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第12話 穏やかな水面の下①

「ん……?」


鼻の奥に、どこか懐かしい――湿り気を帯びた独特の匂いがくすぐる。


周囲から聞こえてくる無数の囁き声が、やけに反響して広がり、がらんとしているのに騒がしい。


「ここは……?」


確か家で寝ていたはずだが、重い瞼を必死にこじ開けると、眩い光が瞬時に瞳を貫いた。


「うっ……」


俺は思わず呻き声を漏らし、無意識に手を目の前にかざした。


光は、頭上の高いドーム状の天井に並ぶ、まるで巨大な獣の目のような照明から放たれていた。空間全体を白昼のように照らし出し、眼下の全てのものを、隠れる場所なく晒け出している。


「………プール?」


目の前に広がる、きらきらと波打つ、底まで透き通った青い水面を見つめる。


そこに映っているのは、競パン一枚だけを身につけた俺の姿……。足元の、少しざらついた感触のスタート台。その冷たく湿った感触が足の裏から伝わり、眠りから覚めたばかりの体を、思わず震わせた。


頼れる「相棒」であるゴーグルは、きちんと額にかけられており、全てが、これからレースが始まる直前のようだった。


(一体、どうなってるんだ……?)


鈍い頭の中は混乱していた。なぜ俺はここにいる?それに……俺の体は、元に戻ったのか?白瀬は?


俺は無意識に周りを見渡した。


すると、スタート台にいるのは俺一人ではないことに気づき、驚いた。左右のいくつかのコースには、引き締まった体つきの、筋肉の線が鋼のようにくっきりと浮かび上がった選手たちが立っていた。


彼らは、以前コーチから注意するように言われていた、各強豪校のエースたちだ……。ほとんどの選手の顔には、極度の集中力がみなぎり、まるで空気を凍らせてしまうかのような真面目な表情を浮かべている。周囲の観客席は……どこを見ても人で埋め尽くされていた。


ぎっしりと、数えきれないほどの人影がうごめいている。彼らの顔は強い光の下でぼやけており、まるで灰色の絵の具で無造作に塗りたくられた油絵のようだった。


それでも――彼らは、確かにそこに「いる」。押し寄せる大波のような歓声が、その事実をいやでも突きつけてくる。。


その眩暈がしそうな光景のすべてが、心臓の鼓動を速め、呼吸を荒く、苦しくなってきた。


おかしい。何もかもがおかしい……。


――「Take your marks」


冷たい電子音が、何の予兆もなく会場全体に響き渡り、瞬時に全ての騒音をかき消した。


その瞬間、隣の選手たちが一斉に腰をかがめ、両手でスタート台の先端を掴んだ。その体は、まるで獲物を狙うヒョウのように、緊張していた。


その中で、俺だけが、馬鹿みたいに突っ立っていた。頭の中は、真っ白だった。

おかしい……俺、何かをしなければいけないはずだが……?


焦りと緊張感が絶え間なく身体を催促するが……何をすればいいのか、どうしても思い出せない。


――パン!


余計なことを考える時間はなかった。乾いたホイッスルが空気を裂き、耳元で弾けたのは――ほんの一瞬後のことだ。


視界の端で、隣の「怪物」たちが、まるで弓から放たれた矢のように飛び出し、空中に完璧な放物線を描いた。次の瞬間、一糸乱れぬ「ザッパーン」という音と共に、七つの白い水しぶきが、プールの中で勢いよく弾けた。


「ー何ぼっとしてんだ!笹原准!」


その時、誰かの声が、観客席から幾重にも重なる声援を突き抜け、的確に俺の耳に突き刺さった。


まるで眠っていた体が、突然叩き起こされたかのように、俺は勢いよく身震いし、ほとんど本能的に飛び込んだ……。だが、慌てて行った動作は最悪だった……。全く、訓練通りの実力を発揮できず、他の選手たちの優雅な入水と比べると、まるで不器用な石ころのように、「ドボン」と水の中に叩きつけられた。


冷たいプールが全身を一気に包み込む。わずかに意識は冴えた……が、まずい、遅れすぎてる!


俺は息を止め、水中に潜り、必死に足を打ち、両腕をオールのように力強く掻いた。

クロールは、俺の一番得意な種目だ……。水が指先から滑らかに流れ、体が魚のように水中を泳ぎ抜ける感覚は、本来なら、自由で爽快なはずだった。


だが、今日は、何もかもが違った。


まだ半分も泳いでいないのに、肺が焼けるような痛みに襲われ、腕は、まるで鉛を流し込まれたかのように、掻きが異常なほどに困難だった。


目の前の景色がぼやけ始め、プールの底にある、目印の黒い線が、俺の目の中で歪み、絡み合い、まるで追いかけてくる毒蛇のようだった……。


「ぷはっ……はぁ……あぁ……」


俺は、かろうじて水面から顔を出して息継ぎをし、ついでに相手の位置を確認しようとした。だが、目の前の光景に、全身の血が凍りついた。


彼らは、どこだ?


本来なら、俺のよこで、大きな波を立てていたはずの他の選手たちが、全員いなくなっていた……。彼らは、まるで忽然と姿を消したかのように、跡形もなかった。広々としたプールには、もがいている俺一人だけが残されていた。


それだけではない。観客席も、静まり返っていた。


すべての声援は消え、代わりに、息が詰まるような、まるで墓場のような静けさが広がっていた。


自分の心臓が「ドクン、ドクン」と鳴る音まで、はっきりと聞こえる。


呼吸のたびに漏れる、あまりにも荒い息遣いが、耳の奥で反響する。


世界は、まるで俺とこのプールだけになったかのようだった。


「だ、誰かいないのか!?」


戸惑いながら水中でぐるぐると回っていると、気がついた、さっきまで透明だったはずの水面が、いつの間にか、不気味な薄紅色に染まり始めていることに……。その赤色はどんどん濃くなり、まるで誰かが無数の絵具をプールに流し込んだかのようだ。あっという間に、プール全体が――どろりとした粘り気と、鉄錆びの匂いを孕んだ、深い紅色へと染まっていった。


「うっ……」


これは水じゃない!血、血だ!?


胃の中がひっくり返り、恐怖が、蔦のように心臓を締めつける。


叫びたい、ここから逃げ出したい。なのに、体はまるで沼に囚われたかのように、もがけばもがくほど、深く沈んでいく。


水を掻くたびに、上がるのは、爽やかな水しぶきではなく、吐き気を催すような、生温かい血の波だった。


(早く……早く外に出ないと……!)


こんな不気味な血の池に浸かっていたら、体に何が起こるか分からない……。俺は、恐怖からくる震えを必死に抑え、ただ麻痺したように、もはや自分のものとは思えない両腕を動かし続けた……果てしなく遠く見える終点に向かって、困難な遠征を続けた。


どれくらいの時間が経っただろうか。まるで一年も経ったかのように長く感じた後、俺の指先は、ついに、あの冷たくて硬い壁に触れた。


「はぁっ……はぁっ……ごほっ!」


俺は、勢いよく「水」面から顔を出し、あの嗅ぎ慣れた、塩素の匂いがする空気を、貪るように吸い込んだ。


血のように赤い液体が、俺の髪と頬を伝って流れ落ち、ぽたぽたと、再びプールへと戻っていった。


――パチ、パチ、パチ!


まるでスコアボードのように正確な、乾いた拍手が、がらんとしたプールに響き渡った。その「他人」からの声は、まるで心の中の僅かな希望に火を点したように、俺を、力を振り絞って顔を上げさせ、プールサイドを見上げた。


そして、俺は自ら絶望を迎えることになった――


「お疲れ様」


白瀬……。


彼女は、俺の真上に立っていた。あの、見慣れた可愛いワンピースを着て、そのスカートの裾は、どこからともなく吹いてくる微風に、優しく揺れていた。


彼女の右手には、冷たい光を反射し、プールに赤い液体を滴らせている……ナイフが握られていた。


その刃先の鮮やかな赤は、真っ白な照明の下で、ひときわ目を引いた。


ナイフを握る白瀬の顔には、俺が普段教室で見慣れていたような、無表情な顔ではなかった。


代わりに、微かに上がった口角が、完璧で、それでいて何の感情も含まないカーブを描いていた。あの、いつもは澄み切っているはずの瞳は、今では、まるで二つの底なしの深淵のように、血の池でみっともなくもがく俺を、静かに見つめていた。


彼女は、ゆっくりと、優雅に腰をかがめ、その、ぞっとするほど美しい顔を、俺に近づけてきた――


「准くん」


彼女の声は、夢の中の囁きのように優しく、それでいて、真冬の寒風のように冷たかった。


「ようこそ……あなたの終点へ」


ナイフの刃先が、瞬時に振り下ろされた。俺は、再び、あの絶望的な血の池の底へと沈んでいった。


ただ、今回は、もう二度と、水面に顔を出す力は残されていなかった……。


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