言語という圧縮
誰かに深く傷つけられたとき、あるいは言葉にならないほど嬉しいとき、胸の中には複雑に絡み合った感情が渦巻いている。悔しさと悲しさと、少しの怒りと、自分への情けなさ。それらが同時に存在していて、どれが本当の気持ちなのかもわからない。
しかしそれを誰かに伝えようとした瞬間、私たちは「悲しい」という一言を選ぶ。英語ならば「I'm sad.」。あの複雑な感情の塊が、たった三文字や七文字に収まってしまう。
これはまるで、データの圧縮に似ていると思う。
情報工学における圧縮とは、大きなデータを小さなサイズに変換する技術のことだ。映像はmp4に、音楽はmp3に圧縮されることで、扱いやすくなる。
しかし圧縮には代償が伴う。元のデータに含まれていた細部の情報が削ぎ落とされ、完全には再現できなくなる。これを非可逆圧縮という。
言語もまた、感情や思考を非可逆的に圧縮したものではないだろうか。「悲しい」と口にした瞬間、その言葉に収まりきらなかった感情の断片は、どこかへ消えてしまう。
さらに興味深いのは、言語によって圧縮率が異なるという点だ。日本語には四字熟語という高圧縮の表現がある。
「一期一会」「不言実行」——複雑な概念や人生観を、わずか四文字に凝縮してしまう。
一方で同じ意味を英語で表現しようとすると、どうしても一文、あるいは数文を要することが多い。
言語ごとに圧縮の設計思想が違うとすれば、日本語話者と英語話者では、日常的に思考している「解像度」や「粒度」も微妙に異なるのかもしれない。
言語は、人と人をつなぐための道具だ。圧縮されているからこそ、共有できる。もし感情を100パーセントのまま相手に届けようとしたら、それはもはや言語ではなく、意識そのものを転送するような話になってしまう。圧縮することで初めて、コミュニケーションが成立する。
しかし私はときどき、圧縮される前の感情のことを考える。言葉になれなかった部分、削ぎ落とされた断片たち。それらは消えてしまったのか、それともどこかに残っているのか。
言語とは、世界を理解するための便利な道具である一方で、世界の一部を永遠に見えなくしてしまうフィルターでもあるのかもしれない。




