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memory  作者: バックパッカー
第一章
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第四話

「ふーん。そんなことがあったのね」


 志保が営む喫茶店『セリシール』のカウンターに座った丸山は、淹れたての珈琲を口にしながら直哉を半眼で見た。


「そんな目で見られても困る。俺だってかなり焦ったんだからな」


 丸山の隣の席に座り、同じく珈琲を飲んでいた直哉は両肘をカウンターに乗せてぼやいた。

 直哉が語った保健室での一件に関する話の概要は次のようなものだった。

 第一に、丸山を探して保健室に行ったら、偶然にも櫻井が寝ていたという事実。これに関して直哉の語った内容に嘘はない。

 第二に、偶然にも目を覚ました櫻井と少し話をしたという事実。これに関しても直哉の語った内容に嘘はない。ただし真実をすべて語った訳ではない。直哉と櫻井にとって最も大きな問題であったあの一連の流れは殆どすべて伏せていた。

 本当なら誤魔化しきれないところだが、どうやら丸山も何かを悟ってくれたらしく、ゴリ押しながらなんとか押し通すことが出来た。


「……そんな目ってどんな目よ」

「その明らかに嘘ついてるだろお前、っていう目だよ」

「そんな目なんてしてないわよ。私がしてるのは明らかに誤魔化してるなコイツ、っていう目よ」

「同じだろうが」

「違うわよ」


 丸山の的確な指摘に直哉が適当な言葉で合わせる。こうして話をしている間にも、既に二人の間では妥協点が暗黙の内に定まっていた。直哉からすれば、すべて包み隠さずに話が出来るというような内容ではないので初めからすべてを語る気はない。また丸山からすれば、一度は隠された内容を強く訊ねたからといって最初からすべてを聞けるとは思っていない。言い合いを続けながらも二人の頭の中では終着点が見えていた。

 しかし、両者の言い合いが終着点に差しかかり沈静化しかけたところで、空気のまったく読めない一人の男が力強く立ち上がった。


「いやいや!直哉の気持ちは俺には分かるよ!」

「……なに言ってんのよ、アンタ」


 直哉の隣、丸山の逆側に座っていた圭吾の主張に丸山が冷たい視線を向けた。


「だって直哉の言ってる「櫻井」ってあの美月ちゃんのことでしょ!?そりゃ保健室で櫻井さんが寝てれば気になるって!男として!!」

「……アンタ、馬鹿じゃない?」

「馬鹿じゃないよ!美月ちゃんっていったら学校でも指折りのクール系美人で有名じゃん!そんな子が誰もいない保健室で寝てたら、そりゃ普通の男なら襲ってもおかしくないって!!」


 強く拳を握って訴える圭吾だが、直哉を越えて向けられる視線は刺々しい。


「……私、犯罪者を友人に持った覚えはないんだけど」

「……お兄ちゃん、わたしも女の人をおそっちゃうのはどうかとおもう」

「……圭吾くん、警察呼ぶ?」

「ちょっ!?別に襲いたいって本気で言ったわけじゃないからね!?」


 もうボロくそだった。

 友人には犯罪者扱いされ、妹には完全に距離を置かれ、先輩には受話器を片手に警察を呼ぼうか訊かれる始末。たった一言で圭吾はこの場にいる女性たちすべてを敵に回してしまった。そして圭吾を除けば唯一の男であり、また同時にそもそもの原因を作った直哉はと言えば―――


「男の直哉なら分かるよね!?あの櫻井さんが目の前で無防備で寝てるのを見てムラムラきたよね!?なんかこう、強烈な衝動に駆られたよね!?」

「……お前は小学生の妹の前で何を言ってんだよ」

「うゅ?」


 膝の上に座っている瑞穂の手を取り、そのまま耳に当てながら直哉はため息をついた。


「なおやさん?」

「圭吾の話を聴くには瑞穂ちゃんはまだちょっと早すぎるからな」


 見上げる無垢な瞳に苦笑いを返しながら直哉は瑞穂の頭に手を乗せた。直哉の手が退けられた後でもちゃんと耳に手を当て続けている瑞穂はとても素直な女の子だった。


「瑞穂ちゃんはあの馬鹿兄貴みたいに汚れず、そのまままっすぐ育ってくれよ」

「どういうこと?」

「世の中には知らなくてもいいことがあるってことだよ」


 瑞穂へと聞こえるように耳元で語りかける直哉の目は非常に遠かった。

 高校生男子からすれば当たり前にしている話題でも、小学生の女の子を前にすればハードルは高くなる。下ネタも時と場所を確認して言わなければ白い目で見られてしまう。かくいう直哉自身、高校の友人たちと話をしている時には下ネタの話題になったりすることもある。むしろ男子だけで固まれば自然とそういう流れになる。高校生男子にとって下ネタは鉄板だといえる。


「……でもまあ、流石にこの場所で、しかもこのメンツで話すような話じゃないよな」

「?」

「気にしなくていい。コッチの話だ」


 ため息混じりに呟いた言葉は、膝の上にいる座っている瑞穂の耳にも捉えられずに消えていった。

 目下、最大の理解者が小学生というのもなんだか微妙な感が否めない。だが同級生であり、最も感性が似ているはずの高校生二人は、今も直哉を間に挟んで己の主張を大声で主張し合っていた。


「男は誰でもスケベで変態なんだよ!!」

「うるっさい!アンタはもう喋らなくていいのよ!せっかく志保さんが淹れてくれたコーヒーが不味くなるでしょうがっ!!」


 まだまだ言い足りないとばかりに圭吾と丸山はヒートアップして叫び合う。頭に血が上っている二人はお互いに熱くなると周りが視界に入らなくなることもあり、非常に顔の距離が近い。事情を知らない者が表情の見えない角度から二人を見れば、恐らくキスをしているようにも見えるだろう。

 直哉は黙って瑞穂の目に手を重ねて幼い少女の視界を覆った。兄のそういうシーン(・・・・・・・)を見るには、小学生ではまだ少し早い。


「はい。二人ともその辺で終わりにしなさい」


 睨み合う圭吾と丸山の間にカウンターから一枚の皿が置かれる。

 二人の間に置かれた皿の上には一つだけチョコレートケーキが乗せられていた。そのチョコレートケーキは、先日、志保がアルバイトの勤労少女と共に研究を重ねて作ったばかりの新作である甘くない(・・・・)チョコレートケーキだった。甘いものがあまり得意ではない直哉でも普通に食べられる程度に甘みを抑えたチョコレートケーキは、少しビターな大人の味がする。


「まだ商品としては売ってないんだけど、これを食べて仲直りしなさい。このお店で喧嘩はダメだよ」


 時には鉄拳制裁によって厳しく相手を説得するのが理沙のやり方なら、常に微笑みを浮かべながら優しく諭すのが志保のやり方だった。どちらの方法が正しいのかという判断は出来ない。理沙は理沙で後輩の少女たちから慕われる存在らしいし、志保は志保で後輩の少女たちから慕われている。それは『セリシール』の客層がまだ若い少女たちで過半数を占めているということこらもよく分かる。志保の淹れた少し甘めのカフェオレを飲みながら恋愛相談を持ちかける少女は少なくなかった。


「……志保さん」

「……そう、ですね」


 志保に注意されると、途端に圭吾と丸山の言い合いは勢いを失っていく。

 学校帰りによくたまり場として利用している喫茶店の店主というだけではなく、二人とも姉のように慕っている志保だからこそ、その忠告には従わざるを得ない。放っておけばいつまでも続くだろう二人の言い合いを止めるのはいつも志保の役割だった。十歳も違わないはずなのに、志保と直哉たちでは越えられない精神的なものの差があった。


「なおやさん、もういい?」

「あ、悪い」


 志保を含む三人の様子を窺っていた直哉の下からも幼い声がした。目を覆っていた手を離すと、瑞穂は耳にあてていた手を外して何度か目を擦った後、直哉の方を仰ぎ見た。

 直哉の膝の上に座っている瑞穂は、圭吾の妹だというのに今ではこうして『セリシール』で会うといつも直哉が面倒を見ていた。懐いてくれる子どもの可愛らしさに敵うものなんておよそこの世には存在しない。唐突に目が覆われたとしても違和感なく受け入れるほど懐いた瑞穂は、既に直哉にとっても妹のような存在になっていた。

 ちなみに完全な余談になるが、圭吾に連れられて志保の店へとよく訪れる瑞穂には専用のエプロンが用意されている。数か月前に一度だけお手伝いという形で接客をした時に用意されたものだ。瑞穂の接客の評判は上々だった。まだ幼い瑞穂がとてとて歩きながら接客業務をこなす姿は老若男女を問わず凄まじい人気があった。その日の『セリシール』の売り上げは過去最高の数字を叩き出した。


「瑞穂ちゃんも大変だな、あんな兄貴を持って」

「んー。もうなれたからへいき」

「……あんまり妹に世話掛けるなよ」

「ええっ!?俺の知らないところで謂れのない罪が!?」


 顔を近づけて話をしていた直哉たちの会話は圭吾の耳には入らない。最後の呆れた声だけを耳にした圭吾は、意味も分からず向けられた冷たい視線に悲観の声を上げる。


「小学生の妹を連れてきて、完全に世話を他人任せにするのは兄としてどうなんだ?」

「いやいやいや。瑞穂だって直哉に懐いてるから問題ないでしょ」

「懐いてるとかそういう問題じゃなくて、俺は兄としての姿勢を訊いてるわけなんだが……」

「ダーイジョウブだって!な、瑞穂!お前だって直哉のことが気に入ってるんだよな!」

「うん!わたし、なおやさんのことすきだよ!」

「ほらな!」

「……はぁ」


 圭吾のアホみたいな話に満面の笑顔で瑞穂は答えた。瑞穂が懐いてくれるのは直哉にとっても純粋に嬉しいことだ。無愛想な直哉の顔は、まだ幼い子供たちが見れば少しばかり怖い印象を与える。だからこそ直哉は子供が苦手だった。直ぐに泣きそうな表情を浮かべる子供たちに意味もなく罪悪感が湧いてくるのだ。

 しかし、そんな直哉にとって瑞穂だけは例外だった。友人の妹ということもそうだが、それ以上に自分の顔を見ても怖がらないことでポイントが高い。それに瑞穂自身も積極的に懐いてくる。嫌いになれようはずもない。

 それ故に瑞穂にとってのもう一人の兄貴(・・・・・・・)としては、圭吾の無責任な態度には少しばかりカチンとくる。調子に乗っていると痛い目をみるということを圭吾はもう少し知らなければならない。

 たとえば―――


「わたし、お兄ちゃんよりもなおやさんの方がすきだもん!」

「―――え?」

「……」


 ―――妹の持つ好感度の数値がただの兄の友人に過ぎない他人に劣ったり。


「なおやさんがほんとうのお兄ちゃんだったらよかったのに……」

「み、みずほ?」

「……」


 血という決して分かつことのできない繋がりに対して変更を求められたり。


「お兄ちゃん。もうちょっとちゃんとしないとダメだよ。じゃないと瑞穂、お兄ちゃんのことキライになっちゃうからね」

「……はい」

「……」


 割と本気な感じで妹から説教されたりすればいい。


「これじゃあどっちが年上なのか分かったもんじゃないな」

「そうね。同情の余地もないくらい自業自得だけど、憐憫の感情ぐらいは持ってあげてもいいかもしれないわね」

「圭吾くん、テストの点数はいいのにね」


 小学生の妹に対して頭を垂れた高校生の兄の姿は酷く情けなくみんなの視線に映った。家族が大好きだと公言して憚らない圭吾だからこそ、妹から本気で呆れられると普段の馬鹿な行動は鳴りを潜める。どうしようもなく馬鹿な行動が目立つ圭吾だが、家族に対しては真摯だということは、友人である直哉もよく分かっていた。

 ただ、妹からの説教に頭を垂れながらも圭吾の表情は暗くはない。むしろ妹の成長を喜んでいるかのように緩みきっている。二人はなんだかんだで仲のいい兄妹(きょうだい)なのだ。

 そのことが分かっているからこそ、直哉も丸山も、そして志保ですら瑞穂が圭吾にしている説教を止めるようなことはしない。故に、この微笑ましい状況に変化が与えられるとすれば、それは第三者からの介入に他ならない。


「あ、あの~」


 来客を告げる鐘の音が店内に響いた。

 瑞穂が来た時、或いは丸山がやって来た時と寸分も変わらない心地よい鐘の音が鳴る。同時に、扉の向こう側からは二人組の人影が店内へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。お好きなところに座ってください」


 客が来店した瞬間にはもう志保は『お姉さんモード』から『喫茶店の店主モード』への移行を終えていた。

 優しくも暖かい志保の笑顔に絆された二人組の若い女性客は、初めて来店する場所への小さな緊張から解放されたように肩の力が抜けたようだった。


「あ、あれ?」

「綾音?」


 初入店の緊張から解放された二人に生まれた僅かながらの心の余裕は、店内にいた友人である一人の少女を見つけることに繋がった。

 よく見てみれば、二人が着ている制服は丸山が着ているものと同じだった。それはつまり、来店した二人が丸山や直哉たちと同じ学校の生徒であることを意味していた。


「お待たせいたしました」

「あ、どうも―――って、河村くん!?な、なんでココに!?それにふ、服が!?」

「ん?」


 それなりの人気店である『セリシール』にしては珍しく、あまりにも暇な時間が続いたので忘れていたが、現在の直哉は絶賛アルバイト中だった。水とおしぼりを盆に乗せた直哉が二人の座ったテーブル席へと近付く。すると何故か少女の内の一人が席を立ち上がるほどに驚かれた。直哉に二人への見覚えはない。ただ、少女たちは直哉のことを知っているらしかった。


「か、河村くんってこのお店でアルバイトしてたりするのかな?」

「ええ。マスターの女性が姉の知り合いでして」

「そ、そうなんだ」

「はい」


 先程までとは別人のような態度の直哉は、学校では絶対に見せることのない笑顔を浮かべて接客していた。

 カウンターの方から聞こえてくる「似合わない」とか「寒気がする」とか「気持ち悪い」といった悪口を敢えてすべてシャットダウンして直哉は接客を続ける。時には客の世間話の相手をするのも接客業にとっては必要なスキルの一つなのだ。きっと直哉が『セリシール』でのアルバイトを通じて最も向上させたスキルは、まず間違いなく営業スマイル(・・・・・・)だった。


「その制服、似合うね」

「そうでしょうか?」

「そうだよ!河村くんって身長高いし足も長いから、ウェイター服みたいなのがスッゴイ似合うと思ってたんだよね!」

「ありがとうございます」


 こうして彼女たちを接客していても、まだ直哉の頭の中には二人の名前は出てこない。

 そもそも、基本的に直哉が学校の中で話をする人間はあまり多くはない。丸山や圭吾、水野たち特別に仲がいい人間の他には、クラスメイトの男子と一握りの社交的な女子ぐらいしかいない。圭吾に言わせれば『閉鎖的人間関係』と言うらしいが、とにかく直哉自身もあまり多弁な方でもないこともあり、学校内でのコミュニティは狭い。そしてその友人という直哉の範疇の中にこの二人は含まれてはいなかった。


「放課後にはいつもここでアルバイトしてるの?」

「ええ。大体いつも働いていますよ」

「週に何日ぐらい?」

「その時によります。テスト前には私も流石に休まないといけませんしね」

「あはは!確かに!じゃあひょっとして、家も近くにあるとか?」

「いえ。ここから一時間ほど電車に乗ります」

「そうなんだ。ちょっと遠いよね」

「はい」


 直哉が接客している二人の内、積極的に話をしているのは茶髪の少女だった。屈託のない明るい笑みが印象的な少女は、テニス部に所属しているのか隣の席にはテニスラケットを入れた袋が立て掛けている。

 対して、来店してからまだほとんど口を開いていないのは黒髪の少女だった。静かにメニューを眺める少女の姿からは、茶髪の少女と比べれば幾分か控え目で、かつ寡黙な印象を抱く。

 一目で対照的だと思ってしまう二人だが、そこに更に一人、二人とは一線を画した少女が話の輪に加わろうとしていた。


(なお)、葉月。二人とも珍しいわね。まさかこの店でアンタたちと鉢合わせることになるなんて思わなかったわ」


 直哉の肩に細い指が触れる。さっきまでカウンターに座って直哉の接客に対する皮肉を言っていた丸山が唐突に背後から顔を出した。丸山の顔を見ると、二人はお互いの顔を見合わせて頷き合った後、直哉から丸山へと視線を移した。


「あ、やっぱり綾音だったんだ。隣に吉田くんがいたから、なんとなくそうじゃないかなーとは思ってたんだけど」

「……全力で否定したい認識なんだけど、今日のところはこれ以上志保さんに迷惑もかけられないから勘弁しておいてあげるわ」


 四人席に座っていた二人の少女の内、黒髪の少女の隣へと丸山が腰掛ける。


「メニューが決まってないなら、この店ではカフェオレがお勧めよ、葉月」

「―――ん。じゃあそれで」


 黒髪の少女がメニューを閉じる。


「あ、私も同じやつがいい!」


 茶髪の少女が元気よく手をあげる。


「だ、そうよ」

「了解」


 直哉は伝票にカフェオレを意味する「カ」という一文字と共に「正」を二画目まで書く。これでカフェオレの注文が二人分という意味になる。


「ご注文は以上でしょうか?」

「うん」

「かしこまりました。ではカフェオレ二つ、すぐにお持ちいたします」

「よろしくね!」


 向けられた屈託のない笑みに直哉は軽い会釈と営業スマイルで応える。

 直哉が三人の席を離れると、茶髪の少女を中心に顔を近づけてなにやら会話を始めた。和気藹々にみんなで話をしているという雰囲気ではない。茶髪の少女が一方的に話を始め、丸山がその話相手になり、残った黒髪の少女は主に二人の会話の聞き役に回っているという構図だった。

 席を離れた直哉に三人の会話は聞こえない。しかし直哉の目には三人がその会話を、或いは雰囲気を楽しんでいるように映った。


「志保。カフェオレ二つにブレンド一つ(・・・・・・)

「うん。今作るからちょっと待ってね」

「ああ」


 後ろの棚からコーヒー豆を取った志保が慣れた手付きでコーヒーの準備を行っていく。

 いかに直哉がアルバイトに慣れたといっても、やはり店主である志保の手付きには到底敵わない。同じように淹れたと思っても、飲み比べてみると志保の淹れたコーヒーは何度やっても直哉の淹れたコーヒーよりも格段に美味しかった。なにかが違うということは間違いないが、しかし、今の直哉には二人の間にどのような違いがあるのかは分からない。少しでもなにかを掴もうと直哉が真剣に見つめる先で、志保は湯気の出ているポットを片手に綺麗な円を描いていく。香ばしいコーヒーの匂いが直哉の鼻孔を擽った。


「……やっぱり志保の淹れるコーヒーは匂いが違うな」

「そう?私は直哉くんの淹れてくれるコーヒーも好きだよ」

「そう言ってくれるのはありがたいんだけどな」


 他の誰でもなく、志保のコーヒーを飲み続けてすっかり肥えてしまった直哉の舌が感じるのだから間違いはない。

 志保は誰を相手にしても常に優しい。たとえどんな不味いコーヒーを淹れたとしても、志保なら嫌な顔一つせずに全部飲み干してくれるだろう。実際、直哉がアルバイトを始めた最初の頃はずっとそんな感じだった。

 だが、いつまでも志保に不味いコーヒーばかり飲ませるわけにはいかない。少しずつでも成長していかなくてはアルバイトとして雇ってもらっている意味はない。地道な練習を続けていった結果、今ではそれなりに淹れられるようになったのだが、それでも志保という目標を超えるにはいまだに修行が足りないらしい。


「俺も直哉の淹れるコーヒーは好きだよ。もちろん、志保さんの淹れてくれるコーヒーも好きだけどね」

「ありがとよ」

 

 誰かから褒められることは嬉しい。それが自分の頑張っている分野でのことならば尚のこと嬉しいものだ。ただ、誰かからコーヒーの淹れ方を褒められれば褒められるほど、すぐ傍にあるはずの志保の背中を遠くに感じる。


「はい。カフェオレ二つにブレンド一つ(・・・・・・)。お願いします」

「ああ、了解」


 差し出されたカフェオレ二つとブレンドコーヒー(・・・・・・・・)を盆に乗せた直哉は体をカウンターから離した。今は考えていても仕方がない。まだ働き出してたったの数か月しか経っていない。これから努力していけば、その内、志保の背中が見えてくることもあるだろう。心の中で現状を自分に納得させると、直哉は再び三人の少女が待つ席へと向かった。


「お待たせいたしました。カフェオレ二つにブレンド一つ(・・・・・・)でございます」

「待ってたよ、河村くん!」


 ゆっくりと、カップから零れないように茶髪と黒髪の少女たちの前へとカフェオレを置く。


「うん。いい匂い!」

「ありがとう」


 初めて黒髪の少女が直哉を見て口を開いた。茶髪の少女の方も気に入ったようで、目を輝かせてカフェオレへ口をつけた。なんとなく柔らかくなった雰囲気に場が包まれる中、唯一、丸山だけはまだコーヒーを飲んではいなかった。


「飲まないのか?」

「私、ブレンドなんて頼んでないけど?」

「俺の奢りだ。特に裏とか考えてないから気にせず飲んでくれ」

「……奢り、ね」


 どこか胡散臭そうに目の前のブレンドを見つめる丸山は、コーヒーと直哉を何度か見比べると、大きくため息をついてカップを手に取った。


「ありがとう」

「いや、俺からの礼だ。気にするな」


 素直な丸山なんて珍しい。思わず口から出かけた言葉を直哉はなんとか胸の内で止めた。あまり余計なことを喋ってしまうと、気付かない間に男もビックリの拳が飛んでくる。

 注文が揃ったことを確認すると、直哉は盆を脇に持って丸山たちの座る席から離れていく。相変わらず少女たちはガールズトークに花を咲かせている。美味しいコーヒーと穏やかな空間、更に気の合う友人がいれば学生の放課後としては何も言うことはないくらいに十分だった。

 

「なおやさん?」


 不意に、カウンターに戻った直哉を瑞穂が見上げた。


「ん?」


 無垢な瞳と視線が絡む。


「なおやさん、うれしそう」

「―――は?」


 “ふにゃり”と瑞穂の顔がほころび、表情が柔らかく緩む。


「……そう見えるか?」

「うん!」


 返事をする瑞穂の表情は、まるで自分こそが幸せであるかのようだった。特になにか嬉しかったわけではないが、まだ幼く純粋な瑞穂にそう言われると、何故か後になって妙に嬉しくなってくるような気がする。理由はよく分からないが。


「ふむ」


 カウンターに背を預けた直哉は、ガールズトーク真っ盛りの三人娘を見る。視線の先には普段、自分たちといる時に見せる表情とはまた違った表情を浮かべている丸山がいた。同級生の、しかも同性の友人たちと話をしている丸山の姿はなんというか、凄く彼女らしかった。


「綾音ちゃんってさ」

「ん?」


 唐突に、圭吾が話しかけてきた。


「学校の中じゃ殆ど俺たちと一緒にいるから同性の友達なんて優花ぐらいしかいないと思ってたんだけど、どうやら気のせいだったみたいだね」

「みたいだな」


 こうして改めて見てみると、丸山は直哉たちが思っていた以上によく笑う。主に話をしているのは相変わらず茶髪の少女だが、相槌を打ったりため息をついたりしながらも丸山は楽しそうに話をしているようだった。


「よかったね。俺も人のことばかり言ってられないんだけど、直哉は自分で思ってるよりも綾音ちゃんに弱いから―――心配だったんでしょ?」

「……友人なりに心配はしてたが、アイツだってそこまでガキじゃないだろ」

「よく言うよね、まったく。ま、直哉がそう言うんなら俺はそれでもいいんだけど」


 ―――ただ、と圭吾は話を続ける。


「あんまり過保護な「お父さん」にはならない方がいいと思うよ」

「―――」


 見つめる圭吾の瞳が妙に真剣で、直哉は押し黙った。

 直哉にそんなつもりはなかった。同級生に対して「父親」の役を担ってやれるほど年はとっちゃいないし、そもそもそこまで偉くなった覚えもない。確かに丸山の交友関係について全く気にしていなかったと言えば嘘になる。自分たちと付き合っているばかりに同性の友人に恵まれない。そんなことにならないかどうかの心配はしていた。

 ただ、それはあくまでも友人としてという範疇を出ない。幼稚園児や小学生ならまだしも、高校生にもなって友達を作るために誰かの力を借りるもなにもないだろう。


「直哉みたいに『閉鎖的な人間関係』を好む人間には分からないかもしれないけど、今の直哉はそのまま綾音ちゃんの保護者だよ。直哉はもう少し綾音ちゃんを女の子として見るべきなんだ」

「……そうか?」

「直哉は相手を「人間」として好きになる傾向があるけど、世間は「男女」としての好意と受け取るからね。直哉は今の学校での噂とか知ってる?」

「噂?」

「原因を作った当人の一人が言うべきではないんだろうけど、学校の中じゃ綾音ちゃん、もう結構な人たちに直哉の彼女って認識されてると思うよ」

「……なんだそりゃ」

「相手は色恋に飢えた年頃の高校生だからね。噂なんてすぐにそういう方向へ結び付けられるんだよ」

「へぇ」

「だから美月ちゃんの時も、彼女持ちの直哉が更に美月ちゃんにも手を出したってことであれだけの騒ぎになっちゃったんだよね」

「……おいおい」 


 圭吾の声を聞きながらも、直哉は視線を丸山から外すことができなかった。

 そんなことになっているなんて知らなかった。それに現実として、直哉と丸山が付き合っているという事実は一切ない。それどころかそんな話が出てきたこと自体がなかった。

 しかし、思い返してみればそんな噂が出てくるのも当然かもしれない。あまり女性的な嗜好を好まない丸山は、楽だからといって学校の中では大抵が直哉や圭吾と一緒にいる。ただでさえ学校という限られた閉鎖的な空間の中で特定の異性とずっと一緒にいれば、そういう噂の一つや二つぐらい出てくるだろう。


「『獅子は我が子を千尋の谷へ突き落とす』という諺があるけど、直哉も甘やかしてばかりじゃなくて、偶には綾音ちゃんを突き放してみれば?」

「……」

「俺は、優しいだけが「優しさ」ではないと思うよ」

 

 そう言って圭吾はカウンター席から立ち上がった。


「今日はこれで帰ります。今日もカフェオレ美味しかったです、志保さん」

「うん、またいつでも来てね」

「はい!喜んで!」


 嬉しそうにそう答えると、圭吾は瑞穂と手を繋いだ。


「じゃ、直哉。また明日学校でね」

「ああ、また明日な」

「またね、なおやさん」

「おう。また来いよ」


 仲良く連れ立って歩く兄妹は、丸山と少しだけなにか話をすると、最後に志保へと手を振って店を出ていった。

 扉が開いた瞬間に入ってきた風が直哉の髪を優しく撫でる。既に外は暗くなっていた。部活動が終わってからそれなりに時間も経っているので、おそらく時刻はもう午後七時を越えているだろう。

 ふと視線を窓へ向けると、外では点在する街灯の明かりが道を照らしていた。営業時間終了まで残り約一時間。直哉は頭を振って思考を変えると、閉店に向けての準備に取り掛かり始めた。







「これでよし、と」


 志保の声と共に店内を灯していた最後の明かりが消える。閉店の準備を始めてから約二時間。すっかり夜も更け、まだ六月だというのに肌寒さすら感じる時間になっていた。


「鞄、ありがとう」

「ああ」

「さて、それじゃあ私たちも帰ろうか」

「そうだな」


 隣で優しく笑う志保は、確認のために何度かドアノブを捻ると鍵を鞄にしまった。

 実家に住む直哉と一人暮らしをしている志保の家は非常に近いこともあり、勤務日の有無に拘らず、こうして仕事終わりの志保を自宅まで送り届けるのは直哉にとっての日課だった。もちろん、最初は理沙の「お願い」によってさせられた(・・・・・)ことだが、すっかり習慣となった今では直哉に苦はなかった。


「寒くないか?」

「えへへ。実はちょっと寒かったり」

「……だろうな」


 まだまだ夜も深くなれば肌寒い時期だというのに、志保の服装はとてもシンプルかつ薄着だった。スタイルのいい志保は基本的に何を着てもしれなりに似合うのだが、服が似合うかどうかと寒さに耐えられるかと言う話は全くの別物だ。少なくともジーパンとティーシャツ、そして申し訳程度に羽織った薄い長袖の上着一枚だけではこの時期の肌寒さにはキツイものがある。

 困ったように笑いながら、志保は両手を交差させて薄手の長袖に包まれた自らの細い腕を摩っていた。


「女が体を冷やすのは拙いだろ」

「―――ん」


 直哉は手に持っていた学ランを志保の肩にかけた。同年代の男子と比べても長身の直哉が着ている学ランを志保が纏うと、彼女の体はすっぽりと綺麗に収まってしまう。余った服の袖から半分だけ隠れた手が覗く。


「どうだ?少しはマシになったか?」

「―――うん」


 宝物でも抱くように志保は自分の体を抱きしめた。自分の貸したものをそうやって抱きしめられると流石に気恥ずかしい。しかも相手は志保だ。よく知る人物となれば気恥ずかしさもなんとなく増してしまう。志保の背中を軽く押した直哉は、ゆっくりと歩き始めた志保と並んで街灯が照らす道を進む。


「今日は悪かったな。アルバイト中だってのに店を抜けたり、丸山と圭吾が喧嘩したり、まあ、色々と」

「ううん。私も楽しかったよ」

「でも店には迷惑だっただろ?」

「そんなことないよ。お客さんもそんなにいなかったし、迷惑なんかじゃないよ。それに直哉くんが綾音ちゃんを迎えに行ってる間は圭吾くんが頑張ってくれたしね」

「……悪い」

「迎えに行ってあげてって言ったのは私だから気にしなくていいよ」


 『セリシール』から駅まではたった数分の道のりだった。電車に乗った二人は心地よい揺れに身を任せながら慣れ親しんだ風景を窓から眺める。

 街の境界線となる大橋を渡ると、そこにはもう別世界が広がっていた。学校のある町は都会然とした姿をしているが、二人の家がある町は昔ながらの田園風景を残した街並みになっている。大きなショッピングモールもあるが、数分も歩けば田んぼが広がっている。そんな自然を残した町並みの中を、二人は並び、家に向かって進んでいく。


「最近直哉くんたちを見てるとね、時間って本当に経つのが速いなぁ、なんて思うことがあるんだよね」

「……随分と唐突だな」


 二人の周囲に人影はない。月明かりと僅かな街灯だけが道を照らす中で寄り添い歩く二人は、第三者が見れば恋人同士の逢瀬のようにも映るだろう。


「特に直哉くんは中学生の頃から知ってるし、今更だけどもう高校生になったんだなぁ、なんてね」

「……」


 なんとなく、直哉には志保の顔が寂しそうに曇って見えた。

 以前のマスターから喫茶店を受け継ぎ、自身の能力で経営を始めた志保のため、理沙の命令だとはいえ大人しくアルバイトを引き受けたのは直哉自身だった。まさか自分よりも早くにアルバイトとして雇われた少女がいたことには直哉も驚いた。しかし、優しくもどこか儚さを感じさせるもう一人の姉とも呼べる志保のことを守ってやりたいという想いは昔から直哉にあった。

 直哉が中学生の頃は、あくまでもそれぞれ「姉の友人」や「友人の弟」という繋がりしかなかった。だが直哉が高校に入学して以来、志保との間に姉を挟まない直接的な関係が築かれると、直哉の中にあったその気持ちは更に大きくなっていった。直哉の身長が高くなり、また体も大きくなってきたことが影響したのかもしれないが、かつて大人だと思っていた志保が直哉の中で徐々に小さく儚い存在だと感じ始めていった。


「みんながお店に集まってくれるのはとっても嬉しいんだけど、ね。みんなを見てると、私もあと何年か生まれるのが遅かったら直哉くんたちと一緒に楽しい高校生活が送れたのかもしれないなぁ、とか考えちゃうんだよね」


 直哉の隣で志保は恥ずかしそうに頬を掻いた。

 直哉は大学生よりも以前の志保の過去を何も知らない。小学校、中学校、そして高校で志保になにがあったのかなんて知る由もない。あくまでも直哉と志保の付き合いが始まったのは、理沙が自宅に志保を招いたことから始まる。それから現在まではまだたったの数年だ。数えてみれば意外と短い。

 ただ、そんな短い付き合いの中でも直哉が知っている志保の過去はいくつかある。その中でも特に、前に一度だけ酔った理沙を介抱している時に志保の過去を耳にしたことがあった。その時に知った出来事こそ、直哉が志保を気に掛ける本当の理由なのかもしれない。


「そう、だな。確かに志保の言う通りかもしれない。もし志保が俺たちと同じ年代にいて、同じ学校に通っていて、同じクラスにいたとしたら、きっと俺たちはいい友達になっていたのかもしれないな」

「直哉くんもそう思う?」

「ああ」


 出来るだけ志保を安心させるように直哉は不器用な笑みを浮かべた。『セリシール』で営業時に見せるスマイルではなく、現在の河村直哉が見せる本心からの笑みだった。

 こんなに優しい志保を嫌いになれるはずがない。この世界では偶然にも「姉の友人」として出会ったかもしれないが、仮に時と場所が違っていても間違いなく直哉は志保を好きになっていた(・・・・・・・・)だろう。

 白状してしまえば、中学時代、河村直哉という少年が仄かに抱いていた恋心の相手こそ、正に今、直哉の隣を歩いている岬志保だった。紹介すると言って強引に部屋から連れ出された直哉は、志保と初めて会った瞬間には恋に落ちていた。


「でも、な」


 足を止めた直哉は、隣を歩く志保を真っ直ぐに見つめながら口を開く。


「俺は今の志保との距離感も好きだよ」

「……今の……距離感?」

「ああ」


 首を傾げる志保に向かって直哉は力強く頷く。


「姉の友人、アルバイト先の店長、もう一人の姉。それはどれも志保との関係には当てはまるけど、志保との関係はどれも一つじゃ言い表わせられない。全部合わさった関係。色んな関係が混ざってできた今の志保との距離感が俺は好きだよ」


 初恋は実らない。そんなこと、今時、中学生でも知っている。多くの初恋は実ることなく終わっていく。でもそれは恋心が潰えて消えてしまうという意味だけではない。時間の経過と共に誰かを想う恋心も変化していくことがある。そしてそれは直哉が志保に抱いていた仄かな想いも同じだった。

 中学生の頃の直哉は一人の「女性」として志保のことが好きだった。優しく穏やかで、常に微笑みを絶やさない志保のことが本当に好きだった。その事実を意識してから直哉はずっと志保のことを想ってきた。胸に抱いた想いを告げることこそ無かったものの、それでも志保のことを大切にしてきた。

 だが、高校生になった直哉は、今では「人間」としての志保が好きだった。男とか女なんてことは関係なく、あくまでも一人の個人として、直哉は志保のことが好きになった。優しさの内に臆病さを持っていて、微笑みながらも心の中ではどこか寂しさを悟らせないように精一杯頑張っている志保のことが「人間」として好きになった。


「……そっか」

「それが俺の正直な気持ちだ」

「うん。えへへ、なんだか恥ずかしいね」

「……言わせた本人が照れないでくれ」


 志保の顔に赤みが差すと、つられるようにして直哉も顔にも熱が集まっていた。両手で頬を押さえる志保に対して、直哉は大きな手をいっぱいに開いて志保から逸らした顔を覆った。


「直哉くん」

「ん?」


 顔を逸らしたまま、直哉が答える。


「私も直哉くんのこと、好きだよ」


 ずっと誰にも言わずに宝箱へひっそりと隠してきたとっておきの秘密を語るように志保は小さく囁いた。風に乗って消えていきそうなほどの儚い言葉は、しかし、確かに直哉の耳に届いていた。


「―――サンキュ」

「―――うん」


 直哉も志保も、お互いにバカなことをしているという実感はあった。こんな恥ずかしい話をしていることをクラスメイトたちに知られたら、きっと直哉はその日の内に首を吊って自殺するだろう。あまりの恥ずかしさに耐えて生きていく自信がない。今まで生きてきた人生の中で一番恥ずかしく、それでいて暖かい気持ちになれる時間が少しずつ過ぎていく。


「あ!わ、私!こっちだから!!」

「あ、ああ」


 無意識の間にも歩いていた二人は、いつの間にか十字路に立っていた。慌てた様子で志保は自分の家の方向に指を差す。志保の指先は赤く染まっていた。


「じゃ、じゃあね!また明日!!」

「ま、待った!家の前まで送ってくって!!」


 そのまま走り去ろうとする志保の腕を直哉が掴む。

 いつもはこの十字路ではなく、志保の家の前まで送って漸く理沙から課されたミッションはクリアとなる。そこまでちゃんと志保を送っていかないと、どういう原理なのか理沙にバレてしまい、鉄拳制裁の刑に処されてしまう。

 もちろん、年齢の割に隙の多い志保のことが心配だからという直哉自身が考えたことも理由としては多分にある。ちゃんと納得しているからこそ、直哉も毎回きちんと志保を家まで送っていっていた。


「きょ、今日はいいよ!?」

「そんなわけいくか!ただでさえ女の一人暮らしなんて危ないってのに、家の前まで送るくらい俺にさせろ!!」

「う、うぅ……、でも……」

「デモもストもない。俺が、志保を、心配だから、送らせてほしいんだ」


 身長差から、見下ろす形になっている志保の瞳が揺れていた。直哉を避けるように視線を左右へ泳がせ、不自然に宙を彷徨うと、恐々としながら視線を絡めてくる。


「……強引だね、直哉くん」

「相手が志保だからな」


 力を抜いた志保に合わせて掴んでいた手の力を抜く。


「……腕、赤くなっちゃった」

「風呂入って、布団入って、一晩寝てれば治るよ」


 直哉は腕を摩りながら呟く志保の手を取り、自分の指と絡めた。


「な、直哉くん……」

「頼むから、あんまり心配させるようなことはしないでくれ」

「……うん」


 直哉が歩き出すと、自然と志保も歩を進めることになる。冷たい風が二人の間を吹き抜ける中にあっても、繋がれた志保の手は暖かい。


「……」

「……」


 沈黙が場を支配する。お互いに語る言葉はなく、いつもより少しゆっくりと歩く直哉の隣を黙って俯きながら志保がついていく。駅から続く国道を脇道へ一本入り、二人は住宅街の間を抜けていく。時折、横を走っていく車のライトが手を繋いで歩く二人を照らしては先へと消えていく。既に時間は十時を越えていた。


「あ」


 志保の口から吐息が漏れた。

 視線の先には志保の住むマンションがあった。


「ここまでだな」

「うん」


 繋がれた手が離れていく。さっきまでは確かに感じられていたはずの人肌が失われると、なんとなく、少しだけ言い知れぬ寂しさを感じた。無意識の内に、志保の背中を目で追ってしまう。


「毎日ゴメンね。送ってくれてありがとう」

「いや。俺が心配なだけだから、志保は気にしなくていい」

「うん。でも私は直哉くんに感謝してるから。それとはい、学ランありがと。暖かかったよ」


 直哉へお礼を言うと、志保は手を振りながらマンションの中へと入っていく。マンションの玄関にあるオートロックへパスワードと部屋番号を打ち込むと、喫茶店とは異なる機械的な電子音が鳴った。


「それじゃあ、またね!」

「おう」


 振り返った志保が直哉に向かって大きく手を振る。丸山や圭吾たちの前とは異なる志保の無邪気な様子に、直哉は苦笑しながら手を振りかえした。嬉しそうに微笑みを深めた志保は、直哉からの反応に納得するとマンションの中へと入っていった。


「さて、と。じゃあ俺も帰るか」


 その場に一人残された直哉も、志保がマンションに入ったことを確認するとマンションに背中を向ける。

 もう六月だというのに、まだまだ夜も十時になると少しばかり寒い。直哉は志保から受け取った学ランを身に纏うと、ポケットの中に手を入れる。ついさっきまで志保が着ていたからか、まだ学ランは仄かに暖かい。

 志保の家から直哉の自宅までの距離は時間にして約五分。走っていけば数分で着く。今から帰ればみんなが就寝する前に家に帰れるだろう。鞄を肩に背負い直した直哉は、小走りで夜の暗い道を走って行った。

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