向かい側の家の女⑥
ミンミンと忙しない蝉の声が耳を打つ。目を開けると、空は先程よりもオレンジ色に染まっていた。
「潮さん」
ピアスの反射に目を眇めながら、自分を覗き込んでいる男の肩を軽く押して起き上がる。
「山田さんは?」
「潮さんが目覚める少し前に意識を取り戻してます」
「あっそ」
山田は祖父母の隣で憔悴を滲ませた面持ちで座っていた。潮は彼女に近づくと、小説のURLを消して二度と見ないように告げる。
「これであんたはもう夢を見ることはない。……もう、大丈夫だ」
「っ……! あり、ありがとっ、ございますっ……」
息が詰まったようにしゃっくりを上げて涙を流す彼女に背を向ける。
「あんたは今日一日泊まっていった方がいい。肉体的にも精神的にも疲れただろ」
「じゃ、じゃあ生嶋さんたちも……」
「オレたちは帰る。この後もやることがあるんでな」
引き留めようとする山田を無視してさっさと車へと向かう潮の後を、のんびりとした足取りで汐緒がついてくる。
「今日一日、俺役に立てませんでしたね」
「マジでな」
「えへへ。でも、まさか夢に引っ張られるとは思ってなかったですよ。潮さんが倒れた時はどうしようかと思いましたけど、テリトリーに招く力がある相手によく札もなしで祓えましたね」
基本的に祓い屋や拝み屋は、札や呪具などの道具を使う。いつもなら潮も霊力がこめられた札を使うのだが、精神世界に近い場所では現実世界にある道具など持ってはいけない。
「……道具なんてなくても祓う方法はいくらでもあんだろ」
「ま、それもそうですね。俺も札の類はあまり使いませんし」
軽い仕草で頷いた汐緒に、内心意外に思う。新人で道具を使わないということは固有の異能力を持っているということだ。大抵そういった能力は血から継承することが多い。つまり祓い屋の家系か拝み屋の家系の人間であることが常だ。
中には何の力もなければ視る力もない一般人の両親からいきなり力を持った人間が生まれることもあるが、稀である。視えるだけなら一般人にもいるが、固有の能力を有することはほとんどなかった。
「……ん? 犬狩──お前、犬塚家の分家の人間か?」
「分家……? あぁ……まあ、そうですね」
車の免許を持っていると言っていたので帰りは助手席に乗って手足を投げ足すようにしていた潮は、どこか他人事な返事をしながら運転をする男の左腕を無言で小突いた。
犬塚家は奥螺の生家である糀谷家と並ぶほどには有名な家系である。勿論業界内では権力も立場もある。
「普通に一般家庭の奴かと思ってたわ」
霊力があれば札を使って仕事ができるので、簡単な仕事なら修行した後一般家庭で育った人間でも祓い屋や拝み屋にはなれる。むしろ雑務程度の簡単な仕事なら、この業界は割りと畑違いの業種からの転職者は多い。
「何であの家の人間が今更新人でやってんだよ」
「……ううん、何ででしょうね。家の方針にあってないというか、向いてないというか」
犬塚家は憑きモノ筋の家系である。その名の通り犬神を使役しているのだが、そもそもこういった家系の子供は遅くとも十五の頃には仕事を与えられるはずだ。
本人は強いと明言していたが、家の人間からもしや匙を投げられているのではと、ちらりと思う。
「初めての仕事は何歳だ?」
「初めてですか? 去年の六月頃なので十八ですね」
「あ!? 今なんつった?!」
「去年ですね?」
「違ぇよ、十八!? てことは今十九か? 二つも下かよ、てっきり年上かと思ってたわ」
どうすればそれほどすくすく育つのか。やはり幼少期の食べ物の違いだろうかとうんざりしながら、どうしようもないことなのでため息をついた。
「酒も飲めないガキのお守りかよ……」
「来年の一月には二十歳になるので飲めますよ。潮さん、お酒が好きなんですか?」
「普通。てか、名前呼びかよ」
オレンジの空に闇が混じりだしたのを眺めなから眉間に皺を寄せる潮に、汐緒はきょとんとした顔で首を傾げた。
「ダメでした?」
いっそ幼子のような無垢な瞳がこちらを向いているのを見て、前を向けと呟く。
「あぁ、もう好きにしろ」
「はい!」
居心地の悪さを感じながら助手席で両腕を組む。
「とりあえず新幹線の時間まで余裕あんだろ。ちょっとカフェかどっか寄れ」
「確かに小腹空きましたね。レストラン探しますか?」
「いい。オレは今甘いモンが食いたい」
「潮さんって甘党ですよね」
「違う。甘いモンの方が回復の効率がいいんだよ」
気分の問題だが、潮は本気でそう思っている。けして甘党などではない。
流れていく景色を眺めながら奥螺に電話をかけると、彼はすぐに出た。
「あ、潮ちゃん? 何、もう終わりはったんですか? 意外と早い……」
「お前あの小説書いた奴探しだせ」
「はあ……? 終わったのとちゃいますの?」
「山田さんの件は終わった」
「……その言い方は全て片がついた訳ではないんですね。にしても、急に個人を特定しろだなんて無茶言いますわ」
「できるだろ、使えるもん全部使えば」
時間があったならば、奥螺なら彼女の夢の原因を特定できたはずだ。
「一週間はかかるで」
「それで十分だ。半分はオレが持っていったからな、今すぐ他の人間相手に悪さはできないはずだ」
「了解ですぅ。にしても、力使うてしまうほどの相手やったんやね」
「招かれたからな」
電話口で躊躇うような気配を感じて、思わず舌を打った。
「大したことじゃねえよ。とりあえずオレたちはこのまま帰るからな、じゃあな」
奥螺が何か言おうとするのをそのまま無視して通話を切る。
「あれ、終了報告じゃないんですか?」
「──まだ、終わってねぇからな」
景色はいつの間にか山の中に変わっていた。
先刻呑み込んだ女の半分を消化しながら、酷い胸のムカつきと、狂おしいほどの飢餓感に目を瞑った。




