第93話 新たなる存在
微かに風の音が耳を撫で、木々のざわめきとともに、乾いた大地の匂いが鼻腔をくすぐった。瞼の裏に柔らかな光を感じて、彼はゆっくりと目を開ける。
「……ここは……」
そこは森の奥。
だが、リューシャの家ではなく、古代の遺跡のそばに作られた臨時の宿営地だった。簡素な天幕の内側。薬草の香りと、炉の微かな熱気が漂う。
「レオン……!」
最初に駆け寄ったのはレティシアだった。彼女の目は赤く腫れていて、疲労と安堵が入り混じった表情を浮かべていた。
「よかった、ほんとうに……よかった……!」
言葉を絞り出すようにして、彼女はレオンの手を握る。その手の温もりに、ようやく現実味が戻ってきた。
「……俺は……何が?」
「十日間、ずっと眠っていたのよ。熱も下がらなかったし、何度も身体が……暴走しかけて。精霊たちの結界も乱れて、森の力が逆流しかけたの。あのままなら、命を落としていてもおかしくなかった」
言葉に詰まるレティシアの背に、そっと手を添えたのはリューシャだった。彼女は表情を崩さず、静かに問いかける。
「何を……見たの?」
レオンは、しばらく沈黙したまま、天幕の隙間から空を見上げた。十日という時間では到底消化しきれないほどの記憶が、まだ胸の奥で燃えさかっている。オーソンの記憶。ベリアナの思想。正統神とこの世界の矛盾。人々の涙と怒り、死と願い。それらすべてが一つになって、渦を巻いている。
「……全部、見た。……いや、感じた。彼の想いも、絶望も、希望も。あれは……魂そのものだった。……今もなお、それが続いている」
リューシャの目が細められる。
「あれを……いえ、私の記憶以上のものを、すべて見たのね……」
「……まだ頭の中を埋め尽くされている気がします」
「おそらくあなたは、もう“過去の誰か”じゃない。新しい系譜を背負った存在。……それは、祝福であると同時に、責任でもあるわ」
「……わかっています」
レオンはゆっくりと身体を起こした。
もう、以前のように戸惑ってはいない。
彼の目は真っすぐ前を見据えていた。
「……俺はもう、単なる“持たざる者”じゃない。何も持たないまま、ただ拒まれていた頃の俺じゃない。……彼の想いを、……あの記録を、無駄にはしない」
その言葉に、レティシアはそっと目を伏せ、リューシャは静かに頷いた。
遠くで、風が吹いた。まるで森が、彼の目覚めを祝福するかのように。
──オーソン・アークレイン。その想いは、確かに次の世代へと継がれた。
そしてレオン・アークレインは、今──新たなる戦いの始まりを予感していた。
◆
夜の帳が降り、森の奥深くにある静かな泉のほとり。
焚き火の光が、揺れる影となって三人の顔を照らしていた。
「……つまり、俺の存在はもう、“表に出た”ってことですね?」
レオンが低く呟く。背後にある泉の水面が、微かに震えていた。
リューシャは頷きながら、緋色の瞳を細めた。
「正統神はあなたを見ている。おそらく聖女に啓示が下ったでしょうね。ということは、神の側もあなたの“目覚め”を認識したということ。……同時に、影も気付いたはず」
「正統神……そして、ベリアナ」
レティシアが静かに名を口にする。その声は、夜気に沈むように静かだった。
「今の世界は、あなたを中心に回り始めているのよ、レオン。敵味方の境界も、きっとこれから曖昧になっていく」
レオンは何も言わなかった。焚き火の火を見つめたまま、長く息を吐いた。
「……誰が味方で、誰が敵か。そんな単純な区別じゃ、もう通用しないってことか」
リューシャは、一本の枝を火にくべながら言った。
「王国の貴族たちの一部は、〈黒翼〉と繋がっていた。帝国も内偵を進めている。聖教国は神託を根拠に動くけれど、それが“何を意味しているか”を、自分たちでも理解していない。……どこも、自分たちの正義を信じて動いているけど、その正義がいつでも“あなたにとっての正義”とは限らない」
「信じられるのは……少なくとも、今ここにいる者だけ」
レティシアの目が、レオンをまっすぐに見つめていた。
「でも、その信頼さえ、試されるかもしれない。あたしたちは、これから“真実”に触れていく。神々の思惑も、〈黒翼〉の正体も、きっと想像を超えたものになるわ」
言葉を継ごうとしたが、彼女はふと視線を落とした。
「……けど、あたしはここからは行けない。長老から言われたの。里に残って、“もしもの時”に備えてほしいって。影の気配は、この森にも近づいてきてる。……エルフにとっての守るべき場所は、ここなの」
リューシャもまた、静かに顔を伏せた。
「私も同じ。私は〈番〉の末裔として、この場所に留まる責務がある。“力の継承”に干渉することは許されていない……それが、私の立場だから」
レオンは小さく頷いた。
「……わかりました。二人がいてくれるだけで、十分です。支えがなければ、俺はここまで来られなかった。これからは……俺が進む番だ」
風が木々を揺らし、焚き火の火がひと際高く揺らめいた。
その揺らぎの中で、三人の影は交差し、一つの決意を形作っていた。
◆
翌朝。朝靄が森を包み込み、辺りは薄く青白い光に満たされていた。
レオンは、泉のほとりに立っていた。背中には背負い鞄、腰には剣。その姿に、少年だった面影はほとんど残っていなかった。
リューシャとレティシアが静かに佇んでいる。
言葉は、既に交わし尽くしていた。必要なのは、ただ、前へ進む覚悟だけ。
「……これで、しばらくはお別れね」
レティシアが微笑む。けれど、その声にはわずかな震えがあった。
「どこかで噂を聞いたら、すぐに追いかけるから。──絶対に、無茶しないで」
「レオン」
リューシャが一歩前に出ると、懐から小さな水晶玉を差し出した。
「これは“記録”の器。もし、心を見失いそうになったら、これを見て。あなたの“原点”を映す」
レオンはそれを受け取り、静かに胸の袋にしまう。
「……ありがとう。二人とも、本当に」
誰も、最後に余計なことは言わなかった。
別れの言葉より、進む者の背中には、沈黙のほうがよく似合う。
レオンは踵を返す。里の外へと続く獣道──その先に、世界の真実と、混沌の源が待っている。
一歩、また一歩。
靄の向こうに姿が溶けていくレオンを、リューシャとレティシアは見送っていた。
「……気付いてるのかしら」
レティシアが呟く。
「もう、彼は“選ばれなかった者”じゃない。彼自身が、“選びに行く者”になってるって」
リューシャは頷き、そっと目を閉じた。
「だからこそ、これからの旅が、試練になる。──誰よりも、孤独な旅に」
レオンの姿は、もう見えない。
だが、森の向こう、風の先──運命は確かに、彼の歩みに呼応していた。




