第95話 策略
鉱山跡地──岩肌を剥き出しにした谷間に、鉄の足音が響いた。聖教国の聖騎士団が進軍してくる。白銀の鎧に身を包み、胸には“聖なる陽光”を象った紋章。規律正しく並ぶその姿は、まるで儀式のような荘厳さを伴っていた。
だがその行軍が目指すのは、王国と帝国の共同で警戒にあたっていた鉱山跡──つまり、既に二国の管理下に置かれた“封印の地”だった。
「──止まれ!」
王国の副隊長が剣を抜き、聖騎士団の前に立ちはだかる。
「ここは王国と帝国の共同警戒区域だ。いかなる軍勢であろうと、無断の進入は認められない!」
「我らは教皇庁の命により派遣された。旧墳墓に不穏な気配ありとの報せを受け、神の名のもとに調査と封印強化に来た。道を開け」
聖騎士団の隊長が毅然とした口調で告げる。だが、その瞳の奥には焦燥と、何かを急ぐ意思が見えた。
「……ならば、正式な協議を経てからにすべきだ。勝手な行動は、国際問題となる」
帝国の警備指揮官も加わり、王国と帝国の兵士たちは一列に並び、聖騎士団の進行を阻んだ。
互いに武器を構えることなく、しかし手は柄にかかり、視線は鋭く交差する。鉱山跡地の狭間で、空気が張り詰めた。風が止まり、鳥の声さえ聞こえない。
一触即発──その言葉が、まさに地表に投げられた火種のように感じられる瞬間だった。
「──その場で武器を収めよ!」
谷の高台から馬に乗った使者が姿を現した。
王国と帝国、それぞれの外交官が駆けつけ、制止の声を張り上げる。
「これ以上の軍事的緊張は、三国間の協議を根底から覆すことになる! 貴殿らの行動は、まさしく教皇庁の信頼を揺るがす!」
「王国、帝国、両国の命により、いかなる部隊も現地には入れぬとの協定が結ばれている!」
使者の声が谷にこだまする。
しかし、聖騎士団は動かない。隊長は表情を変えず、静かに告げた。
「我らは神の命に従っている。だが……貴殿らがこれほど強く反対するならば、ここで争う意思はない」
緊張が一瞬緩んだその時、東の山道に土煙が上がった。
「……増援?」
王国の斥候が小声で呟く。
現れたのは、帝国の紋章を掲げた重装騎士団。
その規模は三十騎を超え、全員が槍を立て、整然と行進している。
──帝国の威圧的な姿勢が、睨み合いの空気を一段と重くする。
王国・帝国・聖教国。三つ巴の睨み合いが続く中、鉱山の奥では、封印された何かが、わずかに脈動するかのような気配を放っていた。
◆
──夜が、降りていた。
月は雲に隠れ、星々すらも、その輝きを失っている。
旧鉱山跡には、王国軍、帝国軍、そして聖教国の聖騎士団が駐屯していた。互いに信頼の糸を手繰りながらも、どこかぎこちなく、睨み合いのような空気が漂っている。
三国会談が崩れたのは、ほんの十日前。互いの思惑が交錯し、誰かが仕組んだかのように、不信と疑念だけを残して終わった。
その裏で嗤う者たちがいた。〈黒翼〉──影に生き、闇に忠誠を誓う者たち。
「……まんまと、裂けたな。愚かな光どもめ」
鉱山跡から少し離れた、木々の間。
黒き外套に身を包んだ男が、仮面の奥で声を洩らす。
その隣には、静かに立つ一人の青年の姿。
──エリオット。
かつて正統神に選ばれし〈聖騎士〉のスキルを与えられた男。
だが今、彼の双眸に宿るのは、ただ空虚と深い闇だけだった。
「エリオット。今度こそ、お前こそが〈鍵〉……〈門〉を開く者だ」
幹部の声に、エリオットは微かに頷いた。
その仕草に、意思があったのか、操られたものかは定かではない。
〈黒翼〉の策は、着実に進行していた。
聖教国の聖騎士団──その中に、密かに潜ませた者がいる。名もなき一兵士だが、長きに渡り洗脳と教義の再定義を受け、“神の声”を別の形で解釈するよう育て上げられた者。
その者が口火を切り、帝国軍の陣営へと無数に矢を射掛けさせる。
「聖教国の聖騎士団が夜襲を仕掛けてきた!!」
その報告に帝国軍の兵が騒然となる。
動揺は兵心を揺らし、やがて、それは剣に姿を変える。
真偽の判断がつく前に、夜の闇に紛れて先端が開かれる──。
「火を放て。混乱させろ。こちらが動くのは、その後だ」
〈黒翼〉の幹部が低く命じると、別働の小隊が山腹を回り、遺跡への裏道へと忍び込む。
そこにはかつて封じられた、古の扉──〈墳墓〉の入り口がある。前回発見し、隠しておいた場所。今、それが役に立つ。
音もなく、気配もなく。
その中心には、まるで魂を抜かれたかのように、無言のまま歩む青年がいた。
(俺こそが、〈黒翼〉の悲願を現世に繋ぐ〈鍵〉)
そう信じて疑わなかった。
──この夜、遺跡に蠢く者たちは誰にも気付かれることなく、鉱山跡の最奥から再び遺跡の入口へと足を踏み入れようとしていた。
──火の手が、上がった。
暗き山の夜を引き裂くように、燃え盛る炎が帝国軍の東側陣営を包んだ。
木材と油の混ざった焦げ臭さが一瞬にして広がり、混乱の叫びが夜気に響く。
「敵襲──! どこからだッ!?」
「聖教国だ! 奴らが先に動いたぞ!」
帝国軍の兵たちは半ば錯乱しながら、抜剣し、聖教国の陣地へと駆け出していく。
弓兵が夜闇に矢を放ち、馬の嘶きと共に乱戦が始まった。
一方、聖教国の将校は叫ぶ。
「違う、我々は何もしていない! 誰かが仕組んだ罠だ、落ち着け──!」
「だが矢が飛んできているぞ!? 言い訳は後だ!」
誰もが何が起きたのか分からないまま、怒声と混乱の渦に呑まれていく。数名の聖教国兵が斃れ、帝国の副将が斬られる頃には、もはや理性など戦場には残っていなかった。
そして、第三の陣営──王国軍もまた、動揺の渦中にいた。
「……帝国と聖教国が交戦を始めた。聖教国の夜襲、騙し討ちに等しい愚行だ」
「これは我らに対する挑発では?」
王国軍の中でも意見は割れた。
中立を維持せよとする者、聖教国側に正義を見出す者、逆に帝国と共闘を叫ぶ者。
その混乱をさらに煽るように、陣内から爆発音が響き、数名の騎士が負傷する。
「内部に裏切り者がいる……?」
だが、それを証明する証拠はない。
見えぬ敵の手に揺さぶられ、王国軍もまた機能を失いつつあった。
その混乱の最中、誰も気付かぬうちに、山の影の道を通って〈黒翼〉の部隊が進む。
敵味方の混沌を背に、ただ静かに、冷たく。
──計画は、完璧だった。
混乱の火種は、やがて信頼を焼き払い、三つの大国を一瞬にして疑心の底に沈める。
そしてその間隙を縫って、〈黒翼〉は真に狙っていた古代遺跡──墳墓の封印へと辿り着く。
その入口には、静かに、エリオットの姿があった。
戦場の混迷など関係ないとでも言うように、虚ろな瞳をただ前へと向けて。




