第五話
いつもと何一つ変わらない、変わるはずのない病室のベッドの上で少女は衰弱した体を起こす。
痛いとも痒いとも感じない少女の体は外見上まったく健常者と変わらないにも拘らず、既に少女がこの病室に「幽閉」されて十年以上の月日が経っていた。
物心のついた時にはもうこの病室で暮らしていた少女は、扉の向こう側に広がる世界を知らない。外に出ることすら許されない少女は、いつも病室の窓から外の世界をぼんやりと眺めていた。
窓から見える世界は少女にとってのすべてだった。
春は桜を見下ろし、夏は蝉の鳴き声に耳を傾け、秋には雲間に浮かぶ月を見上げ、冬になれば空から零れ落ちる雪に想いを馳せる。
いつだって少女の視界に広がっている世界は狭く、小さく、そして儚かった。
「―――」
最初の頃は少女も頑張って病気の完治を目指していた。
窓から見える道を走るジャージ姿の青年や買い物に行く親子連れ、集団下校する児童たちを眺めては元気を貰っていた。
しかし病的なまでに白い壁や天井はそれだけで彼女の心を摩耗させ、家族以外に誰も見舞いに来ないという苦痛は少女のまだ幼い心を少しずつ擦り減らしていった。
もちろんそれは当たり前のことだった。物心ついたときから病室で暮らす少女には一緒に遊んだ友達なんて一人もいないし、それどころか話をしたことのある同い年の人間すら一人もいなかった。
元気に走り回るどころか日常生活さえ制限されている少女は、いつだって精神的な孤独に苛まれていた。
「―――っ」
もはや絶望を胸に秘めて死んだように生きていた少女の体が僅かに震えた。
決して開くことのない扉が開いていく。
面会人の予定はない。そんなものあるはずがない。彼女にとって『人間』とは家族と医者、そして看護師しか存在しない。それ以外の存在は彼女にとっては存在しないことと同じだった。決して触れ合うことの出来ない存在に意味はない。
果たして、少女の苦悩を余所に扉は開かれる。
消灯時間を過ぎ、暗闇に支配された病室に一筋の光が射し込む。
遠慮など一切感じさせず、それでいて堂々とその人間は病室へと入ってきた。
予期せぬ来客は若い男だった。家族以外の男なんて少女は知らないが、思わず見上げるほどに身長は高い。ただ、そのわりに細い体格をしている。
男の表情は正直、人慣れしていない少女には怖かった。まるで笑わない顔は無愛想で、冷たい印象を受ける。特に黒い瞳はまるでいつも黙って少女のことを見つめてくる鴉のようだ。
なにか気に喰わないことでもあるのか、男は目を細めて少女のことを見据えていた。
「お前が『―――』だな」
男は面倒くさそうに頭を掻きながら少女の名前を呼ぶ。
荒っぽい声に少し体が竦んだが、精一杯の力を込めて少女は男の言葉に応じた。
「……貴方はお医者さん、ですか?」
「まぁな。一応、この業界では百年に一人ぐらいはいるだろう天賦の才を与えられた当代随一の天才外科医だと自負している」
男の返答に、少女は思わずきょとんとした表情を浮かべた。
初対面の人間に対していきなりなんて変なことを言う人なんだろうか。
男どころか人間そのものへの免疫があまりない少女にしては珍しく、戸惑いながらも男の顔を見つめる。
誰かの顔を見つめるなんて、少女にとっては何年振りなのかも分からなかった。
「……あの、私に何か用ですか?」
困ったように少女が呟く。
十年以上の付き合いになる担当医と看護師以外では、少女にとってこれが初めての他人との会話だった。
「いや、なに、別に特別な事をしようってわけじゃない」
男はそういって一拍の間を置く。
果たして男が何を考えているのか少女には分からない。
ほとんど感情が表情に表れない男は、眉ひとつ動かすことなく少女に告げる。
「お前の望みを叶えてやろうと思ってな」
少女の問いかけに、男はそれがさも当たり前であるかのように答える。
「私の―――望み?」
「ああ、そうだ」
少女は首を傾げた。
誰かに叶えてもらいたい望みなんて、今の少女にはなかった。
長期間に及ぶ入院生活と完治の気配さえ見せない治療行為は純粋かつ無垢であった少女の心を摩耗させ、もはや少女の心は現実と著しく乖離していた。
自らの力で叶えたい望みすらない少女には、他人の力を借りてまで叶えたい望みなんてあるはずもない。
「あの、私、特に望みなんて―――」
遠慮しようと振った少女の手を、ベッドまで身を乗り出した男の手が掴む。
男の手はゴツゴツしていて力強く、もはや骨と皮しかないような少女の手とは全く違っていた。
驚いた少女は反射的に男の手を振り解こうとしたが、しかし、男の力強い手は少女の抵抗などまったく意にもかえさなかった。
運動することを禁じられている少女の手は病的なまでに細く、そして儚い。
男が本気で手を握れば、まず間違いなく少女の手は粉砕されるだろう。
少し力を込めては緩めるという行為を何度か繰り返した男は、最後に少しだけ強く、それでいて痛くない程度に少女の手を握った。
「あ、あの……」
「ん?ああ、スマン」
頬を赤く染めた少女が戸惑いがちに言葉を濁した。
若い男に手を触られるなんて経験を、人生の大半が入院生活だった少女は当然ながら持ち合わせていない。それどころか家族と担当医、看護師を除けば、自分ではない存在に体を触れられることすらどれほど振りなのか分からない。
少女はどうすればいいのか分からず視線を左右に泳がせた結果、少女は何も言わずに黙って俯いた。
なにをどう話せばいいのかが分からなかったということもあったが、それ以上に少女の頭の中はあまりにも突然の出来事に真っ白になっていた。
「―――」
「あ、あうぅ……」
男は再び黙って少女の瞳を見つめた。
まっすぐに少女を見つめる男の瞳には強い意志が込められていた。
「は、放し…て……」
自らの思考力が無意味なことを悟った少女は、男の視線から逃げるように俯いたまま言葉だけで男の行動を非難した。
耳をよく澄まさなければ何を言っているのか聞き取れないほど小さな音量の呟きは、それでも少女にとっては全身の力と精一杯の精神力を注ぎ込んだものだった。
少女の呟きを確かに聞いた後、下から顔を覗き込んだ男は少女と強引に視線を絡めた。
深い闇を彷彿させる漆黒の瞳が色素の薄い少女の瞳に映る。
心の底まで見透かしているかのような不可思議な黒い瞳をそのままに男は少女へと語りかける。
「外の世界に飛び出せる自由な体が欲しくないか?」
―――止まっていたはずの少女の時間が動き出した。
◇
六月も終わりにさしかかった夜、理沙からの「お願い」という名の「命令」を受けた直哉が自宅近くのコンビニまで買い出しに行くと、そこで珍しい人物と出くわした。
「やっほー、直哉くん。こんばんは~」
「……こんなところで何をやってるんだよ、お前は」
コンビニの前に立っていたのは直哉の友人である水野優花だった。
既に現在時刻は夜の十字を越えているにも拘らず制服のまま立っていた水野の姿に直哉は深いため息を返す。
白いシャツの上に深みのある赤色のカーディガンを着ていることはまだ目を瞑るにしても、明らかに膝上の丈しかない短いスカートからは若々しくも美しい脚線が覗いている。
「しかもお前、この時間にまだ制服とか……。変な奴に絡まれなかったか?」
「あはは!相変わらず直哉くんは心配性だねぇー、もう!」
なにがそんなにも楽しいのか、笑顔を浮かべる水野は直哉の背中をバシバシと叩く。
「心配してくれてありがと。でも大丈夫だよ。誰も絡んで来なかったし、変な目でも見られなかったと思う」
「あっそ」
「あ、直哉くんそっけなーい」
「……うるさいぞ、水野」
「照れてる?照れてる?ひょっとしてお礼言われて照れてる?」
「よし、しっかり目を瞑れ」
拳を握った直哉を前に、水野は頭を押さえながらきゃーきゃー騒ぐ。
何故かは知らないが、今日の水野のテンションは夜も深いというのに異常に高い。まるで幼い子供のようにはしゃいでいるようだった。
「いやー、それにしても「偶然」だねぇ、直哉くん。こんな時間にこんな場所で、しかもこんなタイミングで会うなんてさ!」
「……本当にな」
適当な返事をしながら直哉は面倒くさそうに頭を掻く。
学校を挟んで直哉の家とは逆方向に住んでいる人間と自宅近くのコンビニでこんな夜遅くにバッタリと出会うというのが偶然にも起きえるのならば、それは確かに偶然だろう。それも普通ならば考えられない偶然。とてもじゃないが信じられない偶然。正に神の所業というような偶然だろう。
「で?じゃあ偶然にも夜十時過ぎという時間に、俺の家から近くのコンビニという場所にいたお前は何をしてたんだ?」
直哉は腕を組んで水野の隣へ背中を預けた。
少なくとも、意味もなく水野が「偶然」を引き起こしたとは考えにくい。
「偶然」とはつまり法則性なのだ。即ち理由がある。導き出された結果だけが先行してしまい、そこに至るまでの過程がすっ飛んでしまった時に使われるのが「偶然」という言葉だ。未だ知りえぬ法則性に対してこそ人間は「偶然」という言葉を用いる。
大きくため息をつく直哉を余所に、水野のハイになっていたテンションは急下降していく。
「これはその……なんて言うか…こう……色々あって」
「……明らかに面倒が起きてる予感しかしないんだが」
「面倒……か。うん。でも面倒が起きたっていうよりは、むしろこれから面倒なことが起きるというか、面倒を掛けるというか……」
「お前にしてはハッキリしないな」
「あ、あはは……。いや、ほら、流石の私もあまりの申し訳なさに胸が痛むと言うか、言葉が出ないと言うか―――ねぇ?」
「「ねぇ?」とか言われても意味が分からん」
「だよねー」
乾いた笑みを浮かべた水野は、そう言うと口を閉じて黙ってしまった。
コンビニの入り口を前にして話し合う二人の姿は、第三者が見ればカップルが仲良くイチャついているようにしか見えない。実際、コンビニの店内からは恐らくアルバイトだろう店員が迷惑そうな視線を二人に向けていた。
しかしそんなアルバイト店員の視線を敢えて無視した直哉は何も話し掛けることなく次の水野の言葉を待った。
ところが当の水野は時折横目で直哉の顔を盗み見るだけで一向に何も語ろうとはしない。黙ってしまって以降、それから数分経っても話し出す気配はなかった。
沈黙が場を支配する。
どちらも口を開かないまま、しかも新たな客もやってこないため、風の音だけが二人の間を通り抜けていく。
「……取り敢えず買い物済ませてもいいか?」
「あ、うん。どうぞどうぞ」
このまま二人揃って黙っていては一向に話が進展することはない。場の雰囲気を一度仕切り直すために直哉は少しだけ間を空けた。
大きくため息をついた直哉は、漸くコンビニの中へと足を踏み入れた。
直哉が理沙から頼まれた物とはチョコレートのアイスだった。
一箱につき五つか六つ程度入っている一口サイズのチョコレートアイスは、あまり大きな口を開けなくても食べられるということで非常に女性人気が高かった。同じように箱の中には小さな棒が入っており、手が汚れないということもポイントが高い。
かつて一度だけ直哉が奢って以降、このチョコレートアイスは理沙にとって夏も冬も関係なく一年中食べられるほどのお気に入りの一つになっていた。
「―――」
入り口の側にあったアイス置き場で目的の物を手に取った直哉は、ふと、窓越しに水野の姿を見た。
暗闇の中、コンビニのネオンに照らされた金髪はよく映える。
今日の水野は本来なら腰の上あたりまである長い髪をサイドで一つに纏め、肩口から流している。
毎日のように髪型を変える水野には決まった髪型というものは存在しないようだが、今日の髪型は学校でも比較的よく見かけるものだった。
背中を向けて暇そうに佇んでいる水野の姿は何処か寂しそうな雰囲気を漂わせている。時折、風が彼女の髪を撫でながら梳いていく姿などは、普段が無駄に元気な水野なだけに非常にらしくなかった。
女性にしては長身で、しかも格闘技を習っていたことから普段頼られることの多い水野の背中が、何故か今はひどく儚く見える。
手早く会計を済ませた直哉は、追加で買ったものを手にコンビニを出た。
「待たせたな」
「ううん。全然待ってないよ」
しっかりと水野の顔が自分の方へ向いたことを確認した直哉は、手に持っていたものを放り投げる。
下から軽く放り投げたそれは、見事な放物線を描きながら水野の手へと収まった。
「―――缶コーヒー?」
「お前の好みなんて知らないからな。今日のところはそれで勘弁してくれ」
カコ、とプルタブの開く音が鳴る。
「直哉くんはブラックも飲める人なんだ」
「まぁ、志保のところで働いてれば俺じゃなくても飲めるようになるだろ」
「そっか。直哉くんは志保さんの喫茶店で働いてるんだったね」
「ああ、理沙の命令でな」
水野へと答えながら直哉は缶コーヒーに口をつけた。少し飲むと、直哉は自身ですらも気づかぬ内に額へと皺を寄せた。
大量生産品だけあって、缶コーヒーの味は志保が『セリシール』で淹れるコーヒーよりも格段に味が落ちる。すっかり志保のコーヒーで肥えてしまった直哉の舌には、やはりコンビニの缶コーヒーでは些か以上の物足りなさを感じさせた。
「そう言っちゃう割に頑張ってるって綾ちゃんからは聞いてるよ」
「まあ、志保とはお互いに知らない仲じゃなかったしな」
「それだけ?」
「いや、それに中学時代から志保には理沙共々いろいろと世話になってきたからな。溜まりに溜まった借りを返していくには丁度いい機会だったんだよ」
もはや乾いた喉を潤す程度の役割しか果たさない缶コーヒーを飲みながら直哉は答えた。
「直哉くん、優しいね」
「喧しい」
「憎いね!このこのーっ!!」
「……もう黙れよ、お前」
直哉は肘で突いてくる水野の頭を軽く叩く。
水野との付き合いは圭吾よりも遠く丸山よりも近い。本気では殴らないが、こうやって軽く冗談で叩く程度のじゃれ合いはいつものことだった。
「いったーいっ!?」
「……嘘つけ」
ほとんど力を入れずに叩いたのに、水野は頭を押さえながら蹲る。
誰がどう見ても「痛がっているフリ」でしかない水野の行動に、直哉は眉間に寄った皺を揉み解す。
「ほら、さっさと立て。こんなコンビニの目の前で蹲るな」
「はーい」
直哉が差し出した手を水野が握る。嬉しそうに笑う水野の足元には大きな荷物が置いてあった。
少女が持ち歩くには明らかにバッグは大きすぎた。バッグそのものの大きさも相当なものだが、更に限界ぎりぎりまで容積が膨れ上がっている。よくぞこれだけ詰め込んだものだと逆に感心してしまう。
「それで……その……本題なんだけど……」
「ああ」
水野は顔を隠すようにバッグを持ち上げた。バッグの大きさから、恐らく重量もそれなりなのだろう。両手でバッグの取っ手を持つ水野の手は震えている。
ただ、水野が震えているのはバッグの重さだけではないようだった。目の前で水野の様子を眺める直哉の目には、彼女が柄にもなく緊張しているように見えた。
「実は……あの……ちょっと言いづらいんだけど……」
「なんだ?」
「えっと、二時間前ほどの話なんだけど……」
「ああ」
「父親と大喧嘩しちゃって……」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、直哉の頭の中には明確に、ハッキリと、次に続く水野の言葉が分かったような気がした。
正直に言って、直哉には嫌な予感しかしなかった。
「……要するに?」
「家を飛び出してきてしまいました」
「やっぱりか」
「……ごめんなさい」
あまりにも予想通り過ぎる展開に、もはや直哉には返す言葉がなかった。
思わず掌で顔を覆った直哉の隣では、一応迷惑を掛けようとしている自覚があるらしい水野が居た堪れなさに視線を逸らしながら頬を掻いていた。
「どうしよっか、直哉くん」
「「どうしようか」?」
「―――助けてください!お願いします!!」
水野が勢いよく頭を下げる。相手が友人であっても構わず頭を下げた水野の決意は褒めてやらないこともない。ただ、出来ればもっと違う方向で発揮してもらいたかった。
しかしそれでも、縋るような目付きで頼ってきた友人を見捨てるほど直哉も非情な人間ではない。
これで相手が圭吾ならば問答無用で切り捨てるのだが、今回の相手は圭吾ではなく水野。格闘技を習ってはいるものの、れっきとした女の子だ。
忙しい両親に代わって自分を育ててくれた姉の理沙から、直哉はこんな夜更けに助けを求めにきた友人の女の子をコンビニの前で見捨てるような腐った教育を受けた記憶はなかった。
「……今晩だけだ」
「え?」
「今晩だけなら、なんとかしてやる」
憂えを帯びていたはずの水野の表情が、一気に明るくなった。
「流石直哉くん!愛してるーっ!!」
「そんな安っぽい愛なんていらねーよ」
直哉は水野の持っていたバッグを代わりに持つ。パッと見た感じの予想と一切違わないバッグの重みが直哉の両手に掛かる。バッグの大きさにしっかりと比例している重量は直哉ですら少し重い印象を受けた。
水野は驚いた顔をすると、すぐに嬉しそうに頬を緩めた。その元気で明るい表情に、直哉の心にも少しばかりの安堵と充足感が満ちていく。
本来なら一人で通るはずだったコンビニから自宅までの道を、直哉は隣を歩く水野と二人で進む。
家に着くまでの時間は約五分。終始上機嫌な水野はテンション高く学校での話を語りだす。主に部活動のことが中心となって語られる話は徐々に熱を帯びていく。そして結局、家に着くまでの間、水野が口を閉ざすことは殆どなかった。
そんな水野に対し、元来がそんなに口達者な方ではない直哉は適当に相槌を打ちながら話を合わせるだけで精一杯だった。
人によっては無愛想で冷たい印象を与えてしまいかねないと直哉自身も自覚している態度だが、水野は何が嬉しいのかずっと楽しそうに笑っていた。
現在時刻は夜十時半。
偶然の末に友人を拾ってしまった直哉は、帰宅後に待っているだろう姉の追求にどう答えようかと頭を悩ませながら水野と共に帰路につくのだった。
◇
翌朝。
直哉は自分の部屋のベッドの上で目を覚ます。うすぼんやりとした視界が徐々に明瞭になっていく。見慣れた天井にはかつて好きだったサッカー選手の写真が貼ってあった。
「…今…何時……?」
そのまま顔だけを横に向けて目覚まし時計を確認する。目覚まし時計の針は午前六時を指していた。
「まだ六時か……」
普段、直哉が起床する時間は午前六時半。まだ三十分ほどは余裕がある。昨日のことを考えれば一分でも長く眠っていたい。この丁度微睡の中にいる感じがとてつもなく心地よい眠気を誘ってくる。
しかし直哉は頑なに起床を拒否している体を強引に覚醒させるように上半身を起こした。
学生である直哉にはまだ余裕がある時間だとしても、既に社会人である理沙にとってはそれほど余裕がある時間ではない。朝、必ず一度はシャワーを浴びる理沙の代わりに朝食を用意しなくてはならないし、理沙の分の弁当も作らなくてはならない。特に今朝は二人ではなく三人。一人分余分に用意しなくてはならなかった。
眠そうに欠伸をしながら首を鳴らした直哉は、まだ靄の掛かった頭のまま目の前に座る存在へと声を掛けた。
「……じゃあそろそろ退いてもらってもいいか、水野?」
「あー…あはは……」
丁度、直哉の下腹部の上に馬乗りみたいに座っていたのは水野だった。向かい合う形でベッドの上に座っていた水野は、わりと近い距離にあった直哉から気まずそうに視線を逸らした。
「……なんの用だ?」
「い、いやぁー。理沙さんに直哉くんを起こしてくるように頼まれちゃって」
「また理沙か……」
これ見よがしにため息をつく直哉に水野は苦笑いを浮かべる。
「昨日は悪かったな。テンションが上がった理沙はちょっと俺には止められなくてな」
「それは私も気にしてないよ。飲んで食べて騒いで楽しかったしね」
「そう言ってくれるのなら助かる」
昨夜、水野と連れ立ってを帰宅した直哉を待っていたのは理沙による水野のためのパジャマパーティーだった。
パーティーといっても参加者は直哉を含めた三人だけの小規模なもの。しかも開始時刻は午後十一時からというなんとも遅い時間。何故か直哉の部屋で始まったパーティーは、それから延々と午前三時辺りまで続けられた。
果たしていつの間に眠ったのか直哉は覚えていない。水野が泊まるということでテンションの上がった理沙が酒を持ち出し、強引に直哉の口へと酒を流し込んできたところで記憶は終わっていた。
「お世話になった私が言うのもなんだけど、色々と大変だよね、直哉くん」
「……ああ」
昨夜の乱痴気騒ぎを思い出すと頭が痛い。
いつもなら最初に犠牲者になるはずの志保の不在が思っていた以上の影響があったらしい。
「でも、さ」
不意に、水野の視線が遠くなる。
「うん?」
見つめ返す直哉の視線にも気付くことなく水野は告げる。
「いい人だよね、理沙さん」
「―――まあ、な」
少しの間の後に頷いた直哉はなんとなく頬を掻いた。特に理由はなかった。
「……話はここまでだ。取り敢えず俺も着替えるから部屋から出てろ」
「はーい」
返事をした水野がベッドから降りると、直哉も欠伸をしながら体を起こす。ベッドから降りた直哉は体を伸ばしながら箪笥から服を取る。そして寝間着代わりに着ていたジャージを脱ぐために裾へと手を掛けた―――ところで、違和感を感じて手を止めた。
直哉の耳には扉を開けた音がまだ届いてはいなかった。
「……おい」
「なに?」
振り向くと、ベッドに座って直哉の方を見ている水野がまだ部屋の中にいた。
「……なにを考えてんだよ、お前は」
「あ、あははー」
「笑いごとじゃないだろ」
一向に出ていく気配のない水野に直哉は大きくため息をつく。
「さっさと出ていけ」
「や、やだなぁ、そんな怖い顔して。冗談だよ、じょーだん」
「別に冗談だろうが冗談じゃなかろうがどっちでもいいから、とっとと出てけ」
「え、えぇ~と―――お手伝いましょうか?」
「邪魔だからさっさと出ろ」
首根っこを掴まえた直哉は、悪戯猫よろしく水野を部屋から叩き出すために扉を開く。
するとそこには床に膝をついて聞き耳を立てている理沙の姿があった。
「あ、あれ?」
「―――」
予想していなかった展開に、直哉は言葉を無くした。
「うぅ……すみません、理沙さん。失敗しましたぁ~」
「いいのよ、優花ちゃんは気にしなくて。指示したのは全部私なんだから」
手に持っている「荷物」が理沙に向かって何かを言っている。
掴んでいた手に思わず力が入った。
「ちょっ!?いたっ、いたたたたた!?首!?首絞まってるからっ、直哉くん!?」
「ん?ああ、スマン。でも気にするな。俺は痛くないから気にしない」
「そ、そりゃ直哉くんは痛くないに決まって―――って、首極まってるから!ほ、ホントにやめてえええええ!?」
叫び声を上げる水野に満足した直哉は宙に浮いた状態の水野をそのままに手を離す。床に落ちて尻餅をついた水野からのブーイングはすべて無視。聞く耳を持たない。
「なーんだ。もうちょっと面白い展開になるかと思ったのに、我が弟ながらアンタってホント面白くない男よねぇ」
「面白くなくて結構だ」
「こーんなに可愛い優花ちゃんに起こされたっていうのに、どうせアンタのことだから一切手も出さなかったんでしょ」
「当たり前だ」
「ないわー。アンタ、ホントに性欲の有り余ってる男子高校生?」
「喧しい。男子高校生が全員性欲の塊みたいに言うな。あと、あんまり面倒なことに水野を巻き込むなよ」
「はいはい。分かってるわよ」
二人が外にいることを確認した直哉は再び部屋の扉を閉めた。
男の着替えなんてそんなに時間の掛かるものではない。ジャージを脱いで制服に着替える。男の着替えなんて二分もあれば終わるにも拘らず、既にもう十分という時間が経過していた。
まだ起きたばかりだというのに肩に掛かる疲労感は相当なものだった。あまり眠っていない体に無駄な疲労の蓄積は結構堪えるものがある。制服に着替えた直哉はゆっくりと蓄積した疲労を解すように肩を回した。
「疲れてる?」
「まあな。最近ちょっと志保の喫茶店が忙しくてな」
「志保さんってそんなに人を酷使する人だっけ?」
「いや、志保のせいじゃない」
「じゃあどうしたの?」
「実は年下の先輩アルバイトが―――」
―――と、そこで直哉の言葉が止まった。
今、明らかに不可思議な現象が起きていた。少し頭のネジが緩んでいる二人組はちゃんと部屋から追い出した。外にいることは確認済みだ。だからこそ現在、この部屋には直哉以外は誰もいないはずなのだ。
しかし、何故か会話が成り立っている。誰もいないはずの部屋の中、果たして自分は誰と話をしているのだろうか。あまりにも不可思議な現象に直哉は首を捻りながら背後を振り向いた。直哉の疑問はすぐに解決した。
「朝ご飯だって」
「……」
どうやって入り込んだのかは知らないが、振り返った直哉の視線の先には追い出したはずの水野が見上げていた。
その顔に昨日感じた寂しさの面影はない。普段であれば殴ってやりたいと思うところだが、この晴れ晴れとした笑顔を見せられればもはや何も言えない。下から見上げてくる水野の頭を軽く小突いた直哉は、そのまま水野を連れて居間へと向かった。
河村家の朝食は、基本的に和食であることが多い。
今では直哉が炊事を担当することも多くなったが、昔から朝食に限らず炊事に関することの大半は理沙の仕事となっていた。忙しい両親の代わりに直哉の食事の世話をしていたことが習慣化されたことが原因だった。
二人の両親はとにかく朝早くに家を出る。父親は誰よりも早くに仕事場に行かなくては気が済まない性格な上、母親も小学校の教師として毎日かなり早く学校へ行く。つまり両親に朝食を作ろうと思えばはなかなかに大変な作業となる。
それでも理沙自身の「朝にはお米!これ絶対!!」という強い希望によって河村家の朝食は和食となっていた。そもそも朝食を作るのが理沙という時点で、両親や直哉に選択肢などというものは存在しなかった。
また直哉の家ではあまり「家族揃って朝食を食べる」という習慣がない。理由は当然、両親が忙しすぎてあまり朝、家にいないからだ。だから普段、直哉は理沙と二人で朝食を食べることが多い。
しかし今日はそんな姉弟の間に入り込んだ存在があった。言わずもがな、水野である。
「女三人寄れば姦し」という言葉があるが、この場に限れば理沙と水野の二人だけでも直哉にとっては十分に「姦し」と言える状態になっていた。
出来るだけ巻き込まれないように直哉がテレビの電源をつけると、朝からとんでもないニュースがやっていた。
「……朝食時にするニュースじゃないな」
「ストップ!!」
思わずチャンネルを変えようとした直哉の手を止めたのは、なにやら真剣な顔をした水野だった。
「どうした?」
「―――」
「水野?」
食い入るようにテレビを見ている水野は、直哉の声にも気付くことなくキャスターの言葉に耳を傾けている。
ニュースの内容は、少なくとも女子高生が真剣に聞き入るような話ではない。話としては何処にでも有り触れたものだ。高級住宅街の中を歩いていた中学生が、偶然にも居合わせた通り魔に襲われて重傷を負った。腹部を深く切り裂かれたらしい中学生は一夜明けた今もまだ昏睡中。意識は戻っていない。それだけの話に過ぎない。
直哉にとっては朝食時にはあまり聞きたくない内容のニュースという認識でしかないが、しかし、水野にとってはなにやら重要な意味合いを含むニュースであるらしい。
今朝、水野が見せた明るい笑みは、この瞬間からなりを潜めた。
ニュースの内容が代わっても、水野が気分を取り戻した様子はない。表面上こそ普通の状態のように見せてはいるが、明らかに無理をしていることは直哉にも理沙にも分かった。
「ほら、早く食べて学校行こう!」
「……ああ」
空元気を振り回す水野に直哉は何も言えなかった。
何も事情を知らない人間が入り込んでいい範囲というのは限られている。友人だからこそ相談されれば力になりたい。ただ、友人だからこそ相談されない以上は下手に口を出すべきではない。事情を知らないが故に口を出し、誰かの傷口を抉ったらシャレにもならない。今まで築き上げてきた交友関係が一瞬にして崩れ去ることなんて意外と呆気ないものだ。
交友関係なんて、構築していくのに時間は掛かっても、失われるのなんて一瞬のことだ。
「早く早く!あんまりのんびりしてると遅刻するよ!」
「まだ大丈夫だから、そんなに急かすなって」
「ダメダメ!その油断が遅刻ギリギリの全力疾走を生むんだよ!!」
笑顔を見せる水野に、直哉は面倒だと口にしながらも従った。
今はまだ自分が積極的に何かを言うべき段階ではない。誰にも助けを求めず、自分の力だけで頑張りたいのならば頑張ればいい。自分はそんな彼女の姿を後ろから見ていることしかできない。所詮、他人なんて非力な存在でしかない。
その代わり、もし仮に限界まで頑張って、それでも解決できないことがあるならば、改めて力になってやればいい。それが友人というものだろう。友人関係とは決して依存する関係ではなく、お互いが自立した上で助け合う関係のことなのだから。
相談されるまでは何もしない。そんな決意を心の中で直哉が固めた時、来客を告げるチャイムが鳴った。
「こんな時間に誰だ?」
来客にしてはあまりにも時間帯が早すぎる。時計の針はまだ午前七時を過ぎたばかりだ。理沙ですらまだ通勤していない。
不思議に思った直哉が視線を理沙に送るが返答は芳しくない。理沙にも心当たりがないらしい。
首を傾げる河村家の二人に対し、この家の人間ではない水野の行動は早かった。
「あ、私が出ます!」
言うや否や、水野は駆けるような勢いで玄関に向かっていった。
「……なんでお前が出るんだよ」
直哉が額を押さえながら呟いた。
「ま、いいんじゃない。出たいって言うんなら出てもらえばいいのよ。別に困ることでもないし」
「もし客が隣のおばさんなら驚くだろ」
「そう思うんならアンタも一緒に玄関まで顔を出しに行けばいいのよ」
「そりゃそうなんだが……」
「行くんならさっさと行きなさいよ。私はし~らないっと」
ソファに寝転がってテレビを見始めた理沙には、もう何を言っても意味がない。 一度動かないと決めた理沙には、どれだけ粘っても動かないことは直哉が知る過去の経験が一番よく分かっていた。
「……分かったよ」
寝転んだ理沙の頭に軽く触れた直哉は、先に玄関へと向かった水野を追って居間の扉を開けた。
客人を迎えるのが同じく客人では、家の住人としてのメンツが立たない。やはり客人を出迎えるからには家の住人が玄関まで行って顔を見せなければならないようだ。
理沙の言葉に折れるという形ではあるが、玄関に向かった直哉はすぐに足を止めた。
視線の先では、水野が力なく膝を折り曲げて玄関に座り込んでいた。
「水野!?」
「なお…や……くん?」
ゆっくりと、スローモーションのように振り向いた水野の瞳から一滴の涙が零れ落ちた。
水野の表情は、さっきまでの空元気が嘘だったかのように蒼白になっていた。
思わず走り寄った直哉が肩に触れると、水野は震える手で直哉の手に自らの手を重ねた。
「ど、どうしよう…私…わたし……」
涙を流しながら水野がうわ言のように呟く。
直哉には一体全体、なにがなんだか分からなかった。水野が先に行ってから直哉が追いかけるまでは一分も経っていない。そのたった僅かの間に水野の様子は憔悴しきっていた。
自分には意味が分からない。ならば、と直哉は玄関にいたもう一人の人間を強い視線で見上げた。
「ここでなにがあった、圭吾」
「……直哉」
見上げた先には制服姿の圭吾が立っていた。
いつも学校でみせる調子のいい態度を隠した圭吾は、大切なものを見るかのような瞳で水野を見つめていた。
「説明する責任、あるよな?」
「……そう、だね。うん。直哉には知ってもらっておいた方がいいと思う」
どこか諦めにも似た感情を含んだ態度だった。
大きく息を吐いた圭吾は、手に持っていた鞄を玄関の脇に置いた。
「理沙さんは?」
「居間でゴロゴロしてる」
「……そう」
続いて靴を脱いだ圭吾が答える。
「追い出した方がいいのか?」
「……いや、理沙さんにも聞いてもらった方がいいと思う」
「なら取り敢えず居間の方でいいか?」
「うん」
圭吾の答えに首肯すると、直哉は縋るような目で見つめる水野の体に腕を回した。
このままここで放っておくというわけにもいかない。すっかり元気を失ってしまった水野はもはや一人で立つ気力すらないのか、完全に直哉の腕に自分の体重を預けていた。
「大丈夫か?」
「……うん」
返事はあるが、今の水野を見て「大丈夫」と言うような人間はおそらく何処にもいないだろう。もし仮にそんなことを言う人間がいるのなら、直哉は間違いなく腕力による「話し合い」を選択することになるだろう。友人を侮辱されて黙っていられるほど直哉もまだ大人ではない。
胸の中に抱く怒りが隠せなくなるほど、直哉の腕に支えられて歩く水野の姿は弱弱しかった。