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第19話 思いもよらぬ暗流④

もう一方は、依然としてしつこく、じりじりと追い詰めてくる周囲の視線……。


途方に暮れて頭を抱えていたその時、透き通るようで、どこか気だるげな声が、まるで天からの恵みの雨のように、教室の混沌とした空気を一瞬で吹き払った――


「あんたたち、何やってんの。もうすぐ予鈴が鳴るわよ。全員、席に着きなさい」


その一言で、その場にいた全員の顔色が変わった。さっきまで野次馬をしていた連中も、あっという間に蜘蛛の子を散らすように去っていく。


――「やべっ!モモ先生が来たぞ、逃げろ!」


――「赤色怪獣警報!避難準備!」


――「おはよう、モモ先生……今日も可愛いね」


「ふん、当たり前でしょ。でも、次そのあだ名で呼んだら、テストの点数、半分にしてあげるわよ……。あと、今、怪獣って言ったの誰?廊下に立ってなさい」


皆が慌ただしく席に着く騒ぎの中、サイズの合わない白衣を羽織った小柄な若い女性が、周りの喧騒とは不釣り合いなほどゆったりとした足取りで、教壇に上がった。


彼女こそ、うちのクラスの担任であり、化学を担当している――桃屋和香(ももやわか)先生だ。


大学を卒業したばかりだというのに、その小柄な身長は、遥愛といい勝負なくらいで。


そのせいで、学校内ではよく事情を知らない上級生に、「迷子の中学生」と勘違いされて、無理やり職員室に連れて行かれては激怒する、というのが日常茶飯事だ。


それに加え、苗字の「(もも)」という可愛らしい響きから、皆、普段は陰で親しみを込めて「モモ先生」と呼ぶことも多い。


本人は身長のことを少し気にしているようだけど、生徒と年齢が近い見た目や、細かいことにこだわらない気さくな性格のおかげで、生徒たちから絶大な人気を誇っているんだろう。


「ん……?久堂と笹原、聞こえなかったの?いつまでそこに突っ立ってるつもり?というか……なんで手、繋いでるの?」


周りがほとんど着席したのに、まだその場で睨み合っている二人を見て、事情を知らないモモ先生の視線は、徐々に怪訝なものへと変わっていった――


「あんたたち、もしかして……そっちのケがあるの?」


「ありません!」


「……なんで白瀬がそんなに必死なの?」


俺の今後の幸せがかかってるんですよ!


――「報告します、モモ先生!二人は、白瀬さんのノートを巡って争ってました!」


「なるほどね……報告ご苦労さん。ついでに、あなたも外に立ってなさい」


野次馬の一人を黙らせると、モモ先生は呆れた顔で腕を組み、あくびをしながら、教卓にあった教材を扇子代わりにパタパタと仰ぎ始めた。


「これがいわゆる……修羅場ってやつ?別に恋愛禁止なんて言ってないけど、そういう思春期特有の面倒事は、私の見えないところでやってくれないかしら?体育館の裏でも、廊下の突き当たりでも、屋上でも、どこでもいいでしょ……。今すぐ廊下に立たされたくないなら、とっとと席に戻りなさい」


アメとムチを使い分けたその一声は、まるでリング上のレフリーのホイッスルのように、互いに睨み合っていた二人を、不本意ながらも手を離させた……。だが、どちらも自分が勝ったとでも思っているのか、互いに捨て台詞を残していく。


「ちっ、運が良かったな」


「ふん、命拾いしたわね」


「平和的」に席に戻った二人を見て、モモ先生は頷くと、ふと何かを思い出したように、とんでもない結論を口にした。


「それとね……どんな結果になろうと、避妊は大事だから。しっかり覚えときなさい」


これ、教師が口にしていいセリフか!?


「あと……白瀬さん。後で、職員室に来なさい」


「……え、私がですか?」


マジで!?


心の中でツッコミを入れたばかりの俺は、信じられないというように、自分を指差した。


「そうよ。何か問題でも?」


「……い、いえ」


俺の指は、声と同じように力なく下ろされた……。


なんで、俺が呼ばれるんだ!?揉めてたのは、あいつら二人だろ!?


まさか、先週、俺の知らないところで……白瀬が何かやらかしたのか?


慌てて振り返り、席に座っている当事者を見た……が、彼女は、どこか他人事のように肩をすくめ、「ご愁傷様」とでも言いたげな表情を浮かべるだけだった。


「さて、静かにして、ホームルーム始めますよ」


こうして、さっきまでのドタバタ騒ぎも一旦は幕を下ろした。


だが、その場に立つ俺の胸中には、拭いようのない不安が渦巻いていた。


嫌な予感しかしない。


この日の面倒ごとは、まだ、始まったばかりだと。


「……」

カツカツとシャーペンの先で机を叩き、黒板を見つめる。だけど、俺の頭の中も、開いたノートの上も、真っ白なままだった。


「これを、この中に……ほんの数滴、加えれば……」


二時間目の化学の授業。モモ先生は、足元の台で背伸びをしながら教壇に立ち、ものすごく緊張した面持ちで手元の試験管を握りしめ、その中をゆっくりと流れる液体を、固唾を飲んで見つめていた。


――「モモ先生~、手、震えてるよ~」


下から、誰かが空気を読まない茶々を入れる。


「う、うるさい!これは武者震いよ!何も知らないガキが口出しするんじゃないわよ。これ以上何か言ったら、放課後、ビーカー洗い全部あなたにやらせるから!」


そう言うと、彼女は、その小柄な体格に欠けている威厳を取り戻そうとでもするかのように、苛立ちまぎれに手で机を強く叩いた。だが、その結果は裏目に出てしまう。


「いった!」


彼女は思わず手を押さえて叫び、痛みを紛らわそうと必死に手首を振るその滑稽な姿は、まるで怯えた小動物のようだった。


「せ、先生……今の、その……全部入っちゃったみたいですけど、大丈夫なんですか?」


「えっ?あっ……や、やばっ……!」


天川さんの声に、はっと我に返ったモモ先生の顔に、「終わった!」という絶望の色が浮かんだ。


次の瞬間、鮮やかなオレンジ色の炎が、ビーカーから勢いよく立ち上った。その燃え盛る様は、まるで点火されたロケットの噴射口のようだった。


「あわわわわ……火事!?私のボーナスが燃えていく地獄の業火あああ!は、早く!消火器持ってきてぇぇぇ!!」


――「落ち着けって、モモ先生!こういう時は普通、蓋をすればいいだけだろ?フライパンから火が出た時と同じでさ……」


「……あっ、そ、そうだった!」


誰かの助言で、理性を少し取り戻したモモ先生は、慌てて遮板を掴み、素早く被せた。


ビーカーの中で徐々に消えていく炎を見て、彼女はようやく、安堵のため息をつき、いつの間にか額に浮かんでいた冷や汗を拭った。


「ふぅ……せ、セーフ?」


――「どう見てもアウトだろ……ていうかモモ先生、なんでいっつも授業で、教科書の範囲を超える危ない実験ばっかするんだよ?」


「だって、退屈な授業より、こっちの方が面白いじゃない?」


彼女は、小さな胸を張り、まだ少し震えの残る声で、弁解を始めた。


「教科書なんかに縛られるな!化学にとって何より大切なのは、常識を破ることじゃないか!歴史上、どれだけ偉大な化学的発見が、偶然から生まれてきたことか――」


――「いや、教室で常識を破るのはダメでしょ……。モモ先生、また教頭先生に叱られたいんですか?」


「うっ……あの鬼……」


「鬼教頭」の異名を持つ教頭先生の名前が出た途端、彼女は、先ほどの勢いを完全に失ってしまった……。


まるで、悪いことをした子供のように、俯いて不安そうに指をいじっている彼女の姿に、教室からは、温かく、そして善意に満ちた笑い声が上がった。


――「ぷっ、ははははは」


「わ、笑うなぁーっ!!今の生徒には、科学のために身を捧げる崇高な精神ってものがないのかしら!?」


そんな賑やかな笑い声の中、俺だけは上の空で、さっきの休み時間に職員室に呼ばれた時の、モモ先生との微妙な会話を思い出していた――


「白瀬さん、あなた……最近また家に帰ってないでしょ?」


「え……あ、うん」


てっきり、教室での揉め事のせいで呼ばれたのかと思っていた……。だが、ポッキーを咥えたモモ先生が顔を上げて最初に口にしたのは、全く予想外の内容だった。


「……モデルの仕事、そんなに忙しいの?」


「う、うん……たぶん?」


正直、俺は白瀬の普段のスケジュールなんて知らない。だが、昨日、俺が白瀬の家に帰らなかったのは休日のことだ。モモ先生がそれを知っているはずはない……。ということは、先週から、白瀬はほとんど家に帰ってないってことなのか?


だとしたら、彼女が言っていた「たまに」なんてレベルじゃないだろ……。


「先生ね、普段成績優秀で真面目な白瀬さんが、まさか不良にでもなるとは思ってないけど……」


彼女は、より楽な姿勢に座り直し、椅子にゆったりと身を沈めたが、その視線は、ずっとこっちから離れなかった。


「でも、家出みたいな真似はほどほどにしときなさいよ」


「……」


「いい?仕事を言い訳にしちゃダメ。それは大人の特権だから。白瀬さんは、まだ学生なんだからね」


まるでチョークを振るうように、モモ先生は、噛み砕いたポッキーを勢いよく俺の方へ突きつけた。


食べかけのお菓子を、人に向けないでくれないか?


それに、先生の言うようなダメな大人にはなりたくないんですけど……。


「……あの!先生!」


「ん……?どうしたの?あ!ポ、ポッキーはあげないわよ」


別にそんなの狙ってないって。袖の中に隠さなくてもいいから、安心してくれ。


「その……うちの……いや、なんでもないです」


モモ先生に白瀬の家のことを聞きたかったけど……やっぱり、彼女である俺がそんなことを聞くのは、変に思われるよな……。


それに、あいつがわざわざ俺の前で家の話題を避けてるのは……つまり、知られたくないってことだ。


「何よ、言いかけてやめるなんて。そんな煮え切らない態度、いつもらしくないわね」


普段は、大雑把に見えるモモ先生でも、やはり、クラスの生徒一人一人を、きちんと見ている教師ということか……。


俺と、これまでの白瀬との違いを、鋭く見抜いた彼女は、訝しげな目で俺の顔をしばらく眺めた後、困ったように頭を掻いた。


「……とにかく、この前の面談で、早く自立したいって言ってたけど、それだって卒業してからの話でしょ。家族は、どうしたって身内なんだから、学生のうちに、堂々と甘えておいたって、バチは当たらないわよ……」


それは一般論なのか、それとも経験談なのか。残りの半分のポッキーも口に放り込んだモモ先生は、最後に何かを思い出したように、真面目な眼差しで付け加えた。


「……それに、白瀬さん。ほかに頼れる人って、いるの?」


「……」


最後に何と答えたのか、どうやって職員室を出たのかも、覚えていない……。


気づいた時には、俺は白瀬の席に座っていて、机の上の真っ白なノートを、ただぼんやりと眺めていた……。


こうしていつの間にか二時間目が始まっても、まだ気持ちは集中できずにいた……。

幸い、普段の白瀬もこんな風に、氷のように冷たい表情で、背筋をピンと伸ばし、まるで精巧で無口な彫像のように座っているので、周りも特に不審には思っていないようだ。だが――


「……ほかに頼れる人って、いるの……か」


モモ先生の気遣いの言葉が、どうしても混乱した頭から離れない。


同じように、一人暮らしを望みながらも、実家とは良好な関係を保っている俺とは、状況が違う。


白瀬の場合、早く自立したいというよりは、むしろ早く家との縁を切りたいように見える……。


モデルの仕事が増えたのも、自分のキャリアのためだけじゃなく……経済的に自立するため、っていう考えもあるんだろう。


だから、恋人である優介からの「裏切り」を感じたとき、あれほど理性を失った態度を見せたのだ……。


だって、優介の他に……彼女には、本当に、頼れる人がいなかったのかもしれないから。


「……白瀬」


正直言って、あの間違えて俺を刺したやつを、今すぐに簡単に許せるわけじゃない。

だが、彼女に一度は、見捨てられ、あまつさえ「償い」として俺に与えられたこの体、その胸で鼓動する心臓の音、そして、このか細い肩に背負うべき重みも、俺が想像していたよりも、ずっと重いものだった。


確か、どこかの本でこんな言葉を読んだ気がする――「人と人との関係とは、暗く未知の中を手探りするものだ」


でも、俺は一体、どうすればいいのだろう……?


憎むべきか、それとも、同情すべきか?


様々な複雑な感情が入り混じり、頭の中はもうぐちゃぐちゃになりそうだった。


「というわけで、ここでの正しい化学反応式は……笹原くん!答えてみなさい」


「え、あ……はい!」


思考が渦巻く中、突然教壇から名前を呼ばれ、考える間もなくとっさに立ち上がった。


しかし――。


「白瀬さん?急に立ち上がってどうしたの?」


「え、あ……その……」


モモ先生を含め、クラス中の訝しげな視線が、一斉にこちらに注がれた……。


その中で、天川さんは心配そうに俺を見つめ、優介は落ち着かない様子でそわそわしている……。


そして「白瀬(笹原)」は、同じくゆっくりと立ち上がり、氷のような表情で、まるで俺に「どうやって切り抜けるつもり」とでも言いたげだった……。


しまった、集中してなかったせいで……自分の名前を呼ばれた途端、つい癖で反応しちまった。


「お……お手洗いに行きたいです、先生……」


咄嗟に、自分でも無理があると思うような言い訳を捻り出した……。


だが、これも過去の白瀬の優等生ぶりと、日頃の行いの良さのおかげか、モモ先生は特に何も疑うことなく、面倒くさそうに手を振った。


「行ってきなさい、すぐ戻るのよ」


「はい……」


周りの訝しげな視線の中、慌てて教室を飛び出した。その間、背中に突き刺さる「白瀬(笹原)」からの視線を、振り返って確認する勇気はなかった。


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