第18話 思いもよらぬ暗流③
あの息の詰まるような空気は、ようやく晴れ間を迎え、教室は再びさっきまでの賑わいを取り戻した……。
ただ一人、安堵のため息を漏らした天川さんを除いて。
「ふぅ……」
彼女は俺たちが持っていた教材を教卓に綺麗に並べながら、周りに気づかれないように、そっと俺に近づいてきた。
「……千紗ちゃん、大丈夫?今日の千紗ちゃん、本当にどこかおかしいよ……具合でも悪いの?」
うっ……。
ずっと好きだった相手に、こんな至近距離から、心配そうに澄んだ瞳で見つめられて、心臓の鼓動がどんどん速くなるのを感じ、俺は思わず顔を背けた。
俺のヘマのせいで、ただでさえ忙しい天川さんに余計な手間をかけさせて、親友の白瀬のためにこんなに心配までさせてしまっている……。そんな純粋な目で見つめられると、たとえわざとじゃなくても、白瀬という立場で彼女を「騙している」という罪悪感が、胸の奥から込み上げてきて……良心が軋むように痛んだ。
「大丈夫だから、心配しないで……ごめんな、琴音。さっきは余計なことして、気を遣わせちゃった……」
――「……ふん、そうか?だが、俺の目には『お姉様』は随分と楽しそうに見えたけど?」
「そ、そんなことないって……ていうか、琴音、いつからそんな男みたいな声、出せるようになったの……?」
「……いや、千紗ちゃん、それ、私じゃない……」
え……?
気づけば、天川さんは目を丸くして、俺の背後を指差していた――
まさか……!?
嫌な予感が背筋を走る。俺は勢いよく振り返った……。
案の定、そこにいたのは、見慣れすぎた平凡な顔と、そこに張り付いた、笑顔とは呼べない不気味な作り笑い――。
「……席に戻るんだが、ちょっとどいてくれる?」
「白瀬(笹原)」は冷めた目で、そう言って眉をひそめた。
「しら……!ちがっ……笹原くん……今までどこ行ってたんだよ!?声もかけずに!」
「お前は俺の保護者か何かなのか?どこへ行こうが、千紗の許可が必要だというのか?ちょっと散歩してただけだ……いちいち騒ぐな」
散歩?そんなわけあるか!朝っぱらから学校で散歩するやつがどこにいるんだよ!?
言い訳を考えるのも面倒ってか……こいつ。
しかし、突如現れた「白瀬(笹原)」と俺が言い争っている間に、周りの空気が再び微妙なものになっていく……。
――「なあ、あいつのあの態度なんだよ。白瀬さん相手にあんな口の利き方、馴れ馴れしすぎだろ」
――「っていうか、今、白瀬さんのこと呼び捨てにしてなかった!?マジかよ」
――「待てよ……うちのクラスに、あんな勇者がいたなんてな。あいつ、名前なんだっけ?」
――「笹……いや、鏡原だっけ?昨日、隣のクラスのやつが、あいつと白瀬さんが一緒にファミレスにいるの見たらしいぜ」
いやいや、さっき俺の名前聞いてただろ!?なんでわざわざ言い間違えるんだよ!?
――「でも、白瀬さんって、久堂と付き合ってるって噂じゃなかったか?」
「いったいどういう関係なの?」――瞬時にしてクラス全員の意見が一致したようで、天川さんのおかげで一度は逸れた視線が、再び一斉に俺たちに集中した。
「そ、その……」
俺は期待の眼差しで、隣の天川さんをチラリと見た……。
「……」
残念ながら、彼女もただ黙って、戸惑った表情で俺と「白瀬(笹原)」の間を交互に見ているだけだ……。
どうやら、さすがの彼女も、この状況には手も足も出せなくなったらしい。
しかし、その中で唯一の例外として、周りの好奇な視線を全く意に介さない「白瀬(笹原)」は、目すら一度も瞬かせずに、冷たく「邪魔だ」とだけ言い残し、俺の横をすり抜けていった。
そして皆が見守る中、「白瀬(笹原)」はまっすぐ元の席へと向かうと、机の中から彼女の名前が書かれたノートを一冊抜き取った。
「これ、借りるね」
それは、俺に意見を求めているというより、一方的に告げているようなものだった……。
だが、「白瀬(笹原)」がそうあっさりと言い放ち、教室の隅にある俺の元の地味な席に戻ろうと踵を返した時、不意に追ってきた影が、その後ろから「彼女(彼)」の腕を掴んだ――
「……それ、千紗の物だろ。さっさと置け」
低く、厳しい声には、有無を言わせぬ威厳がこもっていた。
その視線はノートに鋭く突き刺さり、眉をひそめながらもなお角ばった整った顔立ちで、凛々しさを漂わせる――まさに、今、俺が最も見たくなかった人物だった……。
「……ふん、あんたもこれが彼女の物だって知ってるのね」
「白瀬(笹原)」は振り返り、声色にいくらかの軽蔑を滲ませた。細い眉をくいと上げ、侮る気持ちを隠そうともせずに、ちょうど朝練を終えて教室に戻ってきた優介に視線を合わせた。
「で?それがあんたと何の関係があるっていうの?」
鋭い視線と、優介の不機嫌そうな眼差しがぶつかり合い、空気中で見えない火花が散った……。
クラスメイトたちの視線も次第にそちらへ向き、好奇心に満ちたささやき声が教室中に広がっていった。
はぁ……。
そういえば昨日、あんな気まずい別れ方をしたばかりだ……。教室に足を踏み入れる直前まで、今日、優介とどんな顔で会えばいいのか、まったく整理がついていなかった。
なのに、今は、どうやら状況がさらにややこしくなってしまったらしい……。
「どういう関係だと?」
優介の声が一段と高くなり、どこか歯ぎしりするような響きを帯びる。
「そんなの決まってる!千紗は俺の――」
「まさか、今さら『彼女』だなんて言うつもり?昨日あんなことがあったばかりで」
「ぐっ……てめぇ……」
優介が言い終わる前に、「白瀬(笹原)」が冷笑を浮かべて遮った。痛いところを突かれた優介の顔は、みるみるうちに険しくなる……。
一日経って冷静になったとはいえ、再会した二人の間には、依然として火花が散り、緊張感が漂っていた。
動揺を隠すように、優介は軽く咳払いをした。
周囲の視線が集まる教室の中で、この話題を続けるのが不利だと気づいたのか、今度は視線を「俺(白瀬)」へと向けてきた。
「俺と千紗の関係はさておき、お前だって、千紗の許可なく物を持ち出すほど、親しいわけじゃないだろ?」
「ふん、よく言うわね」
「白瀬(笹原)」の顔も曇り、目に不快な色がよぎった後、同じように鋭い視線を俺に向けてきた。
「なら、本人の意見を聞いてみましょうか。俺の行動が気に食わないのか、それとも、あんたの独りよがりな態度の方が気に食わないのか」
そう言うと、互いに勝利を確信している二人は、ほとんど同時に口を開いた――
「分かってるよな、千紗?」
えええ……全然分かんないんですけど!
なんでまた、この見覚えのある二択を迫られる展開なんだよ!?
お前ら、実は仲が良いんじゃないのか?面倒事が起きるたびに、いっつも結託して俺に厄介事を押し付けやがって!本当に頭が痛い……。
客観的に考えれば、確かに誰だって、自分の物を勝手に触られるのは嫌に決まってる。
でも、そもそもあれは元々白瀬のノートなんだ。彼女が苦労して取った板書だったり、あるいは俺に見られたくない内容が書いてあったりするなら、取り返したいと思うのは当然のことで……許可なんて必要ないはずだ。
というか……俺だって今後、自分の物を取るたびに、いちいち彼女の許可を得なきゃいけないなんて状況はごめんだ。
だが問題は、俺たちの間だけでしか通用しないその理由を、ここで優介や他のやつに説明できるはずもないってことで……。
「えっと……私は……」
――「どっちなんだ!?」
俺がなかなか答えを出せずにいると、周りからの視線がさらに強くなった……。まったく、見物好きにもほどがあるだろ、あんたら!?
「……そ、そろそろ止めた方がいいかな?琴音」
「……」
俺は慌てて隣の援軍に助けを求めたが、彼女はまるで思考がフリーズしたように固まっていた。
「琴音?」
「えっ?あ……ご、ごめん!えっと……雰囲気に流されたっていうか、驚きすぎて、つい……」
我に返った天川さんが、気まずそうに頬を掻く仕草は、すごくドキッとするけど……だが、次の瞬間、彼女はまるでこの世の終わりのような顔をして、がっくりと肩を落とした。
「……千紗ちゃんの様子は明らかにおかしいし、久堂くんと笹原くんは、普段あんなに仲がいいのに、いきなり険悪になってるし、周りのみんなは囃し立てるし……。どうして、休日が明けただけで、こんなことになっちゃったんだろう?もしかして私、教室を間違えちゃったのかな。だとしたら、本当に委員長失格だよね……あはは」
もう現実逃避に入ってる!?しっかりしてくれ、天川さん!
一方は、自己嫌悪に陥り、心ここにあらずといった様子の想い人……。




