向かい側の家の女①
その日は久しぶりの休日だった。昨日までの激務を終えて五日ぶりの糖分摂取をとるために、本来ならまだ眠っている時間帯の朝九時には目覚めて行きつけの喫茶店へと急いだ。そう、全ては一人で優雅な休日を満喫するため。けして──。
「テメェの面見るためじゃねぇんだけど」
咥えた煙草を噛み千切る勢いで咥内で弄びながら、生嶋潮は目の前のにやけ面を崩さないアロハシャツの男を睨みつけた。
「そないにツレへんこと言わんといてぇな。僕悲しくて涙出てまう」
「勝手に泣いてろカス」
荒々しく舌打ちをしてからわざとその顔へと煙を吹きかけると、彼は噎せながら鼻を押さえた。
「ここ時代の流れを逆行してへん? 今時煙草って室内で吸われへんのとちゃいますの?」
「ここは昔から吸えるんだよ。嫌ならテメェが出てけ。オレも休日までお前のにやけ面見ないですむわ」
この喫茶店は煙草も吸えるし何より食べ物が美味い。そして一番絶品なのはデザートだ。本格的なコーヒーを好んで通っている常連客の中にも、潮と同様美味いデザートに惹かれて金を落としていく人間も多かった。
「相変わらず甘党やね。ホンマデザートと親和性の高い容姿ですな」
「喧嘩売ってるなら買うが」
「ちゃいますちゃいます。何ですぐ臨戦態勢に入るんや」
煙草を灰皿に押し付けていると、長めの前髪が目にかかる。それが鬱陶しくて色の抜けた髪をかき上げていると、肩を竦めている男──糀谷奥螺の隣から視線を感じてまた一つ舌を打つ。
「何?」
「……綺麗……あっ、す、すいませんっ」
「せやろせやろ。わかりますよ、彼見た目だけはホンマべっぴんさんやからなぁ。芸能人も二度見するレベル。あ、彼は生嶋潮。潮ちゃんでええですよ」
「いいわけあるか。つか、この女誰」
「誰って、山田乙美さんです。なんや彼女、けったいなのに憑かれてしもて、潮ちゃん案件ですねん」
「帰れ。勝手にオレ案件にすんな」
奥螺の横で小さく狼狽している山田の姿を視界から外しながら、心待ちにしていたパフェを口一杯に頬張った。丁度よい甘さと冷たさが疲れた体を癒してくれる。
「せやかて、もう頼めるの潮ちゃんしかおりまへんのや。即死レベルではないけど、まあまあ時間がないのも事実なもんで」
「だったらお前がやれよ。そもそもお前の本分だろ、祓い屋」
祓い屋、または拝み屋。世間では祈祷師や霊媒師、除霊師と呼ばれる者の類。
悪霊や怪異の類を相手にする職業だが、それらは実際に実在している。細かく分類すれば、拝み屋と祓い屋は違う。拝み屋はあくまでソレらを一時的に追い払うだけで、存在そのものを滅することはできない。存在そのものを祓い、調伏、または消滅させることができるのは祓い屋だけである。
今目の前にいる男もまた祓い屋の家系であった。そして潮もまた同業者である。
「いや、そうしたいのも山々なんですがね。今ちょっと急な案件が多くて、動ける人間がおらんのですわ。僕もこの後別件で動けなくなりますし」
「オレも昨日までお前が持ってきた案件で働き詰めなんだが? やっとの休みで霊力やら何やら回復してる最中なんだが?」
「それは持ちつ持たれつやんか。大体、僕以外に仕事回してくれる人間おりますの? 協会に入ってないフリーに良い顔する人間、この業界少ないやろ」
組んだ両手に顎を乗せながら、奥螺は見透かしたように目を細めた。思わず食べている手が止まるのを、彼はニンマリとした表情で見逃さない。
「ホームページに依頼こないのとちゃいます? 祓い屋なんて現実感ないもん、普通の人間なら信じまへんわな。ホンマに困った人らは協会の方頼ってきますし」
腹立たしいことに、彼の言っていることは正解だった。SNSが主流の今だが、こういった現実感のない職業は普通の会社のホームページのように信じて依頼してくる人間はほとんどいない。
「この業界は横の繋がりが大事。ネットに頼るより、口コミが大事なんですわ。口伝ほど信用できるものはありまへん」
フリーの祓い屋に仕事を回してくれる同業者はそう多くない。協会に入るように何度も言われている身としては、食べていくために仕事を斡旋してくれる奥螺のような存在は業腹ながら助かるのも事実だった。
「協会に入るつもりあらへんのやろ、潮ちゃん。……やったら、もうちょい横の繋がり大事にせなあかんとちゃいますか」
頑是ない幼子に対するような態度に苛立ちながらも、結局は口で勝てたためしがないので深くため息を吐いた。宥めるような仕草でゴリ押ししてくるのがこの男の常套手段である。
「……内容は。金額はそれからだ」
「おおきに! いやぁ、良かったわ山田さん。潮ちゃん相手ならもう解決したも同然ですわ」
取り出した扇子で仰ぎながら山田に笑いかける奥螺に、彼女はボブカットの髪を揺らしながら潮を気にするようにしながら愛想笑いを浮かべた。
「あ、話の内容聞く前にちょっと待ってくれはります? 今もう一人来るんで」
「あ? もう一人って何だ……」
制止する前に誰かから着信が入った奥螺は、そのまま席を離れてしまった。
「ちっ、好き勝手しやがって」
「あの、なんか、すいません……」
か細い声で山田が肩を縮める。
「あ?」
元々華奢な体を精一杯縮めて竦ませる彼女に苛めているような気分になった潮は、乱暴に頭を掻きながらもう一本煙草に火を点けた。二十一の潮より少しだけ年上だろうか。色白な顔はやけに隈が目立っている。
「はぁ……。別に、あんたにムカついてる訳じゃないから」
「え?」
「あのクソ関西弁野郎にムカついてるだけ。……あんた甘いもの好き? ここのデザート美味いから食ったら? 金はあの野郎に出させるし」
「え、でも……」
「苦手なら無理にとは言わないけど」
「あ、じゃあ、同じのを」
「ん」
店員を呼んで同じ物を注文してやると、少しだけ山田の雰囲気が和らいだのがわかった。
「生嶋さんって、優しいんですね」
「普通だろ」
萎縮している相手に対して横柄に振る舞うほど人間性は捨てていない。これが助けられて当たり前のような顔で威圧的で横柄な人間ならば、依頼人だろうが切って捨てるし、なんなら見捨てることもある。
「あの……その髪って染めているんですか? とても綺麗だなって……」
先程からチラチラ見られていることには気づいていたので、視界に揺れる真っ白な自分の前髪を一房摘まみながら指先でクルクルと回した。
「いや、地毛」
「え?」
「地毛だよ、若白髪」
山田の表情が一瞬で青褪めたのを見やりながら、申し訳なさそうに頭を下げるのを手で制した。
「いいよ、気にしてない」
潮本人としては本当に気にも留めていなかったのだが、どうしてだか気まずい沈黙がその場に下りた。目をうろうろ彷徨わせている彼女に、煙草を咥えながらどうしたものかと内心嘆息する。言葉が足りない自覚も、態度が硬質な自覚も両方ある。対人技術は潮の苦手分野だった。
「え、何この空気。誰か殺されたん?」
不謹慎な突っ込みと共にアロハ男が戻ってくるのを、潮は殺意の籠った眼差しで睨んだ。睨んだついでに、後ろでヒョコっと顔を覗かせた見知らぬ男にギョッとする。
赤毛の大きな男だった。百八十は優に超えているだろう。半袖から覗く腕は実践的な筋肉に覆われていて、体躯に恵まれた男だ。彼は潮と目が合うと、途端に子供のように目を輝かせて顔をくしゃくしゃにして笑った。大きめな口から覗く八重歯に、垂れた目元があどけない。立派な体格に似合わず幼さを残した顔立ちから見るに、潮とそれほど年齢は変わらないのかもしれない。
「汐緒くん潮ちゃんの隣に座ってぇ」
「はーい」
奥螺に言われるまま素直な返事をして隣に座った男に、思わず体を端に寄せた。一気に窮屈になった席に、苛立ちのまま眦を吊り上げる。
「おい、誰だよこいつ」
「あ、俺ですか? 俺は犬狩汐緒です。よろしくお願いします」
「よろしくなんかしねぇよ、誰が自己紹介しろっつったよ。頭沸いてんのか」
「ちょっとちょっと、今回のパートナー組む相手に対して喧嘩売らんの、潮ちゃん」
「はぁ!? パートナーなんて聞いてねぇぞ!」
「今言ったやん」
悪びれることもなく笑う奥螺に、目を眇める。煙草の火を消し、引き攣るコメカミを指で解しながら呼吸を整えた。怒鳴り散らしたい衝動を抑え、どういうことかと詰問すれば、彼はあっけらかんと答えた。
「今回の案件、二人一組でやってもらいたいねん」
「オレ一人じゃ無理だって言いたいのかよ」
「ちゃうちゃう。多分今回も君一人でいけるとは思っとりますよ。潮ちゃんはいつだってどうにか上手く解決する。決定事項みたいに」
「じゃあ何で……」
「彼に潮ちゃんのとこで実務経験積んでもらいたいんですわ。色々あって、こちらじゃ面倒見れんくなってしもてね。半端な人間には任せらんないってことで、潮ちゃんと組んでもらおうかと」
「オレにお守りしながら仕事しろってのかよ。保育士じゃねんだぞ」
怒りのまままた新たな煙草に手を伸ばしかけた手を、隣の男がそっと握った。
「あ゛?」
「俺、頑張りますね!」
「は?」
屈託のない笑顔でニコニコと笑う男の背後に、大型犬の姿が見える。乾いた大きな掌が、潮の細くて白い指先を優しく覆った。それから彼の親指が擽るようになぞるのを、ゾッとしと振り払う。
「俺、結構強いですよ」
払われた手を気にする素振りすらなく、彼は破顔した。汐緒の香水だろうか、森林のような爽やかな香りに微かな柑橘のような香りが鼻に届いて、匂いが感じとれる程の距離感に眉を寄せた。
「現場出たことない新人がデカイ口叩くな」
「出たことありますよ? 二回だけ」
一回だろうが二回だろうがそんなもの初めてと大差ない。潮のボルテージの高まりを察した奥螺が、タイミングよく手を一つ叩いた。
「ま、足手纏いにならんのはホンマですわ。ただ、だからといって新人一人をポンポン現場に行かせる訳にもいきまへんし、それに彼が強い人間の下にしか就きたくない言うもんですから、こっちも困ってはりましたのや」
「ま、オレが強いのは事実だけど」
「せやろ。だから適任やなって」
「でも、だからって何でオレが……」
「これくらい出ますよ、謝礼」
目の前につきだされたスマートフォンに、思わず目が釘付けになる。
「……今回の案件の他に、この金額が出るのか?」
「せやね」
沈黙してから小さく唇を舐める。奥螺の勝利を確信したような顔は腹立たしいが、ちょっとやそっとじゃ中々お目にかかれない謝礼は、確かに魅力的だった。
生きるには、金がかかる。
「……わかった」
怨嗟のような声が出たが、成り行きを狼狽しながら見つめている山田以外は誰も気にしなかった。




