第13話 穏やかな水面の下②
「うわあああああっ――!」
「……え!?」
けたたましい叫び声が、早朝の静寂を切り裂いた。俺は、勢いよくベッドから飛び起き、腕をめちゃくちゃに前に伸ばした。鼻先が、すぐそこにある人影にぶつかりそうになった。
「夢……なんだ、ただの悪夢か……」
俺は、大きく息を吸い込み、胸を激しく上下させ、心に残った恐怖を、一緒に吐き出そうとした。
「あんたねえ……」
聞き慣れた、冷たい声が響いた――
「頭突きで朝の挨拶は、まだ許せるとして、『自分』の顔を見て悲鳴を上げるなんてどういうこと?」
「誰……!?え、俺……?」
ぼやけていた視界が、徐々に焦点を結び、俺と瓜二つの顔が目に飛び込んできた。まるで、縁のない鏡を覗き込んでいるかのようだ。「鏡」の中の「俺」――笹原准は、眉をひそめ、不機嫌さが滲み出ていた。
「なんで俺が、目の前に立ってるんだ……。これ、もしかして、ドッキリの隠しカメラか何かか?」
「……まだ、寝ぼけてるの?」
俺をじっと見つめるこの男の顔には、呆れと苛立ちが入り混じっていた。
彼は、手に持っていた服を、俺に向かって投げつけた。その服は、軽やかで、空中に美しい弧を描き、甘い花の香りと共に、ふわりと目の前に落ちてきた。
これ、夢で見た、あの白いワンピースじゃないか?
「どうりで、こんな時間までぐずぐずしてるわけだ……」
彼は、腕を組み、見下すような態度で、説教を始めた――
「部屋に入った途端、あんたが手足をばたつかせて、ベッドの上で転げ回ってるのを見て、もう少しで床に落ちそうだったから、支えようとしたら、いきなり大声を出して跳ね起きて……。一体、何なの?あんたの寝相、普段からそんなにひどいの?まるで、動物園から逃げ出した猿みたいね」
「……も、申し訳ありません?」
理由は分からないが、どうやら俺は、朝っぱらから「自分」に、こっぴどく叱られたらしい……。これって、魂に直接響く、自己反省の時間か何かか?
え、そういえば、なんで白瀬の服が、俺の家にあるんだ!?
花のような豊かな香りが鼻腔をくすぐり、心臓は、どきりと跳ねた。俺は、無意識に布団を握りしめた……。
そして、さらに驚くべき事実に、俺は固まってしまった――毎朝、きちんと起立して、パンツを盛り上げていたあのテントが、今日は、跡形もなく消えていた。
「……まさか!?」
パニックになった俺は、勢いよくパジャマの裾をめくった。可愛い猫の柄の下着が、目に飛び込んできた。その光景は、まるで雷に打たれたかのように、残っていた眠気を、一瞬で吹き飛ばし、頭を、かつてないほどに冴え渡らせた。
「……」
「ぷっ……猫……ぷはははは……」
昨日の夜から、まだ笑い足りないのか!?
俺は、腹を抱えて、笑い転げている男……いや、本当は「白瀬(笹原)」の方を見つめ、悔しそうに、額に手を当てた。
思い出したくない記憶の断片が、頭の中で、ゆっくりと繋ぎ合わされていく……。そうだ、昨日、俺と彼女の体は、何か、超自然的な「体入れ替わり」現象に見舞われたんだった。
寝る前は、「目が覚めたら全部元通りになってるかも」なんて、甘っちょろい希望を抱いてたけど……どうやら現実はそんなに都合よくできてないらしい。
「はぁ……これも、夢の一部だったら良かったのに……」
俺は、手にしたワンピースを手に取った。その柔らかな感触と、確かな重みが、俺の心を、複雑な気持ちにさせた。
「……」
「……」
「……あのさ、着替えたいんだけど」
俺は勇気を振り絞って、退室を促した。しかし――
「どうぞ」
どうぞ、じゃねえよ!なんでお前、逆に、興味津々でベッドの横に座ってるんだよ!?
「さっさと出て行ってくれないか!?」
「……なぜ出て行く必要がある?そもそも、それは『私』の体でしょ?着替える姿なんて、もう何度も見慣れている」
「うっ……」
そう言われると、そうかもしれないが……。でも、こうやって、じっと見つめられながら着替えるのは、どう考えても、気まずい……。しかも、相手は、俺自身の顔をしている。
「それに、あんた一人で、本当に大丈夫なの?」
「……どういう意味だ?」
「別に――」
「白瀬(笹原)」は、人差し指をくるくると回し、口元に、狡猾な笑みを浮かべた。
「ただ、あんたは、もしかしたら……私の助けが必要かもしれないと思ってね」
「彼女(彼)」は、意味深に、語尾を伸ばした。
「だって、昨日の夜、シャワーを浴びてた時も――」
「うわっ!うわっ!うわっ!」
「……あんた、猿からヒヒに進化したの?朝っぱらからそんな大声出してたら、近所迷惑でしょ」
「その話は、忘れろって言っただろ!?」
「約束した覚えはないけど……。それに、ただ、髪を洗ってあげようとしただけじゃない。そこまで大げさに反応しなくてもいいでしょ」
それは、お前が声もかけずに、俺がシャワーを浴びている最中に、バスタオル一丁で入って来ようとしたからだろ!?
こいつ、いくら「元の体」だからって、遠慮なさすぎだろ!今は男になってるってこと、忘れてないよな!?正真正銘、ちゃんと「アレ」が付いてるんだぞ!!
「……でも、意外だね。あんた、お風呂に入る前に、髪をまとめることを知ってたなんて……。どこで覚えたの?」
「ふん、経験豊富な俺にとっては――」
「ああ、分かった。アニメでしょ?」
「……」
確かに、俺は、すぐにバレるような嘘をつくべきではなかったが、お前も、俺を舐めすぎだろ?
「……妹の、遥愛からだよ。あいつ、有名なコスプレイヤーになりたいって言ってるくせに、小さい頃から、そういう細かいことには無頓着で、実家にいた頃は、俺が髪を結んであげてたんだ。それに、乾かしたり、梳かしたりするのも……もう、慣れてるんだ」
「フン、どうりで、手際がいいわけだ……。つまんない」
俺を動揺させることができなかったのが、不満だったのか、「白瀬(笹原)」は、舌打ちをしながら、立ち上がり、ドアの方へと歩いていった。
「じゃあ、さっさと着替えて、顔を洗って、こっちに来なさい。朝食……もう、準備してあるから」
「お、すぐに行く……え、ちょっと待ってよ?」
あいつ、今、なんて言った?朝食だと?
しかし、「白瀬(笹原)」は、俺の驚きを無視して、静かにドアを閉めた。軽い音と共に、部屋には、ワンピースを握りしめた俺と、呆然とした表情だけが残された。
だが……驚きよりも更に、夢にも思わなかったのは、その短い「期待感」が、僅か十分間しか持続しなかったということだった――
「……」
見慣れた部屋、見慣れたテーブル。だが、今日、この変わることのない風景には、「白瀬(笹原)」が加わったことで、どこか、異質な彩りが添えられていた。
ただ、珍しく、誰かと一緒に朝食を囲む状況に、俺の食欲は、高まるどころか、むしろ、氷点下にまで落ち込んでいた。
「……どうしたの、食欲ないの?」
顔を上げた「白瀬(笹原)」は、無表情に手に持っていたグラスを置き、乾いた軽い音を立てた。
「先に言っとくけど、私は普段、節食で体型を維持してるタイプじゃない」
そんなことは、この体の様子を一目見ただけで分かっている……俺が言いたいのは、そんなことじゃない!もっと、純粋で、原始的な問題だ――
「あのさ、白瀬……」
「人が食事してる時に、話しかけるなって、教わらなかったのか?」
「いや……その前にだ!テーブルの上にあるこいつらは、もはや『朝食』とは言えないだろう!?」
目の前のテーブルの惨状を見て、俺は、自分の常識の中にある、「食事」という概念に、かつてないほどの疑念を抱いた……。
皿の真ん中に、ぽつんと一つ、全く調理されていない、丸ごとのトマト……。
冷蔵庫から出したばかりの、まだ、生々しい油の光沢を放っている、数枚のベーコン。
ジャムを塗って、無理やりトースターに押し込まれ、黒焦げと甘い香りが、不気味に混じり合った、食パン……。
そして……目玉焼きでもなく、卵焼きでもなく、最も簡単な、ゆで卵ですらない……。新鮮な生命力に満ち溢れた、生まれたてそのままの……生卵!?
疑う余地もなく、きっと「素材の味を活かす」ことを、信条にしている一流シェフでさえ、この質素を通り越して原始的な朝食を目にした瞬間、思わず涙するに違いない……。




