向かい側の家の女⑤
蝉の声どころか風の音すらも消えたと思ったら、次の瞬間には潮はオレンジ色の世界に立っていた。
「どこだ、ここは……」
階段の踊り場から夕日が見える。そして、山田の夢の内容のように、向かい側には家があった。
そこから女のような姿が見えるが、向こうの部屋が薄暗くて顔までは確認できない。黄昏時、誰そ彼とはよく言ったものだ。
手を振っている──いや、手招いている。
「……舐められてんな」
くすくすくすと、耳元で声がする。
その笑い声は到底優しそうな女がするものではない。これは嗤い声だ。
「……いいぜ、行ってやる」
呟いた瞬間、目の前には女が立っていた。潮自体も見知らぬ暗い部屋に立っていた。白い服を着た、異様に首の長い女だ。変な方向に傾いた首に、長い髪の毛がほとんど顔を隠している。
女の背後には山田が手首と首に縄をかけられた状態で立っていた。目は開いているが、意識が朦朧としているようだった。彼女は古びた椅子に立たせられており、目の前の女が椅子を倒せば間違いなく山田はつれていかれるだろう。
ここは現実世界ではないが、ここでの死は現実にある肉体の死を意味する。
都市伝説で言えば異界に近い場所、もしくは妖怪ならば自陣の結界領域のようなものだ。すなわちこの女の中に強制的に招き入れられたことになる。
『かわいそう、かわいそうね』
「あ゛?」
くすくすくすくすくす。
『たべたくなかったのにね、たべちゃった』
ゆらゆらと不規則に揺れる首と共に、形ばかり上品だった嗤い声がけたたましいものへと変わった。
『くるしいね、かわいそう、かわいそう』
げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら
「煩えわ」
ドンっと右足を踏み鳴らし、両手の甲を合わせるように一度手を叩く。腹の底からグルグルと渦を巻いて吐き気がするほどの空腹が湧き上がる。
「お前から招いてもらって手間が省けたわ、礼を言ってやるよ」
本体と接触できたことは、仕事の難易度を大幅に下げた。
『……なに、なに……』
無数の黒い影が潮の目から鼻から耳から口から穴という穴から溢れ、そして黒い蟲の形を成した。お互いを貪り合うようにして蠢き合い一つの形になった蟲は、きいきいと耳障りな音を奏でた。潮の体から生えるようにして蠢くそれは、素早い動きで女の体を拘束する。
『いや、なに、なんでっ』
「招く相手を間違えたな。オレを中に入れた時点で、てめぇは終わってんだよ」
乱れた髪の毛の間から、血走った目がこちらを睨んでいた。
潮はできるだけ優しい声で、嘲るように嗤った。
「可哀想にな、オレに喰われるんだから」
ぐんっと勢いよき引き摺られた女の断末魔に被さるように、潮の冷酷な声が淡々と響いた。
「蟲毒腹」
潮の開いた口から、ぬるんと一際大きな蟲が顔を出す。それは同じように大きく口を開けると、女の体をズルズルと呑み込んでいった。
最後の一口が全て蟲の中へと吸い込まれると、蟲もまた潮の口内へと戻っていく。
ごくんと呑み込む大きな音を最後に、景色が砕け散った。




