第96話 鉱山跡へ
エルフの里を発ってから、十日が経過していた。
レオンは、いくつもの村や街を経由しながら、表の道を避け、敢えて人々の目が届かぬ辺縁を進んでいた。王国と帝国の国境沿い──その曖昧な緩衝地帯に潜む静けさの裏で、様々な勢力がそれぞれの思惑を抱き、動いていた。
だが、レオンは既に“知って”いた。
彼の中に流れ込んだ、英雄オーソンの記憶──その中に刻まれていた無数の思考と分析、戦友たちの知見、かつての神の導きと対話。
そして現在進行形で起こっている──表には見えない両国の兵の移動、国境付近での不自然な駐屯、聞こえてくる黒衣の一団の噂、加えて聖教国の動き……それらが、今の世界の動きを読み解く鍵となっている。
すべてが繋がっていた。
「王国と帝国は、〈黒翼〉の実在を既に把握しているな。だが、あの組織が“何か”を探し、動き始めていることまでは、まだ気付いていないようだ」
小高い丘の上で、レオンは地図を広げながら独り呟く。
「両国は今、共同体制を敷き、国境地帯の警備を強化しているのか。だが、それは防衛というより……監視だ。〈黒翼〉を見張っているんだろう」
一方で、聖教国。
彼らは〈黒翼〉ではなく、どちらかと言えば、“土地そのもの”に注目している。
オーソンの記憶に刻まれたその地名が、レオンの脳裏に明確に浮かび上がっていた。
「……聖教国は、おそらく古文書から、“何か”が眠っていると読み取った可能性が高いな。それが“何か”は知らずとも、本能的に恐れている。だから何が何でも、神の教義のもと──自分たちの管理下に置きたいのだろう」
そして〈黒翼〉。
彼らの目的も、もはや推測ではなかった。
“それ”を目覚めさせ、完全なる復活を果たすための──世界を破滅に至らせる儀式。
オーソンがかつて阻んだ“禁忌の術式”を、奴らは再び動かそうとしている。
だが……。
彼ら──〈黒翼〉はまだ真実を知らない。そこに眠っているのは……。
「……時は揃った、ということか」
地図に指を走らせる。王国と帝国の国境線、忘れられた鉱山の位置。
そして周囲にある、〈黒翼〉が根を張ると予想される旧鉱山の廃村、偽装された神殿の跡地。
“影の胎動”自体は、確かに近づいている。それはレオンにも感じられた。
正統神の封印は時の経過とともに緩み、それだけベリアナの影響も強くなりつつある。夢の中でレオンに呼びかけてきたこと。そして〈黒翼〉が禁書と言われる記録書を求めているのが、そのいい証拠だ。
それでも今はまだ、封印の解除には至らないだろう。だが油断はならない。これから向かう先には、〈黒翼〉が求めるものはない。だが、奴らを止めなくてはならないことに変わりはない。
──だが、この真実を知るのは、まだ彼一人だけ。
いずれ、どの勢力が真実に辿り着くのか。そして、誰が味方となり、誰が敵となるか。
「それは別として……まずは、目の前の問題だ。〈黒翼〉──エリオットは、あそこにいるはずだ」
風が、彼の外套を揺らす。
レオンの単独行動は、ついに“核心”へと迫り始めていた。
◆
風が冷たくなりはじめた午後、レオンは森を抜け、谷間に広がる岩肌の地へと足を踏み入れた。
旧鉱山──かつて王国と帝国の共同財産として、莫大な財を生み出した地。だが、今やその繁栄の痕跡も失われ、地図からも名を消されかけた忘却の地。オーソンの記憶に刻まれていた、この地の“変遷”を思い出しながら、レオンは足を止めた。
「……ここだな。間違いない。瘴気のようなものが、地から滲み出ている」
鉱山の入口は崩れた岩で塞がれていたが、完全には閉ざされていない。わずかに覗く暗がり──その奥から、肌を刺すような感覚が伝わってくる。
それは、単なる邪気ではなかった。もっと根源的で、存在そのものを否定するような“敵意”。空気が震えていた。空の雲が動きを鈍らせ、周囲の音が一つ、また一つと消えていく。
そして、目に映ったのは──
「……あれは……」
谷間の高台に、焦げ跡。折れた槍、焼け焦げた布、血の染みついた岩。
だが、不思議なことに、死体はない。武具の配置も散乱ではなく、あくまで“整理された痕跡”があった。激しい戦闘の後でありながら、死の痕跡が拭い取られたような不自然さ。 それはつまり──
「……三国が激突したのか。だが、終わってる……。戦は、もう終結してる……か」
王国、帝国、聖教国──三国の軍が衝突したはずのこの地には、もはや兵の気配すらない。それは、戦が終わったことを示していた。そして同時に、〈黒翼〉の目的が達せられた可能性をも。
「……この混乱に乗じて、〈黒翼〉が……」
その確信が、次の瞬間に現実となる。
「……やはり来ていたか。〈黒翼〉」
レオンは視線を巡らせた。人気のないはずの山肌に、一瞬だけ動く影が見えた。それはまるで、岩陰からこちらを覗く“眼”のようでもあり、鳥の羽ばたきのような気配でもあった。
瞬間、足元に疾風が走る。
飛ぶように間合いを詰めてきたのは、黒い装束に身を包んだ者──
「──!」
レオンは即座に後退し、腰に差した剣を抜く。敵は無言のまま、黒の短剣を振るいながら、殺意だけをぶつけてきた。鋭い。だが、所詮訓練の域を出ない。
打ち合いをすることもなく、レオンの一撃が相手の腕を切り裂いた。呻き声も上げず、そいつは後退する。そして、暗がりの中に、さらに二人──三人と黒衣の影が現れる。
「……〈黒翼〉か。いや、“末端”の者だな。見張りか」
その動き、その統率、その技量──オーソンの記憶にあった〈黒翼〉の“暗殺者”とは明らかに異なる。だが、確実に〈門〉を守るため、あるいは儀式の進行を監視するために配置された構成員たち。
そして──
「……あの中に、エリオットもいるのか?」
レオンの問いに、影たちは答えない。ただ、構えを深め、彼を囲もうと動く。
その視線の奥にあるものは、信仰か、狂気か。それすらも曖昧だった。
だが、レオンは逃げなかった。
「この先に進めば、奴がいる。……なら、さっさと突破するとしようか」
影が、音もなく迫る。
静寂の中、交錯する意志と力が、初めての激突を迎えようとしていた。




