一枚だけ足りないアルバム
「ねえ、もし私が、悠真のこと全部忘れたらどうする?」
何の変哲もない日曜日の午後。実家の居間で、二人は古いアルバムをめくっていた。
「何それ」
悠真は笑った。
「例えばの話」
アルバムには、二人で過ごした時間が並んでいた。
海辺で風に髪を乱されている美咲。誕生日のケーキを前に、照れくさそうに笑う悠真。旅行先で道を間違え、知らない駅の前で撮った一枚。
美咲は写真が好きだった。
何でもない日常を小さなデジタルカメラで撮り、気に入ったものだけをプリントして、日付や短い言葉とともにアルバムへ収めていた。
「そうだな……」
少し考えてから、悠真は当たり前のように言った。
「思い出すまで待つんじゃない?」
美咲は笑った。
けれど、その笑顔がほんの少しだけ曇った。
「……待たれる方は、苦しいかもしれないよ」
「そういうもの?」
「たぶんね」
その言葉だけが、なぜか悠真の胸に残った。
意味を尋ねようとしたが、美咲はそれ以上何も言わず、悠真も聞き返せなかった。
そんな短い沈黙の中で、アルバムの上に置かれた美咲の手に、悠真の視線が止まる。
左手の薬指には、小さな指輪が静かに光っていた。
それから二週間後、美咲は事故に遭った。
目を覚ましたとき、最初に見えたのは白い天井だった。
次に父の顔。
そして、その隣に知らない悠真がいた。
「美咲」
ひどく疲れた顔をしていた。それなのに、泣きそうなくらい嬉しそうだった。
しかし、悠真が近づくと、美咲は反射的に身を引いた。
悠真の足が止まった。
「……どちらさまですか?」
しばらく誰も何も言わなかった。
検査の結果、美咲は事故以前の数年間に関する記憶を失っていることが分かった。
その中には、悠真と出会ったことも含まれていた。
「え?……ゆうま、だけど」
悠真は自分を指して言った。
「俺の名前。……君と付き合ってた」
「付き合って……た?」
美咲は悠真の顔を見た。
知らない顔だった。
声にも、名前にも、何の懐かしさも感じない。
「どれくらい?」
「三年くらい」
三年。
美咲にとって存在しない三年間を、この人は全部知っている。
数日後、病院の廊下で悠真と二人になったとき、美咲は頭を下げた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
「でも……」
言葉を選んだ。
「すいません。あなたのこと、よくわからないです」
一瞬だけ悠真の表情が止まった。
必死でぎこちない笑顔になった。
「そ、そうなんだ」
悠真はそれ以上、何も言わなかった。
退院してから、悠真はときどき美咲を外へ連れ出した。
悠真なりに、無理に記憶を取り戻させるつもりはなかった。ただ、二人で過ごした場所を訪れれば、何か思い出すきっかけになるかもしれない。そんな期待は、まだ捨てきれずにいた。
そして、昔二人で通った喫茶店の前で足を止める。
「ここ、覚えてる?」
美咲は店を見る。
古い木製の扉。窓際の赤い椅子。
何も浮かばない。
「……ごめん。分からない」
「大丈夫」
別の日には川沿いを歩いた。
「ここは?」
「分からない」
「そっか。大丈夫」
その言葉を聞くたび、美咲の胸は重くなった。
悠真は優しかった。
急かさない。怒らない。責めない。
だから余計につらかった。
美咲には分かってしまう。
彼の「大丈夫」が、本当の大丈夫ではないことくらい。
ある夜、美咲は実家で父と向かい合っていた。
「悠真さんて……ずっと待つつもりなのかな?」
父は黙って湯飲みを置いた。
「私、あの人を見るたびに申し訳なくなる」
「……そうか」
「何も思い出せないのに、思い出さなきゃいけない気がするの」
父はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「母さんもな。病気をしたとき、俺との思い出をいくつか失くしたんだ」
美咲は顔を上げた。
母が病気をしていたころのことは覚えている。
けれど、父がその話をすることはほとんどなかった。
「最初は俺も、元に戻ってほしくて必死だったよ」
父は自嘲するように笑った。
「写真を見せて、昔行った場所の話をして。これは覚えてるか、あれは覚えてるかってな。俺は、それが母さんのためだと思ってた」
父は少しだけ視線を落とした。
「思い出せば元に戻れる。元に戻れば、また幸せになれるって。……でも、ある日、母さんに言われたんだ」
少し間を置いて、父は続けた。
「あなたの思い出の中の私に、今の私が勝てないって」
父は湯飲みを見つめた。
「それで、やっと分かった」
父は湯飲みを見つめた。
「俺は、目の前にいる母さんじゃなくて、昔の母さんに戻ってほしかったんだ」
美咲は黙って聞いていた。
「待つほうが悪いわけじゃないんだ」
父は言った。
「だから難しいんだよ」
その言葉を聞いたとき、美咲は事故の前に自分が悠真へ何を言ったのかを、もちろん思い出せなかった。
母が記憶を失ったとき、自分は忘れられる側だった。
今度は、自分が悠真を忘れている。
その事実に気づいた瞬間、美咲は初めて、悠真が何を失ったのかを考えた。
数日後。
悠真は一人で美咲の実家を訪れた。
美咲はいなかった。
父と向かい合い、長い沈黙のあとで悠真が言った。
「婚約を、破棄しようと思います」
父の目がわずかに動いた。
「……そうか」
驚かなかったわけではない。
美咲と悠真が、どれほど結婚を楽しみにしていたか知っている。
父自身も、その日を楽しみにしていた。
それでも反対はしなかった。
ただ、少し寂しそうに悠真を見た。
「それで、本当にいいのか」
悠真はすぐには答えなかった。
「本当は……よくないですが」
声が少し震えた。
「思い出してほしいです。また俺を好きになってほしい。結婚したかった」
悠真は俯いた。
「でも俺が『婚約者だった』って言ったら、美咲はきっと考えると思うんです。自分は俺を好きにならなきゃいけないんじゃないかって」
父は何も言わなかった。
「俺を好きだったことまで、美咲に背負わせたくないんです」
父は何も言わなかった。
ただ、目の前の悠真を見ながら、かつての自分を思い出していた。
妻に昔の記憶を取り戻してほしくて、写真を見せ、思い出の場所を何度も語った。
あのころの自分も、妻を苦しめたいわけではなかった。
ただ、元に戻ってほしかった。
それだけだった。
そして今、悠真も同じ場所に立っている。
愛しているから待ちたい。
思い出してほしい。
もう一度、自分を好きになってほしい。
けれど悠真は、自分ができなかったことをしようとしていた。
目の前にいる美咲を、過去の美咲から自由にしようとしている。
父は亡き妻の顔を思い浮かべた。
本当は、悠真に待っていてほしかった。
いつか娘が思い出すかもしれない。
事故さえなければ、二人は家族になるはずだった。
それでも、その願いを口にはしなかった。
「美咲を待たないと決めるのも、つらいだろう」
「……はい」
悠真は小さく答えた。
しばらくして、悠真が顔を上げた。
「お父さん。一つだけ、お願いしてもいいですか」
「なんだ」
「美咲のアルバムに、俺たちの写真がありますよね」
父は少し考えてから、うなずいた。
「ああ」
「その中から、一枚だけ……俺にくれませんか」
父は悠真を見た。
「一枚だけ?」
「はい」
父は立ち上がり、棚からアルバムを取り出した。
悠真は受け取ると、ゆっくりページをめくった。
海辺で撮った写真。
誕生日の写真。
二人で旅行したときの写真。
どれも、そのまま通り過ぎた。
やがて、悠真の手が止まった。
そこには、美咲が左手をこちらへ向けて笑っている写真があった。
薬指には、婚約指輪が光っていた。
悠真はその写真を、そっとアルバムから抜いた。
父が尋ねた。
「ほかの写真は、いいのか」
「はい。残してください」
悠真は手の中の一枚を見つめた。
「あったことまで、なくしたくないので」
父は何も言わなかった。
悠真が抜いたのは、二人が愛し合っていた証ではなかった。
これから二人で生きていくと約束した、その一枚だけだった。
記憶が戻らないことに苦しむ美咲に、これ以上「思い出さなければ」という重荷を背負わせたくなかった。
過去の約束に縛られず、今の美咲の気持ちで生きてほしい。
そう願う一方で、いつか自分を思い出して、もう一度戻ってきてほしいという気持ちも、悠真の中から消えてはいなかった。
だからこそ、その願いを美咲に背負わせないために、悠真は未来を約束した写真だけを手放した。
そして、アルバムには、一つだけ空白が残った。
そして、三年が過ぎた。
失った三年間の記憶は、結局戻らなかった。
それでも時間は流れ、気づけば美咲は、悠真のいない日常を当たり前のように過ごすようになっていた。
美咲が思い出せない時間と同じだけの年月が、もう一度流れた。
美咲は三十歳になっていた。
かつて三年間を共にした悠真も、その同じ年月をかけて少しずつ美咲の日常から遠ざかり、今では別の時間を生きていた。
二人は、いつしか連絡さえ取らなくなっていた。
ある休日、美咲は実家の引っ越しを手伝うため、久しぶりに帰ってきた。
居間に入ると、父は段ボール箱を広げ、棚の中のものを一つずつ整理していた。
「ただいま」
「おう」
引っ越しの整理を始めると美咲は、ふと棚の隅に目を留めた。
そこには、片付けの途中で取り出されたのか、小さな宝石箱が置かれていた。
見覚えのない箱だった。
「これ、何?」
美咲が宝石箱を手に取った瞬間、父の手が止まった。
その視線が、一瞬だけ美咲の手元に向けられる。
美咲はその様子に気づかないまま、箱を開けた。
中には、指輪が一つ入っていた。
細い銀色のリングに、小さな石が光っている。
「……母さんの?」
父はすぐには答えなかった。
美咲は指輪をつまみ上げた。
何気なく裏返したとき、リングの内側に小さな文字が刻まれていることに気づいた。
目を細める。
MISAKI
美咲の指が止まった。
もう一度、確かめる。
見間違いではない。
そこには確かに、自分の名前が刻まれていた。
「……え?」
母のものだと思っていた。
けれど、母の名前ではない。
美咲は困惑したまま父を見る。
「これ……私の名前だよね?」
父は何も答えない。
「なんで?」
指輪を見る。
自分の名前が刻まれている。
それなのに、この指輪を見た記憶がまったくない。
もらったことも。
指にはめたことも。
誰かと一緒に選んだことも。
何一つ思い出せなかった。
「これ……私の?」
父は少し迷ってから、うなずいた。
「ああ」
「どうして、ここにあるの?」
父はしばらく美咲を見ていた。
そして、静かに言った。
「婚約指輪だよ」
美咲の表情が止まった。
「……婚約?」
「悠真くんからもらったものだ」
美咲は父を見ることもできず、手の中の指輪を見つめた。
「私たち……結婚するはずだったの?」
「ああ」
その一言だけで、美咲の知らない三年間が急に重さを持った。
悠真とは三年間付き合っていた。
そこまでは聞いていた。
けれど、その先があったことは知らなかった。
美咲はもう一度、リングの内側を見る。
MISAKI
間違いなく、自分のものだった。
それなのに、まるで知らない誰かの持ち物を手にしているようだった。
美咲は指輪を箱に戻そうとして、手を止めた。
この指輪を受け取ったとき、自分はどんな顔をしていたのだろう。
嬉しかったのだろうか。
泣いたのだろうか。
それとも、悠真と二人で笑っていたのだろうか。
何一つ思い出せない。
ふと、棚の奥にあるアルバムが目に入った。
事故の前、自分が何年もかけて写真を収めていたアルバム。
美咲は宝石箱をテーブルに置き、アルバムを取り出した。
少し迷ってから、表紙を開く。
そこには、自分の知らない自分がいた。
悠真と並んで笑う自分。
何気ない表情で写る悠真。
二人で出かけた日の景色や、ふとした瞬間に撮った写真。
ページをめくるたび、そこには自分の知らない三年間の日々が残されていた。
どの写真を見ても、記憶は戻らなかった。
懐かしいとも思わない。
けれど、写真の中の自分が悠真を好きだったことだけは分かった。
知らない自分なのに、その表情だけは嘘ではないと思えた。
美咲はゆっくりとページをめくっていった。
やがて、ある写真に目が止まった。
左手に指輪をしている。
美咲はテーブルの宝石箱へ目をやった。
指輪を取り出し、写真と見比べる。
同じものだった。
「……同じ、もの?」
小さく呟いた。
このころには、もう婚約していたのだ。
美咲はその先のページへ手を伸ばした。
そして、止まった。
一か所だけ、写真がなかった。
四隅には写真を留めていた跡が残っている。
最初から空いていた場所ではない。
ここには確かに、何かの写真があった。
美咲は前のページへ戻った。
悠真と笑っている写真。
次のページを見る。
そこにも二人の写真が残っている。
もう一度、空白を見る。
何故か、この一枚だけがない。
美咲は指で、空白になった場所をそっとなぞった。
「……なんで?」
父を見る。
「お父さん。この写真、知らない?」
父は空白を見つめた。
一瞬だけ、答えるまでに間があった。
「……俺からは、何も言えない」
美咲は父を見る。
「どういうこと?」
父はそれ以上答えなかった。
その態度で、美咲には分かった。
父は何かを知っている。
そして、それを自分に話さない理由もある。
美咲は再び空白になったアルバムに目を落とした。
婚約していたことを、自分は知らなかった。
自分の名前が刻まれた指輪のことも知らなかった。
そして今度は、自分のアルバムから一枚だけ写真が消えている。
失った三年間の中に、自分の知らないことがまだある。
美咲はしばらく、その空白を見つめていた。
知っているとしたら、悠真しかいない。
美咲はガラケーを取り出した。
アドレス帳を開き、悠真の名前を探す。
二年間、ほとんど連絡を取っていなかった。
名前を見つめたまま、美咲の指が止まる。
今さら電話をしていいのだろうか。
けれど、このまま知らないふりもできなかった。
美咲は意を決して、通話ボタンを押した。
呼び出し音が続く。
一度。
二度。
三度。
「……もしもし」
久しぶりに聞く悠真の声だった。
美咲は一瞬、何を言おうとしていたのか分からなくなった。
「……悠真さん?」
「ああ!!」
「あの……聞きたいことがあるんだけど」
「どうした?」
美咲はアルバムの空白を見る。
「アルバムの写真……一枚だけないの」
電話の向こうで、悠真が黙った。
その沈黙だけで、美咲には分かった。
「悠真さんが抜いたの?」
少し間があった。
「……ああ……抜いた」
「どうして?」
また、沈黙が流れた。
やがて悠真が言った。
「それ……会って話さない?」
美咲は空白を見つめたまま、小さく答えた。
「……分かった」
数日後、二人は駅前で会った。
二人きりで会うのは、二年ぶりだった。
「久しぶり」
「うん。久しぶり」
それだけ言って、二人は歩き始めた。
最初は、少しだけぎこちなく、時間の隙間を埋めるような会話だったが、仕事の話や最近見た映画の話など、他愛のない話をしているうちに、いつの間にか二人は昔のように笑っていた。
二年前は、悠真と何を話せばいいのか分からなかった。
沈黙になるたびに、何か思い出さなければいけないような気がしていた。
今は、沈黙さえそれほど気にならない。
駅前の自動販売機の前で、悠真が立ち止まる。
「何か飲む?」
「うん」
悠真は二本買って、そのうち一本を美咲へ渡した。
ミルクティーだった。
「あ、これ好き」
「知ってる」
美咲は缶を受け取りながら、悠真を見る。
「覚えてたの?」
「まあね」
「私、そんなに飲んでた?」
「冬になるとよく飲んでた」
悠真は少し考える。
「でも、夏はレモンティー」
「……そうなの?」
「あと、コーヒーは砂糖入れすぎ」
「入れすぎじゃないよ」
「三本は入れすぎだろ」
美咲は思わず笑った。
「私より私のこと知ってない?」
悠真も笑った。
「三年分だけね」
その言葉に、美咲の笑顔がほんの少し止まった。
三年。
自分にはない三年間。
けれど悠真の中には、今も残っている。
歩き出すと、いつの間にか沈黙になっていた。
美咲は気になっていた写真について聞いた。
「ねえ」
「ん?」
「私って、昔から写真ばっかり撮ってた?」
「撮ってた」
「悠真の写真も?」
「ああ、いっぱい撮ってたね」
「嫌じゃなかった?」
「まあ、最初はちょっとね」
「やっぱり」
「でも、そのうち慣れた」
「じゃあ私、結構面倒くさかった?」
「そういうことは言ってない」
また二人で笑った。
こんなふうに話していると、美咲は自分が三年間を忘れていることさえ、時々忘れそうになる。
悠真には、不思議と何でも話せた。
くだらないことも、仕事の愚痴も、今まで誰にも言わなかったようなことも、悠真になら素直に話せる気がした。
何を話そうか考えなくても、言葉が自然に出てくる。
そして気づけば、もう少しこのまま話していたいと思っている。
美咲は隣を歩く悠真の横顔を見た。
この人は、自分の好きな飲み物を知っている。
コーヒーに砂糖をいくつ入れるか知っている。
写真を撮る癖も知っている。
きっと、自分が知らない自分を、まだたくさん知っている。
それなのに悠真は、昔の美咲はこうだったとか、美咲を過去へ戻そうとはしなかった。
二年前とは違って、ここを覚えてる?とか、これを思い出さない?とも聞かない。
ただ、悠真は今の美咲と話している。
それが、美咲には嬉しかった。
悠真といると、楽だった。
それだけのはずなのに、さっきから悠真の横顔が少し気になっている。
美咲は自分でもよく分からないまま、そっと視線を前に戻した。
そして、駅近くのベンチでに座り、しばらく何でもない話をしていたかと思うとやがて会話が途切れた。
美咲には、ずっと聞こうとして、聞けなかったことがあった。
しばらく黙ったまま、膝の上の手にそっと力を込める。
迷うように一度視線を落としてから、美咲は意を決して悠真を見た。
「あのさ」
「ん?」
「変なこと聞いてもいい?」
「いいよ」
美咲は少し迷った。
「私たちって……どんな二人だった?」
悠真が黙った。
さっきまで自然に続いていた会話が、そこで初めて止まった。
「どんなって?」
「その……」
美咲は少し困惑した。
「付き合ってたのは知ってたけど……私たちって婚約してたんだよね?この前初めて知ったから」
「ああ……」
「だから、ちょっと分からなくて」
美咲は悠真を見られなかった。
「私、悠真と結婚したいって思うくらい……好きだったんだよね?」
雨音だけが二人の間を埋めた。
聞いた瞬間、美咲は少し後悔した。
まるで他人の恋愛について尋ねているようで。
でも、その相手は自分だった。
悠真はしばらく黙っていた。
「……そうだと思うよ」
その答えにも、どこか距離があった。
美咲は小さく笑った。
「変だね。自分のことなのに、悠真に聞いてる」
「仕方ないよ」
「うん」
また沈黙した。
さっきまで心地よかった沈黙とは、少し違った。
美咲は横にいる悠真を意識していた。
この人と結婚しようとしていた自分。
その自分の気持ちは、今も分からない。
けれど今日、悠真と話して笑ったこと。
自分でも忘れていたような小さなことを覚えていてくれたこと。
それを押しつけることなく、今の自分を見てくれていること。
その一つ一つが、美咲の中に残っていた。
昔の気持ちを思い出したわけではない。
それなのに、もう少し一緒にいたいと思っている。
ただ、今の気持ちが何なのか明確な答えが出なかった。
そして、もう一つの聞かなければならないことを思い出した。
「……あの写真、何だったの?」
悠真の表情が変わった。
しばらく黙ったあと、悠真は古い封筒を取り出した。
中には、一枚の写真が入っていた。
美咲が左手をこちらへ向けて笑っている。
薬指には、あの指輪。
隣には悠真がいた。
二人とも、驚くほど幸せそうだった。
「この写真って…」
「婚約した日に撮った写真」
美咲は写真を見つめた。
「どうして、これだけ抜いたの?」
「約束した写真だったから」
悠真は静かに言った。
「ほかの写真は、あったことだから残したかった。でもこれは、これからの写真だったから」
「約束?」
アルバムに残った写真に写っているのは、二人が実際に過ごした時間だが、悠真が抜いたその一枚だけは違っていた。
これからも一緒にいること。
二人で、その先の人生を歩いていくこと。
まだ起きていない未来を約束した写真だった。
ただ、美咲はそれ以上、何も言えなかった。
悠真は、事故のあと自分から婚約を解消したことを話した。
知らない男との約束に、美咲を縛りたくなかったこと。
思い出してほしかったこと。
それでも、待つことをやめたことを伝えた。
「今は、もういいの?」
美咲は尋ねた。
「もう、思い出してほしいとは思わない?」
悠真は少し考えた。
「思い出してくれたら、嬉しいよ」
そして笑った。
「でも、それは俺の人生じゃなくて、美咲の人生だから」
その言葉に、美咲は俯いた。
分かってしまった。
昔の自分が、なぜこの人を好きだったのか。
そして今の自分も、もう同じ場所に立ち始めていることを。
言葉にしようと思えば、できた。
でも、美咲は言わなかった。
悠真が二年かけて手放したものを、自分の気持ちでもう一度引き戻したくなかった。
「これ、返すよ」
美咲は写真を差し出した。
けれど悠真は、受け取らなかった。
「美咲が持ってて」
「でも、これは悠真の思い出でもあるでしょう?」
悠真は写真を見つめたまま、少し困ったように笑った。
「俺が持ってると、ちょっと困る人もいるから」
美咲の手が止まった。
「……そっか」
誰のことなのか、聞かなくても分かった。
美咲には、悠真と過ごした三年間の記憶がない。
好きになったことも。
一緒に笑ったことも。
結婚しようと約束した日のことも。
その三年間を知っているのは、悠真だけだった。
けれど今度は逆だった。
美咲の知らない二年間を、悠真は生きている。
その二年間に、悠真は誰かと出会った。
自分の知らない悠真を、その人は知っている。
自分が忘れてしまった三年間。
自分がいなかった二年間。
美咲にとっては、どちらも知らない時間だった。
けれど、不思議だった。
忘れた三年間を取り戻したいとは、ずっと思えなかった。
なのに今は、悠真の二年間を知りたいと思っている。
誰と出会って、どんなふうに過ごして、今、誰を大切にしているのか。
知りたい。
そう思ってしまうことが、少し苦しかった。
美咲はようやく気づいた。
昔の悠真を取り戻したいんじゃない。
今、目の前にいる悠真を、もっと知りたいのだ。
けれど、その悠真にはもう、自分の知らない時間と、自分ではない誰かがいる。
「じゃあ……私が持ってていいの?」
「ああ」
悠真はそう答えて、美咲の手の中の写真を見た。
悠真にとって、その写真はずっと、終わったはずの未来だった。
二年前、美咲が二人の三年間を忘れたとき、悠真は自分だけがその時間を覚えていることが苦しかった。
思い出してほしかった。
自分を好きだったことも、結婚を約束したことも、二人で過ごした時間が本当にあったことも。
いつか美咲が、自分から過去を知りたいと思ってくれることを願っていた。
けれど、待ち続けることはできなかった。
悠真はその願いを手放して、自分の人生を歩き始めていた。
それなのに二年経った今、美咲は自分の意思でアルバムを開いた。
誰かに言われたからではない。
自分から写真を見て、自分から悠真に電話をかけて、自分から二人の過去を知ろうとしてくれた。
二年前なら、それだけで十分だった。
きっと、何より嬉しかった。
悠真は少しだけ笑った。
今だって、嬉しい。
美咲が二人の時間をなかったことにせず、自分から手を伸ばしてくれたことが、本当に嬉しかった。
でも、その嬉しさの先に、今の悠真には昔と同じ未来はなかった。
美咲がようやく過去へ手を伸ばしたとき、悠真はもう未来へ歩き始めていた。
だから、嬉しかった。
そして同じくらい、寂しかった。
「それは、美咲が持ってて」
美咲は悠真を見た。
悠真はいつもの穏やかな顔をしていた。
「……分かった」
美咲は写真を封筒に戻した。
雨は、もう上がっていた。
駅で二人は別れた。
「じゃあね」
「うん。またね」
美咲は歩き出した。
悠真も、反対側へ歩いていく。
二人とも振り返らなかった。
美咲の鞄には、失った三年間の中で、きっと一番大切だった一枚がある。
そして悠真には、美咲の知らない二年間がある。
二人の時間は、もう同じ場所にはなかった。
それでも、「またね」という言葉だけが、美咲の胸に残っていた。
振り返ったら、言ってしまいそうだった。
もう少し一緒にいたい。
また会いたい。
今度は、私があなたを好きになった。
だから美咲は、前だけを見て歩いた。
その夜、美咲は部屋でアルバムを開いた。
悠真と笑う自分。
海辺の二人。
何でもない日に撮った写真。
そして、一枚だけ足りない場所。
美咲はその空白に指先を置いた。
写真は、今ここにある。
けれど、あの日の記憶は戻らない。
悠真と過ごした三年間も、自分の知らない二年間も、埋めることはできない。
そして、あの写真に写っていた未来も、もう戻ってはこない。
それでも、あの三年間は確かにあった。
写真の中で笑っている自分が、それを教えてくれる。
そして今日、自分の中に生まれた気持ちも、誰にも伝えなかったからといって、なかったことにはならない。
美咲は、そっと指を離した。
鞄から封筒を取り出した。
中には、あの日の二人が笑っている。
美咲は写真をアルバムには戻さなかった。
もう一度封筒にしまい、机の引き出しへそっと収めた。
空白は、空白のままだった。
それでいいと思った。
大切なものは、残せなかったから消えるのではない。
続かなかったから、嘘になるのでもない。
美咲は一枚だけ足りないまま、静かにアルバムを閉じた。




