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第一章
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第二話

「…なん……だ………と……………」


 翌日。

 普段となに一つ変わらず電車に乗って通学してきた直哉は、教室へつくなり愕然とした状況に顔を歪めた。


「おい、河村!アレってマジかよ!?」

「お前も結構やるじゃん!」

「羨ましいぞ、コンチクショー!」


 クラスメイトでもある友人たちが一方的に騒ぎ立てる中、当人である直哉は頭を抱えた。

 どうしてこうなった。あと、むやみやたらと騒ぐな。小学生(ガキ)か、お前ら。

 地面の感触が無くなったかのような錯覚を覚えながらも、直哉は力が抜けそうになる膝に喝を入れてなんとか立ち上がる。

 あまりの状況に、ここが教室ということも忘れて泣きだしたい気分だが、フル回転した頭がそんな場合じゃないだろうと体を動かそうとする。

 とにもかくにも今は事態の収拾をつけなければならない。そのためにすべきことは既に決まっている。それは即ち、黒板に貼られている「アレ」を排除することだ。


「―――」


 周囲のクラスメイトたちから向けられる奇異の視線を一身に浴びながら直哉は教壇へと上る。

 馬鹿丁寧に黒板の中央へと貼り付けられた「ソレ」は、赤や青、果ては普段の授業では殆ど見ることのないオレンジ色のチョークによるレイアウトによって殊更にその存在を強調されていた。

 目の前で見ると、余計に頭を抱えたくなった。

 まさかこんなことになるとは思わなかった―――と言えば嘘になるだろうが、まさか本当にこういう事態になるとは流石に予想していなかった。


「―――はぁ」


 衆人環視の中、直哉は大きなため息をつきながら「ソレ」を黒板から外した。

 クラスメイトたちからの視線が背中に突き刺さって非常に痛い。ハッキリ言って、振り返るのがかなり怖い。背中に嫌な汗が流れていることが明確に感じられる。今ならベランダから飛び出して飛び降りることも吝かじゃなかった。


「―――」


 気分は蛇に睨まれた蛙だった。

 内心では終着点の見えない事態の推移に恐々と震えながらも、外見では心の動揺を一切クラスメイトたちに悟らせないように平静を装った。

 俺は気にしてない。だからお前たちも気にするな。そして忘れろ。そのまま記憶の彼方に置いてきてしまえ。

 現実から逃避したくなる気持ちを強引に押さえつけた直哉が振り返ると、なんの因果なのか「彼女」と視線が絡んだ。

 縁のない眼鏡の奥から見つめてくる知的な黒い瞳からは「彼女」が何を考えているのか分からない。それでも「彼女」が愉快な気分ではないことぐらいは想像できる。

 普段なら何処か不思議な雰囲気を纏っている「彼女」にあまり寄り付こうとしないクラスメイトたちも、今日に限っては珍しく渦中の「彼女」の机を囲んでいた。興味の赴くままに質問され続けたのだろうということは、さっき教室に着いたばかりの直哉にも察しがつく。


「―――」


 「ソレ」を持って教壇から降りた直哉は、視線を外すことなく「彼女」の机へと歩み寄った。

 ゆっくりと歩き始めた直哉の前では、今まで群れていたクラスメイトたちの壁が二つに分かれていく。

 当人同士の邂逅の邪魔をしようとするほどの愚か者は、この教室の中にはいないらしい。


「あー…、うん。なんだ、その、まぁ、アレだ」


 正直なところ、直哉も頭の中が酷く混乱していた。

 果たして何が言いたいのか。それとも何を言うべきなのか。混乱した頭では文章が上手く纏まらない。

 まだ状況が上手く整理できていない直哉の口から発せられた言葉は、当然ながらまともな文章を紡けなかった。


「えっと、うん。取り敢えず、すまん。迷惑を掛けたと思うし、おそらくこれからまた少しの間、迷惑を掛けると思う」


 頭を下げて謝罪する直哉を見て、周囲のクラスメイトたちからはどよめきが起こった。

 声の音量を最小まで落として交わされる会話は直哉の耳に届くことはないが、それでもあまりいい噂でないことは明白だった。

 静かに黙って頭を下げ続ける直哉に対して「彼女」の反応は非常に淡泊なものだった。

 何も語らない。口を開かない。視線を直哉に向けるだけで、それ以上は何も話そうとはしない。

 そんな「彼女」の様子を怪訝に思った直哉が視線を僅かに上げると、結果として二人はしっかりと見つめ合うこととなった。

 周囲から上がる黄色い声に反して直哉の背中からは冷たい汗が流れていた。

 美人の瞳は石化の魔眼であると主張する圭吾の馬鹿な意見に、今だけは激しく同意できる。視線を逸らしたくても逸らせない。まるでお互いが一本の糸で縫い付けられたかのように「彼女」の目を直視してしまう。

 世界に二人だけしかいないかのような感覚に苛まれそうになる。

 そろそろ本気で直哉が居たたまれなくなってきた時、不意に「彼女」が口を開いた。


「き―――」

「おっはよ~~~っ!!」


 だが「彼女」の口から言葉が紡がれる前に、教室の後方から馬鹿みたいに明るく、馬鹿みたいに陽気な、馬鹿みたいな馬鹿が現れた。


「あれ?みんな一体どうかした?何かあったの?」


 教室に一歩足を踏み入れただけで分かるほど明確なクラスメイトたちの普段とは異なる異様な雰囲気を察して馬鹿が首を傾げた。

 そして教室を一頻り見渡すと、クラスメイトたちが集まっている中心部―――即ち今、直哉のいる場所へと近寄ってきた。


「おはよー、直哉。ところで何かあったの?なんかみんな様子がおかしいんだけ、どおおおおお!?」


 気軽な様子で肩に置いた馬鹿の手を、直哉は黙って捻り上げた―――本気で。


「い、いた!?いたたたたっ!?いたいって、直哉!?」


 何が起きているのか分かっていない馬鹿が、馬鹿面を馬鹿みたいに晒している。

 

―――――説明はもはや不要だろう。


 要するに、すべての原因はこの馬鹿が犯した馬鹿で馬鹿な馬鹿馬鹿しい行為なのだ。


「なに!?なんなの!?俺が一体なんかした!?」


 無言で関節を極められた圭吾から苦情が飛んでくるが、今の直哉は聞く耳を持たない。

 直哉は黙って更にキツく関節を極めた。


「あだだだだだ!?折れる!?それ以上そっちに曲げたら確実に折れるから!?」


 タップ!タップ!と机を叩く圭吾に直哉は一切の感情が感じられない冷たい声で呟く。


「―――圭吾」

「だからなに!?もうマジで意味わかんないだけど!?」


 もはや涙目の圭吾は、直哉の顔を見上げて凍りついた。


「あ、あれ?直哉さん?」

「―――なんだ」

「いや、俺の勘違いのような気がしてならないんですが」

「―――ん?」

「ひょっとして、怒ってます?」


 見上げてくる圭吾に、直哉は満面の笑みを浮かべて答える。


「いや、別に」

「ヒイッ!?な、直哉がそんな顔で笑うとか、怖っ!?」

「―――」


 圭吾の言葉に、周囲を取り巻くクラスメイトたちが一斉に視線を直哉から逸らした。

 あまりにも一瞬でハッキリと感情を喪失した直哉の顔を直視できるほど精神力の強靭な者は、この教室には誰もいなかった。


「―――」

「あだだだだだっ!?」


 馬鹿の関節を極めている手の逆側では、握りしめた拳に余計な力が更に加わっていく。

 勝手に怯える馬鹿を前に、直哉の拳はそろそろ限界だった。


「―――圭吾」

「は、はいいいいい!?」


 もはや完全に死刑執行を待つ死刑囚のように涙を流す圭吾。

 だが、馬鹿に慈悲を与える必要は一切ない。

 直哉は握った拳を思い切り振りかぶる。

 そして―――――


「一遍、死んでこいやあああああ!!!」

「ごはああああああ!?」


 捩じり込むようにして放たれた拳は、しっかりと腰の乗った凄まじい一撃だった。

 空手部の部員ですら思わず息を呑むほどの勢いと破壊力を持った拳は見事に圭吾の顔へと吸い込まれた。

 漫画のように吹っ飛んだ圭吾は、机を巻き込みながら教室の一番後ろにあるロッカーの前へと転がった。

 ピクリとも動かない圭吾に近寄ろうとするものは誰もいない。

 今、教室の中にいる者の誰もが衝撃的な出来事に対して戦慄に背筋を凍らせていた。

 そして直哉が拳を振り下ろした拍子に舞い上がった「ソレ」は、圭吾の死と同時に地に落ちた。

 偶然にも開かれたページに載っていたのは直哉と櫻井の『濡れ場』の描写。

 昨日、圭吾が直哉に自慢していた本に記載されていたワンシーンだった。







「バッッッッッカじゃないの!!!???」

「ぐっさあああああ!?」


 休み時間に今朝起きた事の顛末を知った丸山は、あまりの怒りで顔を真っ赤に染めながら叫んだ。


「なにやってくれてんのよっ、このバカ!アホ!間抜け!変っっっっっ態!!」

「ホント、サーセンっしたああああああ!!」


 教室の中であることなど関係ないとばかりに平伏して額を地面に擦り付ける圭吾の姿は凄まじいまでに様になっていた。

 激怒している丸山と土下座している圭吾を横目に見ていた直哉からは、痛ましいまでに赤く腫れ上がった圭吾の頬がよく見えた。

 現在の圭吾の顔は両頬が腫れて凄いことになっている。片方は既に言わずもがな、朝、直哉の拳によってつけられたものだ。それに対してその逆につけられた腫れは、ついさっき丸山がつけたものだった。

 話を聞いた瞬間にまず本気の拳が振り抜かれる辺り、丸山の怒りの度合いがよく知れる。


「昨日さ、私、ちゃんと持って帰りなさいって言ったわよね!?」

「は、はい!言っていました!」

「何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し言ったわよね!?」

「サー!仰られる通りであります!」

「帰る前にもちゃんと持ったか聞いたわよね!?」

「相違ございません!」

「その時アンタ、自分がなんて言ったか覚えてる!?私に『大丈夫!大丈夫!ちゃんと持ったよ!』って言ったのよ!?」

「確かに自分はそう言いました!」

「それならなんでアンタは学校に忘れてんのよ!?」

「分かりません!!」



―――――ドゴンッ!


 蹴り上げるのではなく打ち下ろす。それも殆ど踏み抜くと表現出来るほどの威力をもって圭吾の顔が床にめり込んだ。

 圭吾がリアクションを取る間さえ与えずに打ち下ろされた丸山の足の振りの鋭さには、友人を自負する直哉も少しばかり頬を引き攣らせた。

 あの鋭さと威力で格闘技経験がないなんて本当に信じられない。むしろ幼い頃から武術に親しんでいた水野よりも尚、恐ろしい。


「ホンッッッッットに信じらんない!!」

「ズ、ズビバゼンデジダ……」

「ふん!」


 顔を床にめり込ませながら謝罪する圭吾を無視した丸山は、次の獲物とばかりに視線を直哉へ向けた。


「それでアンタはどうすんのよ?」

「どう、ってのは?」

「だから!これからどうやって場を治めるかってことよ!」

「ああ、なるほど」


 組んだ腕の上で指を叩く丸山は、かなり頭に血が上っているらしい。

 ここまで本気になって考えてくれる友人はなかなかに得難い存在だろう。楽観的に考えていた本人よりも必死な様子には、もはやある種の感動すら覚えそうだ。

 だからこそ直哉は、嘘偽りなくハッキリと自分の考えを述べる。


「とりあえず圭吾に謝罪させないとな。原因を作ったのはコイツだし」

「…そうね。妥当な線だわ」

「あと、噂ってのは伝播するスピードが並みじゃない。実際、もう「こんな感じ」だしな」


 そう言って直哉は肩をすくませ周囲を示す。

 普段から圭吾の引き起こす馬鹿みたいな騒動や、それに対する丸山の過激な制裁に慣れている強者揃いのクラスとはいえ、流石に今回の件はやり過ぎた感が否めない。

 直哉たちの所属するクラスはもはや動物園の体を成していた。入り口や窓には他クラスの生徒たちが張り付き、直哉と櫻井の様子を窺っているだけではなく、クラスの中は中で、特に女子たちが数ヶ所に固まって二人を見ながら何かを話していた。

 静かに読書をしている櫻井は既に普段と変わらないスタイルだが、周囲の人間にとっては退屈な日常に加わった小さな刺激。この事態を早期に治めるのが非常に難しいということは簡単に想像できる。


「ま、噂ってのは伝播するスピードは早いが、それ以上に何も起きないと分かれば飽きるのも早い。のんびりと気長に待つしかないだろうな」

「…そういう奴よね、アンタは」

「ん?」

「なんでもないわよ」


 大きなため息をつく丸山は、椅子に深く腰掛け額を押さえた。


「…取り敢えず学校がこんなんじゃ、休める気にもならないわよ」

「そもそも学校は休むための場所じゃないと思うが、まあ、こうなった以上は仕方ないだろ」

「…そうね」


 無駄に疲労の溜まった丸山は、答えると同時に直哉へ背を向けた。

 そして何度か肩に手を当て腕を回すと振り返ることなく直哉に告げる。


「…なんか一気に疲れたわ。河村、肩、揉んで」

「はいはい、面倒掛けて悪かったよ」


 言われるがままに手を置いた丸山の肩は女性だけあって柔らかい。こんな華奢な体の何処から圭吾を一撃でノックアウトさせるほどの破壊力が出てくるのだろうかと不思議でならない。

 直哉は丸山の肩や首の辺りを揉みほぐしながら首を傾げる。


「へぇ、なかなか上手いじゃない」

「お褒めの言葉をどうも」

「あら、皮肉じゃないわよ」

「そりゃありがとよ」


 徐々に機嫌が直っていく丸山を後ろから眺めると、色素の薄い茶髪がちょうど耳を隠すぐらいで切り揃えられているため、髪の隙間からは健康的な白い項がのぞいていた。

 なんとなく妙な申し訳なさを感じた直哉は一人、誰に知られるわけでもないのに丸山の項から視線を逸らした。

 結局、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、直哉は丸山の肩を揉むことになるのであった。







 時が巡り放課後になると、ほとんど直哉の予想通りに噂はほぼ全校生徒に届き渡っていた。


「…流石にここまで来ると俺も引くなぁ」

「事の元凶が何言ってやがる」

「ま、それもそうなんだけどね」


 机に肘をつけながら直哉と圭吾は二人揃って廊下の様子を窺っていた。

 既に廊下は人だらけで森のようになっている。昼休みまでは一応、隠れるようにして直哉たちを見ていた他のクラスや学年の生徒たちも、今となっては堂々と姿を現していた。

 こんな時に限って日直であった直哉がさっさと日誌を書き終えよう努力した甲斐もむなしく、仕事を終える頃には既に教室の外には人だかりができていた。このクラスの友人たちですら浮足立つのだからある意味仕方のない事ではあるが、しかし、それでもあまり気持ちのいいものではない。

 だが愚痴を言ったからといって事態が改善されることもないので、廊下の様子を見た直哉はこれまた早々に帰宅を諦め、再び自分の座席へと腰を下ろしたのだった。


「他人事だと思って気楽な奴だな、ったく」

「実際、他人事だしねー」


 廊下から教室の中を見つめる野次馬たちに圭吾が笑顔で手を振ると、野次馬たちからは黄色い悲鳴があがった。

 吉田圭吾は容姿に優れた男だった。

 身長こそそれほど高くはないが、基本的に行動が馬鹿であるところに目を瞑れば十分にイケメンで通用する容姿をしていた。それこそ東京などの都会に出れば間違いなくスカウトに囲まれるほどのものだ。

 恐らく野次馬の中には、今朝の騒動への興味本位で集まった集団の他に、圭吾の姿を見に来た女子たちもいるのだろう。

 女子たちの反応を一頻り眺めて満足したのか、圭吾は再び直哉と顔を見合わせた。


「綾音ちゃんは?」

「委員会」

「……放送あったっけ?」

「終礼の前にな」


 窓の向こう側に見える校庭では、サッカー部の部員たちが元気にボールを蹴っていた。

 中学校の頃には運動部に所属していた直哉も、諸事情によって高校では放課後に時間の融通が利く帰宅部に所属していた。中学時代ならいざ知らず、帰宅部で鈍りに鈍った体におそらくあの運動量は耐えられないだろう。

 体育の持久走の時にも思ったが、無尽蔵とも思える運動部の体力には本当に尊敬の念すら抱く。


「俺らも何処か部活入ってみる?」

「無理。俺、バイトあるし」

「あ、そっか。喫茶店だっけ?」

「ああ。理沙の紹介―――というよりは、押し付けられたに近いんだけどな」


 ぼやく直哉だが、実際には現在のアルバイト先に対する不満は一切ない。

 ただ問題なのは、そのアルバイト先で働くということが決まる経緯にこそあった。

 高校入学を前に決まった直哉のアルバイト先は、実姉である理沙の知人が新規に開店する喫茶店だった。そして、新たに喫茶店をオープンするためにアルバイトを募集するとその知人から聞いた理沙が、どれだけ扱き使っても文句ひとつ言わない―――実際は「言わせない」に近い―――労働力として「勝手に」提供したのが直哉だった。

 当初、いきなりその話を聞かされた直哉は当然のことながら理沙に対して散々苦情を言ったが、出店する知人というのが直哉自身も良く知る人物だったため、最終的には直哉が仕方がないと納得する形でアルバイトを引き受けたのだった。


「俺としては、直哉に接客業が出来てるっていうのが凄い不思議な感じなんだけど」

「お前は俺をなんだと思ってんだよ」

「え?そりゃ何を置いてもまずは無愛想でしょ。正直な話、直哉ってあんまり笑ったりしないから、結構周囲からは怖がられてると思うよ。特に女子ね」

「…放っとけ」


 自分でもよく自覚していることをズバリと言い当てられた直哉に、言い返す言葉は持ち合わせてはいない。

 分の悪い話はここまでとばかりに直哉は圭吾から視線を外して席を立つ。

 放課後に入ってもう一時間は経過していた。

 少し前までは廊下を埋める勢いであった人の群れも、今ではその殆どが部活動に駆り出されているため疎らになっている。

 無事に帰りたいなら、部活動組が廊下にいない今しかない。


「直哉、今日は?」

「バイト」

「じゃあ俺も一緒に行こうかな。久し振りに志保さんのコーヒーも飲みたいし」

「好きにしろ。どうせ客が増えたら追い出すだけだしな」

「ちょっ!?俺も一応客なんだけど!?」

「知らねーよ」


 圭吾の正論を理不尽という名の暴力で捩じ伏せる。


「…ウェイターのセリフじゃないでしょ、それ」

「一杯のコーヒーで長々と二、三時間もいる方が悪いんだよ」

「志保さんの許可は貰ってるから!」

「志保の許可があっても俺が許可するわけねーだろうが」

「直哉の権限が強すぎる!?」


 グダグダと馬鹿みたいな話をしながら直哉と圭吾は教室から出た。

 もう興味半分で直哉を待っていた生徒たちは誰も廊下にはいない。

 誰に阻まれることもなく、二人は下足箱まで歩いていく。


「バイトって何時から?」

「四時半からなんだが、三十分くらい遅れるってのは連絡済みだ」

「確かにあの騒ぎじゃ時間通りなんて無理か」

「早々に諦めて昼休みに連絡した」


 どうせこうなることは頭の中で半分くらい予想していた。

 一応、HRが終わった後にすぐ帰宅しようと心掛けたものの、結果はご覧の通り。日直だったことを忘れていたというミスはあったが、どちらにしろ案の定になってしまった展開にはため息もでない。


「五時からならまだ時間に余裕ある感じ?」

「余裕なんてねーよ。俺の勝手で遅刻の電話いれたんだし、今から走ればギリで間に合いそうだから、直接志保んとこまで行くつもりだからな」

「分かった、了解。俺もついてくよ」

「ん、そうか」


 靴を履き替え、二人は校門に向かう。


「いいねぇ、みんな青春を謳歌してるって感じで」


 校庭の横、下足箱から校門へと続く通称『希望の道』を歩きながら圭吾が呟く。


「お前も運動神経はいいんだから入ればいいだろ」

「俺も入学当初は何処かに入部しようと思ってたんだけどねぇ」

「なにか入らない理由でもあったのか?」

「俺、あんまり勝ち負けって興味ないんだよね。勝っても負けても楽しければそれでオッケー!みたいな?」

「なるほどな。それじゃあ高校の部活には合わないわけだな」

「仮入部の段階で俺も悟ったよ」


 校門を過ぎた二人の前には一本の坂道が伸びている。

 町が一望できる、とまで言うと流石に言い過ぎだが、それでも直哉たちの通う高校は位置的には高い場所にある。丘の上に立つ母校から見える町並みは、夕暮れ時になれば非常に美しい。

 そして校門を潜った先から続く一本の道は、春になると桜が舞い散る並木道になる。

 桜の花びらが舞う夕暮れ時に学校から見える町並みは、もはや観光名所とすら言ってもいい。


「この道を男二人で歩くのってなんだか寂しいよね」

「丸山を待ってる時間はないけどな」

「優花も今日はバスケ部で忙しいみたいだしね」

「水野は一年生で唯一のレギュラーだからな。期待も大きいんだろ」


 今までずっと格闘技を専門にしてきた水野にとってバスケットは明らかに専門外だが、人間の体における適切な動かし方についてならば水野は誰よりも熟知している。

 おそらく最初は不慣れなことばかりで苦戦するだろうが、続けている間に次第と技術がついてこれば彼女に敵う者はいないというのが直哉の予想だった。

 ただ、そんな直哉の予想に反して水野の成長速度は異常なまでに速かった。

 入部してから三か月。たったそれだけの時間を仲間たちと共にバスケットの中で過ごしただけで、もはや女子バスケ部どころかバスケ部全体でも彼女を止められる人間は殆ど誰もいなくなっていた。


「普通なら妬まれたりしそうだけどな」

「そうならないのが優花ちゃんの人徳ってやつなんだよ」

「そんなもんかねぇ」

「そんなもんだよ」


 なんとなく納得したような直哉の微妙な返事に圭吾は苦笑する。


「じゃあ代わりに瑞穂でも呼ぼうか?」

「…小学生の実妹と歩いて満足するなら好きにしろ」


 ただし俺は放っていくけどな、と直哉が冷たく言い放つ。


「大体、携帯の待ち受けが妹とのツーショットってところにシスコンの気を強く感じざるを得ない」

「敢えて否定しないけどね!確かに俺は家族のことを愛してるからさ!」

「あー…はいはい」

「俺の家族は世界一!!」


 わざわざ携帯をポケットから取り出して空に掲げる圭吾を、帰宅中ある生徒は友人たちと失笑を浮かべ、またある生徒は完全に距離を空けて歩いていた。

 しかしそんな周囲の反応にも圭吾がめげることは決してなかった。


「自分が大切なものを『愛してる』と言えないなんて、今の日本社会は間違ってる!!」


 強く拳を握りしめて圭吾が叫ぶ。

 誰もが圭吾を痛々しい目で見ている中、直哉は圭吾の首を思い切り掴んだ。


「そこまで言えるお前は凄いと思うし、ハッキリ言って尊敬もしてる」


 そのまま圭吾を引き摺って坂道を下っていく。

 誰も関わり合いになりたくないらしく、直哉の前を塞ぐ者は誰もいない。


「ただ、お前はもう少し時と場所を考えて喋れ」


 登校する時にはキツい坂道も、帰宅する時には楽な道となる。

 既に坂道も半ばまでは来た。駅前の広場までは残り僅かといったところだろう。

 そして目的地である志保の店は駅前広場から更に五分ほど歩かなければならない。

 坂道の間はまだいいが、駅前でまで男を引き摺っていては目立って仕方がない。

 周囲を疎らに歩く生徒たちをどんどん抜かしていった直哉は、坂道を下り終えたところで圭吾の首から手を放した。


「こっから先は自分で歩け」

「いたたたた…。相変わらず直哉の俺に対する扱いはヒドイと思うよ」

「お前が馬鹿なことをしなけりゃ俺だって何もしねーよ」

「それじゃあ仕方ないね!」

「…そこは改善の姿勢を見せろよ」


 元気よく肯定する圭吾を前に、直哉はただ深くため息をつくしかなかった。

 腕時計を見れば、既に時刻は午後四時二十分を回っていた。

 空では真上にあった太陽が傾き始め、そろそろ夕暮れが近いことを告げていた。

 一日も終わりに向かい始めたと実感出来る頃、直哉のアルバイトは始まる。






 そこは古い街並みの残る路地だった。

 疎らに敷かれたタイルと築数十年は経ているだろう木造建築が並ぶその路地は、ご立派に整備された国道沿線とは異なりどことなく欧州の街並みを彷彿させる。

 騒がしい外界とはどこか一線を画す静謐とした雰囲気は、まるで世界からその路地だけが切り離されたかのような印象を抱かせる。

 軒を連ねる木造建築は、その一軒一軒がすべて各分野の専門店によって占められている。

 例えば書店や絵画展、骨董品店、西洋人形店など、挙げればキリがないほどの専門店がこの路地には揃っている。

 そして、多くの専門店が並ぶ木造建築の中の一つに『セリシール』という喫茶店があった。

 木造の扉を開くと、頭上からは来客を告げる鐘が美しい音色を響かせる。

 外装のレトロな雰囲気を決して失うことのない内装は非常に落ち着いていて、入店すると思わず肩の力が抜けていく。

 そんなに広いわけではない店内を一望すると、まず最初にカウンターの中にいる一人の女性が視界へと入ってくる。


「いらっしゃい。連絡のわりに早かったね、直哉くん」


 店の扉を開いた直哉の前には、カウンターの中でグラスを磨く志保がいた。

 女性としては平均よりも少しばかり低い身長だが、その差を補ってあまりある姿勢の良さが彼女の生真面目さを表わしている。

 飾り気のないタイトな黒色のズボンに、買ったばかりの新品みたいにパリッとした白いワイシャツ。そしてその上に同じく黒色のシンプルなエプロンを身に付けた志保は、簡素な服装であるにも拘らず非常に魅力的だと来店する客たちからは評判だった。


「思ったよりも早く終わったんだよ」

「そうなんだ。毎日お疲れ様」


 柔和な微笑みを浮かべながら志保は磨いていたグラスを脇に置いた。


「早速で悪いんだけど、今ちょっと忙しくて……。時間まではもう少しあるんだけど、手伝ってもらってもいいかな?」


 志保の言葉を聞いた直哉が店内を見渡すと、確かに普段の『セリシール』よりは客が多いようだった。


「当たり前だろ。すぐ奥で着替えてくる」

「うん。お願いね」


 適当にカウンターへと座っておくように圭吾へ伝えた直哉は、カウンターの方へと回って急いで店の奥に向かった。

 驚くべきことに、この店には男女別の着替え用スペースなど存在しない。

 基本的に従業員が制服に着替える場合は、店の奥にある事務室で行うことになっている。

 着替えを行う者は、まず扉に「着替え中」という志保が自作した可愛らしい札を必ず掛ける。そして着替えを終えると再び「着替え中」という札を扉から外し、指定された場所に置いておく決まりになっていた。

 結構急いで着替えた甲斐もあり、店の奥に向かってから表に帰ってくるまでの時間はたったの三分ほどだった。

 表に戻ってきた直哉を確認すると、志保は柔らかく笑って出迎えた。


「やっぱり男の子は着替えるのが早いね」

「そんなに手間が掛かることじゃないからな」

「女の子はそうもいかないんだけどね」


 苦笑しつつ、志保は新たに淹れたばかりのカフェオレと卵サンドをお盆に乗せて直哉へと手渡した。


「じゃあ早速で悪いけど、カフェオレと卵サンドのセットを二番席のお客様にお願いします」

「了解」


 頷いた直哉はカフェオレと卵サンドの乗ったお盆を持って接客に向かう。

 『セリシール』の店内は珈琲の香ばしい匂いに満ちている。

 レトロな雰囲気を壊さないようにと配慮された空間の中で、ゆったりとした洋楽が耳を楽しませる。

 カウンターの中では、腰のあたりまで伸ばした長い髪を一つに纏めた志保がサンドウィッチ用の食パンを切っていた。

 スレンダーな体格と十分に美女として通用する容姿、そしてなによりも、雪のように綺麗で繊細な白い髪が志保ちう女性を特徴づけていた。


「どうかした?」


 柔らかく微笑みながら志保が首を傾げる。


「―――――」


 直哉は黙ったまま志保の頬へと手を伸ばす。

 透き通るように白い志保の頬に直哉の指が触れる。

 自分のものではない体温が指先から僅かに伝わってくる。

 志保の頬についた白い粉を指で拭き取ると、直哉はそれを口に含んだ。


「…パン粉か」

「さっき新作のパンを焼いた時についたのかも」

「気をつけろよ」

「うん。ありがと、直哉くん」

「ああ」


 頷き、直哉は新しいカップへとコーヒーを注ぐ。

 するとカウンターに座っていた圭吾がにやにやと笑っているのが視界に入った。


「…なんだよ」

「ん~。なんか志保さんと直哉っていい感じだなぁ~、と思ってね」

「…なに言ってんだよ、この馬鹿」


 勘違いも甚だしい。圭吾が想像しているような艶っぽい関係になることなどありえない。

 直哉が志保と出会ったのは僅か三年前のことだった。

 滅多に家に友人なんて呼ばなかった理沙が、珍しく自宅に呼んだ友人というのが志保だった。

 初めて会った時のことを思い出すと直哉の頭は今でも少々痛くなる。自慢の友人を紹介すると言って、異常なまでに高いテンションで理沙の部屋まで連行されたのは直哉の記憶の中に鮮明に残っている。

 色々と問題のある出会いだったことは間違いない。

 しかし初対面以来、理沙を間に挟んだ直哉と志保の関係はとても良好といってよかった。

 ただし二人の関係はあくまでも「姉の友人」と「友人の弟」としての関係に過ぎない。圭吾が邪推するような関係になったことは知り合ってから今まで一度もなかった。


「俺となんて、志保に申し訳ないだろ」

「そう?直哉くんとお似合いなら、私は嬉しいけどな」

「ほらほら!志保さんもこう言ってるんだし、今からでもアタックしてみなよ!」

「喧しい。圭吾、お前、あれだけ丸山から折檻喰らっといてもう今日の馬鹿騒ぎを忘れたのか?」


 直哉が訝しみながら問う。


「まさか!しっかりと覚えてるよ!っていうか、忘れたくても暫くは痛みで忘れられないって……」


 遠い目をしながら頬を擦って圭吾が応える。


「分かってるなら、お前は暫くその手の話題は禁止な」

「ええっ!?」

「当たり前だろ。熱が冷えるまでは自主規制だ」

「そんなぁ~!?それはそれ、これはこれ、でしょ!?」

「馬鹿野郎」

「あいたっ!?」


 身を乗り出してくる鬱陶しい馬鹿の額に軽くチョップを落とす。


「あと、志保も悪ノリしなくていいからな。この馬鹿が勘違いして更にとんでもない暴走するだろ」

「勘違いじゃなくて、本当に私は凄く嬉しいけど?」

「だからそういう冗談を言うと、この馬鹿は本気で真に受けるから止めてくれ」

「私は真に受けてくれても構わないんだけどな」

「それはもういいから。志保が優しいのは知ってるけど、コイツに関してはもっと冷たくていい」


 志保に向かって一方的に告げた直哉は、淹れ終えたカフェオレを持ってカウンターから出る。

 圭吾と一緒にいる時の志保は本当に志保らしくない。普段の真面目で純粋なとてもあんな冗談を言う様なタイプではなかったはず。


「…妙な化学変化でも起こるのか?」


 小さく呟きながら首を傾げた直哉の疑問に答える者はいない。

 お盆に乗せたカフェオレを客に出した後、直哉は再びカウンターに戻って自分の仕事を続けた。

 志保が営む喫茶店の開店時間は午前七時。朝から志保の作るサンドウィッチで腹を満たしつつ、その実、柔和な志保の微笑みに癒されてから出社しようと考えて来店する客は多い。土日に限っては直哉も出勤するが、平日の午前中やお昼は主に志保一人で『セリシール』を回すことになる。

 そして閉店時間の方は志保の気分によって変わるため明確に定まってはいない。長い時には午後九時ぐらいまで営業している時もあるが、短い時には午後六時ぐらいで営業を終えてしまう時もあった。

 従業員は志保を含めて全員で五人。直哉の一つ下の少女が一人に大学生の男女がそれぞれ一人ずつ働いている。

 最初は役に立たず皿洗いばかり担当していた直哉も、週に多い時で六日、少ない時でも四日は入るようにしていると自然に体が仕事を覚えていく。今では接客から調理、レジ、閉店作業までなんでも出来るようになった。

 学校で学ぶ勉強は好きではない直哉も、好奇心と意欲を持って自主的に働いている喫茶店の仕事に関しては物覚えがよかった。


「お皿洗いは私がするから、直哉くんは野菜サンド二つお願いね」

「ああ、分かった」


 志保の指示の下で野菜サンドの調理を行っていた直哉の耳に新たな来客を告げる鐘の音が届く。

 挨拶のために調理の手を止めて顔を上げるが、しかし、直哉の視線の先には誰もいない。


「ん?」


 不思議に思いながら直哉は店内を左右に見渡す。

 一時間ほど前よりも店内にいる客の数は減ったものの、今まさに入店したばかりだという客は見当たらない。

 聞き違いかと思った直哉が再び野菜サンドの調理のために視線を下へと落とすと、カウンター越しにぴょこんと一房の髪が飛び出していた。


「―――――」


 なんとなく、誰が入店したのかを直哉は悟った。

 視線を横へ向けると案の定、カフェオレを飲んでいる圭吾が笑いを押し隠していた。

 直哉はカウンター越しに上から覗き込む。


「いらっしゃい、瑞穂ちゃん」

「こんにちはー!お兄ちゃんによばれてきちゃいました!」


 新たな来客は圭吾の妹である吉田瑞穂だった。

 まだ小学五年生と幼い彼女は、小さな体を大きく伸ばして手を上げる。

 栗色の髪を肩口で短めのおさげに纏めた少女の自己主張に、カウンター席に座っていた圭吾が隣の席を下げた。


「思ったより早かったな」

「お兄ちゃんがでんわくれたとき、わたしもお店のちかくにいたからね!」


 背中に背負った赤いランドセルを瑞穂は更に隣の座席に置きながら席に座る。

 足の長さというよりは、体の大きさ自体が足りないせいで、瑞穂の足が地につくことはない。宙に浮いたままの足を瑞穂はフラフラと揺らす。


「オレンジジュースでいいのか?」

「はい!おねがいします!」

「了解」


 頷いた直哉は、冷蔵庫からいくつかのフルーツを手に取ってミキサーの中に入れる。

 ちなみに完全な余談になるが、喫茶店『セリシール』にも何種類かのジュースは常に用意されている。種類はオレンジやリンゴという定番の王道ジュースなどいくつかあるのだが、しかし、この店で最も人気のある飲み物は二種類あった。それはすなわち『カフェオレ』と『ミックスジュース』。殆どの客がいずれかの飲み物を注文するにも拘らず、瑞穂は敢えていつも100%のオレンジジュースを注文し続けていた。


「もうすぐ晩飯だしあんまり腹に溜まる物は食わせてやれないが、これくらいなら今からでも大丈夫だろ」


 オレンジジュースに添えて直哉が出したのはクッキーを盛った皿だった。


「志保が作ったやつだから美味いはずだ」

「なおやさんがつくったんじゃないの?」

「悪いな。俺も一時間前に来たばかりなんだよ」


 直哉はそっと優しく瑞穂の頭を撫でる。


「次に来た時にはなにか作ってやるよ」

「うん!きたいしてる!」


 元気のいい返事をする瑞穂は、早速、皿からクッキーを一枚手に取って口の中に入れた。


「おいしーっ!!このクッキーおいしいよ!しほさん!!」

「ありがとう、瑞穂ちゃん」


 嬉々としてクッキーを食べ始めた瑞穂を眺めていると、思わず頬が緩んでくる。

 普段、直哉は志保からもらったレシピ通りに商品を作るので、正真正銘「直哉が考えたクッキー」なんて物は決して客の目に入ることはない。

 しかし以前、志保からものは試しにと勧められて作った際に偶然にも来店した吉田兄妹に発見され、気が付いた時にはいつの間にかクッキーは瑞穂の口の中にあった。あむあむ、という可愛らしい咀嚼音にみんなが魅了されている間に、クッキーはすべて瑞穂によって食べられてしまっていた。

 以来、何故か「直哉の考えたクッキー」を気に入ったらしい瑞穂は、『セリシール』に来店する度に直哉へクッキーをせがむようになっていた。


「直哉も瑞穂には弱いねぇ」

「そうか?」

「直哉くんは昔から世話焼きだったからね」

「ですよね!」


 心強い仲間を得たとばかりに圭吾が活気づく。

 カウンターに身を乗り出す圭吾の鬱陶しさに、直哉は頭を叩いてため息をついた。

 ただし、ため息をついた対象は圭吾ではなく、レジを終えたばかりの志保に対してだった。


「頼むから止めてくれ」

「直哉くん、照れてる?」

「照れてない。照れてないが、こそば痒い」

「馬鹿だなぁ、直哉。そういうのを一般的には照れてるって言うんじゃないか」


 圭吾が笑いながら瑞穂へ出したクッキーへと手を伸ばす。


「知らん」


 その手を直哉が叩く。


「もう、直哉ったら照れちゃってさぁ」


 再度、圭吾の手がクッキーに伸びる。


「うるさい、黙れ」


 しかし、圭吾の手は同じく再び伸びてきた直哉の手によって叩かれた。


「素直じゃないねぇ」

「でも、そこが直哉くんのいいところだよね」

「…志保まで」


 頭痛のする額を押さえる直哉の下へ志保が淹れたてのコーヒーを注ぐ。


「お店の方もやっと落ち着いたことだし、少しだけ休憩のしようかな」

「…サンキュ」


 大きく息を吐いた直哉は、コーヒが注がれたカップへ一口だけ口をつける。

 深く苦みのある大人の味覚が口の中に広がる。

 不思議なもので、志保の淹れたコーヒーを飲むと今この瞬間まで確かにあったはずの頭痛が静かに引いていくような気がした。

 眉間に寄った皺が徐々にほだされていく。


「―――――」


 夕方の忙しい時間が終わった後のゆったりとした時が過ぎていく。

 圭吾と瑞穂以外に客がいなくなった『セリシール』の店内は閑散としているものの、知り合いしかいない空間には自由な雰囲気に包まれていた。

 志保は最後の客が使っていた皿とコーヒーカップを洗い、直哉は店の奥で在庫の整理を行い、瑞穂は直哉に借りた携帯に搭載されているゲームで遊び、圭吾はそんな妹を嬉しそうに眺めている。

 静かな店内では志保の趣味で流している洋楽と、ゲームの操作に一喜一憂する瑞穂の声だけが響く。

 直哉の携帯に着信があったのは、そんな穏やかな時間が流れる時のことだった。


「なおやさん!けいたいなってるよ!」

「ん?」


 在庫の整理を終えた直哉がカウンターに戻ってくると、携帯を持った瑞穂が立ち上がって呼んでいた。


「『丸山綾音』さんからだって!」

「丸山?」

「うん!」

「分かった。悪いな、サンキュ」


 想定外の相手からの電話に直哉は僅かに眉をひそめるが、すぐに瑞穂から携帯を受け取り、その場で通話ボタンを押す。

 相手が丸山なら特に周囲に気を遣うこともない。圭吾は言わずもがな、瑞穂も志保も丸山のことは知っている。直哉と圭吾と丸山の三人が放課後によくつるむ場所というのが、この志保が経営する喫茶店『セリシール』だった。


「もしもし」


 電話口に向かって直哉が話し始めると、向こう側からは焦ったように速い口調が返ってきた。


『あ、あああ、アンタ今、暇!?』

「~~~っ!?」


 電話で話す声の大きさとは到底思えないほどの大音量が直哉の耳に響く。

 直哉は反射的に電話を耳から離した。

 とてもじゃないが耐えられない。このままでは鼓膜が破れるまでにそう時間はかからないだろう。

 設定をスピーカーに切り替えた直哉は、カウンターと内側を仕切る衝立の上に携帯を置いた。


「取り敢えず落ち着け。鼓膜が破れるかと思ったわ」


 直哉は目の前のカウンターに座る圭吾と瑞穂に静かにするよう口に人差し指を当てて示す。

 二人は了承の意を頷くことで返した。


『私は十分落ち着いてるわよ!』

「…まぁいい。それで?そんなに焦ってどうしたんだ?」


 カウンターの中にある椅子へ直哉は腰を下ろす。

 それにしても、丸山がここまで焦るなんて珍しい。

 学校では圭吾と一緒にいるためによく怒鳴るというイメージが付きやすい丸山だが、本来の彼女は非常に冷静でクールな少女だ。特に図書館でテスト勉強している時なんて、平然と数時間は無言でノートに向かえる姿勢が整っている。

 電話越しとはいえ、そんな彼女がこれほど焦るというのもあまり見られるものではない。


『アンタ今、暇よね!?』

「…その、人を最初から暇人みたいに扱う前提が非常に気に入らないが、生憎と今は暇じゃない。絶賛勤労奉仕中だ」

『なんでこんな時に限ってアンタは暇じゃないのよ!?』

「…無茶言うなよ」


 あんまりな丸山の発言に直哉は頭を掻く。

 そもそも、特にこれといった委員会や生徒会、そして部活動にも所属していない帰宅部であるにも拘らず、普段から直哉に暇な時間なんて殆どない。

 夕方まで授業のある高校生がアルバイトを週に四日から六日も入れば遊べるような時間なんてものはまず存在しない。

 丸山が想像している以上に直哉の日常は意外と忙しかった。


「一応話を聞くぐらいなら耳を貸すが、仮に暇だったら何を頼むつもりだったんだ?」

『傘よ!か・さ!』

「傘?」

『ええ。今、丁度私も委員会が終わったところなんだけど、外見たら結構雨が降ってきちゃってて』


 丸山と通話しながら外を見ると、偶然にも目の前を通り掛かった二人組は傘をさしていた。

 さっきまで晴れていた空はすっかり黒く曇り、静かな音を伴って雨が空から降っている。

 耳を澄ませば、電話の向こう側からも雨音が聞こえてきた。


「折り畳み傘は持ってないのか?」

『持ってたらアンタに電話なんかしないわよ』

「じゃあ職員室で傘を借りるとかはどうだ?」

『急な雨だったから、もう全部貸し出し済みらしいわよ』

「じゃあ友だちの傘に一緒に入れてもらうとか」

『アンタ時間分かってる?もう余裕で五時だって過ぎてるんだから、残ってるわけないでしょ』

「…確かに」


 頷きながら直哉は自分たちが帰宅する直前の教室を思い浮かべる。

 よくよく考えてみれば、自分たちが教室から出る時でさえあまり生徒は残っていなかったのだから、あれから一時間以上も経っているならそれは誰も残っていないだろう。

 現在、学校の中に残っているとすれば、恐らく図書館で勉強している真面目な生徒か、或いは部活動で汗を流している生徒たちだけだろう。


「分かった。志保が許してくれるなら迎えに行ってやるよ」


 ため息をつきながら直哉が答える。


『い、いいの?』

「迎えにこいと催促したのはお前だろ」

『いや、まぁ、それはそうなんだけど……』


 強気に催促してきたかと思えば急に弱気な態度へと丸山の様子が変わる。

 結局、迎えに来てほしいのかそれとも迎えに行かなくてもいいのか分からないが、とりあえず直哉は店主であり、また同時に自分の雇い主でもある志保へと話題を振る。


「志保。ちょっと学校まで丸山を迎えに行ってもいいか?」

「凄い雨だもんね。いいよ、迎えに行ってあげて」


 志保からの了承は拍子抜けするぐらい簡単にとれた。

 一応というか、完全に金銭の発生するアルバイト中なのだから少しぐらい渋られると思った直哉の予測は完全に外された。

 個人店ならではの緩い職務規定にこれでいいのかと少しばかり頭を悩ませる直哉だが、深く追求することを止めて大人しく身に付けていたエプロンを外した。


「じゃあ行ってくるけど、忙しくなるようなら遠慮なく圭吾を使っていいからな」

「あれ?俺、店員じゃなくてお客さんなんだけど?」

「俺の代打だ。これだけしょっちゅう来てるなら、ある程度は分かるだろ?」


 直哉は外したエプロンをそのまま圭吾に向かって投げる。

 受け取った圭吾は、苦笑いを浮かべながらエプロンをカウンターの上に置いた。


「ま、仕方ないね。直哉が帰ってくるまでは俺が留守番してるよ」

「頼む」


 圭吾の返答を聞いた直哉は志保の方へ顔を向ける。


「取り敢えず丸山を連れてココに帰ってくるから、帰ってきたらコーヒーでも淹れてやってくれ」

「うん、分かった。行ってらっしゃい。早く帰ってきてね?」

「ああ。まだアルバイト中だしな」


 志保の手から財布と二本の傘を受け取る。


「いってらっしゃい」


 ふと、下の方から声が聞こえた。

 幼い体を精一杯伸ばした瑞穂が携帯を差し出していた。


「ああ、ちょっと行ってくる」


 携帯を受け取り、直哉はお返しとばかりに瑞穂の頭を撫でる。

 くすぐったそうに笑っている瑞穂にみんなの心が和み、『セリシール』の空気が柔らかくなる。ほのぼのとした雰囲気の中、外から聞こえてくる雨の音も小さくなっていく。


「あ、丁度雨の勢いも弱まったみたいだね」

「よし。じゃあちょっと行ってくる」


 本来なら来客を告げる役割を持つ鐘を鳴らしながら直哉は店を出る。

 まるやまが電話を寄越した時よりも弱まったとはいえ、まだまだ空からは軽快に雨が降ってきている。

 直哉は手に持っていたビニール傘を開いた。

 一歩外に出ただけで町に満ちた雨の香りが鼻につく(・・・・)


―――――雨はあまり好きじゃない。


 静かに、そして無情なまでに空から降る雨はいつも直哉に不幸をもたらした。

 幼稚園の時も、小学生の時も、中学生の時もそうだった。

 本当に雨の日は碌なことがない。

 いつだって知りたくもないことを思い知らされる。


「―――――」


 深く息を吸い込むと同時に直哉は瞳を閉じる。

 そして大きく一度だけ深呼吸。

 肺いっぱいに吸い込んだ息をゆっくりと吐き出していきながら直哉は瞳を開ける。

 懐古的な自分は嫌いじゃないが、今はそれより現実の方が重要だ。

 生憎と、学校で待っているのは礼儀正しい深窓のお姫様ではなく、人一倍負けず嫌いで意地っ張りなお嬢様。あまり時間を掛けると容赦のない怒声と拳が飛んでくる。

 数回だけ頭を左右に振った直哉は、少しばかり鬱々とした気分を晴らすように店の前から飛び出した。

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