第20話 彼女を演じる俺①
「ふぅ……」
トイレから出ると、冷たい水が手のひらの汗を洗い流し、混乱していた頭もようやく少し落ち着きを取り戻した。
「ま、まあ……結果オーライってやつか。今の時間、女子トイレに誰もいなくて助かった……」
とはいえ、これも体が入れ替わった以上、避けられない問題のひとつだ。
でもやっぱり、人の多い時間帯に堂々と女子トイレへ入っていく勇気は、今の俺にはまだなかった。
ポケットから、自分のものではない、いい香りのする上品なハンカチを取り出す。ゆっくりと手を拭きながら、誰もいない学校の廊下を歩いた。
「帰りたくないな……」
まず、心の中で、尊敬するモモ先生に謝っておこう。別に授業が退屈ってわけじゃない。
ただ、教室に戻れば、また、あちこちからの視線に耐えなければならないと思うと、足が重くなる……。
まさか、いつもは涼しい顔をしているあの白瀬が、毎日こんなふうに、一挙手一投足を、誰かに見られながら過ごしていたなんて、想像もしなかった。
「うっ……元々目立たない陰キャだった身としては、考えただけで、胃が痛くなってきた……ん?」
腰をかがめて腹を押さえ、ますます重くなる足を引きずって角を曲がり、ようやくクラスが見える辺りまで来たところで、思わず立ち止まった。
「……あれは?」
自分からそう遠くない窓際に、一人の女の子がゆったりと腰掛けている。
彼女は何食わぬ顔で、開け放たれた窓に腰かけており、廊下に背を向けて窓外を眺めている。
柔らかなグレーのロングヘアが日差しに照らされて、プラチナのような透き通る光を放っている。まるで月光が凝結した羽のように、静かに後ろへ垂れ下がっていた。
制服のリボンの色からして、俺と同じ学年の生徒のはず……だが、その体つきはモモ先生と同じくらいの、小柄で繊細な印象だった。
目を閉じた彼女は、細い脚を窓の外に投げ出し、ニーソックスに包まれた足先が、口ずさむメロディーに合わせて、ゆらゆらと前後に揺れる……まるで疲れを知らない振り子のように――
「……」
それは、あまりにも非現実的な光景だった。
まるでファンタジー画集からページを一枚、むんずと引きちぎって来たような、美しくて、静かで、けれどどこか常識を逸した危うさを孕んでいる。
というか、ここ三階だぞ、この高さから落ちたら、シャレにならない。
湧き上がる緊張と危機感が、最初に抱いた好奇心をあっという間に押し流していく。
あの子はどのクラスの生徒だ?
なんで授業中にこんなところに?それに、どうしてあんな危ない場所に座っている?
数々の不思議な疑問は、結局現実の切迫した状況に取って代わられた。俺は乾いた喉をゴクリと鳴らし、慎重に口を開いた。
「あ、あの……そんなところに座ってたら危ないよ」
周りの教室には生徒がぎっしりのはずなのに、なぜかそのざわめきが全く聞こえてこない……。
静まり返った廊下の中で、俺の声だけがぽつんと浮かび、寂しく反響していた。
いつの間にか、彼女の口ずさんでいた歌声が止み、ゆらゆらと揺れていた足もぴたりと止まった。
「……」
ゆっくりと振り返った彼女は、何も言わずにただ桜色の唇をわずかに上げ、無邪気な笑みを浮かべている。
まるで、最初から俺が声をかけることを知っていたかのような、驚きも、怯えもない。そこにあるのは、ただ澄みきった喜びだけだった。
だけど、その微笑みを見ているうちに、胸の奥で小さな違和感が弾けた。
そうだ、この不思議な笑顔、どこかで見たことがある気がする。でも、それがどこだったのかは、どうしても思い出せない。
「あのさ……っ!」
俺が再び勇気を振り絞り、謎めいた彼女に話しかけようとした、その時。突然の強風が、何の前触れもなく窓から吹き込んできた。壁の掲示板に貼られたポスターさえも、バサバサと音を立ててはためいている。
「うっ……」
思わず目を閉じ、風に煽られるスカートを手で押さえた……。
その間にも、耳を打つような風の唸りがしばらく続き……やがて、静寂が戻った。
そして――
「えっ……?」
目を開けた俺の視界から、あの少女の姿は消えていた。
さっきまで確かに、あの窓辺に……いたはずなのに。
時間にしてほんの数秒。俺の視線が逸れたのは、一瞬のことだ、気づかないうちに、この廊下から立ち去れるわけがない……。
「ま、まさか……!」
胸の奥で、嫌な想像が膨れ上がる。
冷たい恐怖が全身を駆け巡り、血の気が一瞬で引いていく。
落ちた?窓の外に――?
不慮の事故か?それとも、計画的な自殺だったのか!?
どちらにせよ、その不合理さに思いを巡らせる暇もなく、体が勝手に動いていた。
ダッシュするときよりも必死な勢いで、俺は窓際まで駆け寄ると、まだ彼女の温もりが残る窓枠に両手をつき、なりふり構わず下を覗き込んだ。
しかし、そこには何もなかった。
安堵すべきか、困惑すべきか……。低い植え込みが広がる花壇には、倒れている人影も、助けを求める悲鳴も、物音を聞きつけて集まってくる生徒や先生の姿もない。
体育の授業中らしい下級生が数人、ボールを抱えて足早に通り過ぎていくだけで、全てがいつも通り、不気味なほどに平穏だった。
「な、なんで……?」
それでも諦めきれず、俺は必死に首を伸ばし、窓枠の真下の中庭、遠くのグラウンド、視界に入る限りの隅々まで、もう一度注意深く確認した。
いない……。
どこにも、いなかった。
まるで「落ちた」んじゃなく、「この世から消えていた」みたいに。
あの俺に謎めいた笑みを浮かべた、印象的なプラチナのロングヘアをした彼女は、まるで幻のように……風と一緒に跡形もなく消えてしまった。
もしこの窓枠に、まだほんのりと残るぬくもりがなければ……これが奇妙な白昼夢だったのではないかと、疑ってしまっただろう。
「一体、どうなってんだよ……」
力が抜けたように、俺はその場に寄りかかる。壁に背中を預け、息を荒げながら心臓の鼓動を抑えようとした。
廊下は相変わらず静かだが、いつの間にか、近くの教室から話し声が聞こえるようになっていた。傾き始めた日差しが廊下を斜めに照らし、俺の影を長く引き伸ばす。
そういえば、あの子の影……見えたっけ?
「……幽霊、か?」
思わず、口からこぼれた言葉。確証なんてどこにもない。でも、あの印象的な笑みが、すでに「幽霊」みたいに心の中で離れなかった。
しばらくその場に立ち尽くしたまま、結局答えを見つけられず。
代わりに白瀬のスマホを取り出し、何の変哲もない窓辺を一枚だけ撮影した。
そして、得体の知れないざわつきを胸に抱えたまま、足取り重く教室へと戻っていく。
ほんの短い廊下だったが、俺は何度も振り返り、通り過ぎる窓の一つ一つを眺めていた。
まるで、あの名も知らぬ不思議な少女が、いつまたそこに現れて、誰も知らない歌を口ずさみながら、軽やかに足を揺らしているのではないかと……。
――「よく笑う幽霊さん」。謎に満ちた彼女を、俺はひとまずそう呼ぶことにした。
彼女は、一体誰なんだろう?
――『昼休み、話したいことがあるから、席で待っててくれ』
四時間目が始まる前、俺は「白瀬(笹原)」にそうメッセージを送った。
だが、昼休みを告げるチャイムが鳴り響くまで、「彼女(彼)」からの返信は一通もなかった。
「……完全スルーかよ」
休み時間のたびに様子を見に行こうと思っても、「彼女(彼)」の席はいつも空っぽ。
どこへ行っていたのか、授業が始まると同時にいつの間にか教室に戻ってきている……。
その神出鬼没ぶりときたら、まるで忍者でも見ている気分だった。
「はぁ……しょうがねぇ」
その「既読スルー」されたメッセージを、スマホごとポケットに突っ込む。
仕方なく立ち上がり、もうこれが最後の手段だ──「白瀬(笹原)」がまたどこかへ消えてしまう前に、クラスで「彼女(彼)」を捕まえるのだ……。
そんなことをすれば、また周りの誤解を招くかもしれないが、他に良い方法も思いつかない。
「ささはら――」
「千紗……今ちょっといい?昼飯、一緒にどうだ……」
しかし、周りのクラスメイトが次々に席を立ち、教室が絶好の空きスペースを見計らい、最小限の被害で「彼女(彼)」に声をかけようとした、その時……。
いつも明るい笑顔を浮かべたあのイケメンが、またしてもタイミング悪く「俺(白瀬)」の前に立ちはだかり、隅の席が見えなくなった。
「うっ……優介……」
またこいつか……朝のいざこざで、少しは懲りたかと思ったのに。
おそらく、恋人の中でガタ落ちした自分のイメージを、どうにか挽回したいんだろう。
朝からずっと感じてた……あの余裕ぶった態度の裏に、焦りの色が滲んでる。
けど、悪いな。
今の俺には、そんな茶番に付き合ってる暇なんてない。
「……悪いけど、何か用なら後にしてくれないか?今、ちょっと急いでるんだ」
俺がそっけなく断ると、優介の顔から笑顔が消え、いつも自信に満ち溢れていた表情が曇った。




