向かい側の家の女⑦
奥螺から連絡があったのは、それから五日後のことだった。
小説を書いた人間の出自から身辺調査までを記した書類を眺めながら、隣でニコニコと笑っている男に辟易して鼻に皺を寄せる。
「お前何でここに居んの」
「え、だってあの一件はまだ終わってないじゃないですか。最後までやり遂げないと」
棒つきアイスを咥えながら楽しそうにしている汐緒に、奥螺のしたり顔が浮かぶ。
「そういえば、小説の方も読めないように運営サイトに話つけて削除させたみたいですね。やっぱり糀谷さんのお家って怖いなぁ」
「お前の本家だって似たようなもんだろ」
「えー? そうでもないですよ」
横から新しいアイスを渡され思わず受け取りながら答えれば、彼はのほほんと笑った。
「この田畑さんって人、今日外に出ますかね」
「情報によれば今日午後一で心療内科に予約してるらしいから出てくるだろ」
「家出た瞬間に声かけます?」
「いや、こいつが心療内科から出てからだ」
田畑恵子、二十八歳、独身。
元々は看護師をしていたが職場でトラブルを起こしてからは、心身の不調により今は休職している。家族構成は父親のみで、親しい友人も恋人もいない。
写真に写っている彼女は、とても二十代には見えない。顔立ち自体は綺麗だが、細く窶れた顔と黒い隈が実年齢よりも上に見せていた。
休職前の写真も一緒に資料に載せられていたが、あまりにも外見の変化が著しい。元は少しふっくらとした柔らかい雰囲気の女性だったようだ。
「あ、出てきましたね」
彼女のアパートの近くの公園で待機していた二人は、日傘を差した白いワンピースを着た田畑が玄関から出てくるのを見て立ち上がった。
日陰があるとはいえ猛暑日の昼間はあまりにもしんどかったので、やっと動けることに内心喜んでいた。
田畑が通っている心療内科の近くに喫茶店があるのも調査済みである。
田畑が心療内科に入って行くのを見届けた後、潮たちも近くの喫茶店の窓際の席に座った。ここからなら田畑が病院から出てくればすぐにわかる。
「潮さん」
「わかってる」
あの女が黒であることは明白だ。元凶の原因であることなど、一目見たら嫌なほど理解した。あまりにも残穢が纏わりついている。いや、あれはほとんど穢れを発していると言っても過言ではない。
「彼女、あのままだと近い内につれて行かれますね」
「……何が原因か知らねぇが、そうなっても自業自得だろ」
吐き捨てるように呟いた潮の言葉に、汐緒は目を丸くした。
「意外ですね。なんだかんだ言って、前回みたいに危険を顧みずに助けるんだと思ってました」
「祓うことは祓うさ、仕事だからな。これ以上他の人間に被害が広がっても後々面倒事になるからな。──ただ、あの女の命を守ること自体はオレの仕事じゃねぇ。どんな理由があるにしろあいつがやってることは呪いや怪異を振り撒いて、他の人間に害を与えてる。無差別殺人と変わりやしねえ。そんな人間のクズ、救う価値もねえよ」
広義的に見れば、田畑も被害者の一人なのかもしれない。だが、意図的に悪意をばら撒いている時点で、それは純粋な被害者とは言えなくなる。
悪辣な態度で嗤う潮を、汐緒はきょとんとした表情で見つめた。それを見て、思わず口元に自嘲するような笑みが浮かぶ。
そういえば彼の家は獣憑きの家系にしては珍しく、使役している存在を相棒のように扱っていた。狐憑きの家は使役している獣に対して無碍に扱うことはないにしろ、それらを尊重することはないし、それ以外の憑きモノ筋の家系はもっと道具のように扱っている。
一度だけ汐緒の本家の人間と仕事をしたことがあったが、彼は潮のスタンスを唾棄していた。
潮よりも少しだけ小柄な体躯の彼は、暑苦しいエネルギーに満ちた偽善者だった。内心では彼のことを勝手にクソポメラニアンと呼んでいたのだが、使役している犬神の性質でも反映されているのか忠義を重んじるというか、忠誠心が先走っているというか──とにかく人助けに余念がない。
「お前も悪人だろうが関係なく助けろってタイプか?」
あの時は確か、人格破綻者などと吐き捨てられたか。
皮肉っぽい潮の問いに、しかし彼はあっけらかんと答えた。
「いえ、別に」
「ま、そうだろう……ん? 今、別にって言ったか?」
いつの間にかきたアイスコーヒーを美味しそうに飲みながら、汐緒はなんてことはないという風に頷いた。
「仕事のやり方は人それぞれなので。俺は仕事だからやっているだけで、糀谷さんみたいに信用問題の観点から必ず仕事は絶対に完遂するって程誇りもないし命を懸けるつもりもないし、うちの家の方針みたいなのもハッキリ言ってどうでもいいんです。仕事を完遂させることと依頼者の命まで守ることは別ですし、潮さんがそういうスタンスなら別にそれはそれでいいのでは?」
意外なほど事務的な態度だった。降られたからやるだけだというスタンスは、まるで生活するために粛々と一日の業務を終わらせる一般の人間のようだった。そこには何の感情もなく、あくまで課せたら仕事量を捌いていくだけ、偏見かもしれないが公務員のような態度である。
「お前が初仕事遅かった理由って……」
「あ、別にこのスタンスだからって訳じゃないですよ」
「いや、逆にあと何の問題やらかしてんだよ」
「問題って訳じゃないですよ。ただ、俺が特別強すぎたっていうか」
むしろその強さの片鱗を一度も目にしていないので、ビックマウスの問題児を押し付けられただけのような気がする。
「あ、疑ってますね、酷いなぁ。ま、ハッキリ言ってうちの家って普通に特殊ですからね。道具をパートナーとして尊重しろって、他の家じゃ理解されませんし、俺も理解できません」
人懐っこく爽やかに笑う男からは、嘘の気配は感じなかった。
「お前、あの家の人間のくせに変わってるな。前にお前のとこの本家の人間に冷酷な人でなし扱いされたぞ」
「えぇ~それは酷いですね。あの人たち自分たちこそ正義だと思ってる、正義厨のところあるんで。それに、潮さんは冷酷でもなければ人でなしでもないでしょ」
やっときたパンケーキを口一杯に詰め込んでいた潮は、思わずその言葉に噎せた。
「貴方って露悪的な言い方するけど、俺には潮さんの方が正義のヒーローに見えます」
「は、はぁ?」
「だってそうでしょう?悪い人間を救わないのは、悪人を赦せないから。悪人を赦せなんて言う人間の方こそただの節操なしの畜生です。誰かに害悪をもたらした存在も救うなんて、被害者のことは頭に全くない。善良に生きてきた人に酷いことした人間が救われるなら、それこそ地獄です。神も仏もない」
微笑む彼からは悪意も何も感じない。
「ま、俺としては悪人だろうが善人だろうが仕事だから助けるだけですけど、見捨てようが何しようが人それぞれだと思うんです。祓い屋の本分は祓うことであって命まで守ってあげることじゃないですしね。……俺の家の人たちは自分の正義感を押し付けてくるから面倒なんですよね。他人の思想なんて放っておけばいいのに、嫌悪するなら無視そればいいの話なのに、あの人たちは価値観を押し付けてくるんですよ。俺も昔からずっと、理解はできません」
どこかつまらなさそうに頬杖をついた汐緒の伏せた睫毛が、健康的な肌に影を落とす。長いそれが髪と同様赤毛であることに気づいて、地毛だったのかとジッと見つめた。
潮の視線に気づいた彼は、ふっと口元を緩める。
「俺がこんなこと言うの、失望しました? 犬神憑きの家の人間なのに」
もしかしたら、彼はずっと誰かにそう言われ続けてきたのだろうか。
悪人を赦せないと言葉にされるのはなんとなく決まりが悪いが、まあ憎んでいるといっても過言ではないのでわざわざ否定はしなかった。
他人を貶め辱しめ悪意を振り撒いているのに、自分だけのうのうと嗤っているような人間は死ねばいいと思っている。それは別に正義感からきている訳ではない。ただの私情が絡んだ怨恨の気持ち故だ。
「……確かにお前って人懐っこいし、ちょっと意外だったわ」
しかしシビアに物事が見られる人間は、この仕事に向いている。
「冷たいって思いますか?」
こちらを見つめる瞳は、少しばかりの不安が伺えた。
「いや、それこそ冷たいってのとは違うだろ。お前のは冷静って言うんだ」
私情を挟まない人間が、一番この仕事に向いている。昔潮に力の使い方を教えてくれた男はそう言っていた。何があっても冷静に対処しろ、焦りは死に直結する。冷静に、でも冷徹にはなるなとも言っていた。
異形の存在相手に仕事をしているのに冷徹になるなとはあまりにも馬鹿げているとは今でも思うが、あの男のお陰で今の潮は生きる術を身につけられた。
汐緒は潮の言葉に虚をつかれたような顔をした。それからパアッと顔を輝かせる。
「俺、潮さんがパートナーでよかったです」
喜色満面の笑みに思わず言葉が詰まったが、それでもわざと素っ気なく鼻を鳴らした。
「パートナーじゃねえけどな」
「えー」
大型犬にでも懐かれたような心境であしらっていると、病院から田畑が出てくる様子が視界に入った。
「おい、出て来たぞ」
「俺纏めて会計しとくので、潮さん彼女の所に先に行ってください」
汐緒の言葉に千円札を一枚渡して急いで席を立つと、背後から「お金はいらなかったのに」と呟く年下の男の声がかけられたが無視をして店を出た。
「田畑恵子だな」
声をかけられた彼女は、淀んだ目に警戒を浮かべてこちらを見た。
「……どなたですか」
「俺は生嶋という者だ。単刀直入に言うが、お前このままだとあの女につれていかれるぞ」
「何ですか、急に」
窶れて落ち窪んだ目だけが、ぎょろぎょろと忙しない。近くで見れば見るほど穢れが濃く、それは最早瘴気すら発していた。
「お前が勝手に死ぬのはどうでもいいが、お前が広めた話のせいで関係のない人間に害が及ぶのは放置できねえんだよ」
潮の言葉に田畑の顔が強張る。
「逃げようとは考えんなよ。んなことしたら、それこそ怪我させてでも拘束しなきゃならなくなる」
「……なんで、なんで私だけ」
「あ?」
「どうして私ばかりこんな目に合うの! ちょっと不幸を分けただけじゃないっ! 私は悪くないっ、どうして私ばかり不幸なの! 皆、皆、死ねばいいのよっ! 私以外の人間全員死ねばいい!」
限界まで見開いた血走った目に口角から泡を飛ばして叫ぶ様は、夢の中の女を彷彿とさせた。罵りながらも裂けんばかりに上がった口角だけは、見る者によっては笑みを浮かべているように感じるだろう。
「ちっ……」
日も高い歩道は、沢山の人間が行き交っている。突然叫びだした半狂乱の女に、周囲は何事かとこちらを遠巻きに見つめている。このまま騒ぎになるとマズイ。チラチラこちらを見る野次馬の中には、スマートフォンを向けようとしてくる人間もいた。
「どうしました?」
「……汐緒」
その時会計を終えた汐緒がひょっこりと顔を覗かせた。人好きのする笑みを浮かべて、自然な動作で携帯を向けてくる人間から壁になってくれる。
「田畑さん、俺たちは貴女を助けにきたんです」
骨ばかりの田畑の華奢な肩に手をおいて、汐緒は幼子を宥めるようにゆっくりと言った。
「けして貴女の敵ではありません。貴女の傷を癒すためにきたんです。けして傷つけたりはしません」
「……嘘よ」
汐緒の言葉に少しだけ落ち着きを取り戻したのか、田畑はギョロリとした目を向ける。
「嘘じゃないですよ。……あぁ、彼は少し言葉足らずなだけなんです。本当はとても優しい人なんですよ。俺よりもずっと」
思わず渋面を作ったが、言葉足らずなのは事実なので何も言わず呑み込んだ。
「貴女を救うには、貴女の苦しみの原因を取り除かなきゃいけないんです。だからどうか、俺たちに教えてくれませんか?」
「……本当に?」
「えぇ、本当です。大丈夫、俺を信じてください。大丈夫ですから」
俯きながら思案する様子を見せる田畑に、汐緒は辛抱強く語りかける。その姿は、犬塚家の人間の姿を彷彿とさせた。あのポメラニアンのような男も、まず最初にしたことは気が可笑しくなったり狼狽し動転している依頼主への献身的とも言える声がけだった。寄り添うように相手に尽くす様は、犬神を使役する人間というよりも忠誠心を愛情だと尻尾を振る犬のようだった。
もしかしたらこういうやり方を家で仕込まれているのかもしれない。
「……わかりました。でも、貴方だけよ」
「あ?」
「潮さん、威嚇しないで」
苛立ちを暑さと共に呑み込んで腕を組む。無性に煙草が吸いたい。甘いものが食べたい。
「それじゃあ、今から俺とお話ししましょう。どこかカフェにでも入ってゆっくりしながら」
静かに頷いた田畑の背を支えるようにエスコートしながら、彼は潮に言った。
「潮さん、後で落ち合いましょう。これ、俺の携帯の番号です」
名刺を渡されさっさと置いていかれた潮は、頬を伝う汗を不快感と共に拭った。
「……何だよ、ムカつく」




