第84話 開かぬ〈門〉
吹きすさぶ風が、錆びついた滑車と崩れかけた鉱山施設を軋ませる。かつて銀と魔力鉱石で栄えた鉱山は、数年前の落盤事故と地脈の枯渇によって閉山されたまま、国境地帯の忘れられた傷跡として放置されていた。
しかし今、その鉱山の最奥部──崩落した坑道のさらに下層、誰も知らぬ地底深くに、それは口を開けていた。
古代の紋様を刻んだ、幾何学的な光を帯びた石碑。中心には、黒く濁った水晶がはめ込まれ、脈動するように淡く光を放つ。
それを前に、黒装束の一団が跪いていた。
「これが……〈門〉か」
団長格の男が呟く。その傍らには、かつて〈聖騎士〉と称された──今は黒き鎧に身を包んだ〈暗黒騎士〉エリオットの姿があった。
「……確かに、この奥からは深い“渦”を感じる」
彼の瞳に、かつての理想も迷いも、もはや残されてはいない。あるのはただ、冷徹な意志と、目的のための力への従属。
「お前が〈鍵〉だ。門を開けるには、神の祝福を受けた者……いや、かつて受け、それを否定した者が必要なのだ」
〈黒翼〉の巫女と思しき女がそう囁き、エリオットの胸元に手をかざす。瞬間、彼のスキル刻印が黒く変色し、まるで焼き潰されたかのように形を変えた。
「……これが、我らが邪神〈ベリアナ〉の意志。神々の支配を終わらせ、人の世界を闇に還す──その始まりだ」
幾夜にもわたり、地中深くで炎が焚かれていた。岩を穿ち、隠し通路を築き、かつて鉱山だった場所の最奥に辿り着いた〈黒翼〉は、そこを“邪神〈ベリアナ〉の聖地”と信じて疑わなかった。
岩盤の裂け目の中、円形の広間。その中央に浮かぶ古代の石碑は、巨大な黒水晶を中心に据え、まるで脈動するように淡く光を放っている──ように“見えた”。
「……始めよ。星の位置は揃った。供物も満たされた」
祭壇に立つ〈黒翼〉の巫女は、両腕を広げる。彼女の周囲には、生贄として差し出された小動物の死骸と、黒血の呪文が円陣の形で刻まれていた。
「黒き契約によりて命ず……汝が僕、〈鍵〉を受け入れよ!」
その中央に立たされていたのは、〈暗黒騎士〉と化したエリオットだった。彼は無言のまま、胸元の聖刻(スキル痕)を掴むようにして掲げる。
──だが。
石碑は、何の反応も見せなかった。
巫女の顔が一瞬、強張る。
「……もう一度。式を再度紡ぎ直せ」
呪文が繰り返される。供物が新たに捧げられ、刻印が書き換えられる。
しかし、三度、五度、十度の儀式にもかかわらず、石碑は閉ざされたまま、まるで最初から無機の塊でしかなかったかのように沈黙を保っていた。
巫女が唇を噛み、儀式陣を再点検する。
ざわめきが広がる。
「おかしい……星の位置も、刻印の変質も、すべて神託のとおりのはずだ……」
「……本当にここが〈門〉なのか?」
「まさか、神託自体が……」
「黙れ、口を慎め!」
巫女の叫びも虚しく、動揺は広がっていく。
「……俺に、力が足りぬというのか」
エリオットが低く呟く。その声には、怒りでも焦りでもなく、冷たい“虚無”が宿っていた。
「あるいは……俺が〈鍵〉などではなかったのか。あるいは、神の側が“〈門〉ではない”と知っているのか」
「黙れ。疑うな。これは〈ベリアナ〉の聖地だ。神の息吹を封じた〈門〉だと、そう神託に記されていた!」
巫女が声を荒げる。〈黒翼〉の一団もまたざわめきを始めていた。祈りの言葉は次第に呪詛めき、火が不自然に揺らぎ始める。不穏な空気が広がる中、エリオットは石碑を無言で見つめたまま、微動だにしなかった。瞳の奥底には、苛立ちと欲望が渦巻いていた。
(なぜだ……なぜ開かぬ。俺は力を手に入れるために、全てを捨てた。腕を失い、誇りを捨て、〈黒翼〉に身を委ねた。なのに、まだ足りぬというのか……!)
歯を軋ませ、拳を震わせる。
(この〈門〉さえ開けば、俺は……俺はすべてを手に入れるはずなのに……!)
やがて、巫女の手が止まる。
「……ここではない、のか……?」
誰かがぽつりと呟いたその一言が、狂信の輪に亀裂を走らせる。
「まさか、これは……“偽りの〈門〉”か?」
「神託に誤りなど――」
「だが、開かない!」
混乱は、やがて疑念へと、疑念は不安へと、そして不安は狂気へと変貌していった。
巫女は、痙攣する肩を押さえながら、力なく呟いた。
「……〈門〉は確かにある。しかし、開かないのは……“中が空だから”か……?」
その瞬間、誰にも聞こえぬはずの微かな“鼓動”が、広間の奥から響いた。
微かに、ほんの一瞬だけ。
そして、再び沈黙が支配する。
エリオットだけが、静かに目を閉じていた。
どれほどの供物を捧げても、いかなる呪法を尽くしても、石碑は沈黙を保った。
中央に立つエリオットは、虚空を見据えるように石碑を睨みつけている。その背後では巫女や術者たちが疲弊し、無言で儀式陣の修復を繰り返していた。
「……また、だ。何の反応もない」
声に感情はなかったが、両の拳が無意識に震えている。周囲にいた〈黒翼〉の者たちは、誰もその視線を正面から受け止めようとはしなかった。
「俺は〈鍵〉だと言ったな。ならば、なぜ開かぬ。なぜ、〈門〉は俺を拒む?」
声の調子が次第に高くなる。剣に手をかけたのは、苛立ちというより、答えなき沈黙を切り裂きたいという衝動だった。
「また、開かない……。なぜだ。俺が〈鍵〉なのではなかったのか」
吐き捨てるようなその声に、周囲の〈黒翼〉の者たちは目を逸らした。狂気にも似た苛立ちが、場の空気を張り詰めさせる。
坑道の奥から急ぎ足の気配が近づいた。一人の使者が汗と煤にまみれた姿で現れると、巫女に一通の封書を手渡す。
「緊急伝令、〈本拠地〉より……!」
巫女は即座に封を破き、目を走らせた。そして、唇を噛みながら読み上げる。
「“作戦の意図せぬ露見を確認。王国および帝国両勢力の監視網に痕跡を察知された恐れあり。現地拠点の即時撤退を命ずる。〈門〉の座標は維持せよ”」
広間がざわめきに包まれる。
「……撤退だと?」
エリオットの声が低く響く。だがその声音は、氷のような静けさの中に、抑えきれぬ怒気を孕んでいた。
「〈門〉はまだ開いていない。俺たちの目的は果たされていないぞ。なぜ──」
「作戦の痕跡が追跡されたのです。場所が知られたか、あるいは何者かに監視されていた。ここに長く留まれば、我らの存在そのものが露見する恐れがある」
巫女の口調は冷静だったが、その瞳には焦りが滲んでいた。
「……神が見ている。〈門〉はここにある。俺が〈鍵〉であるなら、開くはずだ」
「今はその時ではありません。命令です、エリオット殿」
しばしの沈黙。
その後ろからさらに一人、漆黒の外套を纏った幹部が姿を現す。彼は巫女から封書を奪い取るように読み、冷たい声で告げた。
「エリオット。これは“命令”だ。ここでの儀式は中断し、全員ただちに撤退する。貴様とて、例外ではない」
「……俺はまだ、ここで為すべきことがある」
エリオットは石碑に向き直り、なおも諦めきれぬように低く呟いた。
「この〈門〉は、必ず開く。俺が〈鍵〉ならば、ここで成就するはずだ。ならば、今すぐここを捨てるなど、あり得ん……!」
「ならぬ。貴様の欲望など知ったことか。貴様は〈黒翼〉の駒だ。命令には従え」
幹部の声は容赦なかった。淡々と、だが一切の情を挟まぬ鉄のような語調。
「我らは“個”の欲望ではなく、〈冥主〉の意志に従う。貴様の執着は、ただの“雑音”に過ぎん」
周囲が息を呑んだ。巫女でさえも言葉を失う中、エリオットはしばし石碑を睨みつけ、やがてふっと力を抜いた。
だがその背中から滲み出るのは、従順ではなく、ただ底知れぬ執念だった。
「……いつか必ず、この〈門〉は開く。俺が戻った時には、必ず」
吐き捨てるように呟き、エリオットは踵を返す。幹部は冷淡にそれを見送り、巫女たちは慌ただしく儀式陣を塗り潰し、魔具を封印し始めた。すべてを“なかったこと”にするために。
坑道の奥へと歩きながら、エリオットは再び立ち止まる。
「俺は〈鍵〉だ。必ず、ここへ戻る」
誰にともなく呟き、黒き外套が闇に紛れ、彼の姿は深淵の奥へと消えていった。




