第98話 指摘
石造りの大広間に、沈黙が満ちていた。
エリオットとレオン。
兄弟が、封印の間で対峙する。
その間を取り囲むように、〈黒翼〉の幹部たちが、まるで儀式の目撃者であるかのように身じろぎもせず立ち尽くしていた。
「“選ばれた”、だと?」
静かに口を開いたのは、レオンだった。声に嘲りはない。ただ、どこか遠いものを見るような、乾いた響き。
「ああ、そうだ。神に……いや、この世を変える“真なる神”に、俺は選ばれた」
エリオットの声は熱を帯びていた。だがその眼差しには、陶酔だけではなく、底知れぬ焦燥と苛立ちが滲んでいた。
「俺は……かつて、正統神に選ばれた。〈聖騎士〉のスキルを与えられ、将来は約束されたはずだった」
言葉が続く度に、その語調が徐々に荒くなっていく。
「それに比べて……お前は、何も持たなかった! 神からも見放され、スキルすら与えられなかったはずの、劣った“はず”の弟が……!」
その瞬間、エリオットの目に剥き出しの敵意が宿る。
「なのに──なぜだ。なぜお前は、何も持たぬまま俺を……超えていった!」
「……」
レオンは答えない。ただ、静かにエリオットの言葉を受け止めていた。
「力も、血統も、正統性も、全て俺にあった! 俺が、アルテイル家の希望だった! お前など……ただの、失敗作だったはずなのに……!」
その言葉の裏には、押し潰されそうなほどの嫉妬と焦りが渦巻いていた。
長兄としての誇り、優越感、自尊心──
すべてが、レオンの“何者にも頼らぬ力”によって踏みつけられたのだ。
「レオン、お前の存在そのものが、俺を壊した。だから、俺は選ばれた。神が……“真なる神”が、俺に手を差し伸べたんだ。そうだろう……?」
エリオットの声が震える。それは誓いのようでもあり、己に言い聞かせるようでもあった。
「そうでなければ……お前の存在を、俺は許せない……!」
沈黙の中、レオンはようやく口を開く。
「……違うな。俺は努力した。だが、お前はしなかった」
低く、だがはっきりと響いた声。
「ただ、それだけだ」
その言葉に、エリオットの顔が歪む。
「黙れッ!!」
怒声が、大広間に響き渡った。その瞬間、周囲の〈黒翼〉の幹部たちが一斉に動きを見せ、空間の緊張が裂ける。だが、レオンは微動だにせず、ただ冷ややかに兄を見据えていた。
その瞳に浮かぶのは、もはや怒りでも哀れみでもない。ただ、凍てつくような事実の提示だった。
「……本当の事だろう?」
レオンの声は、まるで刃のように鋭く、容赦がなかった。
エリオットの全身がぴくりと震える。心臓を抉られたような衝撃──否定しようとするよりも早く、レオンはさらに言葉を重ねた。
「スキルを得ただけで強くなったと勘違いし、何も努力をしなかった。力を与えられた瞬間に、お前はすべてを手に入れたつもりでいた。馬鹿か、お前は? 思い上がりもいいところだ」
「〈聖騎士〉とは名ばかりで、ろくに功績も立てず、魔物が怖いあまりに、配下を見捨てて敵前逃亡──それを責められるのが嫌で、謝罪すら他人にさせる。そんな男を、誰が評価する?」
「貴様……っ」
エリオットは歯噛みし、声を震わせる。怒り、羞恥、恐怖、あらゆる感情が胸をかき乱す。だが、それすらもレオンは冷然と切り捨てた。
「事実だろうが。忘れたとは言わせないぞ?」
そしてまだ続ける。
「そのくせ、他人を妬むことだけは、一人前だったな」
乾いた皮肉。エリオットは息を呑んだ。
「それがもとで王都を追放された。お前はその醜い心根を、利用されただけだ」
心臓が鷲掴みにされたような痛みが走る。脳裏に蘇るのは、あの時の光景──冷たい視線、嘲り、見限るような王の宣告。
「挙句の果てには、その弱い心を突かれて〈黒翼〉程度の駒に成り果てた。やったことといえば、街や村を襲って、罪もない、力なき人々を殺しただけだ。それで強くなったつもりか? それがお前の求めた力なのか?」
その言葉で、ついにエリオットの理性は限界を超えた。
「黙れぇぇぇッ!!」
絶叫にも似た怒声を張り上げる。
だが、レオンは揺るがない。ただ静かに、まるで哀れむようにエリオットを見つめるだけだった。
(ふざけるな……俺は選ばれたんだ。俺は“真なる神”に選ばれた……! こいつなんかより、遥かに高みにいるはずなんだ……!)
大広間には、エリオットの荒い息と、冷たい沈黙が、ただ満ちていた。
ざわりと空気が揺れた。レオンの瞳が、エリオットを越えて、その背後に控える〈黒翼〉の幹部たちを射抜く。
「……お前たちは、ベリアナを復活させてどうするつもりだ」
低く、しかしはっきりと響いた問いに、幾人かの黒衣の影が動いた。
漆黒のローブを纏った一人が、ニヤリと口の端を吊り上げる。その口調は呪詛にも似た確信に満ちていた。
「ほぅ、そこまで知っているとは意外だったな。我らの目的は、この歪んだ世界を……築き直すことなのだよ。神が選んだ者だけが栄え、選ばれぬ者は踏みつけにされる。そんな世界を、我らは拒む」
「そうだ」
別の幹部が続けた。
「真なる神、ベリアナ様の御力で、均衡は破られ、全ては一つとなる。欲望も、苦悩も、血も、法も、すべてが混ざり合う──それこそが、我らが求める解放」
その言葉に呼応するように、エリオットが一歩、前に出た。
「そして──俺が、その〈鍵〉となるのだ」
彼の声には確信と陶酔、そして何よりも優越感が混ざっていた。
──それは、先程までレオンの冷徹な言葉に心を抉られ、痛いところを突かれていた男の姿とはまるで別人のようだった。
だが、エリオット自身はその変化にすら気付いていない。ただ、今この瞬間だけは、己が“選ばれた存在”であるという陶酔に浸り、歪んだ優越感に全てを委ねている。
まるで、レオンに突き付けられた事実から逃れるために、必死で“新たな神の使徒”という虚像にしがみついているかのようだった。
「かつては神に、今は新たなる神に選ばれた俺こそが、この新たな時代を開く存在だ。見ろ、弟よ。お前には決して立てぬ場所に、俺は立っている」
沈黙の中、レオンは静かに口を開いた。
「神が選んだ者だけが栄え、選ばれぬ者は踏みつけにされる。そんな世界を拒む、か……」
そしてエリオットに向けて冷たく言い放つ。
「お前が今まで散々やってきたことじゃないか。今更どの口がそれを否定する? お笑い種もいいところだな」
エリオットの顔が怒りと羞恥で見る見るうちに歪んでいく。
それに構わずレオンは続ける。
「……俺は知っている」
その声に、幹部たちの顔が微かに動いた。
「お前たちが望む世界、それは……ある意味では“救済”と呼べるものだ。既存の秩序を壊し、不平等を断ち切る力。確かに、人々が“苦しまずに済む”かのように見えるかもしれない」
レオンはゆっくりと前に歩を進め、目を細める。
「だがそれ以上に、そこにあるのは“混沌”だ。理も、意味も、すべてを溶かし、全てを飲み込む闇だ。お前たちが復活させようとしているものは、そういう“存在”だ」
「知った風なことを……!」
幹部の一人が、苛立ちを隠さずに言い捨てる。
しかしレオンはそれに対し、ただ一言。
「──知っているからな」
短く、だが深く突き刺さるような言葉だった。
広間の空気がさらに重くなる。
そしてレオンは、右手を軽く上げながら言う。
「お前たち、なんなら試してみるがいい。ここで見ていてやるよ。だが──お前たちには何も出来やしない、ということだけは言っておくがな」
その瞬間、彼の瞳に宿った光は、挑発でも警告でもなかった。
それは、確信だった。
それを目の当たりにしたエリオットの表情が、初めてほんのわずかに揺らぐ。
次の瞬間、沈黙を引き裂くかのように、大広間の天井から微かな振動が響き始めた。
闇が蠢き、そして何かが──蠢いていた。
「そこまで言うなら……黙って見ているがいい!!」
エリオットの怒声が、石造りの大広間に響き渡った。
その顔は激情に染まり、赤く血走った瞳でレオンを睨みつけている。
「その後で……その澄ました面を叩き潰してやる!! 俺の手で、お前を──殺してやる!!」
その叫びとともに、エリオットは腕を振り下ろした。
「始めろ! 儀式を!」




