第89話 呼びかけ
静かな夜。窓の外では風が木々を揺らし、微かな梟の鳴き声が響いていた。
だが、レオンの眠る部屋には、不穏な気配が忍び寄っていた。
「……あ……う……」
寝台の上で、レオンは苦しげに身をよじっていた。眉間に深い皺が刻まれ、額にはじっとりと汗が滲む。声なき誰かの言葉に反応するかのように、指先が小刻みに震える。
(……こ……か……)
遠くから、確かに「何か」が語りかけてくる。だがそれは音ではなく、頭の奥に直接流れ込んでくる“感情”の波──冷たい、黒く、淀んだものだった。
(──……を……け……)
音にならない囁きが、何かを告げている。
その瞬間、レオンの瞳がぱちりと開いた。
「……ん、また……か」
静かに上体を起こす。部屋は変わらず、ただ夜が深まっているだけだった。
だが、目の奥には鈍い痛み。夢の内容はすっぽりと抜け落ちている。
なぜか、胸の奥に得体の知れない焦燥が残っていた。
──そして翌朝。
「ねぇ、レオン……最近、毎晩うなされてるけど……何かあったの?」
心配そうに顔を覗き込んでくるのは、長耳と金髪が特徴のエルフ、レティシア。老練の魔術師だが、年齢は教えてくれない。超美形、スタイル抜群。だが心の内は“見た目幼い美少年”をこよなく愛する残念な方向に傾いている。顔が近い。今にも……天然なのか、わざとなのか。
「んー……よく覚えてない。ただ、何かに話しかけられてる気がするんだ。言葉じゃなくて、もっと……圧みたいな……」
「寝顔が苦しそうで心配なんだから! もう心臓に悪いよ……! もし悪霊系だったら、精霊魔法でキレイに祓っちゃうからね?」
「やめて。爆発とかされたら宿ごと吹き飛びそうだし! ……ってか、もしかしてずっと見てたのか!?」
「当然じゃん。せっかくの特権、密着眼福チャンスなんだからっ」
「いや、だったら素直に起こしてくれよ……」
レティシアはむうっと頬を膨らませたが、すぐにまた真剣な顔に戻る。
「でも……ほんとに変だよ。今まで、うなされるような夢なんてほとんど見なかったでしょ。これは……精霊も心配してるよ?」
「確かにね。あ、でも修行時代の悪夢なら何度もあるけど、今回のは明らかに違うし」
一瞬セファルの顔が思い浮かぶが、ぶんぶんと首を振る。
レオンはもう一度夢を思い出そうとする。何となく昨夜の夢の断片が、今も微かに脳裏に残っている。黒く歪んだ扉──そして、その奥から手招く気配。
「……本当に何か、始まりかけているのかもしれない」
その囁きが、次第に現実を侵食しはじめているのを、彼はまだ知らなかった。
◆
深い深い闇の中。
音もなく、重力すら存在しないような虚無。だが、レオンは確かにその“場所”に立っていた。
(また……夢だ)
しかし、これまでと違い、今夜の夢は──異様に鮮明だった。漆黒の空間に、ぽつんと浮かぶ“それ”が見える。巨大な、閉ざされた門。人の背丈の数倍はある鉄と石の混成──だが、見る者に“異質”を感じさせる曲線と紋様が刻まれていた。
(これは……遺跡の……いや、違う……もっと、深いところ……?)
頭の奥に響く。
「……目覚めの時、近し……」
ゾクリ、と背筋を冷たいものが這った。
それは“声”の形をとっていたが、人のものではなかった。
まるで、異なる次元から絞り出されるような、ずれた音程と、震える重低音の波。
「汝、触れし者なり……“選ばれざる選び手”よ」
(……誰だ? お前は……)
レオンは口を開いたつもりだったが、言葉は出ない。
代わりに、声は続く。
「〈門〉は刻を待つ。かの神々すらも理解せぬ、より古き力の眠る地」
「封じられしものを、誰が開くのか。誰が、導くのか」
〈門〉──その言葉に反応するように、レオンの足元の空間が軋む。
次の瞬間、〈門〉がわずかに“脈打った”。
「呼びかけに応じよ、汝……」
「さすれば、真実の断片が開かれる……」
気付けば、〈門〉の表面に浮かび上がる数多の手形──小さなものから、人のものとは思えぬ長い指のものまで──が、レオンへと向かって伸びていた。無数の囁きと共に、彼を〈門〉の中へと誘う。
(やめろ……やめ──)
──そして目が覚めた。
「……ン! ……レオン!」
「ッ……!」
レオンは荒い息をつきながら、寝台の上で上体を起こした。
全身が汗で濡れている。胸が、ひどく苦しい。
「レオン!? 今度はすごい声出してたよ、どうしたの!?」
レティシアが慌てて抱きしめようとするが、彼はそれを止めるように手を挙げ、言った。
「……聞こえたんだ。今度は、はっきりと」
「え?」
「〈門〉。それが、“何かを封じてる”って……誰かが、いや、何かが語りかけてきた。……俺を、“選ばれざる選び手”って……」
レティシアの表情が強張る。
「……それ、ただの夢じゃないね。完全に“干渉”されてる。意識の深層に、直接……」
レオンは頷いた。夢の中の〈門〉の映像が、網膜の裏に焼き付いて離れない。
「……これは偶然じゃない。何かが……俺に〈門〉を見せてきている。あれが……これから、開こうとしている?」
レティシアは視線を伏せ、そして絞り出すように呟いた。
「……“古代門”──精霊の間でも、禁忌とされている遺物よ。まさか、そんなものが……」
レオンは静かに立ち上がり、冷えた床に足を下ろす。
心臓の奥が騒いでいた。まるで、自分の運命が、今動き出したかのように。
──〈門〉が開く時、世界は何かを失うのか、それとも得るのか。
そして、誰がそれを開ける資格を持つのか。
答えはまだ、深い夢の奥にあった。
夜が明けると、空には一筋の金色の光が走っていた。
レオンは夢の内容を思い返しながら、静かに決意を固めていた。
「レティシア。……エルフの里に行こう。リューシャ様に会って、あの〈門〉について尋ねてみたいんだ」
レティシアは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに真剣な表情で頷いた。
「そうね……あの人なら、何か知っているかもしれない。あの〈門〉のような存在に関わる“記憶”を、あたしたちよりはずっと多く見てきたはずよ」
「何事もなければそれに越したことはないんだけど……」
「気にし過ぎも良くないからね。今は気楽にいきましょ」
そう言ってレティシアは悪戯っぽく笑ってみせたが、内心は穏やかではなかった。
この時代に、〈門〉が動く兆しなど──尋常ではない。




