向かい側の家の女④
あの後急いで家の裏側へと向かった二人は、老人の言った通り辺り一面畑しかない場所を見つめながらため息をついた。
「どういうことなんでしょう?」
「どうもこうも、あの爺さんの言う通りだろ」
そもそも、最初から踊り場の窓から見える家など存在していなかったということだ。
「残穢もありませんね」
汐緒の言葉に軽く顎を引く。
ここに来れば少しは手がかりがあるかと思ったが、初めから家自体がなかったというなら因果関係がまるっきりわからない。振り出しに戻っただけである。
(夢の既視感は彼女の記憶違い……いや、そうじゃねぇ)
どう見ても夢に引っ張られている。ないはずの記憶が書き換えられ、同調させられていることは明白だ。
「同調……? っ! 伝染タイプか!」
呪いの類ではポピュラーなものだが、霊的存在に関しては力がよほど強いモノでないと影響を残せないので失念していた。
「それって、呪いや都市伝説のような怪異のタイプでよくあるやつですよね」
「あぁ。ちっ、霊的なモノだと厄介だな」
基本的に世で言うオカルトの類は霊的な存在が主に関係している。元は人間だった存在が一番人間にとって害を為すのは、この世の何より欲深く業の深い人間の性質として自然の摂理ともいえよう。ただ、基本的に未練を残してこの世に留まっている霊的存在は、死んだ場所かもしくは禍根がある場所以外では力を発揮できないことがほとんだ。地縛霊という言葉の通り、留まっている時点で縛られている存在に堕ちるからだ。
それ故奴らのテリトリーに入らなければ無害である。
呪われた、祟られた、憑いてこられたと騒いでいる人間は、大抵テリトリーを無作法に荒らしてやらかしているだけである。憑いてくるというのも、本体は基本的にテリトリーの中にいて、獲物となった人間に付着した残穢から少しばかり顔を覗かせているにすぎない。ただ、何も対処せず取り込まれてしまう──つまり呪い殺されてしまった場合、その呪い殺された場合も新たなテリトリーになる可能性が高い。自分が動ける分布図を広げていくのが、霊的存在の基本的な行動理念の一つである。
「伝染……視た、聞いたから始まるやつですよね? 後は儀式を模した行動からも発動する。霊的存在だと、大分力が強いモノしかできませんよね」
「あぁ、そうだ。……あ~クソ奥螺の野郎っ、片手間にできるやつじゃねぇぞこれ」
不特定多数を相手に呪う力の使い方は、知恵も力もあるタイプしかできない。潮ですら数例しか見たことがなかった。
汗で張り付いた前髪を掻き乱しながら関西弁のアホ面を思い出す。暑いし最早疲れたし、今すぐ帰って奥螺を殴ってからパフェを食べて家で眠りたい。
「とりあえず一度戻りましょうか。山田さんのことも心配ですし」
ポタポタと滴る汗に目を細める汐緒を見やりながら頷いた潮の耳に、哀愁漂う音楽が聞こえてきた。
「あ? 何だこの音楽」
「防災無線のチャイムですね。懐かしくないですか? 子供の時十七時になるとよく聞いたっけなぁ」
子供の頃のことは知らないが、確かにたまにこの音楽が近所で流れているような気がする。
「……へぇ、知らね」
十七時とは思えないほど、夏の空は蒼く高い。
太陽の眩しさに目が眩みそうになりながら山田の元へと戻ろうとした二人の耳に、今度は彼女の祖父母の慌てたような大声が聞こえてきた。
「乙美ちゃんっ……乙美ちゃん!」
「一体なしたっていうんだ! 乙美ちゃん、目を開けて!」
「どいてくれ……!」
「何なの貴方たちっ! 乙美ちゃんに触らな……」
「いいからどけ! 手遅れになるぞ!」
地面に倒れている山田の体を祖父母からもぎ取るようにして奪った潮は、彼女の状態をまじまじと観察する。
「潮さん、山田さんから強い残穢の気配を感じます」
「わかってる」
蒼白な顔で目を瞑っている彼女の呼吸は、ひどく弱い。このままでは衰弱死する可能性が高かった。
「彼女は急に倒れたのか?」
「え……」
「早く答えろ」
詰問じみた問いに狼狽している二人を見かねたのか、汐緒が声をかける。
「緊急を要するんです。お孫さん助けるためにも協力してください。……大丈夫です、悪いようにはしません。絶対助けますから」
柔らかい汐緒の声に、二人の肩からふっと力が抜けた。よく通る甘めの声は、人を落ち着かせる効果があるようだ。
「さっきチャイムが鳴った時に、急に見なきゃ見なきゃって携帯を見だして、そしたら急に倒れてしまったのよ」
「熱中症かと思ったんだが、あんまし様子がおかしくて」
「携帯……小説か!」
そういえば十七時に更新すると彼女が言っていたのを思い出して、慌てて近くに落ちていたそれを拾う。丁度更新ページがそのままになっていたので目を通す。
【彼女は色白でとても綺麗な人でした。いつも口元には静かに笑みをたたえていて、優しそうな人なんです。……でも、私最近気づいたんです。ずっとあの人は手を振っていたと思っていたんですが、あれは多分、手を振ってるんじゃなくて、手招きしているんじゃないかって。あの人はきっと、私を呼んでいたんです。一緒に来てほしくて、寂しくて、ずっと呼んでいたんです。……だから私、寂しくないようにもっともっと人数を増やそうと思ったんです。私以外にも増えたら、もしかしたら私は行かなくてもすむかもしれないし。……今これを読んでいる人たちの中にも、夢を見るようになった方たちがいますよね? あなたたちはあの人に選ばれました。あなたたちは呪いや都市伝説がどうやって増えていくか知っていますか? 視たり、聞いたりが原因なんですって。昔は人から人へ口伝の形で広がり、今はネットを通して広がる。そう、今私がやっていることと同じですね。伝染するんです、病気みたいに、感染していく……。でも、もしかしたら沢山伝染させたら、広めたら、行かなくてすむかもしれません。ごめんなさい、ありがとう、ごめんなさい。……なんて、全部嘘ですよ。嘘です。
私の話はこれで終わりです。呼んで頂き、ありがとうございました】
悪意を広める呪いが、そこには書かれていた。
そして最後には──
ごめんなさい。
濃密な悪意と穢れがスマートフォンから溢れ出ると同時に、煩いくらいだった蝉の鳴き声がピタリとやんだ。




