ということで学校も休みとなる朝。時間にしておよそ午前八時半。気持ちいいほど晴れ渡った空を見上げた直哉は、駅前の時計台の下に一人立っていた。


「なんとか間に合ったみたいだな……」


 待ち人はまだ来ていない。

 待ち合わせ相手より僅かでも早めに来ることが出来たことに直哉は安堵の息をもらす。

 相手の性格からして、連絡も無しに遅刻してくるようなことは絶対にありえない。もし仮に遅刻するにしても必ず二度は連絡を寄越すしっかり者だ。そんな相手からいまだに連絡がない以上、つまり相手はもう待ち合わせ場所に向かって歩いているという事だろう。

 ただ、まだ来ていないからといっても別に相手が遅刻しているというわけではない。待ち合わせの時間は九時半。まだまだ時間的には余裕がある。

 率直に言って、明らかに直哉が来るのが早過ぎただけだった。


「理沙の言う通りにしておいて正解だったか……」


 周囲を見渡しながら直哉が呟く。

 実のところ、今朝まではこんなに早い時間から待ち合わせ場所へ来る予定ではなかった。遅くても十分前ぐらいに着くはずの予定を立てていた。

 だが、そんな直哉の予定を崩したのはやはりいつもと同じように姉の理沙だった。

 曰く、女との待ち合わせにそんな直前に行くような男は碌な奴じゃない。

 曰く、誰か女と一緒に出掛ける時には必ず待ち合わせ時間の三十分前までには待ち合わせ場所にいろ。

 曰く、一回死んで来い。

 そんな言葉を延々十分ほども言われた結果、直哉は当初の予定を変更してこうして一時間も前に待ち合わせ場所へと足を運んだのであった。


 駅前で一人、時計台に腰かけて周囲を見ると、週末ということも相まって多くの人たちとすれ違う。

 仲のいい親子連れ。手を繋いで歩くカップル。騒ぎながら過ぎ去っていく男の集団。或いは休日出勤を余儀なくされているサラリーマンたち。

 これだけ多くの人たちがいるのに、誰一人として同じ服装や歩き方の人間がいないというのは、普段は気にすることもないが、意識して見ればかなり不思議な光景だ。

 多種多様な個性と等しく華やかな駅前の賑わいは、それほど社交的ではない直哉にとっては少しばかり圧倒されるものがある。


「……ま、気にしても仕方ないか」


 圭吾のように明るく元気な自分の姿なんて想像することすら出来ないし、想像できないことは考えてみても意味がない。

 ここに来る前にコンビニで買った缶コーヒーへと口をつけながら、直哉は腕時計を見た。

 何度見ても現在時刻は八時半から動かない。

 まだ待ち合わせ時間がまでには一時間ほども余裕があった。

 まだまだ残っている缶コーヒーを脇に置いた直哉は、胸元のポケットから一冊の本を取り出した。

 綺麗にブックカバーが掛けられた本は、直哉もよく知る理沙の友人から借りている小説だった。全三巻の内、直哉が読んでいるのはまだ一巻目。既に借りてから一週間。学校や職場、自宅での暇な時間に読み進めていたこともあって、そろそろすべて読み終わろうとしていた。


「―――」


 本を開いた直哉の意識は周囲の雑多な情報を急速に遮断していく。

 まず音が消え、次に景色が消えていく。そして最後には世界から乖離したかのような感覚が訪れる。

 理沙に言わせれば危ないことこの上ないらしいが、それでもこうやって本に集中しているとあっという間に時間は過ぎていく。暇をつぶすための手段として考えてみれば、読書という行為は意外と使えるものだ。

 特に、最近になって直哉がハマっているミステリー小説なんかは時間つぶしには最適だった。主人公である男よりも早くに謎を解こうと思考を巡らせるなんて、まるで自分が作者から試されているようで非常に面白い。取り組み甲斐がある。

 正に今、直哉が読んでいる本もそんな感じの本だった。

 主人公である高校生の少年が学校の中で起きている不可思議な出来事の謎を助手役の少女と共に解き明かしていく様は、一ページめくるごとに心躍る展開になっていく。思わず時間も忘れてページをめくってしまう。

 果たしてどれほどの時をそうして過ごしただろうか。

 不意に直哉が付けていた腕時計が鳴った。


「……もうこんな時間か」


 時間を確認すると、既に腕時計は九時を指していた。

 几帳面で真面目な彼女ならもうそろそろココに着いてもおかしくはない。

 直哉は読んでいた本を閉じると、そのまま胸ポケットへと仕舞う。

 そして固くなった体を解すように大きく腕を重ねて空へと伸ばす。ポキポキという音が小さく鳴った。


「あ。直哉くん!」


 すると、まるで見計らっていたかのようなタイミングで前方から声が掛けられた。


「ゴメンね、待たせちゃったかな?」

「いや、俺も今来たところ(・・・・・・・・)だから気にしなくていい」

「そっか。うん。ありがとう」

「ああ」


 いつもと変わらない柔和な微笑みを浮かべた志保が駆け寄ってくる。

 腰のあたりまで伸ばされた特徴的な白い髪が、志保の歩みと重なり左右へ揺れる。太陽の輝きを帯びた志保の髪は思わず見惚れてしまうほどに幻想的で、魅力的だった。

 志保が一歩歩く度に、周囲を歩いていた男たちの視線が向けられていることに、唯一、当の本人である志保だけが気付いていない。


「志保の方こそ早いな。まだ待ち合わせの時間まで三十分はあるってのに」

「ちょっと家の時計を五分、速めてあるのを忘れてて」

「……それでもまだ早くないか?」

「……」

「志保?」


 何故か急に顔を逸らした志保を追って、直哉は白い髪に隠れた顔を覗き見る。

 残念ながら髪の合間からでは志保の顔を窺い知ることは出来そうにない。細く柔らかそうな癖一つない白い髪が志保の顔を覆っていた。


「志保?」

「あ、あうう……」


 もう一度だけ直哉が名前を呼ぶ。出来るだけ柔らかさを持たせて名前を告げると、志保は小さく唸った後にちらりと直哉を見上げた。

 角度を変えてよく見てみれば、栗色のニット帽の下に隠れた志保の顔はリンゴのように真っ赤になっていた。

 更に視線の高さを合わせるために直哉がひざを折ると、白い髪の狭間から覗く耳まで真っ赤になっていた。

 直哉は小さく苦笑する。


「どうした?」

「えっと、その、ね」

「ん?」

「休みの日に二人で出かけるなんて随分久しぶりだな、って考えてたらいつの間にか家から出ちゃってて……」

「……それでもういっそのこと早めに来てしまえと?」

「う、うん」


 羞恥のあまり顔が挙げれずにいる志保を見ながら直哉はため息をつく。


「まあ、平然と遅刻されるよりは早めに来てくれた方が全然いいことだから俺は気にしないけど」

「そ、そうだよね。うん。遅刻するよりも全然マシだよね!」

「そりゃ、な」

「えへへ」


 薄く頬を染めながら志保が微笑む。

 水野や丸山のように快活とした笑みではない。どちらかと言えばむしろ上品で落ち着いた笑みだった。

 水野や丸山を向日葵と評するならば、きっと志保は百合の花だろう。清楚で可憐、常に優しさを失わない淑やかな女性。それが直哉を含めた多くの人間が持っている岬志保の印象だった。


「ん?珍しいな、今日は眼鏡なのか?」


 志保の目元を見ながら直哉が問う。


「うん。いつもはコンタクトなんだけど、今日はちょっと気分を変えてみました」


 志保が掛けていた縁のない眼鏡に触れる。


「似合うかな?」

「ああ。よく似合ってると思う」

「うん。ありがとう」


 嬉しそうに表情を緩ませて志保が笑う。

 初恋の相手という色眼鏡を外してみても、志保の微笑みは非常に魅力的で、思わず見惚れてしまうほどに綺麗だった。

 目の前で直接そんな微笑みを向けられた直哉の方が、今度は志保から顔を背ける。


「―――」

「―――」


 恐らく彼女連れらしい男と視線がぶつかった。


「―――っ!?」


 男は慌てて横にいた彼女の方へ向き直る。どうやら横を歩いていた彼女らしき女性は男の反応に気付いていないらしい。まるで何事もなかったかのようにカップルらしき二人は直哉たちから離れていった。


「……」


 男の反応を不思議に思った直哉は自分たちの周囲へと視線を走らせる。

 すると多くの男たちと視線がぶつかった。


「なるほど、な」


 直哉が小さく呟いた。

 どうやら志保の微笑みに魅了されてしまった男は予想以上に多いらしい。

 呆けた様子の男たちの視線を遮るように直哉は志保の髪に触れる。


「眼鏡は似合ってるけど、流石に寝癖ぐらいは直してきた方がよかったんじゃないか?」

「ええ!?ね、寝癖!??う、うそ!?どこ!?」

「嘘じゃない、本当だ。ココ、頭の上の方」

「こ、ここ?」

「違う。もうちょい右」

「こ、ここかな?どう?直ってる?」

「だからもうちょい右だって」

「ええ!?ど、どこぉ!?」

「……もういい」


 頭の上に手を伸ばしながら右往左往している志保をしばらく見守っていた直哉だが、いつまでも目的の場所に辿り着けない志保に業を煮やすと、ふらふらするその頭を掴まえる。

 そして志保の了解を得る前に、直哉は細く柔らかい純白の髪へと手櫛を通した。


「な、なおやくん?」

「ココだ、ココ。まったく、妙なところで子どもだよな、志保も理沙も」


 数回も手櫛を通すと、跳ねていた志保の髪は重力に従って真っ直ぐ下へと流れていく。

 風に撫でられ揺れる白髪からは、喫茶店で働いている時とは異なる甘い香りがした。


「ほら、もうこれでいいだろ」

「……あ、ありがとう」

「ん。それじゃあそろそろ行くか」

「う、うん」


 予め買っておいた切符を志保に渡すと、直哉はさっさと駅の構内に向かって歩き出す。

 志保の性格から考えて、半額―――即ち、志保自身の交通費―――は出すと言うに決まっている。生真面目な志保なら間違いない。だからこそ、そうはさせじと直哉は先に切符を買い、更に志保が反論する前に改札を潜ってしまおうと考えたのだった。

 そもそも志保が何と言ってくれても、週に一度しかない折角の休日を潰してまでお願いしたのは直哉たちの方なのだから、電車代なんて出させるわけにはいかない。それは理沙も同意していることだった。

 そして案の定、後ろからは鞄から財布を出した志保が小走りで追いかけてきていた。


「ちょ、ちょっと待って!お、お金!半分払うよ!」

「いらない。今日は志保の分は全部こっちが持つから」

「で、でも、それじゃあ流石に直哉くんに悪いよ!」

「いいんだよ、別に。俺は最初からそのつもりで来てるから、むしろ志保に遠慮されると俺が後で理沙に殺されるしな」

「で、でも……」

「いいから今日は全部こっちに任せて財布はしまってくれ。いつもなにかと志保には世話になってるからな。今日はその分の礼も兼ねることになってるんだよ」


 そんな会話をしながら、直哉はさっさと改札を抜けた。そして改札の手前で立ち止った志保を振り返る。

 どうやら志保は年上としての矜持と既に掌の上にある切符の間で悩んでいるようだった。

 既に切符自体は志保の掌の上にあるのだから、新しく切符を購入するという選択肢はない。そんなことをしても意味はないし、直哉が厚意で買った切符が無駄になるだけでしかない。

 そんな知人の厚意を無為にするようなことを志保が出来るわけがなかった。志保に残された選択肢は掌の上にある切符を使うというものしかない。

 しばし熟考の末、志保は諦めて直哉の買った切符で改札を抜けるのだった。


「しょうがないなぁ。そこまで言うんなら、今日は直哉くんに奢ってもらおうかな」

「ああ。素直にそうしてくれると助かる」


 財布を鞄の中にしまった志保が遅れて改札を潜ると、二人は並んで電車に乗り込んだ。

 二人がこれから向かう先は、直哉が普段登校するために降りる駅の更に向こう側。水野の家がある駅を越えて更に数駅ほど行った場所にある駅近の市立病院が目的地だった。

 そこが昨日、圭吾から聞いた水野の妹が入院しているという病院だった。


「……なんか悪かったな。折角の休日だってのにわざわざ付き合わせて」


 電車に揺られながら直哉が呟く。


「ううん、それはいいの。優花ちゃんのことは私も知らない仲じゃないし、私で力になれることがあるのなら頑張って力になりたいとも思ってるから」

「サンキュー。たぶん、水野が聞けば喜ぶと思う」

「そう思ってくれると私も嬉しいかな」


 微笑みながら志保が答える。

 丸山や圭吾にとってそうであるように、水野にとっても志保は「頼りになるお姉さん」という立場にあった。

 普段の志保ならいざ知らず、喫茶店『セリシール』で働いている時の所謂「仕事モード」の志保は確かに頼りになる。実際、今まで志保に話を聞いてほしいという少女たちは結構な頻度で店までやって来ては、主に恋愛相談をして帰っていく。彼女たちからすれば『岬志保』とはつまり「店長モード」の志保のことしか知らないが故に無理もない話だった。

 真実として、そうやって志保は着実に「頼りになるお姉さん」という地位を密かに確立していた。


「私からも一つ訊いてもいいかな?」


 電車が半分ほど進んだところで、再び志保が口を開く。


「俺に答えられることならなんでも答えるよ」

「ありがとう」

「ああ。それで?」

「うん。その優花ちゃんの妹さんって、一体どんな子なのかなと思って」


 志保の問い掛けにしばし黙った直哉は、数秒間の後、了承の意を告げた。

 ただ、直哉自身もその妹の姿を実際に見たことはないのでなんとも言えないところが多く、語られた内容のほとんどが圭吾から聞いた情報を伝聞しているというのが現状での精一杯であった。

 直哉が昨日、圭吾から聞いた特徴はたったの三つだった。

 一つはスポーツの大好きな女の子であるということ。

 小学生の頃はバスケットにハマっていて、よく家の近くの公園まで遊びに行っていたらしい。そして今現在はどうやらサッカーにのめり込んでいるらしく、時折、好きなプロサッカーチームの試合を友人たちと見に行くのが趣味だとか。本人の腕前としては、こちらも同学年の男子に混ざって遜色がないほどのものと聞いている。

 二つは家庭的な少女であるということ。

 見た目はスポーツが大好きで活発な少女であるにも拘らず、その実、母親との二人暮らしが長いこともあり、料理に関しては目を見張るものがあるらしい。ちなみに得意料理はこれまた意外に王道の肉じゃがとか。

 最後に三つは寂しがり屋であるということ。

 母子家庭という特殊な環境で育ったこともあり、決して他人に対して弱いところを見せない負けず嫌いなところがあるらしい。ただその反面、人の感情―――特にネガティブな感情―――に対しては凄く敏感であると圭吾は言っていた。

 恐らくある程度は「幼馴染の妹」という圭吾のフィルターが掛かっているので過剰に言っていることもあるのだろうが、そう外れていることでもないだろう。圭吾はこういう時にはいい加減なことを言わない奴だ。

 要するに、相手はいたって普通の何処にでもいるような中学生の女の子だということだ。


「なるほど。スポーツが好きで、お料理が得意で、寂しがり屋な女の子か……」

「本当に申し訳ない上に情けない限りなんだが、頼りにしてる」

「うん。「任せて」なんて安易な言葉は言えないけど、私にとっても優花ちゃんは可愛い後輩だから、全力は尽くすよ。目指すは優花ちゃんと妹さんの再会だからね」

「ああ、そうなるとベストだな」


 親の離婚によって離れ離れになってしまった姉妹が数年振りの再会を果たす。

 そんな未来を想うと胸が躍る。きっとそんな最もいい結果が待っている。あんなに真剣に気に掛けている水野の想いは、必ず妹に届く。自分たちはそのための第一歩を作るために行動する。一度は離れ離れになってしまった二人の絆を繋ぐきっかけを作るために、病院へと向かっている。

 電車の窓から見える景色を眺めながら、直哉はまだ見ぬ少女へと想いを馳せるのだった。

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