第一話
高校入学を前にした三月。
外には既に桜も蕾をつけ始め、冬の冷たい風が優しい暖かみを帯びたものに変わっていくような狭間の時期だった。
雲一つない晴天の下、俺の自宅の白いベッドに包まれながら美月が悩ましげに口を開いた。
「―――直哉」
「ん?」
薄い桃色の唇が綺麗なソプラノを奏でる。
俺の名前を呟きながらシャツの裾を引く姿はいじらしく可愛らしい。普段の凛とした姿は鳴りを潜め、惚れた男を前にした一人の女として美月は甘えてくる。
美月が身に纏うのはたった一枚の白い掛け布団と申し訳程度に着たシャツの下から覗くキャミソールとパンツのみ。魅惑的な黒い瞳を愛しそうに細めた美月は、俺の肩にしなだれかかりながら言葉を続けた。
「―――ね、しよ?」
豊かな双丘を俺の腕に押し付けながら美月が誘う。耳にかかる吐息はこそば痒いが不快感はない。むしろ男子たる者の情欲を掻き立てる。顔が熱い。耳が熱い。頭が沸騰しそうだ。だがなによりもまず腕が熱かった。高校生という年代を考慮しても十分に大きいと表現してもいい美月の胸は柔らかくも確かな熱を持っていた。まだ一度もそういう経験のない男子高校生には堪らない。
顔を横に向けると、まっすぐに見上げてくる美月の瞳と視線が絡まった。透き通るような黒い瞳が濡れていた。潤んだ瞳に思わず吸い込まれそうな感覚が襲ってくる。なんという色気だろうか。とても同い年の少女とは思えない。つい、残り少ない理性の存在を無視して煩悩の望むがままに突き進んでしまいそうになる。
美月の指が俺の胸元を妖しくなぞる。ぞくぞくとした感覚が背筋を走った。未知の感覚だった。胸元をゆっくりとなぞった細い指は、徐々に下半身へと降りていく。胸元から腹筋へ。そしてへそから腰の付け根へと触れていく。その度に甘い感覚が頭の奥深くを疾走しては体全体へと染み渡っていく。
そしてついに美月の細くて白い指が下半身へと伸びる。俺は美月の指へと自分の指を絡めると、問答無用に彼女の頭へと頭突きをかました。
「アホ。いいからさっさとコレを解け」
ジャラン、という金属音が部屋の中に響く。
ベッドの足から伸びた鉄の鎖は俺の両手首へと繋がっている。こういう状況になってすぐに俺の自由を奪った手錠は、今も尚、不快な音を鳴らしてその存在を主張していた。
「……痛い?」
「痛くはないが、激しく貞操の危機を感じざるをえない」
「ならいいじゃない」
絡めた指を愛しそうに美月が撫でる。背筋をゾクゾクとした感覚が通り抜けていく。誤魔化すことができないほど強烈な感覚だった。明確に「性」というものを感じるのは今日が初めてだった。
「よくねーよ。いいからとっとと放せ」
「嫌」
手錠で繋がれた手を美月の目の前に持っていく。
兎にも角にもこの束縛から解放してもらわなければ話は前に進まない。残念ながら俺には女子に拘束されて喜ぶ趣味はない。外すようにその存在を主張してみるが、果たして効果がまるでなかった。
美月から返ってきた言葉はただ一言。簡潔な言葉だけで否定の意思を伝えてきた。
「嫌ってお前……」
「直哉は私のものなんだから、大人しくこのまま私に抱かれなさい」
脅し文句というよりは殺し文句。
様々な流行が訪れては消えていく時代において、美月は髪も染めず、肌も焼かず、装飾品も身に付けようとしない。見た目は完璧なのに、ただ一点、琴線に触れる場所だけがよく分からない。
美月は愛おしそうに手錠で繋がれた俺の手首を掴むと、一瞬、顔を上げて直哉の瞳を見上げる。そして何故か嬉しそうに微笑むと、淫靡な音をさせながら俺の指を一本ずつ舐め始めた。
「お、おいっ!?」
「―――ん」
わざと音がするように指を舐めていく美月はとても淫猥で、高校生とは思えないほどの「性」的な魅力にあふれていた。
力が抜けそうになる。足腰に力が入らない。完全に雰囲気に酔っていた。
それでもなんとか耐える。今の美月に弱いところは見せられなかった。
「ハッ、純情少年なめんなよ。俺の体はお前にやるほど安くねーんだよ」
「……」
「うおっ!?」
いきなり黙った美月が唐突に立ち上がった。
清潔な白いシャツとその隙間から覗く薄い水色のキャミソール。そして最も大事な部分を守っていたパンツだけの姿を惜し気もなく晒した美月は、そのまま俺の上に馬乗りの体勢で腰を下ろした。
臍の下に淫靡な温もりと女性一人分の重みが掛かる。
「降・り・ろ」
「イ・ヤ・よ」
シャツの上を滑った美月の指が俺の首へと触れる。冷たい感触が広がった。すぐ上では黒曜石のような瞳が妖しく光っていた。艶めかしく喉を鳴らした美月がゆっくりと顔を寄せてくる。人一倍整った美月の顔が徐々に降りてくる。吐息まで聞こえるような距離になっても美月の行動は止まらない。頬と頬が隙間なく触れる。美月の唇が鎖骨に当たった。
その瞬間、脳髄に甘い感覚が走った。
「―――っ!?」
開きかけた口を閉じるために思い切り歯を食い縛る。
視線の先にいる美月は嬉しそうに笑っていた。
「口では否定していても、体は素直なものね」
「……女の台詞じゃねーな」
「それで直哉が手に入るのなら、私は構わないわ」
首に添えられた白く細い指が顎から頬へ伝い、目の下をなぞった。
「直哉には私のすべてをあげる。ファーストキスも、処女も、これから先の未来も全部あげる」
そう言って、美月はその裸身を守っていたシャツに手をかけた。
徐々にはだけていくシャツの隙間から見えるのは透き通るような白い肌だった。女性特有の膨らみに沿って下がっていくシャツは、その下にある薄い水色のキャミソールを露わにしていく。美月はさも当然という表情を浮かべ、上半身に纏っていた最後に衣服であるキャミソールも脱いでいく。先にある薄い桃色の突起に一瞬だけ引っ掛かると、キャミソールはすぐにベッドの上へ落ちた。窓から射し込む太陽の光によって、何も纏っていない美月の上半身がスポットライトに照らされる。流れるような黒髪と透き通る白い肌。対照的な色合いは薄い桃色のアクセントにより、更により一層美月の美しさを強調させる。
―――美しい。
俺は一切の言葉を差し挟むことなく、ただ、純粋にそう感じた。
「直哉ぁ」
「―――っ、おまっ!?」
普段の凛とした美月らしくない男に媚びるような甘えた猫なで声に、不覚にも熱が頬に集まっていく。
同時に、美月は言葉だけではなく赤く染まった頬を俺の首もとに擦り付けた。
「私のものになりなさい。そうすれば、いつでもこうして私を食べさせてあげる」
「―――っ!?」
甘い痛みの果てに、俺の肩には薄く美月の歯形が並んだ。
「……どっちかっつーと、俺の方がお前に食われてる気がするんだが?」
「今は、ね」
妖艶に微笑む美月の姿は、およそ十代の小娘に出せるような色気ではなかった。背中に回された指が縦横無尽に這い回り、首もとから聴こえる淫艶な水の音と共に脳髄にまで届く快楽へと誘っていく。
「直哉が私を食べるのは―――これからよ」
腹の上で身を起こした美月は、ついに最後の衣服を脱ぎ捨てた。既に十分な水分を含んだ『ソレ』は、ベッドの脇へ真っ直ぐ落ちた。
「ねぇ、直哉」
「……な……んだ……」
今まで見てきた中でもこれほどまでに美月の黒い瞳が妖しく輝くことはなかっただろう。
何処からか、唾を飲み込む音が聞こえた。
これはもう無理だ。諦めるしかない。どの道、手錠に繋がれたままでは抵抗なんざ出来やしない。最初から出口なんて一つしか用意されてはいない。今の俺に出来ることなんざ高が知れてる。籠の中で飼われている鳥のように無意味に囀るぐらいしか出来やしない。
「好きよ、直哉。大好きよ。私は貴方の為なら何でもするわ」
再び絡められた指が豊かな膨らみへと俺の手を導いていく。
「だから貴方も言って。私のことが好きだと、愛してると言いなさい。心を込めて。蕩けるように甘い言葉を紡ぎなさい」
告げられたのは有無を言わせぬ強い意思。
見上げた美月は、誰にも負けないぐらいに美しく、また凛々しかった―――――……
◇
「―――と、いうような本を作ってみたんだ!」
「死ね」
昼休み。
催眠術にしか聞こえない授業をなんとか耐え、漸く食事にありつけると思った矢先、目の前で精一杯の「どや顔」をした馬鹿者の出現によって食事は更に引き延ばされることになった。
クラスメイトたちは既に各々この暑っ苦しい中、元気に校庭や体育館へボールを片手に走っていった。
全国の高校生を代表するかのような健全なクラスメイトを見送りつつ、直哉は頭の中に虫が湧いているとしか思えない馬鹿の持ってきた本を読まされていた。
「えぇっ!?そんなに酷い!?せっかく昨日、徹夜して作ったのに!?」
「こんな馬鹿みたいなもんを作るために徹夜なんかしてんじゃねーよ」
吐き捨てるようにため息をもらした直哉は、読んでいた本を閉じて頭痛のする額をさすった。
「何処!?何処がダメだった!?今回は割と自信作だったんだ!?」
「いや、何処っつーか……」
「よく見てよ!この辺の描写とか結構頑張ったんだよ!!」
「よく見てくれとか言われてもな……」
「ほら!この辺なんて凄くいい出来映えだと思わない!?」
「いや、問題はそんなとこじゃなくて―――」
「くそっ、次の漫研の雑誌に載せようと思ってたのに…っ!?」
「―――んなもんに、勝手に載せんじゃねーっ!!」
殴りたくなる衝動をなんとか抑えたものの、胸の奥底から込み上げてくる怒気は怒鳴り声となって表れた。
仮に、本当にこの馬鹿を殴ったとしてもこのクラスにいる強者たちなら特に誰も気にすることはないだろうが、一応友人に対する最後の良心に従って直哉は拳を開く。
こんな馬鹿でも直哉にとっては入学して最初に出来た友人だったりするので、ここは僅かに残った忍耐力を総動員して大きく深呼吸する。
「あ、でもあまりの出来映えに思わず先輩に写メ送っちゃったんだった♪」
「アホかーっ!!?」
「ぐほあっ!?」
「あー…」
今度こそ殴り倒そうと勢いよく振り上げた直哉の拳は、しかし、目前に標的を失い虚しく宙をさ迷った。
直哉が拳を振りぬくよりも先に目の前の馬鹿は教室の床へと沈んでいた。
実は現在、直哉の机の周りには三人の人間がいた。
一人は机の持ち主である河村直哉。
一人は殴られて床に蹲っている吉田圭吾。
そして残った最後の一人こそ、今まさに凄まじい勢いで圭吾を殴り飛ばした人物である丸山綾音だった。
この学校に入学して数か月。偶然にも同じクラスになった三人は、お互い妙に馬が合ったこともあり、こうして休み時間になればほとんどずっと一緒に過ごしていた。
「この馬鹿!クラスメイト使って何してんのよ!!」
「あはは。面白そうで、つい」
「つい、じゃないわよ!なんでよりにもよってこの二人を使うかなぁっ、アンタは!?」
床に倒れている圭吾を更に踏みつけながら怒鳴り声をあげる丸山が振り返った先には、一人静かにパソコンを操る美月―――櫻井美月がいた。
櫻井美月は絹のような黒髪が美しい少女だった。
眼鏡の奥に隠れた黒い瞳が確かな知性を宿しながらも、右側の目元にある泣き黒子は妙な色気がある。学生とは思えないほどの姿勢の良さは、平均以上に均整のとれた彼女の容姿を一層引きたてる。
知的でクールな美人系。
入学当初からひそかに美少女として噂になっていた櫻井が、入学して数か月という期間でもう数人の男子に告白されたというのは既にこのクラスにいる人間ならば誰でも知っている。
そして同時に、彼女がそれらすべてを断ったという事もまたクラスでは有名な話であった。
「なにやってんのか知らないが、今日も忙しそうだな、櫻井さん」
「美月ちゃんはいつもあんな感じでしょ」
「ま、確かに一風変わった様ではあるけどね」
ただ単に椅子へ座っているだけだというのに、彼女の周囲はどこか不思議な雰囲気を纏っている。
昼休みに教室で一人、黙々とノートパソコンに向かう彼女の姿は明らかに周囲から浮いていた。
とにかく群れたがる女子高生の社会に置いて、休み時間に一人で行動するということはそれだけで既に周囲の同性たちから一定の距離を空けられることを意味する。
クラスの委員長という立場上、決してクラスメイトたちから「ハブられている」というわけではないが、それでも櫻井が同級生の誰かと仲良くしている姿は誰もン見たことがなかった。
「よくやるわよね、あの子も」
「ん?」
足を組みかえ、机に肘を乗せた丸山が呟く。
「どういうこと、綾音ちゃん?」
「簡単なことよ。このとにかく面倒くさい女子の世界で、あんなに堂々と一人でいられるなんて並みのことじゃないってこと」
呆れたように、あるいは何処か感心したように丸山が語る。
「女が一人でいるっていうのはアンタたちが考えるよりもパワーがいるのよ」
「そんなもんか」
「そんなもんよ」
これ見よがしにため息をもらす丸山もまた櫻井と同じように、現在のクラスの女子の中にあっては一際クラスメイトたちから浮いている存在であった。
「少し見た目がいいと『可愛いからって調子に乗ってる』とか、少し頭がいいと『あの子って心の中では私たちを見下してるよね』とか、少し男子と仲良くなると『あの子って遊んでるって噂だよ』とか、もう女の嫉妬ってホント醜いわよ」
「……実も蓋もないな」
「男がロマンチストって納得だわ。いつまでたっても女子に夢を見てて、まったく女子の現実を知らないんだから」
言葉が進むにつれて、徐々に丸山の機嫌は悪くなっていく。
「綾音ちゃん、鬱憤でも溜まってたの?」
「うるさい、黙れ。あと私を『綾音ちゃん』と呼ぶな」
丸山が鋭い目つきで圭吾を睨み付ける。
「次、私を名前で呼んだらアンタ殺すから」
「さ、サーセンっしたあああああ!!?」
もし視線で人が殺せるとしたら、恐らく今の丸山は三回は圭吾を殺しているだろう。
過激なスキンシップでよく知られる二人のやり取りは、もはやクラスメイトたちからは『夫婦漫才』と呼ばれていた。そして直情型の丸山と馬鹿な圭吾のやり取りが限度を超えたと周囲が感じた時、二人を止める役割を否応なしに担わされるのが直哉だった。
たとえ二人の『夫婦漫才』がどれだけ離れた場所で行われていたとしても、必ずクラスメイトの誰かが直哉のところまでやって来るのが恒例行事となっていた。
「―――話を戻すぞ」
「お、おう」
「…ふん」
いかに強者たちの集うクラスであったとしても、突発的な事態には反射的に視線が向かうものだ。
圭吾の声に合わせて集まった視線をすべて無視することにした直哉は、一際声を落として話し始める。
「とどのつまり、そもそも圭吾がこんな物を持ってくるのが悪い」
「私も同感」
「そ、そんなぁ~!?」
要するに、すべての原因はその一点に尽きる。
高校生男子が学校にエロ本を持ってくること自体はよくあることだが、それを友人とはいえ女子に見せることも信じられないし、ましてやネタにした本人に読ませた上に感想を聴こうという神経も分からない。
本当に頭のネジが数本ほど緩んでいるとしか思えない。
「俺を題材にするのも許せんが、それ以上に櫻井さんに悪いだろ。これじゃ一歩間違えればいじめだ」
「河村の言うとおりよ。アンタ、これじゃただの馬鹿でどうしようもない変態じゃない」
「うぐっ!?」
容赦のない二人の言葉に、圭吾は大袈裟に胸を押さえて体を曲げた。
「アンタが馬鹿だっていうことはこの数か月で分かってたつもりだったけど、まさかここまで救いようがないほどの馬鹿で馬鹿な馬鹿馬鹿しい馬鹿だったとは思わなかったわ」
今まで見せたことがないほど完全に冷めた目で丸山は圭吾のことを見る。
今度こそは本気で呆れ果てた。
丸山の目が圭吾に向かって冷たく語りかけているようだった。
「さ、流石、中間学年一位の「丸山さん」は言葉の重みが違うなぁー……」
「お褒めの言葉をありがとう。私に三点差で負けた中間学年二位の「吉田くん」」
「ぐはあっ!?」
そして再び圭吾は誤爆する。
自ら藪をつついては蛇に噛まれるという荒業を平然とやってのける圭吾は正真正銘の馬鹿者ではあるが、しかし、学校の成績自体は決して悪くはない。それどころかむしろ頗る素晴らしいと言っていい。しかもそれが学年二位ともなれば、普通なら友人たちに自慢しても構わないレヴェルの成績だろう。
だが、今回ばかりは相手が悪かった。つい先日行われた高校入学後初めてのテストで丸山に僅か三点差での敗北を喫した圭吾は、以来、丸山からその話題をネタにされていた。
「そんなに落ち込むなよ、圭吾。俺なんか二桁に入るのがやっとだ」
机の上に沈んだ圭吾の肩を直哉が軽く叩く。
「…直哉にはこの悔しさは分からないよ」
「そりゃあ、な。大体、五教科合計498点なんていう奴に勝とうとする方が無理なんだよ」
高校入学後最初の定期テストということもあって、問題自体は確かに比較的簡単だった。それにテスト範囲も中学時代の復習と高校入学後に習った僅かの範囲しかない。
しかしそれでも498点というのは驚異的だ。
三人の通う高校では、昨今の学校にしては珍しく廊下の掲示板へと生徒の順位が掲示されるが、掲示された上位五十人の中で彼女に並ぶものは誰もいなかった。
「それはアンタが本気でやってないからでしょ」
「そんなことね-よ。俺だってテスト前はちゃんと勉強してるからな」
「普段から真面目に授業を受けて、しっかりと予習・復習をしてればテスト前に焦って勉強しなくてもいいのよ」
胸を張る丸山の言葉は正に優等生の台詞だった。
直哉を含めた他の多くの生徒たちがやろうと思っても出来ないことを、丸山は平然と顔色ひとつ変えずにやってしまう。当たり前のことを当たり前にできる。
これが学年一位を取るような人間と、頑張ってもようやく二桁に届くのがやっとの人間の大きな違いだった。
「綾音ちゃ―――こほん。丸山さんのそういう全力なところっていいよね」
「…なにが?」
圭吾の褒め言葉に、丸山は露骨なまでに顔を歪めて応えた。
「ほら、頑張ってる女の子ってなんだか応援したくなるでしょ。そういう女の子って俺、好きだなぁ」
「…なにかしら、この不快感。本当なら嬉しいのに、アンタに言われてるってだけですべてが残念な感じになってるわ」
「ええっ!?綾音ちゃんの中での俺の扱いって、そこまで酷いの!?」
「―――だから私を名前で呼ぶんじゃない!!」
「ぐはあっ!?」
もはや何度目になるのか、二人は飽きもせずに同じやり取りを繰り返す。
再び床へと沈んだ圭吾に対して、直哉は静かに両手を合わせてやることぐらいしかできなかった。
「ホント、馬鹿な奴」
呆れたように呟いた直哉だが、不意に近づく軽快な足音に誘われて視線を教室の扉の方へと向けた。
そこには一人の少女がいた。
上機嫌に鼻歌を奏でながら近寄ってきたその少女は静かに足音を消すと、素早く丸山の背後に忍び寄り、大きな声をあげながら抱きついた。
「あ~やチャン!」
「へ?―――ひゃあ!?」
圭吾を殴り終えた体勢だった隙だらけの丸山は、一切の抵抗を許されることなく少女によって拘束された。
敢えて脇の下から伸びてきた少女の手がわし掴んだのは、制服の上からでも確かにそれと自己主張する女性特有の膨らみだった。
「おや?意外と大きい?」
「ちょっ!?こ、こら!や、止め…っ!?」
身を捩って抵抗する丸山だが、背後より伸ばされた手は容赦なく彼女の胸を鷲掴み、そして羞恥心も関係なく揉んでくる。
「や、やめっ、ん…っ!?」
胸を揉んでくる手に抵抗するため何度となく身を捩った結果、丸山の息づかいは荒くなり、額やうなじにはうっすらと汗が滲んだ。
普段強気な丸山が羞恥に顔を赤らめ抵抗する姿はなかなかに男の情欲を擽った。教室に残っている男子は直哉と圭吾の二人ぐらいのものだが、少女の行為はその唯一残っている男子二人の目の前で行われている。目の前でそんなことをされれば男なら目が離せなくなるのも当然のことだった。
「…なんかエロくね?」
「…ノーコメントで」
遠慮なく凝視する圭吾に対し、顔こそ逸らしているものの、直哉も横目で丸山の姿を窺っていた。
同級生の女の子が目の前で胸を揉まれ、あられもない姿を晒していれば、男としてはどうしても見ないわけにはいかなかった。
そして男二人からの視線は自然と丸山の羞恥心を更に煽り、今まで出そうとしなかった最終手段に出る契機を作った。
「や、め、な、さ、い!この馬鹿娘!!」
「ぐっ!?」
振り向きながら放たれた丸山の強烈なエルボーが、背後にいた少女の腹に炸裂する。
腹に手を当てながら少女は悶絶した。
見るからに痛い。丸山の肘はどこからどう見ても、明らかに人間の急所の一つである鳩尾に決まっていた。
思わず少女は体を「くの字」の曲げた。
しかし、丸山の反撃に容赦の二文字は存在しなかった。
「―――死ね!」
「ちょっ!?それは流石にやり過ぎじゃないかなぁ…っ!?」
振り返ると同時に握られた拳が再び下方から少女の腹に向かう。
素人とは思えない踏み込みから放たれた拳は、よく腰の入った凄まじい一撃だった。捩じり込むようにして唸りを上げる拳が少女の鳩尾へと迫る。
ただ、今回は少女の反応も速かった。
少女は勢いよく立ち上がると軸足となる左足で思いきりよく床を蹴る。後ろに下がった距離は少女の歩数にして約三歩。一切のブレなく、軸を体の中心に保ったまま少女は丸山の拳を見事に避けきった。
「…ちっ。アンタ本当に面倒くさいわ―――圭吾の次に」
「えぇっ!?何もしてないのに巻き込まれた!?」
「あはは。圭吾の次ならよしとしようかな」
明るく笑う少女に、丸山は頭を押さえてため息をついた。
からからと明るい笑みを浮かべた少女は、この学校では最も丸山と仲の良い同性の人間であり、直哉や圭吾にとっても親しくしている友人の一人でもある水野優花だった。
腰まで伸ばした茶髪をサイドポニーにして一つに纏めた活発な少女は、窓から差し込む太陽の光を浴びて向日葵のように笑う。
「なになに、折角の昼休みに集まって一体なんの話?」
「別にアンタが食いつくような面白い話じゃないわよ」
「そうなの?」
小首を傾げる少女は臍を曲げた丸山ではなく直哉に問い掛ける。
「まあな。圭吾の馬鹿がまた馬鹿なもんを持ち込むなんていう馬鹿な行動を馬鹿みたいに繰り返しただけだ」
「そうね。馬鹿な圭吾らしいあまりにも馬鹿で馬鹿な馬鹿馬鹿しい行動だったわ」
「ま、待った待った!君らちょっと人のことを馬鹿馬鹿言い過ぎじゃない!?」
自分のあんまりな評価に声をあげた圭吾だが、現実の荒波は常に彼に厳しい。
「ふーん。なんだかよく分からないけど、取り敢えず圭吾が馬鹿ってことには納得した。と、いうよりも昔から知ってる」
「優花もお願いだから納得しないでくれないかな!!?」
友人から与えられたあまりにも大きな衝撃に、圭吾は一人その場でうちひしがれた。
圭吾は学力では学年二位でも、普段の行動は留年確定なほどに馬鹿なことが多い。身から出た錆だからこそ、まだクラスの中に残っている女子たちも水野たちの言葉を否定することはなかった。
「えー。だって圭吾でしょ?」
「その納得の仕方に深く傷ついた!?」
自分の胸を押さえて過度なリアクションをとる圭吾に、丸山の機嫌が再び悪くなっていく。
「うるさいわよ、圭吾。周知の事実に一々驚かないでよ」
「まあ圭吾の場合は「周知の事実」というよりは「羞恥の事実」と言った方がいいかもしれないけどな」
「ぐはっ!?」
ゲームのような唸り声を上げて圭吾は机の上に倒れ伏した。
もはや直哉と丸山が完全に無視の方向で態度を固めていたため、傷心の圭吾を慰めるのは水野しかいなかった。
最後の良心である水野が苦笑いを浮かべながらも精一杯の言葉を尽くして圭吾を慰める。
しかし圭吾が立ち直るよりも先に、水野は何故自分がこのクラスにやって来たのかを思い出した。
「そうだった!ちょっと一緒に来て、綾ちゃん!」
「は?ちょ、ちょっと、優花!?」
一方的に手を掴み、引き摺ろうとする水野に抵抗して丸山が踏みとどまる。
「待ちなさい!とにかくまずは説明することが先でしょ!」
「あ、うん。それは分かってるんだけど……」
いい加減にイライラの募った丸山がみせた剣幕に、普段は強引な水野も少し萎縮する。いつも丸山を引っ張りまわす水野も、流石に本気でフラストレーションの溜まった状態の丸山が相手では「蛇に睨まれた蛙」の状態に近い。
ただよほど言いづらいことが要件なのか、そんな状態の丸山を前にしても水野は言葉を渋ってなかなか答えようとはしない。
水野は視線を宙にさ迷わせながら、言葉にならない言葉を羅列する。
「時間がないんでしょ。早く言いなさいよ」
ハッキリしない水野の態度に丸山のイライラが上がっていっていることは、直哉が横から見ていても手に取るように分かった。
少し遠めから見守る直哉と圭吾には、丸山の肩が揺れているように見えた。
「…実は、ね」
「なによ」
漸く口を開いた水野だが、丸山の顔を伺い再び言い渋る。
「…怒らない?」
「事と次第によるわ」
「―――っ!?」
肯定しないし否定もしない。正直者の丸山らしい答えに二人の様子を横から見守っていた圭吾が思わず吹き出した。
そして、肝心の水野もまた面食らったようだった。
「そ、そこは普通、冗談でも怒らないって言うところだと思うんですけど……」
「私、嘘って嫌いなのよ」
「で、ですよねー……」
胸を張って言い切った丸山に、水野は頬を掻きながら苦笑いを浮かべた。
どんな相手だろうと真正面から向かっていくところが丸山のいいところであり、また同時に融通の利かないところであった。
「そ・れ・で?」
「…はぁ」
虫の居所の悪い丸山を相手にしては、幼い頃から格闘技を習ってきた水野をもってしても敵わない。
大きなため息をこぼした水野は、ポケットからハンカチを取り出して両手を挙げた。
「いやぁ~参った参った。私じゃご機嫌斜めな綾ちゃんには敵わないって」
「当たり前でしょ。アンタも下らないことしてるんじゃないわよ、ったく―――あと、私は別に機嫌悪いってわけじゃないから!」
後半部分を敢えて強調させる丸山の顔は、どこかさっきまでよりも仄かに赤い。
「機嫌悪くないわけないよねぇ」
「さあな」
声を落とし、耳元で呟かれた言葉に対して直哉は曖昧な相槌を打つ。
本当なら圭吾の意見に同意したいところだが、今は首を縦に振ることが出来ない理由があった。
顔を寄せ合う直哉と圭吾の対面からは、殺気でも纏っているかのような視線が向けられていた。
「なにか言ったかしら?」
「さ、サー!何も言っていないであります、女王陛下!!」
睨む丸山に対して、圭吾は警官も惚れ惚れする敬礼で応じる。
「…いい加減、丸山を怒らせるようなことを言うのは止めとけよ」
「いや、ほら、なんか綾音ちゃんを見てるとね、つい」
「それで毎回痛い目をみてる自覚はないのか……」
「楽しいからね!」
「…悪趣味な」
お前はマゾか、と額を押さえた直哉の呟きは虚しく溶けていく。
「でもああいう素直なところが綾音ちゃんのいいところだよね!」
「素直っつーより、むしろ正直って感じだけどな」
「あはは、確かに!」
机を叩きながら笑う圭吾と呆れにも似たため息をつく直哉。
「俺、綾音ちゃんのそういうとこ、結構好きだなー」
「はいはい」
面倒くさそうに直哉は圭吾の告白に相槌をうつ。
それなりに丸山から辛辣な言葉で叱られることの多い圭吾だが、彼自身、丸山のことを気に入っているらしく一切それを気にした様子はない。
物理的にも精神的にもダメージの多い付き合い方は、正直、直哉には一生かかっても出来ないことだろう。そういう意味では、圭吾は凄い。無論、尊敬などするつもりはないけれど。
「それより、いいのか?」
「なにが?」
「いや、なにがって……」
「うん?」
横目で示しても気が付かない圭吾に、直哉はゆっくりと圭吾の背後へと指を向けた。
圭吾が直哉の指先を追っていくと、そこには腕を組んだ丸山が佇んでいた。
背後には修羅が見えた。
「―――あ」
「私のことを、名前で、呼ぶんじゃ、ないわよ!!」
怒鳴り声と同時に圭吾の頭へ落とされた拳骨は、やはりおよそ女の出せる音と威力ではなかった。
◇
「結局、水野の用事ってのはなんだったんだ?」
放課後。
校門から駅まで続く坂道を、直哉は圭吾や丸山と歩いていく。
頭上に見える美しい模様は、鮮やかな夕焼け色をしていた。半熟の目玉焼きを潰した後に溢れる卵の黄身を彷彿させる夕焼けがゆっくりと眼下の街を飲み込んでいく。
学校から程近い場所に住む圭吾は別だが、直哉と丸山の二人は学校近くの駅まで電車通学をしているため、普段から三人一緒の下校は駅までだった。
「別に大したことじゃないわよ」
「なになに、教えて教えて!」
「なんでアンタに教えなきゃなんないのよ」
「えぇーっ!?俺ら、昼休みから凄く気になってたんだけど!?」
「知らないわよ。それになんかアンタにプライベートの話をするのって―――気持ち悪いし」
「ええっ!?そのマジでストーカーでも見る目で俺を見ないで!流石の俺も傷付くから!?」
「あーっ、もう!本当に気持ち悪いから引っ付くな!!」
鎧袖一触。
腕に引っ付いてきた圭吾を丸山は読んで字のごとく「一蹴」する。
そして、隣で口を押さえて笑っている直哉を睨み上げた。
「アンタも笑ってないで助けなさいよ!それに隠してるつもりでも笑ってるのがバレバレなのよ!!」
「あ、そう?」
「―――っ、全然隠せてないのよ!!」
身長的にどうしても上目遣いになる丸山だが、そこには全く可愛らしさなど含まれない。
丸山のツリ目がちな瞳からは敵意と殺気を含んだ視線が飛んでくる。
「落ち着け。圭吾なんて適当に流しときゃいいだけの奴だろ」
「直哉もさらっと酷いこと言うよね!?」
「…そうだったわね。こんな奴、真面目に相手するだけ時間の無駄だったわ」
「綾音ちゃんも納得しないでくれませんか!?」
「寄るな。キモいから」
「ぐはっ!?」
叫びながら近付いてくる圭吾の腹を丸山の蹴りが見事に抉る。
本職も驚きの「ヤクザキック」は、圭吾の向かってくる勢いすら利用した反動もあり、馬鹿な男を数メートルは吹き飛ばした。
「…し……死んじゃう………」
「じゃあそのまま死ねば?」
丸山の冷たい視線に晒された圭吾は、力なくその場に倒れ伏した。
「動かない。まるで屍のようね」
「…屍にしたのはお前だけどな」
倒れ込んだまま動かない圭吾を無視して歩き始めた丸山の後ろを直哉ものんびりと付いていく。
一応、背後を気にしながら歩いてみるものの、それなりに距離が離れても圭吾は動かない。あのまま道の真ん中で倒れている圭吾を放っておいても直哉としては別に構わないのだが、それでは他の通行人の邪魔になる。
面倒くさそうに頭を掻いた直哉は、ポケットから携帯電話を取り出して電話帳を開いた。
「…なにしてんのよ」
「どれだけアイツが馬鹿でも一応友人だからな。最低限の救命措置ぐらいはしておいてやるってだけだ」
画面をスクロールして目的の人物の連絡先を見つけた直哉はその人物に対して一通のメールを送る。
文章は非常に簡潔だ。ただ一文、「馬鹿が校門を出たところの道で倒れている」という旨だけを伝える。
それだけで、彼女ならきっと圭吾を拾って帰ってくれるだろう。
「もういいの?」
「ああ。長い文章を打つのは苦手だからな」
メールを打ち終わった直哉は再び携帯電話をポケットにしまった。
ふと前を見ると、早くも興味を失ったらしい丸山が既に駅に向かって歩き始めていた。
丸山らしい反応に苦笑しながらも、直哉はその小さな背中に向かって僅かに足を速めた。
そして再度、直哉は丸山の横に並んで歩調を合わせる。
「―――」
「―――」
放っておいても喧しい圭吾がいなくなると、二人の間には沈黙が続く。
丸山の歩調に合わせて徐々に変わっていく見慣れた風景を眺めながら二人は残りの坂道を下っていく。
高校に入学して早くも三か月という月日が経った。
初めて通った時に咲いていた桜も既に散り、坂道の周囲に並ぶ桜の木は綺麗な緑の葉を咲かせている。
「河村、さ」
「―――ん?」
不意に、丸山が呟いた。
「アンタも、さ。その、私がなにしてたのか気になるわけ?」
いつもの丸山とは少しだけ異なる態度だった。
どこか他人行儀というか、なんとなく緊張しているような瞳がすぐ隣から見上げてくる。
「なんの話だ?」
「昼休みの話よ」
見上げてくる瞳が僅かに鋭くなったような気がした。
「あー…。まあ、そうだな。あれだけ目の前で騒がれりゃ、誰でも気になるといえば気になるよな」
「…ふーん」
なんとも言えない微妙な間が空く。
「…なんだよ」
「別に何も言ってないでしょ」
「目は口ほどにものを言うって言葉、知ってるか?」
「………」
「だからなんなんだよ」
「…べっつにぃ~」
再び前を向いた丸山は、坂道を下る足を速めた。
「おい。ちょっと待てって」
「ついてこなくてもいいわよ。子どもじゃないんだから一人で帰れるしね」
「どうせ途中まで電車も一緒だろ」
「…歩いて帰るからいい!」
「はあ?歩くって、お前……」
思ってもみなかった丸山の言葉を反芻しながら、どこか冷めた直哉の頭の中では残りの家までの道のりを計算していた。
まず、現在直哉たちの向かっている学校の最寄駅から直哉の自宅までは電車でおよそ四十分はかかる。
そしていつも丸山が下りる駅は直哉が降りる駅の二駅手前。時間にしてその差はおよそ十分の道のりだ。
要するに、丸山の家のある駅までは電車でも約三十分はかかる計算になる。それほど時間を要する道のりを更に徒歩で帰宅しようとすると、果たしてどれほどの時間がかかるのかも分からない。
「お前なぁ。そんな馬鹿なこと言ってないで普通に電車で帰れよ」
「いいの!今日は私、丁度歩きたい気分だったのよ!!」
「無茶苦茶言うなよ。ほら、大人しく電車で帰れって」
「煩いわね!いいのよ、別に!歩きたいって言ってるんだから放っときなさいよ!!」
「…はぁ」
何故か意固地になっている丸山は、まったく聞く耳を持つ気配がなかった。
肩をいからせながら更に歩く速度を上げた丸山なら、あっという間に目的の駅まで着くだろう。
大きなため息をついた直哉は、丸山の背後に遅れることなくついていく。
二人の足音が重なり、同時に坂道を靴が打つ。
「…別についてこなくてもいいって言ってるじゃない」
「そうも言ってらんねーだろ。いいよ、ついてくよ。ちゃんと家まで送ってやる」
既に夕日も沈もうとしている午後六時。
電車で帰宅するならまだしも、学校から一時間以上は掛かろうという道のりを丸山一人で、しかも徒歩で帰らせたとあっては明日が怖い。鉄拳制裁の名の下に、丸山の親友を自認する水野から容赦のない拳が飛んでくるだろう。
「だから機嫌直せって、な?」
丸山の横を歩きながら、一向に振り向こうとしない小さな背中を眺める。
女子としては平均的な身長の丸山も、男子でも長身な直哉から見ればその背中は小さく見えた。
少し力を込めて抱き締めれば、そのまま潰れてしまいそうな気さえしてくる。
直哉がぼんやりと丸山の背中を眺めていると、急に丸山の足が止まった。
「いいわ、精々付き合ってもらおうじゃない」
「―――は?」
唐突に振り返った丸山の表情に、直哉の思考は停止した。
これがもし漫画なら「ニヤリ」という効果音がつくような表情で丸山は笑う。
「そこまで言うならしっかり送ってもらおうじゃない。ちゃんと私の家の玄関までね!」
「お、おい、ちょっと待て。お前、自分がなに言ってるか分かってんのか?」
「分かってるわよ。要するにアンタは今から私の付き人ってことでしょ」
「…分かってねーだろ。しかもなにを勝手に付き人認定してやがる」
「うるっさい!アンタは黙って私を家まで送ればいいのよ!!」
「お前なぁ……」
「ほらっ、さっさと鞄持ちなさいよ!」
「おっと。…お前な、いきなり鞄なんて投げるなよ」
「細かいことで文句言わない!遠いんだから早く行くわよ!!」
自分の言いたいことだけ言って、丸山は周囲にできた人の輪を掻き分け一人でさっさと先に行ってしまう。
駅まではまだ少しあるとはいえ、十分に交通量の多くなった道での口論は見事なまでに周囲の人々の関心を集めていた。周囲の人垣から頭一つ分長身なことで直哉だけでも普段から無駄に目立つにも拘らず、その口論の相手が容姿の優れた丸山とあっては更に注目を集めてしまうのも無理はなかった。
「さっさとついて来なさいよっ、河村!!」
「はいはい。分かったからそんなに叫ぶなよ」
少し離れた場所から叫ぶ丸山を、頭を掻きながら直哉が追う。
さっきはある程度近付くと先に行ってしまった丸山も、今回ばかりは直哉も並び歩くことを許したようだった。隣に直哉が追い付いたことを確認してから丸山は再び歩き始める。
端から見れば高校生カップルが仲良く歩いているだけの何処にでもある自然な光景だが、当人である直哉からすれば違和感だらけの光景だった。普段なら絶対に歩かない道を、しかも丸山と一緒に歩くのは些か以上に気を遣った。
初めて歩く道の風景をぼんやりと眺めながら、迷わないように線路へ沿って歩いていく。
ふと隣を見ると、偶然にも丸山と目が合った。
「………」
「…どうかしたのか?」
「…別に!」
「あっそ」
特に理由も分からず怒鳴られてもどうしようもない。
なんとなく機嫌の悪そうな丸山の隣で直哉は面倒くさそうに頭を掻く。
「なんなんだ、まったく」
隣を歩く丸山に聞き取られない程度の小さな声で直哉はぼやく。
儚く美しい夕焼け空の景色が終わり、今日もまた世界は暗闇に染まる。
所々に点在する街灯が点り始め、二人の行き先を細々と照らしていく。
導く明かりは夕焼けに比べてあまりにも頼りなく、心もとない。
普段は通らない道に迷わぬように、余計に時間を掛けながらも二人はのんびりと帰路についた。